アートと教育(3)デューイ・民主主義とクラフトマンシップ

シラーカントと読んできた「アートと教育」ですが、デューイで一旦区切りをつけたいと思います。結論から言って、、デューイ、やっぱり面白い!!です。デューイの感覚って民主主義に対する考え方もそうなのですが、芸術(Art)に関しても、教育の観点が根底にあります。そのことによって、アート(芸術)が誰しもに開かれたものになっていきます。カントもシラーももちろん、私たち一人ひとりが「心に自由を持っていい」と言ってくれたわけですが、カントは「天才」に関する考察を行い、普遍的で次世代の模範となるような作品を生み出す人たちについて考えました。シラーも自身がドイツではゲーテと並ぶ大詩人と評価されており、子どもの制作する拙い遊び道具までが芸術作品だとは言わなかったかもしれません。

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アートと教育(2)カント『判断力批判』心と身体をフルに使って理想の形を構想しよう!

前回はシラー『人間の美的教育について』を読みながら、人は美的生活によって「自分自身の欲するものに自分自身をつくるということー自分がありたいと思うものである自由を、完全に取りもどす」ことができるということ、そしてそういう自由のために教育がいかに貢献できるだろうか、ということについて考えていきました。

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アートと教育(1)シラー『人間の美的教育について』遊戯衝動は人を美的人間にする?

昨年は『協働する探究のデザイン』を5月に上梓した後、インクルーシブ教育のFox Projectが本格稼働したので、もうてんてこ舞い。活動ばかりで趣味のブログが全然書けない年でした。「活動しなさい」というメッセージだったのだと思っていますが、やっぱり色々読んだり考えたことは記録に残しておきたいもの。ということで新年の決意(!?)ではありますが、今年は頑張って書いていきたいと思います。

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現象学からみる私(2)ーアイデンティティって何?

前回は、私たちの経験世界がどういうものなのか、世界ってなんだろう、というあたりから間主観性(intersubjectivity)まで私の経験から記述してみました。今回は、もう少し「私」ということに迫っていきたいと思います。

 

ところで今回の哲学登山の講義そのものでは直接扱わなかったのですが、副読本として紹介されていた田口茂著『現象学という思考』を年末に読んでみたらとにかく面白かった。まさに「現象学からみる私」、私のアイデンティティとはなんなのだろう、と考えさせられました。今回はこの本を中心に纏めていきたいと思います。「私」ってなんなのでしょう?「私の本質」なんて掴めるものなのでしょうか。

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現象学からみる私(1)ー「事象そのものへ」の子育て

教育に関する哲学書を輪読していく哲学登山というプログラムをやっていて、前回の「現象と人間」からもう半年経っているのですが、振り返りのブログが滞っておりました。色々読み直したり、新しく読んではいたのですが、少し読み進めてはほかの仕事が入りを繰り返してました。でも、年が明けてようやく少しまとまった時間がとれましたので、いつものように簡単にメモにしておきます。

 

なお、この登山では、フッサール『ブリタニカ草稿』、ハイデガー『存在と時間』、メルロ=ポンティ『知覚の現象学』の一部を読んでいったのですが、とにかく面白かった!私の経験に照らし合わせても、日常生活的にたしかにそうだと思い当たる部分がとても多く、且つ教育を色々考えるにあたってイメージが大きく膨らみました。まさに「うっわー!!」の連続。そもそも「観る」という営みは、教育においても「みとり」と言われるくらい大切なもの。自分のためのメモではありますが、私の拙いブログが、毎日の授業や子育ての参考になるようなものになっていたら嬉しいです。

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つまり「概念」ってなに?〜ヴィゴツキーに学ぶこと

私が教育活動について入れ込むようになったきっかけは、「概念をベースとした探究(concept-based-inquiry)」との出会いでした。今中学校3年生の娘は当時まだ保育園生で、私は医療・ヘルスケアの仕事をしていました。娘の通う保育園の父母会長にひょんなことからなってしまい、地域の子どもたちと大人が一緒に楽しめるような場をつくることはできないかとリサーチしていたときに、国際バカロレアの初等教育プログラム(PYP)で採用されているリン・エリクソンの概念をベースとした探究の考え方を知ったのです。

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ピアジェに学ぶ“優しい”子どもの「見方・考え方」

昨年FOXプロジェクトという特別支援のプログラムを始めました。ひょんなことから、重度の障がいを持つお子さんをお持ちのお父さんとお話しするようになったことがきっかけです。このプロジェクトについては、どこかできちんと纏めますが、「インクルーシブ」ということを考えたり、日常の「学び」を捉えたりするにあたって、発達心理学の考え方から学ぶことがあまりにも多い。特に昨年の哲学登山「発達と学習」で、シーグラー、ピアジェ、ヴィゴツキー、ブルーナーを読んで新しい視点を得たので、自分でもいくつか本を追加で読みつつ、考えたことをここで書き留めておきたいと思います。今回は前半としてシーグラーとピアジェについてです。

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公正・正義を教育のめがねで探究するその5:デューイ『民主主義と教育』そして総括

 

さて、「正義」のブログも5つ目、いよいよ最後になります。今回の「哲学登山」テーマは「正義」だったのですが、プログラムとしての目標は「民主的な教育を人々と正当に実践するための考え方を理解する」ことに置きました。つまり「民主的」ということを考えるためには、“自分なりの正義”の理解と感度を持つことが前提条件になる、ということです。でも、「正義」を今の現実社会の中でどのように実践していけばいいのか、ということを考えた場合にはどうしても、「民主主義」ということを考えなければならないし、さらには、「教育」に携わる私たちは、それを「教育」「学校」という文脈で考え続ける必要があります。そして、それを生涯にわたって考え続けたのが、ジョン・デューイです。

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公正・正義を教育のめがねで探究するその4:サンデルの共通善とアリストテレス

前回、サンデルの本について書きました。ただ、なぜサンデルが共和制に美徳を感じているのか、またアリストテレスを思想の基礎に置いていることは多少わかっても、なぜあれだけリベラル批判をしているのかはわかりません。今回サンデルについてはいくつか読みましたが、圧倒的に面白かったのが、『民主政の不満』でした。この本は、アメリカの建国以来の憲法の判例や政治家の発言をたどりながら、建国当初に大事であった共和主義がいかに衰退し、次第に(彼の批判する)リベラリズムに陥ったのかということについて記述されています。ここから、コミュニタリアンがどのように「善」を考え、「リベラル」を批判しているのかの思想の一端を見ることができるような気がします。また、コミュニタリアニズムの理解のためには、ある程度アリストテレスの理解が必要となってくるため、倫理学としての主著にあたる『ニコマコス倫理学』についてもまとめておきたいと思います。

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