ルソー、フレーベル 、ペスタロッチーに学ぶほんとうの私のみつけかた

 

前回の「教育を探究する哲学登山」のテーマは「自然」でした。プログラムとして読んだ本は、子どもの自然な成長の意味を考えたルソー、自然と暮らしを教育の模範としたペスタロッチー、自然の多様性を教育の模範としたフレーべルです。

「自然とは何か?」「自然から何を学べるのか?」など考えたことはあるでしょうか。 実は私自身、この登山前は「自然の中で子どもは育つといいらしい」「自然にもっと触れたい」程度の認識でした。今回、いくつか本を読んでみて、どうやら「自分が自分らしくいられる」「ほんとうのわたしってなんだろう?」と考えた時に「自然」がキーワードになってくるのだな、という発見がありました。そんなことを備忘録としてまとめておきたいと思います。


【ルソーの自然】


まず読んだのは、近代教育思想の祖ともいえる、ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』。ルソーは『社会契約論』などを書いた大啓蒙思想家として、近づきにくいような立派な人のイメージを勝手に持っていたのですが、良い意味ですっかり裏切られたのが今回でした。とても人間味にあふれ、正直です。『告白』のように「そこまで書いちゃう!?」みたいな本もあるのですが、少年がそのまま大人になったような人柄にも親近感がわき、小説のように次から次へと読み進めてしまいました。

 

ルソーは、人生そのものも波乱万丈です。生後すぐに母親が亡くなり、10歳で孤児となり、放浪し、ジュネーブの市民権を失ったかと思うと、40歳代は論文が認められ、『新エロイーズ』がヒットし一躍時の人になります。しかし、50代に入ってまさに『エミール』が当時のキリスト教批判と捉えられ、有罪判決となり、『社会契約論』と共に逮捕状が出てしまいます。同時にジュネーヴの市民権も失います。

 

その後、パリなどに隠遁し、66歳で遺稿となる『孤独な散歩者の夢想』を著している間に亡くなります。その本では、社会の栄華から一転転落し、しかもそのときの辛さを正直に吐露。「この世にたったひとり。兄弟も、隣人も、世間との付き合いもなく、天涯孤独の身」など、正直な失意の気持ちをエッセイにして書いています。また、65歳になって植物熱が急にぶり返したといって、植物採集をはじめますが、完全に素人の域を超える内容と情熱でした。

 

さて、ルソーは、『エミール』に限らず一生涯をかけて「自然」を切り口にさまざまなことを考えました。『人間不平等起源論』では、人間はもともと平等なはずなのに、どこでなぜ「不平等になってしまったのか?」を考察。ルソー以前には、ホッブズが「万人の万人に対する闘争」が自然状態と言ったのに対し、そういった闘争的価値観は、「所有」という概念が生まれたことによって、評価や嫉妬によって見えてきただけで、もともと人は、人が苦しんでいるのを見るとほっておけないような憐れみの情を持つような優しいものではないかと主張しました。また、ホッブズに続いて、ジョン=ロックが「所有」の仕組みに立脚した「自然法」を定義したのに対し、ルソーは「自然に帰れ」つまり、災いのもとは「財産」であるとして、だれしもが誰かに服従しないような国家をつくるためには、共同体の一般意志として、全ての力と人格、つまり所有権も含めて国家に委ねるべきだと主張しました。

 

さて、『エミール』では、人が自分自身であるため、一個の人間であるために、いかにあるべきかを問うていきます。自然の秩序のもとではみんな平等で、「人間としての生活をするように自然は命じている」と言います。さらに、ルソーは「自然人」を「絶対的な整数」、つまり唯一の存在であるとする一方で、「社会人」は分母によって価値が決まる分子に過ぎない、と言います。「自然人」と「社会人」を自分の中に二人もってしまうと、私たちは幸せになれない、それをいかに一つに統合して生きていくかについて考えなければならないとしました。たしかにそうです。でも「ほんとうのわたし」と「社会的なわたし」が違うことは現代社会でもごく普通のことです。わたしだって完全な合致とは言い難い。それが一致した人のことをエミールでは「たぐいまれな人間」という言い方もしていますが、そういう人間を育てるためには、どうしたらいいのか。ルソーは「多くのことをしなければならない」一方、「なにごともなされないように用心せよ」と言います。つまり、自然な成長を阻害するようななにごともなされないように、実に多くのことをしなければならない、と言いました。確かに、周りを見渡すと、自然を阻害するような要因に溢れています。まずそういう要因に気がつくことからはじめなければならないのかもしれません。

 

『エミール』の中には15歳までは「自然人」を育て、15歳以降は「社会人」として育てよ、というような具体的な提案もたくさんあります。もちろん200年以上前の本なので、女性の役割など現代には受け入れにくいものもありますが、たとえば、「自己を知る」ためには、感覚を「意識」することからスタートし、その快不快、適当・不適当、そういった自身の感度を大切にして、最終的には理性が与える幸福あるいは完全性を目指そう、という考え方などは、現代の教育実践のヒントにもおおいになりそうです。

 



【ペスタロッチーの自然】

 

次に読んだのはペスタロッチー。「近代国家による、すべての子どもを対象とする一般教育の基礎」を築き上げた人、と言われています。生まれたのはスイス。1746年生まれで、フランス革命(1789-1799)を挟んで教育実践を続けた実践家でもありました。外科医だった父親が幼い時に亡くなって年金暮らしだったそうですが、小さな頃に時々訪れた祖父の家の村で子どもたちが貧しく、教育を受けられないことに心を痛めていたというから驚きです。大学でルソーの思想に触れ、触発されたペスタロッチーは20代中盤で農業をはじめ、凶作に喘いだ村の貧民の子達を引き取って、貧民学校をスタートします。農場はその後困難に陥り、34歳の時に『隠者の夕暮れ』を失意と貧民教育の失敗を振り返りながら書きました。40代はフランス革命の時期と重なりますが、53歳の時に革命政府に反対し、焼き討ちになった村の孤児のための孤児院の運営に入ります。しかしわずか六ヶ月で軍の病院への転用で閉鎖。落胆し、血を吐いて休養を余儀なくされたペスタロッチーが療養先で書いたのが『シュタンツだより』。

 

そして、その後小学校教師になったペスタロッチーはどんな子でも学べる教材(メトーデ)の開発に着手、次第にメトーデが評価され、ペスタロッチーの名が知られ始めるようになります。この次に紹介するフレーベルもペスタロッチーの学校を訪れ、鮮烈な印象を受けました。すべての子どもたちのための教育を考え、実践し、貧しい子どもたちから決して目を話すことのなかったペスタロッチー。1826年に82歳で亡くなります。

 

『隠者の夕暮』はこんな言葉からはじまります。「玉座の上にあっても木の葉の蔭に住まっても同じ人間」。ルソーが、人間は生まれつき平等である、と同様のことを言ういっぽうで、「公共教育はもう存在しないし、存在することもできない」「公共教育の観念を得たいと思うならプラトンの『国家編』を読むがいい」として、「エミール」では公教育ではなく、自然と家庭教育について具体的方法論を論じましたが、ペスタロッチーはすべての子どもたちが集う場での教育の実践に生涯取り組みました。特に、「自然の道」という考え方は今の教育でも非常に重要な考え方になっていて、日本でも多くのペスタロッチーの研究がなされています。私たちは、人生の悦楽と浄福(つまり喜びと安らぎ)を究極的な目的として、私たちの本質、そして真理を探究していくべきであり、その道は「自然の道」だと言います。

 

こうしたペスタロッチーの理念は、日本の学校教育でも、「生活科」や「総合学習」の分野でも大切にされています。それは料理やおつかい、動物の世話のような身近な生活からスタートし、言葉や知識の前に、手を動かしたり、実際の生活感覚のなかから、一つ一つゆっくりと学ぶ方法です。そうした「自然の道」は結局のところ物理や芸術など世界の全てに繋がっているのだから、慌てる必要はないのです。でも、人々は、しばしば無理やり職業の技術を教え込もうとしたり、ペスタロッチーのいうところの知識や博識を伝える、という不自然なやりかたをしてしまいます。

 

私たちは、お金を稼がなければならない、人から賞賛されたい、などさまざまな雑音に日々苛まれるわけですが、そこに私たちの「本質」はありません。どこか身体の力を抜いて、本来あるべきものに身を委ねたところに、「ほんとうのもの」「やすらぎ」があるものです。さまざまな目の前のものに煩わされず「自然の道」歩けというのは、仏教の「煩悩を捨てよ」、とか、キリスト教の「み心のままに生きよ」などの言葉にもあるように、宗教的な感覚にも近いかもしれません。

 

 

【フレーベルの自然】

 

最後はフレーベルです。フレーベルは、幼児教育の父と言われ、フレーベル積み木を知っているかたもいるのではないかと思います。ドイツの教育学者であり、上述のようにペスタロッチーに若い時に出会い、一時期一緒に仕事をしたこともありました。フレーベルは、57歳の時に6歳以下の幼児40名を集めて遊戯サークルをつくり、翌年には「一般ドイツ幼稚園」を創設します。さらに、デューイが後年フレーベルの実践を自分の実験学校で実現します。

 

フレーベルは母親が生後十ヶ月で亡くなり、三才の時に迎えられた継母と忙しい牧師であった父親との間で、ほとんど家庭の温かみを感じないまま大きくなったそうです。教育者を志したのは23歳のころで、ペスタロッチーとの衝撃的な出会いにより、教育を生涯をかける仕事としよう、心に決めました。29歳の時に大学に入り直して化学、物理学、鉱物学、自然哲学等を学んで教育の根本的な統一原理「球の法則」としてまとめました。自由に自己決定、自己選択をするように神に委ねられている人間が自己と一致し、世界と一致し、神と一致している「生の合一」を主要概念としています。

 

『人間の教育』では、「すべてのものを支配する法則の根底に、すべてのものを動かし、それ自身において明白である、生きた、自己自身を知る、それゆえに永遠に存在する統一者が必然的に存在している。」といきなり、ドーンとくるのですが、ここでいう統一者は神。そして、”永遠の法則”を認識し、意識化し、法則の本質を洞察しすることが「生命の学」であり、その法則をどう認識し、洞察し、思惟し、自己の職分と自己の使命の達成にいかに導いていくか、(もっというと、自己を明確に認識し、自然と和し、神と一つになるように導くのが)が「教育」であると言っています。(p13,15)

 

一人ひとり生まれてきた意味(Calling)がある。だからあなたはそれを見出す旅をしているのだ、というような教育をしているアメリカの学校の見学をしたことがありますが、そんなイメージに近いでしょうか。しかし、これもいうのは簡単ですが、実際にはそんなに簡単ではありません。その「意味」の方向性を捉えるのにやはり直観がないと、どっちに行ってよいのかわかりにくい。だからこそ、自分の外側に広がる自然の、多様でいながら調和している豊かさに触れながら、自分の内側から現れてくる自然との往来が必要になってきます。

 

フレーベルはさらに、もともと神の作用は「善」であるのだから、それを信頼し、消極的な教育をせよ、と言いました。「消極的な教育」というと少しわかりにくいのですが、自分の子どものことを振り返ってみると、娘は宿題や勉強、学校行事に追い立てられるように過ごしている時期は彼女のやりたいことは全く見えてきません。でも、夏休みになって、1日何を過ごしていいかわからないくらいになると、絵を描き始めたり、歌を歌い始めたりして、何が好きかぼんやりと透けて見えるようになります。しかし、せっかくの休みなのに、予定をパンパンに詰めてしまったり、テレビやネット動画など受動的な刺激を与え続けると、その子が何を本当はしたかったのか見えてこなくなります。大人になってからも同じことで、タスクまみれの人は自分が何者かどんどんわからなくなっていく傾向があるように思います。今、受験勉強や詰め込み教育、過剰な習い事によって、子どもがだんだんと何をしたいのか分からなくなっている、ということはないでしょうか。そんなときには、フレーベルのいうように「消極的教育」を試してみてもいいのかもしれません。

 

 

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ルソー、ペスタロッチー、フレーベルは時代的にも近く、バトンを渡すように「自然」について考察を深めていきました。ルソーの少し前にはホッブズやロックが「自然状態」そして「自然法」を論じました。この時代、「不自然さ」を極めた教会や王政に古い体制を感じ、激動する社会の真っ只中にいた多くの人たちが「自然」ということについて思索を巡らせたことこそ「自然」なのかもしれません。

 

そして、現代。私たちは「自然」でしょうか。みんな何となく疲れていて、緑の多い場所に旅行に行きたいな、くらいはあるかもしれませんが、自分が「自然に」生きていられているだろうか、私たちは「自然」に向かっているのだろうか、考えてみてもいいのかもしれません。どこに「ほんとうのわたし」があるだろうと思ってあくせく追い求めている人も多いように思います。でも、自分の中や仕事の中ばかり覗き込んでいても、それは見えてこないかもしれません。ルソーもフレーベルもいうように、「自然」と「自分」の中になんらかの統合した感覚をもてるように生きていくにはどうしたらよいのか。そんなことを「自然」という言葉が教えてくれているように感じます。

 

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【おまけ】

 

以下、「自然」つながりでスピノザとエマソンをちょっと読んでましたので、個人用のメモをそのままあげておきます。

 

1)スピノザの自然

自然といえば、私だけでなく、スピノザを思い出す人は多いと思います。スピノザは、実はロックと同じ年、1632年に生まれています。ロックが、時の人、栄光の人であり、名誉革命と当時のイギリス社会の理論的指導者としてその名を国内外にとどろかせたのに対して、スピノザは、異端の道を歩くことになりました。アムステルダムのマラーノと呼ばれるユダヤ人共同体の商人の子として生まれますが、不敬虔の疑いで24歳の時にその共同体からも破門され、商売すらできなくなりました。しかし、オランダ州長官のデ・ウィットのとの交友から1670年に政治に宗教を介入させないよう、哲学する自由と思惟する自由を守るため『神学・政治論』を匿名で出版。この書は大きな評判を呼び、国外にまで知られるようになりました。しかし、カルヴァン派から危険視され、デ・ウイット没落後には政治的な後ろ盾も失い2年後に焚書となります。一方で『神学・政治論』は国外で支持者を得たため、1673年にはハイデルベルク大学から哲学正教授の職の招聘を受けますが「在野の思想家でありたい」とスピノザはその依頼を断りました。現代においてスピノザの代表作とされる『エチカ』も出版できぬまま、肺の病気で44歳で亡くなりました。こうしてみてみると、激しい性格のようにも思えますが、実際には社交的で友人も多かったそうです。

 

さて、スピノザといえば、それまでの「意識」によって自分というものをコントロールしようとした「道徳」ではなく、「意識」なんてそれがあらわれた時の結果しか認識できない不完全なものなのだから、逆にそれを疑いながらも「喜び」を基軸とした人間の生を生きよ、という、まさにエチカ=倫理について説きました。さらにスピノザはかの有名な「汎神論」という考え方の中で「神はあらゆるものの内在的原因であって、超越的原因ではない−エチカ、第一部原理18」と、超自然と考えられていた神様の認識を否定して、自然そのものが神であり、唯一の実体だと言います。ヘーゲルはスピノザの思想を東洋的と呼んだそうで、仏教の華厳経でも「一即多、多即一」なんて言葉があります。ただ、たしかに当時の人たちが理解するのは難しかったでしょう。そして、ドゥルーズの言葉を借りていうと、スピノザは「もてる力能から出発して、その原因や結果に応じて生きられる生」「豊かで過剰なまでの生」こそが「自然」だとしました。「生きる」と「自然」を同一視し、「自然」についての洞察を深めることがそのまま「自分」を知るということになるということは、ペスタロッチーやフレーベルにも繋がっているように感じます。

 

2)エマソンの自然

最後にアメリカの詩人、思想家、作家のエマソンをご紹介したいと思います。“自然との合一”と言われても、ピンとこない、つまりどういうことか、どのようなものなのか、ということを知りたければ、エマソンの「自然」を読むとイメージが湧きます。

 

エマソンは、今の人間は、自然を相手に自分の力を半分しか使っていないが、それは悟性に頼っているからだと言います。悟性というのは「論理」に近いかもしれませんが、たしかに私たちは日々「論理」の世界で生きています。でもその「悟性」の先には「理性」があります。また、「理性」の捉え方にもよるのですが、少なくとも「論理」を超えた目で自然を見て、論理を超えた心で自然に対峙したら違ったものが見えてくる、それは真理というものだ、と言います。さらに、真理は神と言い換えてもいいのかもしれませんが、エマソンは人間のことを「落ちぶれた神」だといいます。少しわかりにくい表現かもしれませんが、私の備忘録も含めて、下記を抜粋します。

 

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ひとたび天の大気を吸いこみ、正義と真理という絶対的本性を見ることを許されれば、われわれは、人間が「創造主」の精神をそっくり知ることができ、彼自身限りある世界の創造主であることを学ぶ。 (『エマソン論文集(上)』岩波文庫 p96)

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エマソンは超絶主義とも言われ、「自然」はアメリカ・ロマン主義の代表的著作とみなされています。でもそのようなレッテルにとらわれずに読み、エマソンの自然の捉え方とスピノザやフレーベルの捉え方とのちょっとした違いみたいなものを感じていくと、「自然」というものが立体的に見えてくるような気がします。

 

私は百日紅(さるすべり)の木の幹を見ているのが好きなのですが、見ていると、どれだけ自分が不完全かを知らされます。その「ズレ」から見えてくるものがあります。そしてその「ズレ」を思う時にどう自分が「落ちぶれている」のかを認識します。やはり「自然」というものが、「真なるもの」「美しいもの」「善なるもの」を知るための入り口というか、接面になるというのはとてもよくわかるような気がします。


<関連図書>


『エミール(上)(下)』ルソー著 今野一雄訳 岩波文庫
『人間不平等起源論』ルソー著 中山元訳 光文社文庫
『社会契約論』ルソー著 中山元訳 光文社文庫
『孤独な散歩者の夢想』ルソー著 永田千奈訳 光文社文庫
『告白』ルソー著 桑原武夫訳 岩波文庫

『隠者の夕暮・シュタンツだより』ペスタロッチー著 長田新訳 岩波文庫

『人間の教育(上)(下)』フレーベル 著 荒井武訳 岩波文庫

『リヴァイアサン(1)』ホッブズ著 角田安正訳 光文社文庫

『市民政府論』ロック著 角田安正訳 光文社文庫
『寛容についての手紙』ロック著 加藤節ほか訳 岩波文庫

『神学・政治論(上)(下)』スピノザ著 吉田量彦訳 光文社文庫
『エチカ(倫理学)上下』スピノザ著 畠中尚志訳 岩波文庫
『スピノザ 実践の哲学』G.ドゥルーズ 鈴木雅大訳 平凡社ライブラリー

『エマソン論文集(上)』酒本雅之訳 岩波文庫

 

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