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2020.10.14



先日Learning Creator’s Lab(LCL)で、クリエイティブパートナーの地理人こと今和泉隆行さん、プログラム全体を通じて、そして公私共々お世話になっている市川力さんと、とくに題名も設定しないまま二時間お話をする、という時間を持ちました。

結果的に、内容は「創造するとは何か?」「クリエイティブな人というのはどんな人か」ということについて、ドンピシャのお話でした。LCL内で留めておくには勿体無いので、ここでちょっとだけでもお伝えできれば、と思います。

 

結論からいうと・・・。クリエイティブな人を以下のようにまとめてみました。

 

「その人独自のモノの掴み方を獲得している人」

「見えないものを見る努力をしている人」

「リフレクション(反芻)こそが本番だと理解している人」

 

ただ、何かを創造する、ってそんな難しいことではないのです。だって、「その人なりのモノの掴み方をする」「(大人の)見ていないものを見る」などは、五歳児なら、みんなやっていること。それをいつのまにか忘れてしまうだけ。「教育」は、人がもつもともとの「創造力」を下手すると潰してしまってはいないか。そんな視点からも読んでいただければ嬉しいです。

 

【その人独自のモノの掴み方をしている人】

まず、地理人さんのモノゴトの掴み方。地理人さんは物心ついたころから空想地図を描いていました。空想地図とは、「実在しそうだが、実在しない都市をゼロから描いているもの」。その変遷を少し辿ってもらいました。


7―8歳頃には、もうすでに空想地図を描いていました。架空の地名・駅名が入っています。このころの別の地図では、いきなり自治体のマークが入ったり、学校の説明が入ったり、子どもならではのおおらかさが全開。

 

でも、11歳になると(地図が)急成長します。

 

地理人さん曰く、子ども向けのワークショップをしていても、小学校1・2年生、3・4年生、5・6年生でぜんぜん地図が変わってくるそうです。小学校1・2年生は徒歩1、2分圏内を非常に細かく描くし、3・4年生になるとその範囲が広がる。地理人さんがこの地図を書いた5年生くらいになると、試行錯誤がでてきて、巨大ターミナル駅に湖をぶっこんでみようという計画を地図上で表現するようになっています。

 

こうして発達した空想地図はこんな感じです。地理人さん、ずーーーっと地図を作り続けているわけです。

 

地理人さん: なんで地図を描き始めたんですか?と言われてもよくわかんないんです。おままごとやごっこ遊びに近いんです。ごっこ遊びって、身体という馴染みのある表現手段で、家族など馴染みのあるモチーフを再現するんです。架空の家族を再現するのと、架空の地図を再現するってあまり変わりがない。でも、大人はこれをあまりやらない。なぜか「花屋は花を金銭と交換する」という一言で片付けてしまうんです。これが学校のしようとしていること。でも、僕はこうやって身体を使うことでしかモノゴトを掴めないんです。

ところで、クラスで集まろうよとなって二十人集まったときに、なんとなく「紙コップ」「なっちゃんオレンジ」「烏龍茶」「C.C.レモン」をすぐ選べる人がいるでしょう?でも、それができる人は「空気が読める人」。だって、二十人の一人ひとり、何を飲みたいかなんてわからないでしょう。そのときに、「だれも文句を言わない平均の解」を出すというのは、「自分が飲み物を飲む」とは別のロジックが働くわけです。それって、たとえば「温泉地って何?」ということでも同じこと。温泉地でみんなは本当は何をしたいのか。でも、それを研究者のように法則を導き出すとかいうのではなく、ただただ手で作るんです。

 

市川さん: 我々教育やっている人って、五歳児は低レベルで、大人はなにか高度なことをやっているって勘違いしているでしょう。もちろんそこに効率ということはあるのだけど、実はゼロからイチで発想する時には、まさに五歳児の発想の仕方、つまり、実際になにかを「つくる」ことによって「把握」し、「納得」していかなければならない。

 

地理人さん: さっきの「なっちゃんオレンジ」の話でいうと、自分だって他者と関わり、他者と生きていかなければならない。そういう時に「どうするんだ、他者!?」と。その時に自分の人間関係すら、色と距離、「界隈」という言葉を使ったカテゴライズで表現していくんです。

ただ、僕の表現手段はたまたま平面で「地図ネイティブ」なわけなのですが、平面にプロットしていくのは一つのやり方でしかない。それは人によって違っていて、「書く」人もいれば「描く」人もいます。なので、だれにでも「地図」を勧めているわけではないんですよね。人の話を聞いても覚えられないけど、なぜか人の話を動物にするとわかる、という人は、なるべく動物にしたほうがいい。僕は面的にしか表現できないフェチだけど、たとえば、文学ならその面を布としてほどいて、線にしていくように感じる。でも、面が弱い人はそこに三本の線を引いたら面になるわけで。いずれにしても、そこで一般的な様式に流されず、自分の様式を見つけて欲しいと絶えず思っています。

さらに大事なことは、その自分の様式、言語といってもいいのですがそれを見つけたら、それまず確立することです。僕にとっての第一言語は「地図」なんですが、最近本を書くことを求められていて、「文章」を書かなくてはならなくなりました。僕にとって「文章」は第二言語なのだけど、それがどうにかできるのは、「地図」という第一言語を持っているからだと思います。得意な表現分野を極めて、プラグインをつくって他の言語にアクセスしていくという気長な作業を諦めないで欲しいと思っています。

 

藤原: 私は地図は描かないんですけど、生まれたのが四国の丸亀で、山の中腹に住んでいて。山を降りて毎日一時間くらい歩いて学校に行っていたんです。一番山の奥の家だったので、裏は森?山道?林?という感じです。家の庭から下を覗くと海が見えて。山を降りると田んぼがあって、そこには草や花、カブトエビなんかがいるわけです。なので、私はどうにも、全体像が見えないと気が済まないところがあるみたいです。そこは完全にピクチャーイメージですね。一方で、とても言語優位だと思います。一旦鳥瞰・俯瞰したピクチャーを串刺しにして直線にして表現することに快感を覚えたりします。逆に地図は描けないし、読めない。

ただ、今の社会・学校では「言語優位」の人に過剰に有利に出来上がっています。だって、大学の入試試験や入社試験で「絵を描け」とか「地図を描け」とは一般には言われないから。変わっていかなければならないと思います。

 

市川さん: 面的思考と線的思考ということでいえば、僕は、視覚優位で、地理人さんに近く「知図」というのを描くんだけど、みつけたものを図にしたり、絵にしたりする一方で、自分の感じたことを凝縮する時には言葉が良くて、「俳句」を書きます。全体性はあるんだけど、小さく書くというか。今、学校ではすぐに言葉にできないと「発達障害」とか「学習障害」とか言われてしまう。いずれにしても、こうしたさまざまな表現を受け入れていかないとダメなんだと思います。

さっきの話に戻すと、五歳児は「言語」はうまく操れないけど、多くのものを生み出す素地を持っている。「言語」以前のものを大事にしないと、クリエイティビティが阻害されていくということはあると思います。

 

 

【見えないものを見ようと努力している人】

 

市川さん: 東京人(2019年5月号:反骨の多摩、武蔵野)で、地理人さんが「孤独のグルメ」の久住昌之さん、批評家の矢野昌之さんと対談されてます。久住さんの「一見面白くなさそうでも、見方や捉え方次第なんだよね」とおっしゃってたことって、すごく大事です。

僕はFeel℃Walk(感じる度合いをあげるために歩く)ということをしているのだけど、それは(ポケモンGO!のように)レアキャラを見つけたい、ということではなくて、なんとなく気になったものを目にとめる、キャッチすることをやってるんです。目的があって、探しているのではなく、雑草のようなものでも気になったものを手当たり次第集めているだけ。僕にとっての地図は「探検図」。そういうことをやっているとだんだんリアルが失われていって、ファンタジーが残っていく。

 

地理人さん: 僕は地図以外にもいろいろ作ってるんです。空想都市のコンビニのアイコンやロゴデザイン、タウンガイド、グルメガイド。これは都市の細部なんです。地図って目視ではなくて、俯瞰です。なので、街にいるときに見える風景とは違う。だからこういう虫の目、鳥の目としてズームイン・ズームアウトを繰り返しています。

あと、街を歩いている時にどうしても目に止まってしまうものがある。たとえば「洗濯物」とか。そういうときには、ふと「僕は洗濯物をどうやら目に入れてしまうらしい」と思います。

 

市川さん: そうそう。ちょっとした何か、外からくる情報を受け取る力。この力、どこかでみんな使うことを忘れていっちゃうんです。今、内側の何かを引き出すことばかり言われているけど、何かに出会って、全体と細部を行ったり来たりしたり、経験と空想を行ったり来たりする。そういう時に「書(描)かされている」「歩かされている」という気分になることはとても大事だと思います。

自己主張ってプロジェクトにとってはマイナスです。自己主張って、結局のところ先入観。プロジェクトは、こたえのない社会においてどのように解を見出していくかということだから、いかに自分のバイアスを捨てて、未知なるものにアクセスできるかが勝負になってきます。

 

藤原: 海面上に見えている部分が「意識」、海面の下に見えなくなっているものが「無意識」という絵を見たことがある人は多いと思います。でも、(フロイトも「前意識」と言っているように)「意識」と「無意識」の間は海面でスパンと切れているわけではなくて、その中間の部分もあって、少し注意を向けてみると見える無意識層があります。そこに降りていく癖をつけると、どんどん無意識に近いところまで降りていくことができるようにもなりますよね。

そして、いままで意識していなかったものに目を向けることで、想定外のものに出くわすことが増えてくる。それが習慣になってくると、「見える世界」だけ「想定できるだけ」の世界がいかにつまらないかということもわかってきます。

 

市川さん: そう。それがまさにプロジェクトをするときのジェネレーションであり、ジェネレーターと僕が言っているところです。中間層に降りていくためには、弛まなければならない。人は緊張すると新しいものが出てこない。僕の場合はそれが歩くことであり、来たものを受け止めること。ただ、「歩く」人は多いけれどもそれだけが唯一の方法ではない。やっぱり自分なりの弛め方を知っていることは大事。そして、外と繋がって、何かに出会っていくことも大事。

 

地理人さん:

地図って、描いてもはじめは結果がでないけど、描いていること自体が大事です。よくわからないけど、知らない街に行って土地勘をつけるように描いてます。描いている間に「あれ?こんな街になっちゃった。」って思う。実は自分一人で描いているようで、未知の人間が「描く」という行為に関わっている。結果がわかっているんだったら、それは穴埋め問題。力を抜いた時に見えてきた経験があると、そういうことをまたやってみよう、って思うんですよ。

 

 

【リフレクション(反芻)こそが本番だと理解している人】

 

藤原: 私、いつも感心するんですけど、市川さんのリフレクションって本当にすごいなぁと。なにかあった後にはいつもすごい「知図」を描く。振り返りをすぐ、しかも時間をかけてやっている。

最近本当に残念に思うのが、みんな「やる(Do)」ことばかりに目が向いていて、「振り返る(Reflect)」時間をほとんど持たないこと。実は振り返っている時間が一番学ぶし、新しいものを生み出す時間のように思っていて。何かをやっている時間、見ている時間、読んでいる時間ではなく、それを振り返っている時間こそが本番ではないでしょうか。その時にこそ見えてこなかったものが見えてきたり、新しい考えが浮かんだりします。それなのに、リフレクションって何かのおまけのように捉えられています。授業設計でもそうです。本当は「やる(Do)」が1なら、「振り返る(Reflect)」が10くらいでもいいくらいかもしれないのに、そういう時間配分がぜんぜんできなくて、「やる(Do)」で時間を埋め尽くしてしまう。

 

市川さん: 最近高校生相手にFeel℃Walkをやったんだけど、ある生徒がリフレクションの時にみんなが撮った写真を見ていたら、それを「反芻」と言って、「反芻は気持ちいい!」って言ったの。

何かを網羅的に知識を入れるということではなくて、自分が興味の持てる範囲のものをインプットして、それを自分の感覚に根ざして何かに繋げていく。そういう行き来を気持ちいいと思えるようになったらいいですよね。知図って、調査し終わったものを展開していく機械的行為じゃないんです。描いている間に「ちょっと待てよ」というミッシングピースが見えてくる。文章も同じだけど、はじめから明確な構成や全体像があるわけではないし、あったとしてもそこからずれていくのが面白い。

リフレクションってもともと何かを反射するものだから、まさに光り輝いているものが写り込んでいるような感じなので、(その行為が)憂鬱じゃない。

 

地理人さん: 僕でいえば、地図を描くという行為そのものがリフレクションかもしれません。地図は社会や世相を描写する手段。地図って僕にとっては結局趣味ではなく、生きる術だったんです。

 

 

****

この対談を後日市川さんはこんな知図にまとめてくれました。

 

そして、私のリフレクションはこのブログ書きとなります。ポイントも表現方法も違うことにみなさま、お気づきでしょうか?また、市川さんも私もこのリフレクションに相当時間を使っております。たぶん、はたから見ると馬鹿げている、と思うほどに。

なんでこんなことをするかというと、こうやって知図にまとめたり、文章に落としたりしている時間が「悦び」の時間だからなのです。この行為は、誰に見せるわけでなくてもやります。そのこと自体に意味がありますから。今日も地理人さんは地図を描いていることでしょう。

そして、市川さん(通称おっちゃん)はLCLのメンバーにこんなことを書いてくれました。

 

「ビデオを改めて見直し、反芻=リフレクションし、「知」図に表しました。改めて自分が作りたい「知」図というのは、そのときの場の雰囲気・質感がよみがえってリフレクション=反射するような記録であり、反芻して書きながらさらに思いついたことを加えて、次の発想への橋渡しをする記録なんだなと思いました。

その場にいた人と、次に会った時、議論を始める「きっかけ」にこの「知」図があると、さらにいろいろ広がる。見えないなりゆきを進むプロジェクトの「航海軌跡マップ」と言ってもいいかもしれません。そんなマップをどこまでも「拡張し続ける記録」として積み重ねてゆきたい性分なんでしょう。

あのおっちゃんはこんな「知」図を書いているんだという程度のお役にしか立たないかもしれませんが、みなさんはみなさんなりの「反芻スタイル」「反芻フォーマット」があるはずなので、それを見つけ、育てていってください。

ビデオ見直しながら下書きとなる「知」図を書いて、見終わったらさらにこの「知」図を描いて、だいたい3時間半ぐらいかかりました。ずっと一人の作業ですが、書きつつ生まれる「知」図と対話しながら、自分の書き出したことを自分にリフレクション=反射させて静かに図に表す時間は、あれこれ思い出しながら反芻し、そこからジェネレートするアイデアを書きとめてゆく穏やかな時間。休みのひとときにふさわしいとっても安らぐ時間なのです。」

 

***

そしてこのブログで私自身が「クリエイター」だというような書きぶりになってしまっているのは、なんだか恥ずかしいですけど、そもそもだれもが小さなクリエイター。世に認められるとかは関係なく、だれでもがなれる、そんな世界だと思っています。五歳児と一緒で特別なことではありません。それこそ全ての人がこうして小さなクリエイションを続ける世界になればいいのに、と思っています。

クリエイションというのは、急に閃くというような格好いい側面が全くないとはいいません。でも、近道の魔法や、お手軽なフレームワークがあるわけでもありません。クリエイションを持続的なものとするためには、自分だけの表現方法を見出し、こうした地道な行為を日々愉しむという影の部分こそが大切なのではないかと思うのです。

 

少し長くなりました。今日はこの辺で。

 

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藤原 さと