朱子学から考える儒教(儒教と教育 その2)―日本の教育のルーツを辿る(22)
私たちはなんでこんなに「型」が好きなのか?(儒教と教育その1)〜日本の教育のルーツを辿る (21)
日頃、学校教員、行政、民間教育、保護者など、さまざまな角度から教育にかかわる人たちと「探究する学びの場づくり」をしていますが、とても気になることがあります。それは「探究学習」に対する憧れは強いものの、導入し、実践レベルになるととたんに躓き始めるケースが多いことです。そして、うまく行かないケースの場合、往々にしてあるのが「形」だけの導入です。
生活科・総合的な学習 (その4:伊那小・中質疑応答)〜私たちの教育のルーツをたどる(20)
昨年2月に伊那小学校を訪問させていただきました。そのご縁でわたしたちのLearning Creator’s Lab(LCL)で武田先生にお話をお伺いすることが叶ったのですが、この内容をLCLで留めておくにはあまりにもったいなく、今回その内容を4回に分けてご紹介したいと思います。今回はその第4回目(その1、その2、その3はこちらから)。伊那小学校校長、伊那中学校校長を歴任され、現在信濃教育会会長をされている武田育夫会長、馬淵勝己先生(元伊那小研究主任、現豊科東小校長)、佐々木英明先生(元伊那小研究主任、現麻績小校長)、保科潔先生(元伊那中教頭、現穂高東中教頭)にLCLのメンバーが質問をしました。この内容もなかなか興味深かったので、共有します。
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生活科・総合的な学習 (その3:伊那小・中の学校経営)〜私たちの教育のルーツをたどる(19)
昨年2月に伊那小学校を訪問させていただきました。そのご縁でわたしたちのLearning Creator’s Lab(LCL)で武田先生にお話をお伺いすることが叶ったのですが、この内容をLCLで留めておくにはあまりにもったいなく、今回その内容を4回に分けてご紹介したいと思います。今回はその第3回目(その1、その2はこちらから)。伊那小学校校長、伊那中学校校長を歴任され、現在信濃教育会会長をされている武田育夫会長の伊那中学校時代の教頭保科潔先生(現穂高東中教頭)に、どのような学校づくりをされているかをお伺いし、その後武田先生、馬淵先生、佐々木先生、そして、軽井沢風越学園でも連携で2年過ごした石山れいか先生も含めて、ディスカッションをしていただきました。
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生活科・総合的な学習 (その2:伊那小学校の実践)〜私たちの教育のルーツをたどる(18)
昨年2月に伊那小学校を訪問させていただきました。そのご縁でわたしたちのLearning Creator’s Lab(LCL)で武田先生にお話をお伺いすることが叶ったのですが、この内容をLCLで留めておくにはあまりにもったいなく、今回その内容を4回に分けてご紹介したいと思います。今回はその第2回目(その1はこちらから)。伊那小学校校長、伊那中学校校長を歴任され、現在信濃教育会会長をされている武田育夫会長の伊那小学校時代の同僚の馬淵勝己先生(元研究主任、豊科東小学校校長)、佐々木英明先生(元研究主任、現麻績小学校校長)に実際にどのような実践が行われているかをお伺いしました。
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生活科・総合的な学習 (その1:伊那小学校の源流)〜私たちの教育のルーツをたどる(17)
昨年2月に伊那小学校を訪問させていただきました。そのご縁でわたしたちのLearning Creator’s Lab(LCL)で武田先生にお話をお伺いすることが叶ったのですが、この内容をLCLで留めておくにはあまりにもったいなく、今回その内容を4回に分けてご紹介したいと思います。今回はその第1回目。伊那小学校校長、伊那中学校校長を歴任され、現在信濃教育会会長をされている武田育夫会長に伊那小学校の実践のルーツをお伺いしました。
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歴史は何のために学ぶのか(幕末の国学から考える)―わたしたちの教育のルーツを辿る(16)
ロシアによるウクライナ侵攻が始まって1ヶ月余りが過ぎました。このような時は、どうしても自らのことは棚にあげてほかの国のこと、またそれを率いる指導者のことを勢いよく批判してしまいがちです。でも、こんな時にこそ私たちは過去を振り返り、どうしたら同じことを繰り返さなくて済むのか、日常あまり意識することはないけれども私たちの日々の思考様式の中に、争いに繋がるような危ういものがないかを少し考えてみたいと思います。
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明治のキリスト教と教育(その4)―女子教育とキリスト教ー私たちの教育のルーツをたどる(15)
明治のキリスト教と教育(その3)―新渡戸稲造と札幌バンドー私たちの教育のルーツをたどる(14)
その1で幕末に宣教師として来日し、初の和英辞典を編集したほか、聖書の翻訳、明治学院大学創立などさまざまな貢献をしたヘボン、そしてその2で同志社を設立した新島襄について触れました。ヘボンたち外国人宣教師たちが拠点にして活動を開始したのは横浜だったので、そこに集まった信徒たちは「横浜バンド」と呼ばれます。また、新島襄の設立した同志社は京都ですが、熊本洋学校出身の若者たち「熊本バンド」が同志社創立期に活躍しました。明治初期のプロテスタントの源流というと、「横浜バンド」「熊本バンド」「札幌バンド」の3つがあると言われますが、今回は、札幌農学校(現北海道大学)教授、第一高等学校(現東京大学教養学部)校長を歴任したほか、キリスト教系の女子高等教育としては最初期にあたる東京女子大学の創設や、貧しい人たちの夜間学校の創設など、さまざまな学校を立ち上げた新渡戸稲造を中心に「札幌バンド」についてまとめておきます。(次回は明治期に多く設立されたミッション系の学校、特に女子教育について書きたいと思います。)