現象学からみる私(2)ーアイデンティティって何?

前回は、私たちの経験世界がどういうものなのか、世界ってなんだろう、というあたりから間主観性(intersubjectivity)まで私の経験から記述してみました。今回は、もう少し「私」ということに迫っていきたいと思います。

 

ところで今回の哲学登山の講義そのものでは直接扱わなかったのですが、副読本として紹介されていた田口茂著『現象学という思考』を年末に読んでみたらとにかく面白かった。まさに「現象学からみる私」、私のアイデンティティとはなんなのだろう、と考えさせられました。今回はこの本を中心に纏めていきたいと思います。「私」ってなんなのでしょう?「私の本質」なんて掴めるものなのでしょうか。


【モノとわたしの関係】

 

まず、前回の事例をそのまま使います。私たちが「たんぽぽ」を見るときに注意を向けているのは、ある一側面だけではありません。ピカソの絵みたいに、あちらこちらから見てそれを合体させたように見ているのではなく、時間が経過しても通常は「たんぽぽ」のスムーズな形が保持されて、違和感を抱くことはありません。

 

でもなぜそうやって私たちがスムーズに「たんぽぽ」の形を見ていられるかというと、私の人生にはさまざまな契機で「たんぽぽ」が現れますが、そこにはつねに「私」そして「私の身体」があって、どんな「たんぽぽ」が現れたとしても、関わり合う構造に確証をもてて、安心していられるからだといいます。確かにもしこれがバラバラで「おなじものだ」という確かさがなければ、私は不安でならないでしょう。私が小さな頃に見たたんぽぽと娘と一緒に見たたんぽぽと、昨日見たたんぽぽの写真がおなじ「たんぽぽ」でなければ、それが全ての対象について起きてしまったら、私は不安どころか崩壊してしまいます。

 

「たんぽぽ」は近づくと大きく見え、写真で見ると二次元に見え、風に吹かれると揺れますが、それが私を混乱させることはありません。そこには遠近感などなんらかの構造が前提とされていて、意識するしないにかかわらず、その前提を感じ取っているからわたしは「たんぽぽ」というものを認識していると安心していられる、そう言われてみればそうかもしれません。

 

【私たちを巻き込む「形」の力】

 

では、「わたし」はたんぽぽをたんぽぽだと捉えうる限りにおいて、安心していられる、つまり「私」がほっとするわけですが、アイデンティティクライシスとも言われるように、どんなときに「私」が揺らいだり、見えてくるのでしょうか。実際に、私たちは日常生活で「私は何ものか」なんてほとんど考えることはありません。

 

前回のブログでは「黄色いゆらゆらとしたもの」が「たんぽぽ」と名前をつけられるにもかかわらず、そうしないで一緒に関係性を築いていくということについて書きました。一方で、わたしたちは「たんぽぽ」と名前をつけた上で、それぞれの経験をやりとりして共有することも可能です。もちろん「わたしのたんぽぽ」と「あなたのたんぽぽ」は完全に一致するはずもないのですが、大体のところ「似ている」ということで、共有して世界の中であまり不自由なく暮らしています。

 

私たちは結局「たんぽぽ」と言える花たちに、無視できないような連関を感じ始めると「たんぽぽ」という類型を作ります。そして、私の中の小学校のころの「たんぽぽ」と娘がちいさなころに一緒にみた「たんぽぽ」と昨日ブログを書くために引っ張り出してきた「たんぽぽ」の写真は、意識するともなく「同じ類型のもの」として現れてきます。

 

でもそもそも私たちはそんなに広くもない経験世界(見えるところから想像できる範囲まで)に生きています。しかもその「経験する主体」が自分と似た人々(私たち)だろうと勝手に思っているようなところがあります。しかし、「主体」「客体」などと思うことそのものが決めつけにすぎないかもしれません。そんな私たちの経験世界を飛び越え、「たんぽぽ」などの類型をも突破したものが動的に蠢いている世界がこの世界なのかもしれません。だとしたら、世界は「名前のない現象の流れ」みたいなものかもしれません。

 

そもそもユクスキュルが指摘するように、蝿には蝿の見え方があり、犬には犬の見え方があります。犬は私たちよりよほど多くのものを嗅ぎとっているでしょう。一体どれだけ、私たちは世界を認識できているのでしょうか。そしてその認識している「私」とは一体何なのでしょうか。

 


【類型が齟齬を起こす瞬間に、自我を確認する?】

 

さて、私たちはどこで「自我」を感じるのでしょうか。私たちは日常「こうすればこうなるはず」という計算式のなかで安定して生きていますが、そうした計算式が成り立たないような出来事に出くわしたときに「自我」というものが見え隠れするのだとフッサールは考えました。

 

たとえば、家族と一緒に過ごしているとしても「子どもはこういうものであるべき」とか「夫(妻)はこういうものであるべき」とかいうものと1ミリの齟齬もなく生活していれば、なんら私のアイデンティティは脅かされませんが、子ども(や夫もしくは妻)が予期しないような行動を起こし始めると、いきなり私たちは大きく混乱し、そのなかで「驚くわたし」「悲しむわたし」「怒るわたし」が経験されていきます。一方で目の前には子どもがいるわけですから、即座に「どうなっているのか」を把握し、「どうするべきか」、「わたしはどうあるべきか」を判断していかなければなりません。

 

たとえば、子どもがいきなり「学校に行きたくない」と言い出したとします。学校に楽しんで行っているように見えていたときには、特段「学校」について深く考えることはありません。しかし「不登校」の現実を突きつけられると、まさに「学校」という概念に揺らぎが出てきます。「子どもの心を傷つける学校に通わせ続けていいのだろうか」「学校で勉強できないとしたらどこでどのように勉強すればいいのだろうか」「そもそもこういった勉強はどこまですべきなのだろうか」「学校になんて通う意味があるのだろうか」・・・。こうした「出来事」によって揺らされるのは「私」です。同時にさまざまな感情が湧いてくることによって、自分の「自我」も意識されるようになります。

 

こうした情況は、少し難しい言葉でいうと「類型的予科に従う自動化された経験にはもはや頼れない場面、判断や能動的決定を要する場で「自我」が呼び出される(GS p180)」という事態に近いように思うのですが、これはイメージできる人も多いのではないでしょうか。「学校」とは一体なんだったのでしょうか。「学校」の本質とはなんだったのでしょうか。こうやって考えていくと、「学校」の本質とはだれかが「学校は●●です」と定義したものでもなければ、「私は学校を▲▲だと思います」と感じていたものでもなかったことになります。まさに上述の「経験世界を飛び越え、類型なども突破したものが動的に蠢いている世界」です。

 


そして、もしこういうことが「自我」を呼び覚まし、「私を知る」ということに繋がってくるのであれば、教育という経験は子どもたちを、エスカレーターのようになめらかな経験の展開に乗せるばかりではなく、むしろ自明的な経験から引き剥がして、揺らす必要があるのかもしれません。ここで、デューイが探究は不安からはじまると言ったことが思い出されます。デューイの言う「不安」は、「曖昧・混乱・心配・矛盾・不明瞭」でした。まさに私たちが勝手に想定していた「学校という類型」「子どもという類型」が崩された時に起きる出来事です。

 

【自我と時間】

 

でも、このようにして時折チラっと姿を見せてくれる「自我」は浮き沈みして、見えたり見えなかったりします。たしかに「学校」という私の類型が崩れるときには、苦しい経験もあります。でも、そこにもはや私にとっては機能しない「学校」の概念(確実性)を反省して手放すときに、私たちは同時にふと自由になった感触を得るかもしれません。その感触は田口先生の言葉を借りるなら、「否定的経験に直面したとき、我々は自己自身へと投げ出され世界に放り込まれる(略)それは「不自由」であるよりもむしろ「自由」の露出する瞬間である(GSp182)」という言葉で描かれた瞬間と、底で響き合っているように思います。

 

そして、私たちの「自我」の認識には「時間」が介在します。過去の「学校」経験と現在の「学校」経験はバラバラに存在しているのではなく、なんらかの形で「私」に結びついています。では私(自我)はなんなのか、ということですが、フッサールは自我は「一様な同一性においてずっと持続している音のような感覚」のものではなく、時間の経過も何の差異をも生み出さず、時間的パラメーターをいくら変化させても自我に関しては何の変化ももたらさないと言っているそうです(GS,p188)。

 

だとすると、それは時間をパラメーターとし、沢山の独立変数xを持つ数式のように思えてきました。。そこでふと思い出したのが大学院の経済学の授業で教えてもらった包絡線定理(Envelope Theorem) 。私は大学時代に政治学を専攻していましたが、学部の卒論は正義の概念を数式で表すというものでした。しかし、数学の苦手意識が消えずに大学院(修士/公共政策)でも経済学部博士課程のミクロ経済原論の授業をリベンジでとり、その時に教えてもらったものです。当時のノートがないか本棚を探したら、ありました、ありました(25年くらい前です。。なんでも捨てないで取っておくもんです)

 

 

たしかに、もはや私の自我は時空を超えて、さまざまな契機に出くわし、その度に変様するかに見えます。しかしどんなに揺らされても、純粋な私の自我(アイデンティティ)の関数(Function)は変わらない、と感じるというのはなんとなく、私をほっとさせる考えです。逆に言えば、さまざまに私の自我は現れるけれども、「わたしはわたしである」と言えなければ「わたし」は崩壊してしまいます。

 

でもこうしたことを説明するのに、私たちの住んでいる3次元空間を指し示すために使われてきた言葉や立体イメージではもはや、自我というものは説明しづらいのではないでしょうか。ちなみに経済学においても、世の中はパンとバターだけなら2次元で表せますが、パンとバターと牛乳が出てくるともう3次元ですし、実際には無限大の数の財がこの世には存在していて、そのなかで何らかの選択をして私たちは生きています。となると、私たちは3次元の空間に住みつつも、財的にはn次元空間に生きていることになります。

 

当然この数式がフッサールのものだったなどと言っているわけではなく、あくまで私の思考の過程においてふと湧いたイメージなのですが(なので、決定的に間違っているかも・・だれか知っている人がいたら教えてください涙)時間(t)をパラメーター(媒介変数)とする、微分可能な関数 f(x1, x2, x3, x4・・・,xn , t) = 0 みたいな感じなのかなぁ。。契機に出くわすたびにさまざまに現れる自我でありつつ、t1, t2, t3 …と時間が推移しても、何らかの同一性をもったゼロ距離の「わたし」って一体どんな感じなのでしょうか。もう少し考えてみたいものです。

 

(田川先生は数学者の西郷甲矢人先生と『<現実>とは何か』という本を出されています(脚注1)。私は、今現在の段階ではきちんと咀嚼できていませんので、もし数学に興味のある方は私の戯言などではなく、そちらを読んでいただくようにお願いいたします。また当然ながら、本ブログは『現象学という思考』についてのものですが、感想文の域を越えるものではないので、もし興味を持たれたらぜひぜひ読んでみてください。わたしはもう本当にワクワクしながら読みました。

 

【いまここ、に生きる】

 

さらに、こうした自我の現れですが、私はあくまで「いま」にいて「ここから」一切を眺めているのに、同時に過去・現在・未来・空想の全ての点に入り込み、時空を超えて「同じ」自我として振る舞ってもいます。「いまここ」に結び付けられているのに、一切の場所に現れうる「わたし」は一切の点に遍在することすら可能です。だとしたら「いまここ」の私と、遍在する「わたし」はどうやって結び付けられたらいいのでしょうか。

 

そもそも「いま」って何なのでしょう。私たちは、常に次に何が起きるかを予測しようとしてしまいます。もしくは過去をくよくよと振り返ったり、過去の栄光や思い出を懐かしく思い出します。そもそも「現在」なんてアウグスティヌスが『告白』の11巻で言った通りで「未来はまだないなら、なぜ”ある”と言えるのか」「過去は過ぎ去ったものだったらなぜ“ある”といえるのだろうか」「現在はこれ以上極微に分割できないのであれば、それは“ない”のではないだろうか」とつい思ってしまいます。

 

一方で、アウグスティヌスは、とどまっていない音、つまり「ひびき」は測れるし、それは「精神のはたらき」によってであるとも言いました。このことを、フッサールは以下の図式でとてもシンプルに説明しています。たとえば、風鈴が「チリン」と鳴ったとき、原印象のE1は、すぐさまE12へと把持的に変容します。同時に新たな原印象のE2が現れます。そうすると、time=2において、あらたな原印象であるE2と把持的に変容されたE12を同時に響きとして感じ取ります。うっすらと消えゆくE12と新しい音のE2のようにどんどん音は重なっていきます。そしてその音の痕跡を繋ぎ止めているのは、たしかに私たちの「精神」かもしれません。いずれにしても、私たちはこうやって、音の重なり合いを感じ取っているように思えます。


物理的には瞬間ごとに音は消え去っているかもしれなくても、経験の中では各瞬間の音が同列に並んでいるというような感覚です。「いま」は常に流れていて、掴みようはないのですが、変様する流れのなかで「過去」を感じ取りながらも「今」においてE12と新しい音のE2を並列で感じ取ることによって、私たちは「とき」を「掴みうる」ような働きとなってきます。

 

でも、残念ながら、人はなかなかE12とE2を「ありのままに見る」ということができません。ついつい何らかの空想を働かせてしまいます。つい「海が凪いでいたら」「花がもっと咲いていれば」と考えてしまいます。そこに「別の可能性」を一切視野にいれずに、現に現れているものを、ただ現に現れているだけのありさまにおいて見ることはかえってとても難しく、稀なことではないかと田口先生は言います。ただ、あまりにも美しい自然の風景や、芸術作品を前に電撃が走ったような感覚を覚えるようなときには、「これが別様だったら」とは思わないかもしれないくらい鮮やかに閃くような瞬間が訪れるかもしれないとも。

 

こうした瞬間のことを考えるのにあたって、芭蕉の句はいいかもしれません。たとえば、誰もが知っている以下の二つの句。私たちに与えられたはっとする瞬間の鮮やかさに「これが別様だったら」とは少なくとも私は思いません。

 

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

古池や 蛙飛び込む 水の音

 


ここには原様がそのままに残っていて、且つ「響き」が存在しています。わたしもあなたも時空を超えて、すっとその場に居合わせることができそうです。しかもそのときの「わたし」は思考に塗られた自我としての「私」ではなく、限りなく素のままのわたしに近いような気がします。

 


さきほどの時間図式に青い楕円と時間2に当たるT2という文字を私のほうで入れてみました。こうして楕円に囲まれた部分をそのものだけ純粋な現在、純粋な経験として捉えられるとすると、音は聞こえたけれど既にない、それでも既になくなったものとしてのその音を聞いているという意味で、それこそ「色即是空空即是色」のような感じかもしれません。田川先生は「差異化されたものの同列化」という風に表現されていますが、共時的な経験とも思えます。いずれにしてもある一瞬でありながら「色」を感じる経験であることは確かなようです。

 

私は時々リラックスのために美術館にいきますが、西洋東洋問わず、この瞬間が捉えられている作品が好きです。逆に苦手だなと反射的に感じてしまうのは、表象がただただ氾濫している作品です(意外と多いです)。こうした作品はそれこそ「エゴイスティック」なものが表に出ています。それが味でもあり、良さなのかもしれませんが、こういうところに好みの差みたいなものも出てくるのかもしれませんね。

 

そして、思い返してみるとたんぽぽを一緒に娘を見ていたあのひとときも、こんなときだったかもしれないと感じます。「別の可能性」なんて考えなかったし、私はわたしであったという感覚があります。娘が発する言葉とは全く別の次元で、なにかを響きとして共有していたようにも思います。もしかしたら「わたし」ということは、そんな他者とのきらめくようなひとときからこそ感じとることができるのかもしれません。もし私が俳句がもっと上手だったら、芭蕉のようにさまざまな人々と一瞬にして繋がるような一句を生み出すことができたかもしれませんが、力不足のようです。

 

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幼児教育の始祖、フレーベルはその著書『人間の教育』において「すべてのものを支配する法則の根底に、すべてのものを動かし、それ自身において明白である、生きた、自己自身を知る、それゆえに永遠に存在する統一者が必然的に存在している」とし、その「永遠の法則」を認識し、意識化し、法則の本質を洞察しすることが「生命の学」であると言いました。

 

多くの教育者が人生の旅路のなかで「私を知っていく」ということを教育の大切な目的として掲げます。だとしたら、そもそも私たちのアイデンティティとはどういうものなのかということについてイメージを持っておくべきだし、そうしたときに現象学の考え方を用いてみることで、それこそ新しい地平が開けてくるような感じがしました。

 

まだまだわからないことだらけ。とはいえ一旦、振り返りを書き留めておきました。いつか、もうちょっと色々わかるようになったら書き直してみたいと思います。

 

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「哲学登山vol.8 オルタナティブ」募集スタートしました。モンテッソーリ、レッジョ・エミリア、グルントヴィなどを読んでいきます。https://xtanqlcl.kotaenonai.org/news/2104/

 

(脚注1)
『現実とは何か』という本は「場」とは何かという二重スリットの実験から始まります。もう6年前ですが、小学生たちと一緒にまさにこの実験をしました。この時担当してくださった山崎詩郎さんはクリストファー・ノーラン監督が大好きです。「インターステラー」もいいですし、時間のことを考えるなら「TENET」はおすすめです。

 

【参考に読んだ本】

 

『現象学という思考ー<自明なもの>の知へ』田口茂 筑摩選書 (本文GS)

『<現実>とは何かー数学・哲学から始まる世界像の転換』西郷甲矢人・田口茂 筑摩選書

 

『ブリタニカ草稿』エトムント・フッサール 谷徹訳 ちくま学芸文庫

『知覚の現象学』モーリス・メルロ=ポンティ 菅野盾樹訳 ちくま学芸文庫

『存在と時間1−3』ハイデガー 中山元訳 光文社古典新訳文庫

 

『見えるものと見えないもの』M・メルロ=ポンティ 滝浦静雄・木田元訳 みずず書房

『道徳的認識の源泉について』ブレンターノ 水地宗明訳 『世界の名著51』中央公論社

『デカルト的省察』フッサール 船橋弘訳 『世界の名著51』中央公論社

 

『現代現象学ー経験から始める哲学入門』上村玄輝ほか編著 新曜社

『フッサールの現象学』ダン・ザハヴィ 工藤和男・中村拓也訳 晃洋書房

『医療ケアを問い直す』榊原哲也 ちくま新書

『間合いー生態学的現象学の探究』河野哲也 東京大学出版会

『ハイデガー 世界内存在を生きる』高井ゆと里 講談社選書メチエ 

『自閉症の現象学』村上靖彦 勁草書房

『ノーラン・ヴァリエーションズークリストファー・ノーランの映画術』トム・ショーン著 山崎詩郎・神武団四郎監修 玄光社


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