現象学からみる私(1)ー「事象そのものへ」の子育て

教育に関する哲学書を輪読していく哲学登山というプログラムをやっていて、前回の「現象と人間」からもう半年経っているのですが、振り返りのブログが滞っておりました。色々読み直したり、新しく読んではいたのですが、少し読み進めてはほかの仕事が入りを繰り返してました。でも、年が明けてようやく少しまとまった時間がとれましたので、いつものように簡単にメモにしておきます。

 

なお、この登山では、フッサール『ブリタニカ草稿』、ハイデガー『存在と時間』、メルロ=ポンティ『知覚の現象学』の一部を読んでいったのですが、とにかく面白かった!私の経験に照らし合わせても、日常生活的にたしかにそうだと思い当たる部分がとても多く、且つ教育を色々考えるにあたってイメージが大きく膨らみました。まさに「うっわー!!」の連続。そもそも「観る」という営みは、教育においても「みとり」と言われるくらい大切なもの。自分のためのメモではありますが、私の拙いブログが、毎日の授業や子育ての参考になるようなものになっていたら嬉しいです。


【世界はわたしの経験でできている?】

 

まず現象学という学問そのものが、私たちの「経験」を探究するものであるということにワクワクします。一方で、私たちの経験はとても不完全です。自分の身体である「ここ」からしか見ることができないし、ものの裏側を見ることもできません。あるものに集中して見ると、その周辺はきっとぼやけています。でも、私たちは常に、世界と関わっています。そしてその関わり方は驚くほど多様なものです。

 

赤ちゃんもそういうふうに生まれた時から、さまざまな対象に出会って、その対象にアクセスし、アクセスされながら世界というものを把握していくのだと思いますが、現象学はそうした「経験のされかた」を解明し分析していく学とのこと。そして、その経験は、見るとか触るとか聴くというような五感だけではなく、考えたり、想像したり、さまざまな感情もカバーします。

 

赤ちゃんをイメージするとわかりやすいかもしれませんが、「ものを見る」といったとき、もしかしたらそれは向こう側から現れてくる(射映)という感じのときもあります。また、日々私たちは、何かに目を向けながら生活していて、ご飯を食べる時はそれを見てそれを味わっていますが、視界の周辺が真っ暗ということはなく、常に何かが見えています(非主題的な経験)。下の写真でいえば「チキンが美味しそう!」と思ってそこにフォーカスはあたっていますが、後ろにぼんやりとクリスマスツリーが見え、家族もいそうです。そして、家の窓の外には寒空が広がっていることでしょうし、それをなんとなく私たちは感じ取っています。

 

こうした生活世界の中に私たちはいますが、私たちの経験可能性には限界があって、そこには私たちに見えているもの、見えないもの、見えているけど主題に登っていないもの、想像しているもの、などさまざまなレイヤーがあって、そうした地平に私たちは生きているのかもしれません。

 


だとすると、私にとっての「世界」は私から主観的(一人称的)に見えるものが全てということでしょうか。私とみんなが主観的に見ている世界が重なっているのが「世界」なのでしょうか。確かに、世界についてだれかが「これが真理だ」と教えてくれるときもあるかもしれませんが、通常は私たちは、そうやって教えてくれたということも経験の一つとして受け取って自分なりの「世界」を把握していきます。

 

さらにいうと、世界は私たちの経験と一致するような実在なのでしょうか(実在論)。そもそも私たちの主観だけでは世界なんて捉えようがないように思ってしまいますが、そうだとしたらそんな人々の心のなかに分ち持たれている世界はどうやったら確認することができるのでしょうか(観念論)。そもそも私たちは気がつかぬままに世界に慣れ親しみすぎて、そんなことすら意識できていないことの方が普通のあり方かもしれません(ハイデガー)。メルロ=ポンティは私たちの身体と自然は地続きで「同じ布でできている」と言いましたが、私と他者、そして経験の対象との距離は私たちが通常自覚しているより連続しているものなのかもしれません。たしかに色々考え始めたら頭が痛くなってしまいそうです。

 

いずれにせよ、みんなが主観だけでバラバラだと何もできないわけで、世界がそれこそ渾沌としてしまうだろう、ということだけはわかります。また、見ている「私」が連続したひとつの存在であるという実感がもてなくなってしまったら、世界がバラバラになってしまって、それこそ気が狂ってしまいそうです。いずれにしても「私」一人では世界は成り立たなそうです。常にわたしたちは、周りの人たち、生きとし生けるもの、モノたちと交流しながら、かろうじて「ここ」に立っているような感じなのかもしれません。

 

【娘とたんぽぽを観るという出来事 – 間主観性(intersubjectivity)】

 

ここでいったん、話を小さくして、身近な他者と私たちがどのように「世界」を共有しているのかについて確認していければと思います。フッサールの『ブリタニカ草稿』を読みながら私が思い出した情景があります。

 

それは、娘が2歳くらいの時だと思うのですが「これなあに?」が始まったときのことです。保育園の行き帰りや、休日の散歩などで「これなあに?」攻撃は続きます。はじめのうちは「そうね、ちょうちょかわいいね。モンシロチョウかな?」とか「松ぼっくりね、大きいねぇ」というように回答していたのですが、ふとそのうち「これでいいのかな?」と思いはじめました。ピアジェの振り返りのときにも少し書きましたが、なんとなく「答え」をすぐ出してしまうことに違和感を感じたのです。そこで「これなあに?」と聞かれたら「ほんとだねぇ、なんだろうねぇ」と返すようにしたのです。

 

当時は、教育活動をスタートする前で、育児書もほとんど読まないワーキングマザーだったので、単なる勘のようなものですが「名前をどんどん教えたところで、この子にとって何かプラスなんだろうか?」というくらいのざらっとした感じは持っていたと思います。そして、はじめに「そうだね、これなんだろうねぇ」と問い返したときのことはよく覚えています。なぜならそのときが私の子育ての大きな転換点となったからです。

 

たんぽぽ・・だったか(しっかり覚えていないところがミソですが)ある日娘は花を指差して「これなあに?」と聞きました。そこで私は「それはたんぽぽよ」と言いかけて、ぐっと堪えました。「たんぽぽ」と言わない方が、娘が何を見ているのかを知ることができるし、そちらのほうに豊かなものがあるのではないかと思ったのです。

 

そうして「なんだろうねぇ」と聞いてみると、「お花さんは笑っているの」「黄色くてほそいのがそよそよしているの」「あそこにあるのはふわふわだね」と言い始めました。それに嬉しくなって私もそこに漂う春の生ぬるくて湿気のある空気を感じ取ったり、土の匂いをかいだりして、そういったことを娘に伝えます。あまりにそのひとときが豊かなものだったため、私はそれから「これなあに?」と聞かれるたびに「そうだね、なんだろう?」と言って娘との会話を楽しむようになりました。

 

「現象学」というとなんだか難しいもののように感じて、それまでなかなか本を読めなかったのですが(私は20世紀初頭くらいまでの本はいわゆる哲学書というジャンルのものでも、基本的に解説書などに頼らず、そのまま著者の書いたものを読み物として読む方が圧倒的に好きですが、フッサールとかになると何を言っているのかさっぱりわからず全くのお手上げでした)「なんだ私がさんざん経験してきたことじゃないの!」と腑に落ちたのです。

 

先ほどのたんぽぽをめぐる私と娘の「ひととき(出来事)」が綺麗に現象学で使われる言葉にすんなり当てはまっていくような気がしました。つまり、娘はなにか黄色いそよそよと揺れているものを見ています。それは「現出」と呼ばれるそうですが、娘はもうすでに経験を積んでいるので、それが何か「花(現出者)」というカテゴリーに入るものだと気がつき始めています。それは「花」という文化的標準性を伴ったものです。娘は「花には種類があり、それぞれに名前がある」というところまでわかりつつあるので、名前を知りたがっているのです。

 

でもそこで「花の名前」という現出者に向かって行こうとした娘を私が「現出」にまで引き戻します(現象学的還元)。そうすると「そよそよと揺れ動く黄色いもの」という「現出」に戻って娘は話します。そうすることで私はより微細に娘ならではの観点を取得(perspective taking)します。さらに私が頬にあたる風のことを話したり、「お日様にあたってぽかぽか気持ちよさそうだねぇ」「だから笑っているのかな?」というと、「たんぽぽ」という客体(object)を介在させながら、私たちがお互いの客観を交換するようなことが起きてきます。こうした「視線」ないし「空気」ないし「時間」を通じて「たんぽぽ」を共有する経験は、間主観性(intersubjective) といって、たんぽぽに触れたのは私だけではなく娘の一緒にすごした共通の経験となっていきます。

 

私は母親としてこの経験に夢中になりました。だって思いもよらない娘の話は楽しくてたまらなかったのです。訊けば訊くほど、娘の表現は豊かになっていきます。もちろん私の目は完全に娘の目が見るように見ることはできません。でも、近づけることによって私の世界はぐっと豊かに開けていくのです。よくよく考えてみたら「たんぽぽ」という言葉は私がつくりだしたのでも、娘が考え出したのでもありません。どこかの誰かが勝手につけた名前です。それなのにあそこで「たんぽぽよ」と回答してしまっていたら、その名前に私たちの経験は切り離され、「たんぽぽ」以外の可能性は切り捨てられ、娘も納得して次の花を探しに行ってしまうかもしれません。娘を百科事典にするつもりであればそれもよかったかもしれません。でも私は「言葉」にすらならないなんともいえない温かさを娘と共有したかったのです。

 

【心の動きを振り返る – 志向性(intentionality)】

 

先ほどのたんぽぽの話は「どう見るか」が中心でしたが、同じたんぽぽでも「心」を感じ取っていくことができます。たんぽぽを見ながら娘と話し合うなかで、私自身が小さな頃にたんぽぽを集めて花冠をつくった情景が思い浮かんできます。そこにはだれがいたっけ?

 

「ママも小さな頃、花冠を作ったのよ」といいながら、ちょうど良い長さのたんぽぽを探し、一緒に花冠をつくりながら、ふと私は寂しかった小さな頃の「わたし」を思い出します。私は香川県の田舎の生まれで学校から1時間くらい歩かないと帰れないところに家がありました。家の後ろはもうすぐに山道になっていて、そのころ飼っていたコマという飼い犬の散歩は私の担当でした。裏の山道にはところどころたんぽぽが咲いていました。そのころ母には悪気はなかったと思いますが、弟が病気をしたりして一人でいた自分の様子が記憶として戻ってきます。(もちろんその記憶は母からしたら正当なものではなく、ある感情に基づいて、ある部分だけが大きく切り取られているはずです)私はコマに話しかけます。「わたしのこと分かってくれるのはコマだけだよね」。そこにたんぽぽがあったかなんて覚えていませんが、ふとそのことが繋がって思い出されます。なんとたんぽぽは私に「寂しかった」という感情に伴う「現出者」を思い起こさせました。

 

このようにたんぽぽ(ノエマ)をきっかけに私(ノエシス)はさまざまなことを思い出し、さまざまな感情を引き受けます。でも、きっと娘と一緒にたんぽぽについてお話したり、花冠をつくった経験、そのときに肌にあたった風の感覚や太陽の光は娘に沈殿し、彼女の経験としてどこかで戻ってくるかもしれません。もしくは私には思いよらないような形で生起してくるのかもしれません。

 

こうした知覚や心の経験はある時間の幅をもって捉えられます。私のたんぽぽ経験と娘のたんぽぽ経験は絡まっていきます。そして、今私がたんぽぽの経験を改めて振り返った時にあらたな感覚をもち、新たな理解を積み重ねていきます。そうした中で私のなかでの判断や価値というものも構成されていきます。こうした流れる意識の志向性のなかで、わたしの目前に何がどんな形で現れてくるかを感じ取っていくということを記述していくことで「わたしのこころ」は見えてくるのでしょうか。

 

そうして、こうした時間の幅をもった娘の経験をゆっくりと「想像」することによって私と娘は「共同の生」を生きることができるのでしょうか。また、ここには少なくとも母親と犬のコマが介在しています。もちろん「たんぽぽ」もですし、間接的には弟もいます。そんなときに、そこに起きたモノやコトに早急に名前をつけるのではなく、それ以前の段階に戻りながら、人と関わっていくことは確かに豊かで安全なのかもしれません。

 

私たちは「日本人」「母親」「父親」「先生」などである前の存在でそもそもあって、私たちの行動や認知にも「名前」のないものは多いですが、記号に頼ることの便利さを享受しつつも、その前にあるもっと純粋な人格といってもいいようなもので繋がっていくことで、わたしたちはもっとより良い共同体が作れるのかもしれません。


次回に続く

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【参考に読んだ本】

『ブリタニカ草稿』エトムント・フッサール 谷徹訳 ちくま学芸文庫

『知覚の現象学』モーリス・メルロ=ポンティ 菅野盾樹訳 ちくま学芸文庫

『存在と時間1−3』ハイデガー 中山元訳 光文社古典新訳文庫

 

『現代現象学ー経験から始める哲学入門』上村玄輝ほか編著 新曜社

『現象学という思考ー<自明なもの>の知へ』田口茂 筑摩選書 

 

『見えるものと見えないもの』M・メルロ=ポンティ 滝浦静雄・木田元訳 みずず書房

『道徳的認識の源泉について』ブレンターノ 水地宗明訳 『世界の名著51』中央公論社

『デカルト的省察』フッサール 船橋弘訳 『世界の名著51』中央公論社

 

『フッサールの現象学』ダン・ザハヴィ 工藤和男・中村拓也訳 晃洋書房

『医療ケアを問い直す』榊原哲也 ちくま新書

『間合いー生態学的現象学の探究』河野哲也 東京大学出版会

『ハイデガー 世界内存在を生きる』高井ゆと里 講談社選書メチエ 

『自閉症の現象学』村上靖彦 勁草書房

『ノーラン・ヴァリエーションズークリストファー・ノーランの映画術』トム・ショーン著 山崎詩郎・神武団四郎監修 玄光社

 

 

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