アートと教育(1)シラー『人間の美的教育について』遊戯衝動は人を美的人間にする?

昨年は『協働する探究のデザイン』を5月に上梓した後、インクルーシブ教育のFox Projectが本格稼働したので、もうてんてこ舞い。活動ばかりで趣味のブログが全然書けない年でした。「活動しなさい」というメッセージだったのだと思っていますが、やっぱり色々読んだり考えたことは記録に残しておきたいもの。ということで新年の決意(!?)ではありますが、今年は頑張って書いていきたいと思います。

 

そして、年最初のテーマは「アートと教育」としました。というのも、High Tech Highの理論的支柱となる米国の教育者ロン・バーガーの日本招聘と研修実施が8月頭に決定したからです。High Tech High の教育大学院で解放(Liberation)や正義(Justice) を教えているMichelle Pledger たちとDeeper Learning Conference Japanという形で進めようと企画[i]しています。

 

また、ロン・バーガーの主著『子どもの誇りに灯をともす』(英治出版)を塚越悦子さんの訳、私の解説で出版したのですが、その解説にも書いた通り、High Tech Highとアートは切っても切れない関係性なのです。High Tech Highのカリキュラム作成・評価方法、プロジェクトの質を上げるための批評、最終発表の場(Exhibition)、制作物の展示のキュレーションには、それこそ美学のエッセンスがたくさん詰まっています。

 

『子どもの誇りに灯をともす』出版時のロン・バーガーからのメッセージ

 

ロン・バーガー自身、1989年にハーバード大学教育学大学院で、マルチプルインテリジェンス提唱者のハワード・ガードナー博士の指導を受け、芸術教育の発展を目的とした「プロジェクト・ゼロ」に関わってきました。ロンはさらに、同大学院の美術教育部門のディレクターだったスティーブ・サイデル博士と一緒に数々のプロジェクトを進め、授業も一緒に受け持ちました。そんなわけで、『子どもの誇りに灯をともす』という本は、ロンが自らの公立小学校での教育実践を柔らかい口調でエピソードとして語っているのですが、実はあちらこちらに美学の概念や理念が隠れていて、奥深い本なのです。

 

さらにこの本に特徴的なのが、美学特有の言葉の置かれ方なのです。本には、模範(Model)、批評(Critique)、模倣(Imitate)などの言葉が頻繁にでてくるのですが[ii]、ロンはそれぞれの言葉を定義しません。そうではなく「実践と子どもの姿から読み取ってね」というふうにエピソードを連ねていきます。そもそも原題が”An Ethic of Excellence(エクセレンスの倫理)”。この本を理解するには、倫理(Ethic)が何か、卓越(Excellence)が何かと自分の頭で考えていかなければならない構成となっているのです[iii]

そもそも私自身、この領域のエキスパートでもなんでもなく、解説を書く段になって慌てて関連する本を読みつつ理解を進めていきました。このブログでは、こうした私の学びのプロセスを一緒に追ってもらうようなイメージで読んでいただければ幸いです。

そしてこの一連のブログでは、哲学登山vol.7「アートと想像性」で扱った、シラー『人間の美的教育について』、カント『判断力批判』、デューイ『民主主義と教育』を中心に3回にわたってこれらの本を振り返っていきたいと思います。

 

初回は、シラー『人間の美的教育について』を取り上げたいと思います。

 

【私と美学の出会いはアメリカの教職課程】

 

私が美学と教育が密接に関係していると気がついたのは、7-8年ほど前でしょうか。アメリカテキサス州のコミュニティカレッジで教職課程の授業をとった時のことです。Becoming A Teacher という初級の教科書があって、”Philosophical Foundation of Foundations of U.S. Education”というチャプターで教育哲学の核となる6つの領域が示されていました。一つ目が形而上学(Metaphysics)、2つ目が認識論(Epistemology)、3つ目が価値論(Axiology)、4つ目が倫理(Ethics)、5つ目が美学(Aesthetics)、最後が論理学(Logic)でした。

 

たとえば形而上学 (Metaphysics) は、学校カリキュラムはもともと私たちが”現実”について何を知っているかに基づく一方で、私たちが世界や存在に対してどのように問いを立てるかによって私たちが現実について知ることも変わってくるだろうと説明を受けました。認識論(Epistemology)は「私たちが知っている」と思うのはなぜかという問いに応えるものであり、教師自身がそのことに対して自覚的でなければならないと教えられました。私が「知っている」と思う時、それは権威によってでしょうか、神の啓示によってでしょうか、経験によってでしょうか、理性・論理的判断によるものでしょうか、もしくは直観でしょうか。価値論(Axilolgy)はまず学校は「中立的な活動ではない」ことを前提に、教育者は生徒が獲得する知識の量だけでなく、その知識によって可能になる人生・生活(Life)の質にも関心を持っていることに意識を向けなければなりません。生徒の人生・生活の質をどのように定義し、カリキュラムはどのようにそれらに貢献しなければならないのでしょう? 倫理学(Ethics)は価値論が「価値とは何か」という問いに取り組むのに対し、「善悪、正誤、正義・不正義とは何か」を考えていきます。そして美学(Aesthetics)。ここですでに、芸術(Art)がカリキュラムのあらゆる分野に貢献できることを教師は見落としがちであることが指摘され、生徒たちに芸術作品の質について定期的な判断をさせることが奨励されています。最後に論理学(Logic)における演繹的思考と帰納的思考の重要性について触れられており、帰納的教育の一貫としてソクラテスメソッドが紹介されていました。

 

こうした教育哲学は、教育課程や教育方法の前に学ぶものでした。つまり「なぜ教育が必要なのか」「カリキュラムはなぜ◯◯のようでなければならないのか」という問いから始まるのです。ちなみに、コミュニティカレッジは地域に設置されている公立の2年制の大学で入学は難しくありません。学費も安く、地域の学校で教師になりたい人が受講する普通のコースです。そこで、哲学や歴史を方法より先に学ぶこと、そして哲学のなかでも論理学よりも先に美学が据えられていたことに私自身とても驚いたことを覚えています。

 

High Tech High、そしてロン・バーガーとの出会い】

 

同時期にHigh Tech Highという学校にも出会います。プロジェクト型学習で全米から注目を集める学校ですが、まず学校自体が美術館のようになっていて、生徒の作品がキュレートされ、展示されていました。また、プロジェクトデザインの中では「批評」のプロセスが中核に取り上げられていました。あまり私の経験には馴染みのないものだったので、興味を惹かれたところに、その学校の思想的な背景となっているロン・バーガーの本の存在を知ったのです。さらに、ロンがハーバード大学のプロジェクト・ゼロに参画したことが、この本を書くきっかけになったこと、プロジェクト・ゼロが芸術教育のプロジェクトであることを知ったことから、芸術教育、美学の本を手当たり次第に読み始めました。

 

その中でも当初一番助けになったのが、小田部胤久先生の『西洋美学史』。そこで美学という学問そのものは、18世紀の半ばにドイツのバウムガルテンによって、「感性」「芸術」「美」を対象とする哲学として誕生したことを知ります[iv]。この本では、プラトンから始まり、中世、ルネサンス、近代美学の基礎を確立したカントを経て、ヘーゲルやハイデガー、2013年に亡くなったダントーまで紹介されていました。その中でも、シラーが『人間の美的教育について』という本で「遊戯と芸術」について述べていることには格別の興味を惹かれました。小田部先生は「遊び=遊戯』という概念を規定し直すことによって、プラトンによる批判(詩人追放論)から芸術を救い出すことは、近代美学を駆り立てた動機の一つであり、この点において指導的な役割を果たしたのがシラーだと言います。[v]

 

フリードリヒ・フォン・シラー(1759-1805)はどんな人だったのでしょう?日本人の多くの人が出会うのは太宰治の「走れメロス」の創作の素材になっている「人質」という詩かもしれません。ドイツ生まれの詩人・劇作家で、時代的にはカント(1724-1804) の35歳くらい年下、ゲーテ(1749-1832)の10歳年下のイメージです。陸軍士官学校で医学を学んで、軍医となり、その後イェーナ大学で歴史学を教えたくらいの多彩な人でもあります。若きベートーベン(1770-1827)は、シラーの詩「歓喜に寄す」に熱狂し、第九の合唱曲に用いられています。シラーは、ゲーテと千通を超えた手紙を取り交わし、カントの哲学・美学の体系とゲーテらとの交流を通じて、人間理性によって形成される自由国家形成の可能性を美的教育に見出しました。言い換えると、美術や文学が社会を前進させる重要な手段だと考えました。教育を芸術として行い、美的教育による道徳的な完成を目的とすべきだとしました。[vi]

 

ちなみに、時代背景としてシラーが『美的教育』の執筆に取り組み始めたのは、1794年9月。フランスではロベス・ピエールによる1年ほどの恐怖政治ののちに、同年の7月にギロチンにかけられました。ドイツは、フランス革命の影響を受けつつも、統一国家がまだ成立しておらず、多くの小国家、自由都市、領邦から成る伝統的な封建主義社会であり、苦しい動乱の日々でした。このような悲惨な現実のなかで、観念的な美的国家を構想するということはどういうことかについても想像をめぐらせられればと思います。

 

Portrait of Schiller by Ludovike Simanowiz (1794)

 

【私が子どものころの模様替えは美的生活だった!?】

 

ところで、ロン・バーガーの『子どもの誇りに灯をともす』の解説で、シラーを引用して私が記述した部分はこちらとなります。

 

(シラーは)人は美的生活によって「自分自身の欲するものに自分自身をつくるということー自分がありたいと思うものであるという自由を、完全に取りもどす[vii]」ことができると言った。人は自らの心の能力によって、新しい現実を創り出し、本来の人間性を取り戻すことができるし、そこに「美」が決定的な介在をするという。その営みは「プロジェクト」と言うこともできるかもしれない。

 

この引用は、シラーの『人間の美的教育について』からなのですが、教育学の古典としての確固たる地位があり、遊びと人間形成についての嚆矢となる論考と言われています。[viii]シラーは自分のつくりたいようにつくる美的自由は(天才ではなくても)生得的にだれしもに与えられているとしました。そういった意味で、だれしでも「美的」な生活をしたことがあるはずだと言います。

 

だとしたら私にも「美的生活」の経験はあるのでしょうか。記憶を辿って、まず思い出したのが、子どもの頃、私が自分の部屋を模様替えをすることが大好きだったことでした。趣味は模様替えだと思っていたくらいです。小学校3年生で東京に引っ越した当時、私は3歳下の弟と同じ6畳の部屋にいました。二段ベッドで私の机がありましたが、当時は水槽で金魚を飼うのが好きで、水槽はどんどん大きくなっていきました。当然動かすのも水を替えるのも大変になっていくわけですが、水槽の中にどんな砂利を敷き、水草を入れ、魚の遊び場となる装飾を入れるかを考えて、現実化していくことはとても楽しい作業でした。

 

弟も縁日で釣ったうなぎやザリガニを飼ったり、私もひよこを買ってきて、木箱に部屋を作って、寝床をつくったり、豆電球でライトをつけたり、消したり出来るようにしていました。当時は2人で一部屋で、二人とも生き物を飼うわけなので、部屋はしっちゃかめっちゃか。さながら「いきものがかり」のようでした。金魚や動物は世話をしないと元気がなくなって死んでしまいます。金魚は調子が悪くなると泳ぎ方のバランスが崩れてしまいます。風邪を引いたのかもと、水温を測って水の入れ替えをしました。白点病といって斑点がでてしまうこともありました。そのたびに私は心配し、どんな病気かを調べ、店に行って薬を買ってきました。あるときは分量を間違えて、たぶん10倍以上の薬を入れてしまって、次の日目が覚めたら水槽の金魚が全部死んで水面に浮いていたこともあります。一度、金魚があまりに死ぬので面倒臭くなってトイレに流してしまったことがありました。白い便器にくるくると回りながら吸い込まれていく赤い金魚を見てなんともいえない後悔を感じ、それからマンションの共有庭にお墓を作るようになりました。

 

また、大きな家に住むことが憧れでした。こんな家に住みたいと、設計図を描いたり、よくティッシュペーパーの空き箱で家の模型を作っていました。空き箱の中には、紙粘土でベッドや椅子やダイニングテーブル、そして人形をつくって、あちこちに置いてみました。定規を使って、ドアの大きさや窓の位置、身長との対比などを調べていました。

 

そして、小学校6年生くらいのときに、当時3年生だった弟は客間として使っていた和室に移動し、6畳の部屋は私の自由になりました。ベッド、机、本棚はどこに配置したらいいでしょう。ティッシュペーパーの空き箱の世界がリアルになったわけで、本当にワクワクしたことを覚えています。そうすると、ベッドの掛け布団カバーがひどく気に入らないことに気がつきました。白くて穴の空いた旅館にあるようなもので、生地も固くて肌触りがよくありませんでした。そこで、自由が丘にPicoという生地や裁縫道具が買えるお店でパステルカラーの生地を買ってきて、ミシンを使って、枕カバーと布団カバーを自分でつくりました。

 

次は、入学の時に買ってもらった学習机と焦茶色の古臭い本棚が気になって仕方がありません。まず、学習机のライトや本棚、オーガナイザーのついている上のパーツを外しました。次に白のラッカーをダイエーで買ってきて一日かけて本棚を真っ白にしました。今にして思えば空調対策もろくにせずに、かなりシンナーを吸ってしまったように思います。当時の私の愛読書は文学作品ではなく、洋裁や手芸、インテリアや建築の本でした。

 

 

裁縫熱はそのあとも続き、気に入ったバッグがなければ、自分で生地を買ってきてつくっていました。夏の簡単な洋服くらいであれば、自分でつくっていて、パターンをとったり、好きなボタンを選んだりということはよくやっていたように思います。もっと言えば、小学校のころ、珍しいと思うのですが、「やきものクラブ」という陶芸のクラブに所属していました。そこで自分が気にいるようなお皿やカップを作っていたのです。ケーキやクッキーをつくるのも好きでした。みなさんも思い出してみたら、こうして「つくった」経験ってたくさんあるのではないかと思うのです。

 

そして、最近強く思うのが、そのようにして自分が「好きだな」「心地いいな」と思うその素直な気持ちを具現化していくことの繰り返しと、大人になってから、何もないところから自由に新しいものを構想して、形にしていくというプロセスに極めてよく似ていることです。

 

【遊戯衝動で、人格を培えるの?】

 

こうした「模様替え」は誰かに指示されてやったことではありません。思いつきです。むしろ自分が親になって今思うのは、よくぞ怒りもせず、ここまでほうっておいてくれた、という感謝です。部屋は汚れているでしょうし、あれだけ色々飼っていたら匂いもあったはずです。シラーはなにかを作ることにおいて人には感性的衝動と理性的(形式的)衝動があると言いました[ix]。当時の私は、たぶん何かやりたかったからやっていただけだし、小さな家や部屋が不満だっただけでした。でもあれは「衝動」だったのでしょうか。

 

当時は「美しい」ものをつくろうなんてこれっぽっちも思っていませんでした。自分が気に入ればそれでよかったのです。なんといっても自分の部屋ですから。他者に評価されなくても構いませんでした。親も特段に褒めるということもありませんでした。私がつくってプレゼントした筆入れなどはあれから40年経っていますが、まだ使ってくれています。でも、褒められたいから作ったという記憶はありません。褒められもしないことに相当の労力を使ったことを「衝動」というならそうなのかもしれません。

 

そのときのプロセスをシラーの言葉をつかって説明を試みてみます。まず、私の模様替えでいうと私の(感性的)素材衝動は「白くて丸い穴の空いた布団カバー」や「濃い茶色の本棚」を見た時におきます。素材には布のテクスチャーや形などもこの場合含まれます。次に理性の面で形式衝動がおきます。たとえば、「白ではなくパステルカラー」という形式をあてはめたくなります。もちろん穴は空いていなくて、横にジッパーのついている布団カバーです。

 

シラーは「白くて丸い穴の空いた布団カバーを見て感じた」感性(素材)の衝動と、「穴が塞がっている方が見た目がいいし、外れにくいし、素材もいいものを使おう」と形式を与え、相互に作用させながら、布団カバーを作るのだ、と言っているようです。そうした営みは、「形式を現実化する」とともに「質料を形式化する」ことが使命として課せられています。そして、この課題を果たすのが「美」をその対象とする「遊戯衝動[x](Spieltrieb)」であると言いました。なるほど。こうして布団カバーを作ろうとする一連の行為の中に、たしかに布団カバーの穴が気に入らないという感性の衝動とパステルカラーの穴の空いていない布団カバーをつくりたいという形式の衝動があり、両方が働いています。そのいとなみを遊戯衝動というのは少しわかるような気がします。

 

 

さらに、シラーは「感性的衝動」と「理性的衝動」がバランスがとれたかたちで活性化し、理性がはたらくことで、人は自身の人格性を見つけ出していく、としました。[xi]もちろん布団カバー作りで自分を発見しようなどということは、小学生時代の私は意識していませんでした。でも自分がどんな感覚があると自分が喜び、どんな形式があると自分は美しいと思うことからスタートし、その想い(質料)に形(形式)与えていくというプロセス(ここでいう質料は素材としての布、形式とは布団カバーの形や色)において、私の心が「自由」だったかと言われれば、たしかにそうかもしれません。

 

だれでもない、私自身が「これは美しいな」と思うこと、それを具現化すること、そしてつくったものをさらに作り替えられるということ。そのプロセスがあってはじめて、人は「自分自身の欲するものに自分自身をつくること」ができるし、何を感じて、なにを作りたいかという構想と手を動かす営みの中心にあるのが「美」だとシラーは言いました。そうした美的生活をすることによって、感性に寄りすぎず、悟性や理性に寄りすぎず、ずっと調和をとっていけるのではないかと言うのです。

 

ここで冒頭の私の解説におけるシラーの引用部分に戻って来たいと思います。

 

自分自身の欲するものに自分自身をつくるということー自分がありたいと思うものであるという自由を、完全に取りもどす

 

シラーは「遊戯するときにのみ全き人間である」とすら言いました。 [xii]感覚の強制も理性の強制もお互いに打ち消し合うような遊戯[xiii]の衝動においては人は自然的にも道徳的にも自由であり、こうした営みが最も高貴であり、美であるとします。実際のところ、私たちの日常は大抵感性が優位になったり理性が優位になったりしています。感性と理性が分離してしまって、同時に動かすことが減っています。たとえば、美術館で絵を見て感動することと、日々の仕事で頭を使っていることが別のことになってしまうのです。しかし、感性に寄りすぎても理性に寄りすぎても私たちは自由になれません。シラーのいうように、遊戯のなかでみられる「美的情調の中で取り戻される能力を、あらゆる贈り物の中で最高のものー人間性の贈与[xiv]」を私たちは、受け取り、遊戯によって、美的自由のなかで、創造的な自己の実現可能性を可能な限り引き出すことができたらどんなにいいでしょう。

 

自分は芸術や美術から遠いところにいると、多くの人が思っているかもしれません。私もそうでした。「芸術家」と呼ばれる人たちは遠いところにいて、作品を介して対話することはあっても、全く別の個性と能力を持った「人種」のように思っていました。なので、一般的には「美」とはかけはなれているように見える、私の経験のなかにも「美的生活」があったのではないかということは、大きな発見となりました。

 

だったら、子どもがだれからも要求されていないのに、一心不乱になにかをつくっているとしたら、そのものが客観的に芸術的な意味があるかどうかとは関係なく「美的な生活」をしていると大人は受け取ってあげたいものです。そして、子どもが布団カバーを作る時間、つまり「遊戯衝動」を存分に感じ取り、自分の人間性を培う機会を存分に与えてほしい。そんな教育的意義についてもシラーは警告を発してくれているように思います。

 

次回はカントについて書きたいと思います。

 

※ブログは教育をテーマに私が考えたこと、感じたことや経験したことの足跡を残すために書いています。(一覧は以下)
https://kotaenonai.org/category/blog/satolog/

 

その中でも哲学に関わるものをまとめたものはこちら
https://kotaenonai.org/tag/philosophy/

 

<参考図書・文献>

『人間の美的教育について』F.V.シラー、小栗孝則訳 法政大学出版局

『シラー詩集』フリードリヒ・シラー、青木啓子訳 月曜社

『ゲーテ=シラー往復書簡集』森 淑仁ほか訳 潮出版社

『判断力批判(上・下)』カント 中山元訳 光文社古典新訳 文庫

『西洋美学史』小田部胤久 東京大学出版会

『美学』小田部胤久 東京大学出版会

『美学辞典』佐々木健一 東京大学出版会

『美学への招待ー増補版』佐々木健一 中公新書

「シラー『美的書簡』における「遊戯衝動」ーゲーテ文学からの解明」井藤元 東京大学大学院教育学研究科 教育学研究室 研究室紀要 第33号 2007

「シラーと美学」井ノ川清 1981

『ゲーテ形態学論集・植物篇』ゲーテ 木村直司訳 ちくま学芸文庫

『色彩論』ゲーテ 木村直司訳 ちくま学芸文庫

 

[i] 『子どもの誇りに灯をともす』の翻訳者、塚越悦子さん、High Tech High Graduate School of Educationを卒業し、教育活動をしている芦田 加奈さん、同じくHigh Tech Highの黎明期に生徒として通って現在教育活動をしている岡 佑夏さんと一緒に進めています。日程的には8月5-6日で、東京開催(関西で講演の可能性あり)で予定しています。もしご案内が必要な方はこたえのない学校のメルマガに登録してください。

[ii] 各語の定義については『美学辞典』佐々木健一 東京大学出版会が参考になります。

[iii] 後続の本 ”Leaders of Their Own Learning: Transforming Schools Through Student-Engaged Assessment”などでは、カリキュラムの構造化を行い、現場の教師が活用できるフレームワークも提示しており、そのいくつかはHigh Tech Highでも使われています。

[iv] 『西洋美学史』小田部胤久 東京大学出版会 pi

[v] 『西洋美学史』小田部胤久 東京大学出版会 p147-8

[vi] 佐々木健一氏は『美学への招待ー増補版』p14において、美が人格形成の上で真に好ましい効果を果たすという議論について、シラーだけではなく、当時多くの思想家が共有していた考えであると指摘しています。美(物質性+精神性)と人間(肉体+精神)の構造的な相似系に基づく考え。

[vii] シラー『人間の美的教育について〈改装版〉』フリードリヒ・フォン シラー, 小栗 孝則 訳、 法政大学出版局 p124

[viii] 「シラー『美的書簡』における「遊戯衝動」ーゲーテ文学からの解明」井藤元 、『ゲーテ=シラー往復書簡集(上)』潮出版社 P43-p52を参考

[ix] ゲーテ『形態学論集・植物篇』(ちくま学芸文庫)の冒頭「企画の弁明」「意図の序説」あたりを読むと、ゲーテが「衝動」の概念をどういうふうに使っているか、いかにシラーの思想と呼応しているかがよく分かります。またデューイは『経験としての芸術』栗田修訳 にて「すべての経験は、ー衝動性(impulsion) としてはじまる」として、活動が表現活動に転換するのは衝動性と過去の素材の両者における質的変化だとしています。p66-68

[x] 小田部胤久『西洋美学史』p156 「世界それ自体をSpielと捉える立場は、ニーチェのうちにも認められる。(略)ニーチェによれば「永遠に生きる火」ないし「永劫の時」が「遊ぶ」ところの「世界の遊戯」こそが世界のあり方であり、世界は「常に新たに目覚める遊戯衝動」によって常に新たに「遊戯」へと駆り立てられる。」

[xi] シラー『人間の美的教育について』p115,117

[xii] 『西洋美学史』小田部胤久 p152-3

[xiii] カントも構想力と知性の自由な戯れ(Spiel)について『判断力批判(上)』中村元訳 p144-150,168で触れている。小田部胤久『西洋美学史』p148-153にカントとシラーの違いの解題がある。シラーは感性的ー理性的二元性の議論をカントから継承しつつも、素材衝動と形式衝動が等しく作用する遊戯運動において、感性の強制も理性の強制も消えるために、遊戯衝動が人間を「自由」に”する”とした。一方で、カントは構想力と悟性の活動としてのSpielを悟性の強制の有無で自由であるものと自由でないものに分類した。

[xiv] シラー『人間の美的教育について』p125

 

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