アートと教育(2)カント『判断力批判』心と身体をフルに使って理想の形を構想しよう!

前回はシラー『人間の美的教育について』を読みながら、人は美的生活によって「自分自身の欲するものに自分自身をつくるということー自分がありたいと思うものである自由を、完全に取りもどす」ことができるということ、そしてそういう自由のために教育がいかに貢献できるだろうか、ということについて考えていきました。

 

今回はシラーが自身の思想を展開するにあたって、シラーが深く読み込みその思索の土台としたカントの『判断力批判』を哲学登山「アートと想像性」で読んでいきましたので、この本を中心に、教育的な意味と絡めて、振り返っていきたいと思います。[i]

 

前回も書いた通り、美学について学ぶきっかけとなったのは、ロン・バーガーの著作”An Ethic of Excellence”の日本語訳版の出版に関わったことでした。読み進めていくにつれ、この本が芸術教育そのものであることに気がついていったのです。そして、近代美学を確立した本といえば、カントの『判断力批判』だと言って否定する人はほとんどいないでしょう。

 

『判断力批判』ですが、カントの三批判書の一つで『純粋理性批判』『実践理性批判』に続き、最後に書かれたものとなります。カントの三批判書では、究極的な普遍的価値として提起されたプラトンの有名な「イデア」の概念を純粋な理性によってのみ把握できる理念的な世界(可想界)における「最高善」というかたちであらためて再構成しています。『純粋理性批判』は「真」に関わる経験可能な知識の可能性、『実践理性批判』は善悪や道徳的な問題、そして『判断力批判』は美や芸術、美的判断などについて考察されています。

 

そして美や芸術に関わる『判断力批判』ですが、昨年の秋に中山元さんの翻訳が『純粋理性批判』『実践理性批判』に続き光文社古典新訳文庫から出ました!ただでさえ、難しい内容なので、今使われている言葉で書かれていて、ありがたすぎます。[ii]今回はこの本を中心に近代美学が成り立って行った理由など歴史的背景を簡単に説明しつつ、教育にとってどんなことを示唆してくれているのかについて考えてみたいと思います。

 

【美はわたしたちの心のなかにあるー近代美学の誕生とカント】

 

まず美学(Aesthetics)という言葉に馴染みがあるでしょうか?私が通った大学には美学美術史学のコースがあるので、美学を学んだ友人もいますが、当時は「へー」くらいな感じで何も分かっていませんでした。その美学ですが、スタートはドイツのバウムガルテンが1735年にその必要性を指摘して、大学で講義をしたことにあります。[iii]

 

「美」については、古代ギリシャで、プラトンが『饗宴』にてエロース、恋を美しいものの追求と捉え直し、「美しい肉体」「美しい人間の営み」「美しい学問」そして「美そのものへ」について対話のかたちで論じています。一方『国家』第10巻では[iv]「ホメロスをはじめとしてすべての詩人たちは、人間の徳(略)に似せた影像を描写(模倣)するだけの人々であって、真実そのものには決して触れていない」といわゆる詩人追放論を展開します。[v]その後、宗教的な主題に焦点が当てられた中世を経て、大学が12-3世紀に設立されると、リベラルアーツ(自由学芸)として三学(文法学・論理学・修辞学)、四科(算術・幾何学・音楽・天文学)を学ぶようになります。でも、自由学芸に音楽と文芸は入っていますが、絵画や彫刻は入っていません。実は、この頃、リベラルアーツ(自由学芸)に対して、武器製造や靴作り、そして造形(絵画・彫刻・建築)はメカニカルアーツ(機械的技術)に分類されていました。リベラルアーツがエリートが学ぶ高級な学問であった一方、機械的技術は職人が担う低級なものとされていました。しかし、近代以降になると機械的技術のなかでも造形は、文芸・音楽と共通する性質、すなわち「美」があるとカテゴライズされるようになり、現在の分け方に近づいていきます。[vi]

 


ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生』1485年

 

そして14-16世紀のルネサンス時代に、詩と絵画の類似性が強調され、レオナルド・ダヴィンチが絵画の重要性を主張します。17世紀になるとガリレオ・ガリレイの地動説やデカルトにより、科学的なものの見方が導入され、それまでの世界観が覆るような衝撃を受けることとなります。当然にして、17世紀末から18世紀頭にかけては詩人たちが、文芸も科学のように進歩して、古いものよりも新しいものが優れているといえるのか、という論戦が繰り広げられました(新旧論争)。その結果、少なくとも文芸は科学技術のように進歩史観で語れないということとなりました。例えば、今の武器と昔の青銅器で作った武器であれば、今のもののほうが能力が高いことは明白ですし、今錬金術を本気で信じている人は少ないでしょう。一方で、「ホメロス」と現代の戯曲や文芸作品を比べて、時代が古いことだけを理由に「ホメロス」が劣っているとは言えない、ということです。[vii]

 

もともと西洋において「創造」という言葉は、神だけができるものであり、詩人・音楽家・画家・彫刻家はパトロンがいて成り立つ職業で神の姿や教えを如実に模倣(ミメーシス)する人たちでした。でも、中世の価値観が激変していく中で、近代以降、芸術家は独創的な天才で、創造性やオリジナリティが芸術に要求されるようになっていくようになります。そんな時代の転換点でカントは三批判書を書きました。もう一つ付け加えると、「教育学」が自律的なありかたになったのもまさにこの時代です。ルソー『エミール』は1762年に出版[viii]されていますし、カントは大学ではじめて「教育学」の講義を持ちました。『判断力批判』には「天才」や「崇高」などの概念が出てきますが、まさにこの時代に注目のトピックだったのです。

 

【わたしたちは花をどうやって認識しているの?】

 

では「美」や「芸術」を論ずる前に、私たちは「対象(たとえば花)」をいかに感じて、どのようなメカニズムでそれをどう認識(cognition)するかをカントと共に考えていきたいと思います。カント『純粋理性批判』の序論、第一節は「私たちのすべての認識は経験とともにはじまる」という言葉からスタートします。[ix]花を見て「美しい!」と思うまでの時間は瞬間的なものですが、実は花を目の前にしてから「これは花だ!美しいなぁ」と思うまでの間には、意外と隔たりがあり、いくつかのステップを踏まなければなりません。

 

「花」は私たちの感覚(五感)を触発し、私たちの認識を呼び覚まします。しかし、私たちの精神(心)が花を認識するとき、まさか花を飲み込んでしまうわけにはいきません。[x](絵画を認識するときに絵画をバリバリと食べるわけにもいきません)つまり、花をなんらかの意味で精神化しないと、わたしのなかで、花を同化することはできないわけです。そこで、カントは、感覚と「認識のカテゴリー」を繋ぐ第三者として「先験的図式[xi]」(時間の系列、内容、順序、総括)というものを考えました。

 

 

カントは、認識をアプリオリ(先験的なもの)なものとアポステオリ(経験によって初めて可能)なものに分けました。カントはアプリオリな認識を「私たちが経験から直接に取り出したものではなくて、ある一般的な規則に基づい」たものだと言います。[xii]アプリオリな認識の代表は時間と空間で、私たちはなんらの経験がなくとも時間が過去から現在、そして未来に流れ、ここに、あそこになどと考えます。(カントは絶対的に独立したアプリオリの説明として、家が土台が切り崩されたときに、「あー倒れる!」と思うのは、物体には重さがあることとそれを支えると落下することを経験によって知らないと「倒れる!」と思えないので、これは絶対的なアプリオリではない、としています。[xiii]

 

カントは想像力/構想力は感覚刺激の多様性を一つの形象へと統一し、精神(悟性)の理解を助けるものだとしました。でもそのためにはその像が経験されていなければなりません。その最初の像を統一づけて、経験を可能ならしめる働きが「先験的統合」であって、生産的な想像力がセンス・データを統一して像を形成、そこで、はじめて概念と像の中間的存在である「図式[xiv]」に媒介されて、悟性の理解するところになると考えました。[xv]

 

 

上記の図で、たとえば真ん中にあるチューリップを私たちは見たとき、まず「感性」で把握しますが、そこにはただただ、花びらの色や形態が見えます。さらさらと風に揺れています。匂いや触った感触もあるかもしれません。快いという感情もあるかもしれません。それを「先見的図式」によって時間的・空間的に「多様に」直観します。その上でその多様な感覚や感情を一つの像や図に「想像力/構想力」をもってまとめ上げていきます。(参考:現象学についてのブログ[xvi]

 

わたしたちの心は受動的に感覚データを受け取るだけでなく、能動的にそれらを統合します。この統合は「先験的」であるところが重要なポイントです。こうした生産的な想像力がさまざまなセンスやデータを統一して形成した形象は、さらに概念と像の中間的存在である図式に媒介[xvii]されて、悟性の理解するところとなります。(参考:ピアジェの図式についてのブログ)。 [xviii]

 

「感覚」と「認識のカテゴリー」を繋ぐ第三者としての「先見的図式」が提案されているわけですが、カテゴリーは純粋概念(先験的な概念)であって、経験に先立ってわたしたちの心に備わっているものです。カントは4つのカテゴリー群(量・Quantity、質・Quality、関係・Relation、様態・Modality)と12のカテゴリーを提案していますが、「先験的図式」は4つのカテゴリーにそれぞれ対応する形で(時間の系列、内容、順序、総括)があります。図式は抽象的な概念を感覚的な形式で理解することを助けてくれて、私たちが具体的な経験にカテゴリーを適用するための「手続き」となります。これで「私たちは花を飲み込むことなく、花を経験し、概念として理解」、つまり心の中の花の住まわせ方は、人それぞれで良い、としたことです。つまり「花はこうである」という客観的概念や定義に合わせなくていいわけです。図式によって、カテゴリーが無味乾燥な単なる概念ではなく、私たちの快・不快の感情も含めた私たち固有の経験に関係するものとして機能します。そこに中世的価値観から脱却した「自由」を私たちは感じ取ります。

 

【なぜわたしは花を美しいと思えるの?ー想像力と悟性の遊動(Spiel)】

 

では、自由な能力としての想像力をもった私たちは、どうやって花を「美しい」と感じるのでしょう。私たちは、ただ悟性的、理性的に物事を認識しているだけでは、人生何の楽しみも喜びもなく、感情も動かず、面白くもおかしくもありません。「花」はこんな形をし、こんな匂いがして、こんなふうに繁殖する・・と知ったところで一体何がどうだというのでしょう。

 

カントは対象を美と判断するときに想像力と悟性の調和的な遊動(Spielがあるとしました。確かに「悟性」で判断すると、チューリップは「花」です。でもそうやって認識するまでに本当にさまざまな多様な経験を私たちはしています。そして、そこにはあるのは純粋な「主観」です。「みんながチューリップを美しいというから美しい」ではないですよね。私たちは、誰が何を言ったかなどということではなく、自律的に美しさを感じ取る能力があるし、自分の快・不快の感情(カントはこれを趣味・Tasteと言いました)に正直になったっていいのかもしれません。

 

少し言い換えると、花にせよ、なんらかの物事にせよ、美的判断(適意)を私たちはみんなしています。そして、それはなんらかの目的や機能に縛られるものでもありません。たとえば「花が有用だから美しい」とは言わないし、「この絵は神様を表しているから美しい」とも言えないし、「この家は少し壊れたところがあるので美しくない」とも言えないということです。どんなに言葉を尽くしてもうまく説明できないのが、美しいという感情。何かを純粋に美しいと感じることは、それがなんであるか(概念)やなんのためにあるのか(目的)に基づいていないとカントがここで指摘してくれたことは、私たちを自由にしてくれます。私たちがなにかを「美しい」と言うことができるのは、そのものが美を持っているからではなく、目の前に私たちが美しいと感じている事実があるから[xix]もっともっと私たちは自分の美的判断に自信を持っていいのかもしれません。

 

カントに先立ち、ディヴィッド・ヒュームは『趣味の基準について』において、「美はそのもののなかにある性質ではない。ただものを見つめる心のなかにのみ存在する」と言いました。芸術や美は他者がその良し悪しを評価するものである以上に、子どもたちも含め、私たち一人ひとりが心のなかで受け取って良いということは、教育観を大きく変えます。ロラン・バルトは「作品は読まれることで完成する」と言いました。本は読まれなければ単なるパルプとインクにすぎません。彫刻もなんらかの形を持った石でしかありません。そうではなく、作品を私たち一人ひとりの心の中に自由に住まわせてよいのだというふうに、近代以降多くの人が語るようになりました。

 

【なぜみんなが花を美しいと思えるの?ー美と倫理的判断のはざまで】

 

しかし、だからといって、美的判断は「蓼食う虫も好き好き」が結論ではないところが美学の面白いところです。カントはさらに、こうした主観的体験が私たちの倫理的判断の基礎となる可能性について触れています。

 

この辺、昨年10月に出版された井奥陽子『近代美学入門』の説明がとても分かりやすいのでお借りします(この本、おすすめです)。私たちの道徳的判断、つまりある行為が道徳的に良いものかどうかは、感情ではなく理性によって、また概念や目的に基づいて判断されるものであるとカントは言いました。ある人が人助けをしたことを立派だと思うのは、あらゆる人に当てはまる普遍的なものであるから。しかし、感覚はそうではありません。ワインの味を美味しいと思うか(Taste)どうかはそれぞれの好みで構いません。しかし、美の場合は事情が全くことなる、とカントは言いました。彼は私たちは何かに美を感じるとき、他のすべての人もそれを美しいと感じると期待するものだ、と言います。[xx]

 

私たちは何かを「美しい」と思うとき、つまり「この音楽は美しい」「この風景は美しい」「この花は美しい」と思うとき、「きっと誰にとっても美しいはずだ」と思うもののようです。カントの言葉を借りると「同意してくれるだろうと期待して、そう語るのではなく、彼らに同意することを要求してそのように語る[xxi]」のです。もちろん現実には同じものに対して全員が「美しい」と同意することはないでしょう。でもわたしたちはつい「他の人も同意するだろうと想定してしまう」ところがポイントです。美はものの側にない以上普遍的ではありません。でも、完全に人それぞれでもありません。あくまで主観的な味覚/趣味(taste)の違いは厳然と存在するけれども、普遍性を私たちはつい要求してしまうものだというのです。[xxii]

 

まとめると、道徳における感情は客観的で普遍的ですが、感覚は主観的であるけれども普遍的ではない、一方で、美については主観的であるにもかかわらず普遍的であるかのように私たちは期待する、ということになります。こんなこと考えるカントって凄すぎです。

 

 

最後にカントにおける「道徳」と「善」の関係性に少し触れておきたいと思います。カントは『実践理性批判』にもあるように道徳を一般的な倫理的な原則や法則に基づく行動の枠組みとして捉える一方で、「純粋な意志」に基づく行動が真の「善」であると考えました。カントは「善なるものの判断だけは特別であって、それもまたある対象についての適意を規定するものであるとしても、たんなる美的な普遍性ではない論理的な普遍性をそなえている[xxiii]」と言います。カントは「善なるもの」は「理性」を介して私たちの意に適うものであるけど、その中でも「それ自体で意に適う」ものが「それ自体で善」だと指摘します。[xxiv]もちろん神様のご利益を与りたいと願うことが「善」ではない一方で、単なる感覚の満足を求める快適さもそのまま「善」にはなりません。そうではない「ただただ美しい」何かが「善」には関係しているのではないかとカントは指摘しました。カントは「(ある人の)人格の現れとして絶対的な価値が認められるのは、その人が完全な自由において(略)快適さの享受ともまったく関係なく、どのようなことを<なす>かによる」と言います。[xxv]

 

ロン・バーガーの”An Ethic of Excellence” という本は、カントのこうした倫理的判断と美的判断のはざまにおける教育実践のエピソードではないかな、と感じています。カントは「美的判断」も「倫理的判断」も私たちの「理性」と「自由」に関係すると考えていました。そして、対象を美と判断する働きの特徴をカントは想像力と悟性の調和的な遊動(Spielの中に見たわけです。となると、私たちはこうした「自由」を存分に働かせて、自身の「理性」を鍛えていくことが私たちの人生をより良きものにするかもしないし、そこに「善」なるものを捉えていくことができるのかもしれません。ロンの実践でも、心と身体をフルに使って遊ぶように活動するなかで、一人ひとりみんな違う自分だけの「美の理想」を感じ取りながら、最高の模範(Model)を作っていくことが大切にされています。

 

美そのものと私たちの距離】

 

ところで、わたしたち人間はプラトンの言うような「美そのもの」を創るなんてことはできるのでしょうか。プラトンは「イデア」を客観的なものとしましたが、カントはそれこそ逆側から攻め上がって、一人ひとりの「Idea/イデア」を算出するような生き方を提案しました。一人ひとりの「Idea/イデア」は「美そのもの」になりうるのでしょうか。

 

私が好きな『純粋理性批判』の箇所に「バベルの塔の野心」というものがあります。

 

わたしたちは、天までにとどくほどの塔を建造するつもりだったが、手持ちの材料を検討してみると、やっと一軒分の住宅が建てられるほどの材料しかなかったことである。しかしこの住宅は経験という平野でわたしたちが仕事をするには十分な広さがあり、この平野を見渡すにも適切な高さであることが、明らかになったのである。しかもあの無謀な企ては、言語の混乱が起きていなかっとしても、材料不足のために失敗に終わらざるをえなかったのである[xxvi]

 

ピーテル・ブリューゲル『バベルの塔』

 

この表現は、プラトンのいう「イデア」や『饗宴』に描かれていた「美そのもの」と私たちの現実世界との距離感についてカントが感じていたところのものではないかと思います。私の感覚にもとても近いものがあります。「美そのもの」はとっても遠い・・・。でもだからといって、私たちの平野は仕事をするには十分の広さがあります。そこで「美しい作品」を作ることに意味はある・・・そんなことをカントは言ってくれているように思います。

 

最後に『実践理性批判』の最後の一節も紹介しておきたいと思います。

 

わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな驚嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。それはわが頭上の星辰をちりばめた天空とわが内なる道徳法則である[xxvii]

 

私がロン・バーガーの本の解説でカントについて触れた部分は以下の通りです。

 

イマヌエル・カントが示唆するように、子どもたちがそれぞれの判断に信頼をおきつつも、心と身体をフルに使って理想の形を構想し、具体化する過程で心的能力を開発していくように設計されている。生み出されたものは他者に表現され、分かち合われる。構想における自由が保障され、適切なリフレクションがなされることによって、まさに子どもたちは自己のアイデンティティを追求し、倫理観を培っていく。

 

カントは、私たちの認識能力を「自律」して使い、自由によって私たちが適切なリフレクションのもとに「理想のモデル」を培うことを求めました。ロンは「エクセレンスのモデル(model of excellence)」という言葉を使いますが、なにかを「つくる」なかでリフレクショナルな営みを継続し、倫理観を培うことは可能なはず、と信じて私たちも教育に取り組みたい、そんなふうに思います。

 

次はデューイについて触れたいと思います。

 

※ブログは教育をテーマに私が考えたこと、感じたことや経験したことの足跡を残すために書いています。(一覧は以下)
https://kotaenonai.org/category/blog/satolog/

 

その中でも哲学に関わるものをまとめたものはこちら
https://kotaenonai.org/tag/philosophy/

 

<参考図書>

『判断力批判(上・下)』カント 中山元訳 光文社古典新訳文庫

『純粋理性批判(1−7)』カント 中山元訳 光文社古典新訳文庫

『実践理性批判(1・2)』カント 中山元訳 光文社古典新訳文庫

『国家(上・下)』プラトン 藤沢令夫訳 岩波文庫

『饗宴』プラトン 中澤努訳 光文社古典新訳文庫

『プラトン全集10』イオン 森進一訳 岩波書店

『美学辞典』佐々木健一 東京大学出版会

『近代美学入門』井奥陽子 ちくま新書

『美学』小田部胤久 東京大学出版会

 

[i] 本編はあくまで「ブログ」です。カント『判断力批判』を教育の観点から読むという私の経験がみなさまのお役にたてばと思って、私の読書メモを公開していますが、美学・哲学としてしっかり理解したい方は、可能な限り引用元をページまで記載しておりますので、そちらを辿って読み進めていただくようにお願いいたします。また間違いなど見つけましたら、こたえのない学校のコンタクトページに遠慮なくお知らせください。

[ii] 哲学登山ではまだ中山訳が出ていなかったため、岩波文庫の篠田訳で読んでいきました。熊野訳も定評ありますが、厳密であるがゆえに多くの人にとってはやはり難しいと思います。一般に読む分には圧倒的に中山訳のほうが読みやすく、個人的にはおすすめいたします。

[iii] 『美学辞典』佐々木健一 p3

[iv] 『国家(下)』プラトン、藤沢令夫訳 p356,

[v] 『プラトン全集10』岩波書店「イオン」森進一訳において「ほんとうの詩人」について触れられています。「叙事詩の作者たちで、すぐれているほどのひとたちはすべて、技術によってではなく、神気を吹き込まれ、神がかりにかかることによって、その美しい詩の一切を語っているのであり」p128, 「数々の美しいことを語って詩作するのは(略)技術によってではなく(略)ムゥサの女神が、それぞれをそこへ駆り立てた分野においてのみ、見事に詩をつくることができるわけだ」p130 「詩人たちは(略)神々の取つぎ人以外の何ものでもない」p131

[vi] 『近代美学入門』井奥陽子 p37-48

[vii] 『近代美学入門』井奥陽子 p50-58

[viii] この本は「サヴォア司祭の信仰告白」の記述により『エミール』は初版刊行の1762年に公開の場で焼かれ、その後ルソーは失意の日々を送ることになります。ルソーについては過去ブログ「ルソー、フレーベル 、ペスタロッチーに学ぶほんとうの私のみつけかた」で触れましたので、よかったらご参考ください。

[ix] 『純粋理性批判1』カント 中山元訳 光文社古典新訳文庫 P15

[x] デカルトはそのプロセスについて松果腺という脳の部位で物質と精神が相互作用を起こすと考えました。

[xi]  『美学辞典』佐々木健一 p71- およびカント『判断力批判3』中山元訳 p29第1章

[xii] 『純粋理性批判1』p17-18

[xiii] 『純粋理性批判1』p18

[xiv] 「図式」については『判断力批判3』中山元訳 p29 第1章「純粋な知性の概念の図式論について」。中山元さんの図式論 同書 p341も参考になる。

[xv] 『美学辞典』佐々木健一 p82「想像力」

[xvi] カントはわたしたちが、世界をどのように経験し、理解するかについて、いかに経験が我々の認識の枠組みに囚われていることを示してくれました。フッサールはその経験の構造や意味に焦点を当てています。「現象学からみる私」

[xvii] 図式/Schemaは「スキーマ」もしくは「シェマ」と読みますが、教育学の文脈ではフランス語読みの「シェマ」と呼ぶことが多いと思います。「ピアジェに学ぶ“優しい”子どもの『見方・考え方』」

[xviii] 『美学辞典』佐々木健一 p82

[xix] 『近代美学入門』井奥陽子 p172,173

[xx] 『判断力批判上』中山元訳 p130 「080 美の判断の普遍性」「”わたしにとっては”美しいものだと主張するならば、快適なものの場合とは反対に、嘲笑されることになるだろう。というのはその人だけに気に入るものを美しいと呼んではならないからである」

[xxi]  『判断力批判上』中山元訳 p131

[xxii]  『判断力批判上』中山元訳 p133-第八節

[xxiii] 『判断力批判上』中山元訳 p139

[xxiv] 『判断力批判上』中山元訳 p115

[xxv] 『判断力批判上』中山元訳 p120

[xxvi] 『純粋理性批判7』中山元訳 p14

[xxvii]  『実践理性批判2』中山元訳 p242

 

 

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