公正・正義を教育のめがねで探究するその1:プラトンと正義の歴史

4月にマイケル・サンデルの『実力も運のうち−能力主義は正義か?』という本が出版されました。マイケル・サンデルといえば、NHKの「ハーバード白熱教室」や『これからの正義の話をしよう』などの本で知っている方も多いと思いますが、思想的系譜としては「正義論」の中でも、コミュニタリアニズム(共同体主義)の代表的論者となります。

 

ところで、前回の哲学登山のテーマは「正義」。「正義」という言葉は、日本語では「正義の味方」など、道徳の匂いが強かったり、ときには「融通がきかない」「自己満足」「ええかっこしい」というマイナスのニュアンスを持つこともあります。みなさん、「正義」というと何をイメージするでしょうか。

 

「正義」は、古くはアリストテレスが示唆したように、教育を考える上で、切っても切り離せない重要概念です。そして、私個人の人生にとっても、「正義」「公正」は大切な言葉です。実は、大学時代、私は政治学を学び、所属したゼミでは「正義論」を扱っていました。なので、学生時代はジョン・ロールズなどを読み、卒論はプラトンの『国家』における正義と幸福についてでした。多くの人は「正義」と「教育」の間になんの関わりがあるの?と思うかもしれませんが、私にとっては、とてもとても深い関係を感じるものです。大学時代は「政治」の観点から「正義」「公正」について考えていましたが、今は「教育」を仕事としているので、「教育」の観点から「正義」「公正」を問い直す、ということをしてみたいと思っています。

 

 

さて、「こたえのない学校」を設立して、「探究」をテーマに活動を始めてしばらく経った頃、ふと思ったのです。「探究」がもし問いから始まり、ある一定の回答を主体的に得ていく思考および活動というだけのものであれば、「戦争に勝つための戦術は?」という問いでも良いし、「私の子ども(だけ)が将来食べていくためにどういう教育を与えればいいのか?」でも構わない。でも、それで本当に良いのだろうか。

 

どの方向に「探究」しても良いのであれば、「殺人兵器の開発」でも、「いかにして泥棒をするために鍵を開けるか」探究でも「人を差し置いてでも勝てる方法」探究でも良い、となってしまいます。でも、教育はそんなものではないはず。だとすると、私たちは何を学ぶべきなのでしょう。もし「悪い」ことではなく「善い」ことを学ぶのであれば、「善い」とはなんなのでしょう。

 

昨年12月に上梓した『探究する学びをつくる』という本では、ハイ・テック・ハイというアメリカの公立チャーター校の思想、カリキュラム、実践を紹介しました。ただ、私が描きたかったのは、ハイ・テック・ハイのプロジェクト型学習の手法ではありませんでした。この学校は「善い」社会を創り上げることを心から望み、そのために将来の社会を担う子どもたちを育てようとしている。その姿について書き留めておきたかったのです。

 

彼らは、「善い」社会をつくるために、その教育の目標を「正義」に非常に近しい概念である「公正(Equity)」に置きました。彼らは、自己のアイデンティティを「公正のためのプロジェクト」と位置づけ、プロジェクト型学習(PBL)が一番公正の実現のためにふさわしいと、選択しました。もし、単に大学進学率もよいPBL校というだけだったら、私はあの本を書くことは決してありませんでした。(注1)

 

ハイ・テック・ハイは、「公正」とは、「経済格差などさまざまな格差を乗り越え、誰もが、人種や性別や、性的な意識や、身体的、もしくは認知的能力に関わらず、同じように価値ある人間だと感じることができる」ことである、と定義づけています。つまり、ハイ・テック・ハイの目指すところは、「子どもの能力を最大限に伸ばす」ということではなく、「様々な特性を持つ私たち人間一人ひとりがお互いを思いやり、それぞれが自己を最大に発揮できるような善い社会を作っていく」ことにあります。

 

なお、「公正」については、よく使われる図があります(下図)。左の絵では、皆背の高さが違うのに同じ高さの箱を与えてしまうので、みんなが塀の向こうを見ることができませんが、右の図のように、子どもの背の高さに合わせて箱を置くと(公正)、皆が同じ風景を見ることができます。このように様々な個性を持った子どもたちが、幸せに共存していける社会をつくろうとしているのです。ただ、この図は非常に単純化したものです。今回はもう少し深く考えていきます。


(絵:寺中有希)

 

【正義論の発生から近代まで】

 

さて、「正義」という概念はどこからきたのでしょう?そして昔の人はどんな風に考えていたのでしょう? まずは、西洋哲学の文脈で少しまとめておきたいと思います。

 

古代のギリシャにおいて「正義」とは、ポリスの秩序を維持し、調和することでした。共同体にとっての「善」、「公共善」を目指すのが「正義」でした。プラトンは「正義」を人間の魂の調和の問題とともに考察し、アリストテレスは、政治的な動物である私たちの共同体の「善」とは何かを政治的に検討しました。中世キリスト教の時代では、トマス・アクィナスが「共通善」を社会の最高規範としました。(N,8)

 

でも、近代的な市場社会の登場とともに、ホッブズ、ロックにはじまるように、自分自身の利益を追求する個人が集まって社会を構築するという考えがでてきます。(N,8)アリストテレスのように、人間を人間本性上、共同体動物とは考えずに「平等な個人」が「相互に契約を結ぶ」ことではじめて政治共同体が成立するという社会契約説が生まれます。さらに、アダム・スミスは『道徳感情論』で人間の利己心が社会の利益につながるという考え方を打ち出しました。「個人個人が自分の利益を追求することによって、神の見えざる手に導かれるかのように社会全体の利益にもなっている」と主張したのです。確かに経済活動を一生懸命やることによって、経済が潤い、新しい技術が開発され、社会が恩恵を得ることはあります。こうして近代的な「個」がどんどんせり出してきます。

 

さらに20世紀に入ってから、経済哲学者のハイエクがこの「神のみえざる手」を信じ、国家の干渉を排除するような徹底した自由主義思想を説いていきます。「新自由主義」は、小泉政権の郵政改革や、労働者派遣法改正、最近ではトランプのトリクルダウンの考え方のベースにもなっています。(注2)さらには、個人の完全な自由を標榜し、究極的には国家の否定までに足を踏み込むリバタリアニズムを主張したノージックのような哲学者もでてきました。

 

少し時代を元に戻ると、「最大多数の最大幸福」を唱えたベンサムの功利主義があり、新古典派経済学での効用(Utility)の最大化の考えに応用されました。ジョン・スチュワート・ミルが批判的に引き継ぎ「自由論」を書きました。

 

さらに、20世紀に入り、様々な分野と同様に、政治においても科学がもてはやされるようになります。第二次世界大戦後、アメリカでも政治哲学は下火になりました。一方で、市場の「神の手」に委ねる「レッセフェール」だけでは共同体全員の幸せの実現はできないことも次第に明らかになってきました。ベトナム反戦運動や公民権運動も活発となり、社会の中で虐げられている人々が声を上げるようになりました。そんな中、すべての人々の自由と権利のために「公正としての正義」を構想し、福祉国家の哲学的基礎を確立したのがジョン・ロールズです。この思想的立場は、「リベラリズム」と呼ばれています。(K,20)そして、ロールズ批判の論客としてでてきたのがマイケル・サンデルです。サンデルについては、次回以降、少し詳しく書いていきます。

 

【古代ギリシャ時代の正義】

 

「正義論」の歴史をざっと辿ってみましたが、今回は「正義」の起源に近いところまで、辿っていきたいと思います。たとえば、西洋文学最初期といわれる、紀元前8世紀ごろのギリシャにおける吟遊詩人のホメロスは、「正義」を以下のように表現しました。

  • 神の名誉が傷つけられたら、ゼウスはその侵害者を罰することができる
  • (ナウシカがオデュッセイアーを迎え入れたように)旅人を暖かく迎え入れよ
  • “共同体”の内部の正義(ディケー)の秩序に違反が発生したら、ゼウスは罰することができる。 (N,15-6)

 

ただ、このホメロスの表現では、「正義」のいくつかの側面は照らし出されますが、「正義とは何か」となると明確には伝えられていません。これに対し、「正義」について現在においても、非常にアクチュアルでパワフルな定義をしたのが、プラトンです。では、プラトンは「正義」をどのように説明したのでしょう?

 

まず、プラトンの「正義」を理解するために、イデア論を先に理解したいと思います。「イデア」とはなんでしょう?「洞窟の比喩」をご存知の方も多いと思います。つまり私たちは壁の左側の暗い洞窟の中にいて、決して右側の松明の光を直視することはできません。私たちが見ている「人形」は実は、「ホンモノ」ではありません。私たちが見るもの全ては影でしかない、という考えです。

 

「え?」という感じかもしれません。でも、私たちが日頃実際に見ているものがどれだけ危うく儚いものかということを考えることはないでしょうか?

 


Allegory of the Cave

https://www.philosophyzer.com/the-allegory-of-the-cave-by-plato-summary-and-meaning/

 

たとえば、私たちはとても気分が落ち込んでいるとき、世界がグレーがかって見えたりします。また、すごく嫌な人が目の前にいるときに、その人のことを嘘つきだと思っていたとしても、のちになってそれが誤解だったとわかることもあります。また、目の前に見える机の色が本当は何色かなんて、実はわかりません。真っ暗な場所では、形すら把握できないのです。状況に応じて見えたり見えなかったりするものを私たちはどこまで信じたら良いのでしょう。

 

仏教の世界などでも、般若心経が「色即是空(しきそくぜくう)」というように、私たちの目に映っているものは、「色=現象」でしかなく、それは何とも心もとない。実は一切が「空(くう)」。もし私たちの見ている世界の一切が認知の仕業の「幻想」だとしたら、その「幻想」を取り払った「ほんとう」の世界はどこにあるのでしょう。実は私たちに見えている、図の左側の世界は非常に「アンリアル」であり、右側の光の世界のほうがよほど「リアル(実在)」だという風に思えてこないでしょうか。

 

プラトンは、現実世界の投影元であり、真善美を示す十全で過不足のない光の世界、「ほんとうの世界」を「イデア」と呼びました。一方で、仏教では、私たちが「ほんとうの世界」を見えていない様子を「光明(こうみょう)」に対して「無明(むみょう)」と呼んだりします。いずれにしても、私たちの日常の感覚をどれだけ信頼していいのか、となると私も含め、不安に思う人は多いのではないでしょうか。

 

「ほんとうの世界」にある完璧な「善」や「正義」はそうなると右側の松明のある世界に位置するので、完璧なものをきっと私たちはこの世で実現はできない、でも、私たちは「ほんとう」のことをどこかで知っているので、それに近づこうと必死になっている、というわけです。だって、なんで私たちは花を見て「美しい」と思うのでしょう。なぜ、なにか狡いことをした時に「やましい」と思ってしまうのでしょう。そこに理由はあるようで、ありません。また、どこの国でも何千年前でもきっと何千年後も人は同じことを感じそうです。だから、プラトンは、私たちは「松明」の世界を知っているから、「美」を花を見た時に想起するのだというのです。

 

今の世界は世知辛い。格差はどんどん広がるばかりですし、だれも神様のように完璧にはなれない。逆に、本当の意味で「正義」が実現されてしまったら、私たちは全員ハッピーで、なにもすることがなくなっちゃうかもしれません。洞窟の比喩は単なる思い付きのようでありながら、私たちの身の回りに起きること全てを深く考えたとき、考えれば考えるほど、反論できなくなってくるのです。

 

ところで、東大の総長もつとめた政治学者の南原繁は、著書『国家と宗教』でこの「イデア」の世界と「国家」、そして「正義」と「教育」が密接に絡まっていることを以下のように説明しました。

 

***
プラトンの教説の根幹である「イデア」が、前者(パイドン)においては純粋の観照の光として考えるに対して、後者(饗宴)においては世界の本源的な力として表されていることを意味する。そして本源的な宇宙の力が国家を作り営むのは、実に「エロス」の媒介によってである。 (NB,P30)

実にプラトンにあって、善と美のイデアの高い世界を観照した者は、必ずや現実の国土における創造の業を開始しなければならず、それはとりもなおさず建国の技である (NB,P31)
***

 

つまり、そもそも国というものは、「イデア」の光が世界、そして国家を作る力となっており、その「イデア」の光を見た、つまり松明の世界を見た人が、「哲人」であり、国家の担い手であり、善のイデアに人を導く「教育者」ともなると南原は言います。さらに、その国家においては「正義」は世界創造の力そのものだと言います(NB,35)

 

***
プラトンにおける「正義」が(略)もろもろの階級間の全体としての秩序と調和において成り立つ徳であり、これによって市民はおのおのの能力の差異に応じて国家的全体の中に、それぞれの生活の意味と目的とを受け取るところの、成員相互と国家全体との間の生の有機体的統一関係である。(略)すなわち正義は世界創造の力(である)。(NB,35)
***

 

ここで南原が指摘するように、プラトンの「イデア」を語るにあたって「調和」の問題は外すことができません。松明の光の世界は、「真善美」、調和がとれているから美しく、善であり、真である、という世界です。プラトンはそうした「調和」を不完全でもいいので、自分の内部で育てるようにしていかなければならないとしました。

 

南原繁は、第二次大戦後、教育の自由主義化を求めたGHQの要請をうけたアメリカ教育使節団に対応するためにできた日本側の「教育家委員会」の委員長に任命されました。南原はアメリカに協力しつつも、日本の教育に関する独自の改革案をまとめ上げました。吉田内閣下の「教育刷新委員会」の委員長として、教育勅語に代わる「教育基本法」、「学校教育法」の制定、義務教育の実施など、戦後日本の教育の骨格をつくるにあたって極めて重要な役割を担いました。(NS160)

 

わが国の現行「教育基本法」の前文は以下のようになっています。

 

*****
我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。

我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
*****

 

南原が深く関わった昭和二十二年の教育基本法では、「真理と正義を愛し」という表現となっていますが、現行の教育基本法でも、南原の思想は深く息づいています。

 

上述したように、ハイテックハイは「公正」を学ぶことが最終目的だと明確に定義しました。南原は、「正義によって、市民はおのおのの能力の差異に応じて国家的全体の中に、それぞれの生活の意味と目的とを受け取る」と言いました。つまり、この世に「何の能力ももたない人は誰一人としていないし、逆にすべての能力をもつ人もいない」のです。記憶力のいい子がいれば、コミュニケーションが上手な子もいるし、言語優位の子がいれば、音楽が上手な子もいます。でも、今の教室は、言語優位で記憶力の良い子だけが過分に評価されるようになっていはしないでしょうか?そういうバランスの悪さ(調和が取れていない状態)のことを「不正義」と言います。

 

もっというと、身体的不自由があったり、認知的特性が強いという理由で教室からそのような子たちを締め出しているとしたら、それも「不正義」です。「不正義」は調和がとれておらず、バランスの悪い状態です。すべての子が価値あると思えないような教室をつくるべきではないのです。

 

ここで、プラトンに戻ります。プラトンは、こうした調和を個々人の心の中に実現し、ひいては社会的にもそういう調和をもたらすことが「正義」だと言いました。プラトンは、人の内にある「理知」「気概」「欲望」というような魂の性質のバランスを取るようにと言いました。私たちは誰しも、キマイラという怪物のような「欲望」、ライオンのような「気概」を持っていますが、それを「理知」で支配し、お互いを親しませ、魂を気遣いながら養い育てるべきだと言うのです。『国家』(下巻p297-)

 

さらにいうと、私たちは一人では生きていけません。人はそれぞれの「卓越(アレテー)」を持っていてるのだから、正義とは「私たち一人ひとりが固有のアレテーを調和させながらも存分に発揮することだ」であると言います。私たちは私たちに与えられた、特性や能力を十分に発揮することこそが正義となるのです。

 

【正義って数式で表せるの??】

 

さて、今回ブログを書いている時に本棚をみていたら、私の卒論作成時のノートが出てきました。(もう30年くらい前!懐かしい)以下の写真のページに「国家の幸福を最大化するための条件としての正義」を表現した数式があります。丸く囲っている部分です。(注3)下の数式は、所詮一学部生のもので拙いですが、数学が好きな人やビジュアルが好きな人は「正義」の定義を言葉で書かれているだけより、少しイメージがつくかもしれないので掲載してみます。

 

上の写真でいう「U」はUtility、つまり経済学でいうところの「効用」です。そして、私たちは名誉欲や金銭欲、権力欲や自由への欲望などさまざまな欲望を持っています。でも、プラトンが言うのは、そういったさまざまな欲望を押さえ込んだり、消そうとするのではなく、「調和」させなさい、ということです。

 

SというのはSacrificeであり、名誉欲や権力欲、自由欲を満たすための犠牲にあたるものであり、∂U/∂Aというのは、名誉欲を持つ人の限界効用を示すので、つまり欲求を実現して得られる諸快楽と犠牲のバランスがうまくとれていることが、「幸福」の条件である、という数式です。何となく言わんとするところは通じるでしょうか。

 

つまり、「正義」というのは、様々な欲求や能力を持った人たちが、それぞれの制約条件のもとで満足して共存できている状態、ということになります。「効用=Utility」が数式に使われているので、功利主義的ではありますが、社会効用の最大化を目指すための条件は「調和」であるというものです。お金を儲けるのが上手な人と、歌を歌うのが上手な人、病気で一見何もできないように見えても、その生きている姿を共有するだけで多くの人を勇気づける人たちが等しく価値と効用を感じることができて、幸せな世界のことです。

 

そんな世界を教育が作り上げていかなければならない。プラトンも言う通り、完璧な「正義」は現実世界では「無理」でしょう。なんといっても、究極の「正義」と「調和」は松明の光の世界にしかないのですから。冒頭に紹介したEquityの塀の前の子どもの図でも、上記の数式でも到底「正義」は言い表せません。でも、だからといって、諦めず、現実の世界においてもそこに「近づく」ための努力はしなければなりません。

 

アリストテレス以降の「正義」の話はこの形而上と形而下の世界を行ったりきたりしながらも、「すべての人が幸せになれる共同体」を求めてきました。このブログですが、かなり長いものになりますので、5つに分けます。(誰が読むんだろう・・汗)以下のような内容で書いていきます。

次回はロールズについて書きたいと思います。またまた長いブログ。最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。

 

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<参考文献>

『国家』プラトン 藤沢令夫訳 岩波文庫
『ソフィスト』田中美知太郎 講談社学術文庫
『国家と宗教』南原繁 岩波文庫 (NB)
『正義論の名著』中山元 ちくま新書 (N)
『正義とは何か』神島裕子 中公新書 (K)
『南原繁』加藤節 岩波新書 (NS)
『ケインズとハイエク』松原隆一郎 講談社現代新書
『政治の新科学 地中海的伝統からの光』エリック・フェーリンゲン 而立書房
『社会契約論』重田園江 ちくま新書
『南原繁の教育思想』村井洋 『総合政策論叢』第36号 島根県立大学

 

※注

1) 「正義〜Justice」と「公正〜Equity」と「公正〜Fairness」および「平等〜Equality」という言葉が本論で出てきますが、少し関係が複雑ですので、とりあえずは英語を併記しつつ、おいおい説明をしておこうと思います。

2)ただ、ハイエクは、「新自由主義」の象徴として捉えられる一方で、ケインズやエリック・フェーリンゲンのような人とも親しい哲学者でした。「新自由主義」は、「弱者切り捨て」と感情的に批判されがちですが、もともとは「なにが社会正義か」「自由はどうやって実現するのか」という問いから発した主張であり、政策としても部分的には今でも実効性をもつものでもあることに、注意をむける必要があります。

3)「幸福」と「正義」と「国家」を関係をどのように考えるべきかについては、メモを見ると、当時田中美知太郎先生の本を読んでいたようです。

 

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