ブログ藤原 さと

公正・正義を教育のめがねで探究するその3:サンデルのメリトクラシー批判

 

さて、本テーマのブログその1の冒頭に紹介したマイケル・サンデルですが、前回に紹介したロールズの批判者として有名です。1980年代から1990年代にかけて、いわゆる「リベラルーコミュニタリアン論争」がありました。コミュニタリアンは、ロールズの「リベラリズム」では、人びとの「善い生」を可能にする正義は構想できないと批判しました。そしてコミュニタリアンの代表的論客の一人がマイケル・サンデル、ということになります。サンデルといえば、NHKの「ハーバード白熱教室」でご存知の方も多いでしょう。『これからの「正義」の話をしようーいまを生き延びるための哲学』もベストセラーになりました。

 

私が、大学に在籍していたのは1990年ごろなので、まさに「リベラルーコミュニタリアン論争」の真っ只中だったわけですが、サンデルのデビュー作でロールズ批判の書である『リベラリズムと正義の限界』が発表されてからまだ10年経っておらず、学部のゼミでは扱われませんでした。また、「ハーバード白熱教室」の放映がされていたころは、私は子どもが生まれて仕事にも復帰し、てんやわんや。哲学書を読むどころか、音楽を聴く時間もニュースを見る時間もありませんでした。なので、今回ロールズの読み直しをきっかけに、サンデルの本を興味深く読んだのです。

 

『リベラリズムと正義の限界』において、サンデルは、私たちは特定の共同体の中で文脈を持って生きており、そこでアイデンティティを形成しているわけだから、ロールズのように、どの目的(善)からも独立した「(負荷のない)わたし」を想定して、正義の構想などは不可能だ、と反論しました。人びとの自由や権利を特定する正義の原理がいかなる「善い生」の構想にも依拠しないなんて、ありうるのだろうか、と疑問を呈しているわけです。

 

では、サンデルが提唱する「共通善」とは一体なんなのでしょう?「みんなにとって善いこと」とは何なのでしょうか。サンデルは、『これからの「正義」の話をしよう』では、「共通善にもとづく政治」として、共通善に向かう市民を育てるための公民教育、臓器移植、市民権、妊娠・出産などお金で取引することが不適切と思われるものの市場化の廃止、公園・交通・病院・図書館などのインフラの再構築などを挙げています。ですが、ロールズだって、教育もインフラも、さまざまな対立する思想への対峙の重要性は唱えています。では、なにが違うのでしょう。

 

【そもそもリベラリズムって何?】

 

さて、私たちは、よく「あの人はリベラルだ」というような言い方をしますが、「リベラル」という言葉がそもそもどういう意味を持つのでしょう?少し土地勘のようなものを得ていきたいと思います。

 

まず、「(西洋)政治哲学」についての大きな流れのおさらいから。古くはプラトン・アリストテレス、ストア派、アウグスティヌス、トマス・アクィナスなどの中世を経て、ルネッサンス期のマキャヴェリが『君主論』を、モンテスキューが『法の精神』で三権分立の考え方を紹介しました。その後、ホッブズ・ロック・ルソーが「社会契約説」を唱えます。そして、「社会契約は現実には存在しなかった」というヒュームの批判を経て、近代になるとアダム・スミス、カント・ヘーゲルらが、市民社会について論じます。その後、ベンサムが「最大多数の最大幸福」という功利主義の考えを打ち出し、ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』を書きます。そうして、ハイエク、ロールズ、サンデル、ハバーマスらの現代政治学に至ります。近代以降、アメリカでも特に第二次大戦後、どちらかというと選挙分析など政治科学のほうが隆盛する中で、政治哲学は下火となりました。アーレントなどナチズムの迫害を逃れたユダヤ系の政治哲学者が古典的政治学の復興させる研究をしましたが、以前の勢いは戻らなかったといいます。そんな中、ロールズが『正義論』を発表したことで、「現代正義論」を再生させ、福祉国家の哲学的基礎を築きます。

 

小林正弥『サンデルの政治哲学』によると、「正義論」で論ぜられる「正義観」には以下の3つ※があると言います。(SS,40)

 

  • 「福利 welfareの最大化」 (功利主義)ベンサム、ミル[i]
  • 「自由の尊重」(リベラリズム)ロールズ (リバタリアニズム)ノージック
  • 「美徳の推進」(コミュニタリアニズム)サンデル、マッキンタイア、テイラーほか

 

アメリカで一般的に「リベラル」と言う場合、黒人やヒスパニックの人たちにも同等の機会を与えようとする政策や、貧困対策や保険医療政策において福祉的な政策に賛同する人たち、一般論として、民主党支持者たちを「リベラル」と呼ぶことが多いです。一方で、トランプは“共和”党ではありますが、富裕層に優遇すると一時的には貧困層までその恩恵が及ぶというような「トリクルダウン」の考え方を経済政策に応用する場合、そこには新自由主義・リバタリアニズムの考え方がベースにあることも多いです。

 

ちなみに、サンデルも、ロールズの主張する「平等な基本的諸自由」や福祉の必要性を否定しているわけではなく、(ここが言葉のややこしいところですが)政策的には「リベラル」と言われています。

 

【サンデルのメリトクラシー批判】

 

さて、4月に翻訳書が出版となったサンデルの『実力も運のうちー能力主義は正義か?』。この本は原題が『The Tyranny of Merit』となっており、メリトクラシー批判の書となっています。近代までは生まれや身分によって、地位や生活の質が決定されたが、今は、能力や業績、つまり学歴や就職先の企業のレピュテーション、そこでの業績によって社会的地位がきまってしまいます。メリトクラシーという言葉は、1958年にイギリスの社会学者のマイケル・ヤングが、こうした現代社会の編成原理をメリトクラシーと名付けたところから生まれました。

 

 

新型コロナウイルスが蔓延する中で、もっとも感染者数の割合が多かったのは、有色人種だったということは、ニュースでご存知の方が多いと思います。また、アメリカの場合激しい経済格差には、アメリカの学歴偏重主義の行き過ぎが原因であることに社会的な共通理解があります。昨今、アイビーリーグなどのトップ校は、受験競争が過熱し、受験のためにもコンサルタントを高額で雇ったり、入学不正も起きています。そもそも学費も軽く年間500万円くらいのお金がかかります。アメリカではこの数十年間に不平等は爆発的に拡大しました。成功者がその優位性を確固たるものにし、その優位性を自らの子どもに受け渡すことが可能になりました。実際にアイビーリーグ学生のうち、下位5分の1にあたる家庭の出身者は、4%に満たないと言います。

 

それなのに、入学における競争が激しいだけに、ハーバードの学生の多くが、合格したのは「自分の能力のおかげだ」と勘違いしているケースが認められると言います。合格したのは、親が良い学校に通わせてくれ、勉強に集中できる環境が整っており、さまざまな課外活動を支援してくれる家庭に生まれたことが大きいのに、そのことを忘れてしまうのです。サンデルは、自分の運命は、自分の能力や功績(メリット)の反映だという考え方は、人間の主体性を強調する西洋文化の道徳的直観に深く根付いていると言いますが(M,53)日本でも同じことが起きているように思います。

 

私が、昨年の大統領選で感じた違和感は、「リベラル」と一般的に言われる人たちにみられる一種の傲慢さでした。もちろん、トランプに続投してもらいたいと思っていたわけではありません。でも、ロールズのいうような福祉を目指しているはずの人たちが、トランプを支持する白人の低所得者層を「低能力」で「やる気がない」故に、その立場にいるのだと突き放しているように見えたのです。

 

サンデルも、そうした社会福祉から取り残されたトランプ支持者たちに対し、エリートのおごりは苛立たしい(M,41)と言います。サンデルは、高学歴のオバマやヒラリーがつねに「機会」について語っていたことは、取り残された人々にとっては屈辱だっただろう、と言います。オバマは、高学歴の妻を讃え、側近には高学歴者を配置し、大統領の任期中”You can do it if you try”とスピーチや公式声明で140回以上使ったといいます(M,37)さらにサンデルは、歴史の「正しい側」「誤った側」が政治的レトリックの定番になったのは、1990年代から2000年代にかけてであり、それを推し進めたのは、ほとんどが民主党員だったと言います。「われわれが歴史の正しい側にいる」という言葉はアルカイダ攻撃の際にも使われました。(M,78)実は、この「私たちは正しい側にいる」というのは、バイデンの大統領就任演説でも私が感じたことで、「受け取れない人はこれを傲慢だと感じるだろうなぁ」と思ったものです。

 

バイデンの演説そのものが悪い、とか間違っているというのではないのです。バイデンの演説を聞きながら、ジャック・ランシエールの『民主主義への憎悪』を思い出していました。ランシエールは、そもそも「デモクラシー」の語源は、公共的存在となる条件を満たしていない人が公共の事柄に口出しをすることを非難する古代ギリシャ時代の侮蔑的呼称であり、デモス出身者とは、「計算外の人、話す存在だと計算されていないのに話す人」のことであり、古代ギリシャにとってのデモクラシーは最下層民における統治のことだと説明します。

 

そして、「公共的存在となる条件」を満たす人と、「デモス」では言語の交換がそもそもできておらず、彼らの間に「感性的なものの分有」がなされない限り、デモスの声は、獣の声と一緒で、そもそも理解すべき言葉として了解されないとランシエールは言います。今の「リベラル」と言われている人たちは、共和党支持者たちの声を聞き取れているのでしょうか。また、「感性的な分有」ができているのでしょうか。

 

一方で、トランプは、こうした屈辱に耐えている人たちの気持ちがよくわかっていたと、サンデルは言います。もちろんトランプは、うまくいかない理由を別のところに振り向けて批判することで、政治的に有権者を利用しているわけですが、「利用されている」ことすらわからないということも、実は教育や家庭環境の問題だったりするので、非常に根深いことなのです。トランプを支持せざるを得ない切羽詰まった状況にある人たちのことを民主党が理解できなければ、アメリカの政治は行き詰まってしまうでしょう。

 

【共和主義的政治とは?】

 

ところで、サンデルはコミュニタリアンとして、アリストテレス的な「共通善」をとても大事にしています。アメリカは実はアーレントやトクヴィルが指摘したように、共和主義的政治のルーツがあります。共和主義においては、人々が自己統治(self-government)に加わることに自由が存在するという考え方が基本にあります。いかに優れた国王が善政を行なっても、人々が自己統治を行うことができなければ、その人々は自由ではありません。(SS,167)共和主義における自由は「自己統治の自由」、つまりアーレントのいうように、ゼロサムの中の自由ではなく「生み出す自由」です。よって、もしリベラルが「個々人の行動が妨害されない」ということをだけを「自由」と呼ぶのであれば、リベラリズムとコミュニタリアンの自由の概念は違うものとなります。(ただ、ロールズの項で書いたように、ロールズは、実は、「社会的協働の産物」としての基本的諸自由の分配に触れているので、単純な批判はできないのではないかと個人的には感じます)

 

さて、この「生み出す自由」ですが、アーレントは、『革命について』でフランスでは旧支配からの解放(Liberation)にとどまってしまったが、アメリカではすでに「公的幸福」という言葉が存在し、すでに市民活動の萌芽がそこにあったことが決定的な違いだったと指摘します。

 

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アメリカ人は公的自由は公務(public business)に参加することにあり、この公務と結びついている活動はけっして重荷になるのではなく、それを公的な場で遂行する人びとにほかでは味わえない幸福感を与えることを知っていた(K,183)

人びとが町の集会にでかけていくのは、義務のためではなく、ましてや自分自身の利害に奉仕するためでもなく、もっぱら審議や決議を楽しむためであった(K,183)

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Town Meeting  https://www.uvm.edu/cas/vermontresearch/town-meeting-project-0

こうした、市民が一人ひとり、自分たちが社会の担い手であるとはっきりと自覚し、その社会に積極的に関わることに幸福を見出す、というのは、実は私自身、アメリカに住んでいた時に実感しています。娘が公立学校に通っていましたが、寄付やボランティアで一緒に学校を作り上げていくのです。学園祭のようなものには、地域の企業がたくさんスポンサーについていました。実にみんな楽しそうに関わるのです。学校ではつねに寄付の機会がありました。地元の病院や、障害のある子たちのロボティックスイベント、脳腫瘍のある子たちへなど、次から次へと競うように寄付をし、ボランティアの活動をする人たちが尊敬されていました。裕福で余裕のある地域だったからというのはあると思いますが、これには私も感動したものです。トクヴィルやアーレントの気持ちがとてもわかるような気がします。

 

さて、自己統治のためには、同朋市民(fellow citizen)と共通善について熟議することが必要であり、その熟議においては、公共的事柄への知識や、帰属意識、全体への関心、コミュニティでの人との絆が必須となります。そのためには、公民的美徳(civic virtue)も必要となり、そういう美徳を会得するために人格形成が必要になる。よって、共和主義的政治とは人格形成的(formative)な政治となります。

 

サンデルは共和主義の源流として、アリストテレスに言及します。アリストテレスの思想は公民的美徳と政治参加という倫理面に注目する強い共和国の典型(M,168)だと言います。また、政治は、「政治術 statecraft」と呼ばれるが、サンデルはそれを「魂の術 soulcraft」という側面を持ち、プラトンの魂のための技術(ゴルギアデス)ともつながるとしています[ii]

 

となると、当然アリストテレスの理解なしには、コミュニタリアンは理解できないということになるのですが、長くなってきてしまったので、ここで一旦切って、サンデルがなぜ、リベラル批判を行うのかの具体的なところと、アリストテレスの『ニコマス倫理学』について次回まとめていきたいと思います。

 

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<参考文献>

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』マイケル・サンデル 早川書房 (M)
『サンデルの政治哲学』小林正弥 平凡社新書 (SS)
『民主主義への憎悪』ジャック・ランシエール インスクリプト
『革命について』ハンナ・アレント 志水速雄訳 ちくま学芸文庫(K)
『公共哲学とは何か』山脇直司 ちくま新書

 

[i] 「功利主義者」といった場合に、ジョン・スチュアート・ミルはベンサムの「最大多数の最大幸福」についてその功利が単純に計量可能な快楽と同じではないことを含め、さまざまな批判を行いました。またノージックは自由原理主義的なリバタリアニズムの代表です。ロールズと同じく「自由」を尊重すると言う意味では「リベラル」かもしれませんが、その実質な内容は似ても似つかないものなので、注意してください。

[ii] マキャヴェリの言うような制度的な工夫を強調する弱い共和主義とは区別されます。

 

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