5月15日から17日まで北陸三県(富山県、石川県、福井県)を周り、とくに16日は震災に見舞われた石川県珠洲市に伺いました。きっかけは、Learning Creators’ Lab(LCL本科)の3期生の杉盛さんが珠洲市に勤務され、移住定住の推進において教育の側面からもチャレンジされていたことにあります。現地の方のお話を聞いたり、被災した各地を回ることができましたので、みなさんにも共有したいと思います。
震災直後から訪問まで
震災後、1月7日に杉盛さんに返信不要として、メッセージを送ってみました。迷惑かなと思いつつ、待っていたら1月19日にお返事がきました。体調は大丈夫、断水の復旧目処が全然たたず、通常の生活ができるのはまだまだ先になりそうとのこと。カタリバさんが避難所でのこどもの居場所づくりに取り組まれていることや、市外への二次避難が進んでいること、市役所で日々震災対応をしていることが書かれていました。
当時は、医療関係のいくつかのNPO団体、そしてふるさと納税などを通じての寄付などを進めましたが、道路が寸断され、なかなか現地にも行けないという話や、1月2月、雪が降っている中で体調を崩されている人が多いこと、水道や電気などの基礎的なインフラ普及が非常に遅れていることをニュースで見ながら、力になれないもどかしさで日々が過ぎていきました。
そしてあらためて連絡をしたのが3月13日。具体的な訪問可能性について打診してみました。しかし、私に気遣ってか、一度検討してみるとのことでしたが、文面から全く余裕がなさそう。。。3月17日に来たお返事では、まだ市内の多くの地域で断水が続き、建物の3割以上が全壊しており、避難生活をしている人や、市外に二次避難している人の関心ごとは、水道の復旧や仮設住宅のこと、いつ壊れた家の公費解体ができるかとのこと。これでは勢いで行っても迷惑でしかありません。
一方で、小中学校は再開しているものの、グラウンドに仮設住宅が建てられることが多いので、外遊びが制限されてしまっているとのことなども教えてもらいました。3月下旬には、大阪のスクールソーシャルワーカーの友人、西江尊德さんが社協(社会福祉協議会)の職員や保育士などが半減し、ケースマネジメントが追いついていないことから、基礎資料づくりのために珠洲市にサポートに入ったと聞いたので、状況を聞きます。道路もボロボロで、上下水道も使えない地域が多く、復興には相当の時間がかかりそうだとのこと。
それからしばらくして、杉盛さんから4月12日に連絡をいただきます。新年度に入ったけれども、自宅の水が復旧していないので、息子さんは奥さんのご実家からオンラインで授業を受けているとのこと。ボランティアの方が泊まれる場所はテント村などに限られるけれど、「現地に来てはじめてわかることがあると、市外からこられた方から聞いたりするので、都合がつくようだったら、お越しください」とはじめて、キューをもらいます。やったー!
その少し前の2月に氷見で教育の拠点をつくろうとしている若杉誠司さんに福岡で久しぶりに会っていました。若杉さんもLCL本科の5期メンバー。氷見といえば、珠洲市から車で2時間半程度の距離です。ちょうど、LCLの卒業生が集まれるような場所を探していたところでもあり、LCL立ち上げ当初からチームビルディングを一緒に考えてきたアンディさんこと寺中祥吾さんに相談をし、もし珠洲市に行けるとしたら、氷見に宿泊しながら、レンタカーを借りて珠洲市まで行くプランを考えました。そこで、氷見に宿泊をして現地に向かうこと、5月16日に訪問可能だということを杉盛さんにお伝えしたら、OKとのことでぐっと訪問に向けて動き始めました。4月17日のことです。
いよいよ訪問へ!
前日に富山空港に入り、若杉さんが運営に入られている築80年を超えるアズマダチの伝統家屋を活用した地域のコミュニティスペース「英才榭」に泊めていただきます。レンタカーは4人まで乗れるので、LCLのメンバーに声をかけたところ、鶴田 麻也美さん、伊藤恵子さんが一緒に行くことになりました。前日は少し早めに富山空港に到着し、金沢に寄り、兼六園、ひがし茶屋街(志摩)、鈴木大拙館などもしっかり観光してしまいました笑。
16日は、朝8時くらいに氷見を出発。10時半くらいに珠洲市に到着すると杉盛さんに伝えたら、車に乗っている間に、市内をいろいろ巡るプランについて連絡がありました。ランチくらい一緒にできたらもう十分だと思っていたので、びっくりです。ええーー、いいんですか!????
まずは、集合場所となる道の駅すずなりを目指しますが、ルートは以下の通り。行きは穴水までは富山湾沿いではなくE41という山道を通り、帰りは地図のとおりの道です。ルートの三分の一くらいまで走るともう道路工事だらけで一車線のところが多く、所々道路に亀裂が入ったりしているので、気をつけて運転する必要がありました。ただ、渋滞するようなこともなく、スムーズにGoogleの時間通り、行くことができました。
そして着いた道の駅すずなり。ゴールデンウイークになってやっとオープンしたそうですが、残念ながらその日は短縮営業で営業外の時間でした。隣でピースボートの人たちが支援で食料品を出していて、朝10:30でしたが、取りに来る人たちもちらほらいました。
能登の里山里海の持続可能な未来を諦めないために
そこからまずは、金沢大学能登学舎に伺いました。ここでは、能登半島の里山里海の持続可能な未来を創ることを目指し、金沢大学と珠洲市などの自治体が連携して人材育成プログラムが運営されています。多様な一次産業、景観、祭礼文化などが総合的に評価され、世界農業遺産に認定された「能登の里山里海」を世界に発信し、課題解決をする人たちを育てるマイスタープログラムというもので、2007年から2023年度までに241名の「能登里山里海マイスター」が輩出されているそうです。この事業を含む奥能登における研究・教育の拠点である金沢大学能登学舎が、珠洲市三崎町にあり、そこで12年活動されている自然共生研究員の宇都宮大輔さんにお話を伺いました。
能登学舎では、能登の里山里海の基礎研究や保全活動、都市-農村交流、地域振興のためのリーダーの育成など、地域との連携による様々な教育研究事業が実施されています。「NPO法人能登半島おらっちゃの里山里海」も2008年に設立されており、里山里海の持続的な保全にも取り組んできました。また、珠洲市は、環境省が進める「地域循環共生圏」構築に向けた実証地域にも選ばれ、市内各地区の里山里海の在り様や文化の違いに着目し、地域の宝を再認識する取り組みも進めてきました。「地域の人々が何を大切にし、どの資源を使い、どのような活動をしているのか」などを共有し、持続可能な地域づくりにつなげるというものです。さらに、2018年には珠洲市でSDGsの取り組みを進める拠点として能登学舎内に「能登SDGsラボ」が設立され、2019年には「珠洲市生物文化多様性基本条例」が制定されています。
(お話をされる宇都宮大輔さん。奥が杉盛啓明さん)
そんな活動をされてきた宇都宮さんに被災されたときの状況についてお伺いしました。
私自身は実家の大阪にいて、そこで地震のニュースを聞きました。次の日にはこちらに向かい、珠洲市に着いたのは1月4日の夜でした。5日に避難所に指定された正院小学校で自主防災組織の本部長、副本部長(公民館長)と一緒に避難所運営に入りました。仮設住宅が2月中旬にできたので、そちらに移りましたが、3月末までは毎日避難所に通っていました。4月以降は通常業務となり、今に至ります。
震災直後は、午前2時とか3時でも支援物資が届くんです。正院小学校は体育館が雨漏りをしたので教室を使っていましたが、はじめの数日は段ボールベッドもなく、とても寒かったので、体調を崩された方もいました。救急車を呼ぶこともあり、2日に1回は夜勤をして、その後も夜の9時くらいまで運営に関わっていたら、体調を崩してしまいました。2週間弱で7キロ痩せてしまったので、妻の金沢の実家で2−3日休んで戻ってきた、ということもありました。ただ、気持ち的には、覚悟決めていたし、学校も1月15日に始まるということで、その前日には息子も避難所に来たので、比較的安定していたかもしれません。避難所は子どもが少ないので大事にされ、友達もいたので、息子は避難所生活を楽しんでいたかもしれませんね。
いつまでも頼れないとは思いますが、サポートいただけると嬉しい状況です。一般ボランティアは今は社会福祉協議会が窓口です。ただ、何を頼めばいいのかわからないというところもあります。離れて避難されている方も多く、コーディネーター機能も必要かと思います。学校については、今教室を一つ空けてもらって5−6時ごろまでは先生が見てくれていますが、今後長期休みになったときにどうしたらいいのかと思っています。
その後、宇都宮さんが被災されていた正院などを経由して飯田(市の中心部)へ戻り、炉端焼 あさ井さんで昼食をいただきました。美味しい!!
飯田小学校避難所訪問
次は、飯田小学校避難所を訪問。この避難所を担当されている清水さんにお話を伺いました。
(右から2番目が清水さん)
清水さんのお話は以下のようなものでした。
3月末まで私はここに寝泊まりしていました。そうしないと回らなかったですね。娘もこの学校の小学校6年生でしたのでここから通いました。コロナにもインフルにもなりましたが、その時は家に戻りました。暖かいものが食べられるようになったのは割と早く、1月3日からでした。ボランティアの方が炊き出しに来てくれたので。電気もここは通っていたので助かりました。お風呂は1月9日からでした。そのときにはもうみんな生き返ったようでした。顔がほわ〜っとして。
避難所としては、朝は5時半には起きて、7時までに朝ご飯を配っていました。初日は学校の避難者の想定が確か160名くらいだったところに800人以上でしたので、水などの備蓄も足りずに本当に大変でした。97才のおじいちゃん含め、高齢の方も多かったです。最初の3−4日は山崎パンさんがきていたのですが、賞味期限があったので、それを確認し、期限の近いものから配布していましたね。ペットも犬、猫、鳥など受け入れていましたよ。
トイレが一番大変でした。800人、流せないトイレで。柄杓があるのを思い出して、水を組んでトイレに流そうとしたのですが、だめでした。あとでわかったのですが、下水の配管が曲がってしまって流れなかったんです。すぐいっぱいになるので、私たちが手袋をして汚物を出していたのですが、二日か三日でもうダメとなり、「トイレがもう使えません。みんなでなんとかしませんか?」と放送をかけたんです。そうしたら、結構な人がきてくれたんです。でもなかなかうまくいかなかったときに、保健師さんたちが来てくれたことがターニングポイントとなりました。トイレを見て「一回綺麗にしましょう」と。一度しっかり掃除をしてから、簡易トイレに切り替えましょうと提案してくださったんです。それはそれは大変な作業でしたが、そこからだんだんにトイレの状況が改善していきました。そこまで2週間くらい。日々壮絶でしたが、その後避難者も減って、1ヶ月で100人を切りましたので、徐々に楽になっていきました。簡易トイレはみなさん本当に準備してくださいね。
人が気軽に集まれる場所作りー鵜飼・本町ステーション
飯田小学校避難所訪問のあとは、「外浦」(輪島市の側と言った方がわかりやすいでしょうか)方面に向かい、折戸からぐるっと狼煙、寺家を経由した後に、「内浦」(富山湾側)のほうに戻りました。外浦側、ほかの被災地の状況はあらためてお伝えしますが、次に向かったのは、津波もあり、珠洲市の中でも壊滅的な被害を受け、水道もおろか、電気も通らない家も多い宝立町鵜飼でした。そこで、誰でも気軽に立ち寄り集まれる場所を作っている松田咲香さんにお話を伺いました。
松田さんは、もともとフォトグラファー。珠洲の自然が好きで鵜飼にある海辺の家を借りて写真の撮影や編集などをする場所にしてきましたが、元旦は市内の別の場所にある実家に帰っており、次の日に見に行ったら建物は全壊、津波によって機材が流され、残ったものもすべて泥だらけになってしまっていたそうです。
もともと地域の人たちが集うことのできる場所がほしいと思っていた松田さん。1月下旬に避難所に行ったときに住んでいた町の区長さんに会い、使えそうな場所がないか相談したところ使用できる場所として提案してもらいました。2月の頭に使いましょうとなり、掃除をして、壁も貼って綺麗にしました。床は津波が入って1ヶ月経っていたので、水も使えず、なかなか汚れが取れずに大変だったそうです。暗いし、寒いし、雨も降るし、、どうしようと思っていた時に、留守番できるよ、というパートナーの宮口さんが現れ、一緒にやることになりました。2月に掃除をはじめ、4月15日にオープン、その日にインスタグラムをアップしました。そうしたらいろんな人がフォローしてくれたといいます。
資金はゼロで始めたんですが、ピアノは区長さんのいとこの方が持っていたもので、自宅の解体に伴い置き場がなくなるとのことでこちらに運ばれてきました。調律しなくても大丈夫そうだとのことで、先日行ったアンサンブルコンサートでさっそく弾いてもらいました。バイオリンとピアノ、バスクラリネットの奏者で演奏したのですが、涙ぐんでいる人もいました。私もリハーサルの段階からウルウルしてしまって。音楽の力は偉大ですね。あとは、この地域では津波によって家ごと流されてしまったり、自宅が倒壊した人も多く洋服がなくなってしまった人もたくさんいます。冬用の衣類は支援物資でなんとか凌ぐことはできましたが、だんだんそういうこともなくなってくるので、春夏に向けて、友人に呼びかけてもらい、古着や新品の衣類をたくさんの方に寄付していただきました。買い物気分で服を選ぶことを楽しんでいる人もいます。昨日はマカロンなどのおやつを置いて、ハンドドリップのコーヒーを入れ、今日はボランティアカットにきてもらいました。
このスペースには、畳の小上がりがあり、こたつが置いてあって、洋服だけではなく、本やお菓子も置いてあります。出口には花が綺麗に咲いていました。どこか気遣いのある優しい場所で、生活の潤いのようなものがここにあり、みんなが集まってくる理由がわかりました。ところで、松田さんは美しい珠洲、そして能登の自然をこれからも写真に納めたいそうですが、カメラがなくなってしまったので今は支援でいただいたカメラ1台を相棒にしています。今まではキャノンのカメラを使っていましたが次はソニー α7 IVを使ってみたいそうです。中古でもいいので、松田さんに送りたい方がいたら、こちら(藤原)までご連絡ください。
(5月4日に実施したアンサンブルコンサートの様子)
(右から2番目が松田さん)
被災地をまわる -日常はいつになったら戻るのか
最後に災害の状況を共有します。まず、居住されている人の多い内浦の飯田、正院、蛸島、宝立は本当にどこに行っても、倒壊した家屋だらけで、悲しくなるような景色が続いていました。一見どうにか建っているようにみえても、「危険」「要注意」の張り紙がされています。瓦礫撤去のクレーンもほとんど見かけませんでした。とても天気の良い日でしたが、人はまばらで、寂しい感じでした。
松田さんが運営されている本町ステーションがある宝立町鵜飼のあたりは、津波や液状化の影響もあり、マンホールが浮き上がってしまい、郵便ポストは薙ぎ倒されていました。このあたりは水道はおろか、まだ電気が通っていないエリアもあり、鵜飼の本町ステーション周辺では住める家は5〜6軒しかないとのこと。
驚いたのが、水道は、行政管轄の部分が修復できても、そこから家屋へ引き込む部分が壊れていたら家の所有者が自己負担で業者に頼まないといけないという話です。県内のほかの自治体から業者がくる場合に交通費や宿泊費の補助はあるとのことですが、なんとかならないものでしょうか。
一方で、行ってみて驚いたのがその景観の美しさ。能登半島の北側にあたる外浦は震災で孤立した集落も出ましたが、美しい海が見え、何度もため息をつきました。しかし、実際には、外浦は大きく土地が隆起し、海岸線が変化してしまったそう。白く見えるのは、地震前は海底だった場所。海中の岩についていた海藻などの生き物が干上がり、石灰化しているのだそうです。珠洲市を含む能登半島の沿岸の多くは、水深や海の中の様子も変わってきている、ということでした。
多様な一次産業、素晴らしい景観、キリコなどの祭礼文化が海外にも評価され、里山里海の未来を創るためのさまざまな取り組みがされてきた能登。控えめだけど芯が強く、温かさと力強さを感じるこの土地の人たち。何世代にもわたり継承されてきた独自性のある伝統的な里山・里海の農林水産業と生物多様性は、世界的にも認められ、国際連合食糧農業機関(FAO)によって世界農業遺産に認定されています。
「復興」というような勢いの良い言葉ではなく、この土地の尊さや良いところがさらに生かされ、いい方向に向かってほしいと心から思いました。プロジェクトのようなものも計画し始めています。今回はたまたまLCLのメンバーを中心に訪れましたが、東京に戻ってから、珠洲市に6年間ずっと入られており、4月に飯田小学校で授業もされていた横山弘美先生からご連絡をいただいたり、ランチをいただいたあさ井さんでは、他のプロジェクトでご一緒した方と偶然お会いしたり。たくさんの方がこの土地にかかわっていることを知りました。オープンにいろいろな方と交わりながら、何か意味のある活動ができれば嬉しいです。またお伺いする日をたのしみにしています。
(伊藤恵子さん(通称KT)の知図。参考:珠洲Feel度Walk)