ブログ藤原 さと

公正・正義を教育のめがねで探究するその4:サンデルの共通善とアリストテレス

前回、サンデルの本について書きました。ただ、なぜサンデルが共和制に美徳を感じているのか、またアリストテレスを思想の基礎に置いていることは多少わかっても、なぜあれだけリベラル批判をしているのかはわかりません。今回サンデルについてはいくつか読みましたが、圧倒的に面白かったのが、『民主政の不満』でした。この本は、アメリカの建国以来の憲法の判例や政治家の発言をたどりながら、建国当初に大事であった共和主義がいかに衰退し、次第に(彼の批判する)リベラリズムに陥ったのかということについて記述されています。ここから、コミュニタリアンがどのように「善」を考え、「リベラル」を批判しているのかの思想の一端を見ることができるような気がします。また、コミュニタリアニズムの理解のためには、ある程度アリストテレスの理解が必要となってくるため、倫理学としての主著にあたる『ニコマコス倫理学』についてもまとめておきたいと思います。

 

【憲法判例から読み解く「善」とリベラル批判】

 

サンデルは、『民主政の不満』において、アメリカ建国時からの憲法判例を吟味し、いかに建国当初に重要だとされていた「善」の価値が「自由」への希求にすり替わっていったのかについて述べていきます。正直なところ一般向けの『これからの「正義」の話をしよう』や、『実力も運のうちー能力主義は正義か』よりもよほど面白かったです。もしサンデルに興味を持たれたのであれば、ぜひこちらも読んでみてください。

 

アメリカというと「個人の権利」礼賛の国のように思われますが、アメリカ建国の時に遡ると、当時東部13州が連邦を結成したときには、なんと個人の権利に基づいて、政府を制約することが憲法の役割とはそもそも考えられていなかったそうです。1787年に成立した連邦憲法には、「権利章典」のような権利に対する明確な規定はなかったとのことですから驚きです。(MM 上39)しかしその後、南北戦争を経て、約80年後、1868年にやっと憲法14条の修正によって、「個人の権利」を守るようになります。(MM上49)この憲法改正後、権利規定的判例がどんどん増えていったそうです。

 

その後「憲法は、諸目的・諸価値に対して中立でなくてはならない」という「内容中立性法理」に展開していきます。1943年には、エホバの証人の子どもが公立学校で国旗敬礼を拒否したため退学させられた件で、「国旗敬礼という価値や善を個々人に強制してはならない」という憲法的判断がされました。バーネット事件と言われますが、サンデルによると、これはメルクマール的な大きな事件で、「中立性」「善に対する正の優位性」がはっきりした、と言います。(MM上65)第二次大戦以降は、「言論の自由」「信教の自由」が顕著となっていきます。

 

さらに、1965年、キング牧師の公民権運動で、アラバマ州がその行進を禁止しようとした時、連邦裁判所はその「大義」の正当性を理由に行進の許可を出そうとしたのですが、リベラル派の主張は、「行進の自由」でした。結果は一緒でも、その理由が大きく違うわけです。また、もともとの「離婚法」は伝統的な性的役割分担と結びついており、生涯にわたる相互責任と貞節の義務を含んでいたため、片方のみが離婚を望んで訴えた場合、従来は「相手に責任があるので離婚を認める」という論理でしたが、1970年のカリフォルニア州法を皮切りに、今は全米的に、相手の道徳的責任は問わず「調和し難い人格の不一致」を訴えるだけで、離婚が成立するようになってきています。(MM上142)

 

さらに、政治・経済に目を移すと、建国当初の議論は、「いかなる経済の仕組みが自己統治に最も適しているか」という問題が中心で、経済政策がもたらす公民的帰結や、公民的美徳の涵養という共和主義的な観点から考えられていたそうです。実際に、アメリカ建国の中心的指導者の一人、ジェファソンは、農業を非常に重要視した共和主義者であり、農民的生活様式が自己統治に適した有徳な市民を作り出す、と考えていたようです。こうした共和主義的な発想はジェファソンだけでなく、憲法の起草者の多くが共有していたといいます。(MM下14)

 

また、「労働」についても意見が分かれます。(MM下111)リベラルは、賃労働は「自由意志に基づいて行う自由労働」なので、なんら問題がないと考えますが、共和主義では、「自己統治に参加するときのみに自由が存在し、そのために人格的資質が必要」と考えるため、賃労働に否定的です。反トラスト法に対しても、リベラルは「競争原理が働かず、消費者価格が上がってしまうのは困る」ため賛成しますが、共和主義は「小さな独立した生産者の自己統治に基づく公民的性格」を守るという大義のために賛成します。 (MM下132)

 

サンデルの憲法判例を見ていく眼差しの中から、「リベラル」批判の根拠のイメージがつくでしょうか。たとえば「離婚法」においても、「リベラル」は離婚する「自由」を主張し、「コミュニタリアン」は結婚の道徳的意義を問います。独占禁止法についても、「リベラル」は独占による価格の高騰を嫌う消費者の「自由」を守るように考える一方で、「コミュニタリアン」は小企業の自己統治と公的資質を守る、と考えます。たしかに現代社会を見回すと、「規範」や「道徳」を主張する人より、圧倒的に「自由」を声高に叫ぶ人が多い。「コミュニタリアン」と「リベラル」では最終的な「政策主張」が同じことがあっても、その「理由」が大きく違うのです。[i]

 

【アリストテレスによる「公共善」の考え方】

 

こうしたコミュニタリアニズムの考え方をよく理解するためには、アリストテレスの本質に向かうアプローチが初回でご紹介したプラトンとのそれと真逆といっていいほどに違っていることへの理解が必要そうです。アリストテレスのアプローチを見ていくと、なぜ、サンデルがカントからつながるロールズをあれほど批判するのかの構図がよくわかってきます。

 

プラトンは、ほんとうの「正義」はイデアの世界にしかなく、私たちはその影を見ているにすぎない、言います。カントもおなじで、形而上の世界をありありと感じながらも、私たちの悟性がいくら「完全な世界」を見たいと願っても、それが不可能なことを「アンチノミー」という手法で証明しました。一方で、アリストテレスは、私たちの本質は、どこか私たちの外にあるのではなく、私たちの営みのなかにこそ見出せると考えています。同様に、ロールズは、とても理想主義的でその実現が難しいことを腹の底から知りつつも、未熟な私たちがいかにして「正義」に向っていけるかを必死で考える一方で、逆にサンデルは過去の憲法の判例の中に私たちの「善」がどこかにあるはずだ、と執拗に追うわけです。

 

実は、アリストテレス的なアプローチを取っている政治哲学者はサンデルだけではありません。マーサ・ヌスバウムも文学作品から道徳哲学を考えていくし、ベラーは『心の習慣』において、「幸福」や「愛」、「自由」「正義」「成功」などについての市民の考えを丁寧に聞き取っていく中で、市民の「善の感度」や逆に「個人主義的傾向」を読み取っていきました。マッキンタイアは『美徳なき時代』において、私たちの善い生は、私たちの人生における物語によって決まるし、そこには当然コミュニティという私たちが所属する共同体や伝統があると考えます。同著の「諸徳の本性」などを読んでいくと、ホメロス、新約聖書、ジェーン・オースティンなどの物語から「諸徳」を読み解くということをしていて、とても面白いです。

 

プラトンによると、ものごとの本質はイデアの世界にしかないとなりますが、アリストテレスにとって、ものごとを見ていくということは、たとえば、車を分解して部品を整理していくとその本質が見えてくる、ようなイメージでしょうか。実は、私自身入り口がプラトンで、且つとても直感派なので、アリストテレスはいままでとても苦手でした。なぜわざわざ、こんなにまで全てをバラバラにしてしまうのだろう、、と正直思っていたのです。私みたいに真実はイデアの世界にあると信じていると、アリストテレスを読むことが非常に困難になってしまうのです。一方で、真実は現実の中にあると信じてしまうと、イデアを理解するのがとても難しくなります。アリストテレス自身、プラトンのことをどこまで理解していたのでしょうか。ニコマコス倫理学の第一巻(6章)にプラトンの善のイデアに対する批判があるのですが、こんな風に書いてあります。

 

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イデアを導入したのがわれわれの親しい人々なので、こうした探究は気乗りしにくいものではある。しかし、おそらく真理を救い守るためには、われわれに非常になじみのものであっても破棄した方がよいのであり、またそうすべきだ思われる。(略)真理と友のどちらも愛すべきであるが、真理のほうをより尊重するのが敬虔なことなのである (NR 42)

善がすべてのカテゴリーに共通する普遍的な何かひとつのものであるということはありえないのである (NR44)
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こちらはラファエロの『アテナイの学堂』の有名な絵ですが、左側のプラトンは天を差し、右側のアリストテレスは、手を下に向けて、私たちの事実をみよと言っています。ちなみに、ここでアリストテレスが持っている本が『ニコマコス倫理学』であると言われているようです。

 

サンデルとロールズの関係にも同じようなものがあると感じます。ロールズは、本当の「正義」に到達はし得ないと知っているし、生きている人間の「善」の感度にそれほど信頼をおいていないので、それが『正義論』にも現れてきます。たとえば、「正義の二原理」のかかる対象を「社会の基礎構造」において、人間の<善い生>の中身について直接的な言及をすることを避け、他のやり方でなんとかできないか、と考えます。(MN,73)一方で、アリストテレスをベースに考える人たちは、やはり人間というものに対する信頼が大きいし、「公共善」というものを積極的に捉え、自分たちの力で善い社会を創り上げていこう、というような気概のようなものを感じます。

 

【ニコマコス倫理学の面白さ】

 

さて、上述のような、まさに「信念の対立」を前提に今回あらためて読んでみた『ニコマコス倫理学』は本当によかったです。「幸福」と「善」と「教育」が密接に絡んでいることがわかります。苦手苦手と思っていたアリストテレスですが、『ニコマコス倫理学』は今となっては、教育する人にはみんなに読んでほしいくらい素晴らしいものだと感じました。拙いですが、メモにしておきます。

 

まず、この一連のブログの冒頭で「探究には目的があるとして、その目的はなんでもいいのだろうか?」という問いを私が持ったことに遡りたいと思います。探究がどこに向いてもいいのなら、「泥棒をするための探究」でも「戦争をするための探究」でもいいわけです。でも、そうではない。だったら、どこに向かえばいいのでしょうか。

 

アリストテレスは、究極の目的を「幸福」におきました。だとすると「幸福」はどのようにしたらもたらされるのでしょうか。アリストテレスは、「人間にとっての善は徳に基づく魂の活動」(NR上60)だとし、「徳」に「活動」が伴うことで「最高善」になると言いました。さらに、美しい行為に快さを感じない人は善き人ではなく、私たちの幸福は「最善の諸活動」のうちに現れることになります(NR上67-69)「幸福」と「善さ」、「美しさ」、「快さ」を結びつける「活動」をとても大事なものと考えました。

 

 

私たちは、人に優しくしたり、少し苦労してでも人ができないことをやってのけようと思って達成できた時に「幸福感」を感じます。ただ、一方で人はとても悪いことをしたときにも快感を感じてしまう動物です。アリストテレスは、政治学が最も配慮しているのは、市民を「善い市民」、つまり「美しいことを為しうる人々」にすることだと言っています。(NR上74)だとすると、私たちは、「善」をなしているときに幸福だと感じるような人を育てていかなければなりません。つまり、最初の私の問いに戻ると、「戦争に勝つための探究」をしているときに違和感を感じ、人助けをしようとしている時にこそ幸せを感じるように人を育てていかなければならないのです。「政治学」と「教育」はとても近いところにあるのです。

 

では、「徳」はどのように育てられるのでしょうか?「徳」にも教示によって伸びていく「知的な徳」と、習慣から生まれる「人柄の徳」があると言います。(NR上100)そして、まず、習慣によって得られる「人柄の徳」は、「中間性」によって把握できると言います。つまり、自信が強すぎても、恐れすぎてもいけない中間の「勇気」、大言壮語でも自己卑下にも陥らない「正直さ」、「機知に富む」という徳は悪ふざけと野暮の中間です。快楽を追いすぎても苦痛も追いすぎてもバランスが悪いため、「節制」を求めます。でも、「中間」を意識することはそう簡単なことでもありません。多くの場合、快楽のせいで錯誤が起きることが多いため、気をつけよとアリストテレスは言います。(NR上188)

 

次に教示によって伸ばすことができるという「知的な徳」です。もし私たちが中間を選ばなければならないとすると、正しい分別(ロゴス)が必要になってきます。(NR下-24)ただ、このときに「考え」や「信念」は間違えることがあるので、それらは除外して、「技術」「学問的知識」「思慮深さ」「知性」「知恵」の5つの魂の性向において、正しい分別を伴うことが「徳」であるとアリストテレスは言っています。(NR下-86)

 

 

あらためて、アリストテレスにとって「活動」はとても大事なことでした。私たちはさまざまな知覚を持ちますが、それらが美しい対象に向かって、善い状態にあるときが最善なのですが、こうしたときに感じる快楽を伴いながら、私たちは「活動」を完成させていきます。(NR下379-380) アーレントがアメリカの地域コミュニティにおける市民活動の中に「公的幸福」を見出した、というのはまさにこのことでしょう。

 

さらに、アリストテレスは「知恵」の徳を発揮する「観想的活動」により「幸福」を感ぜよと説きつつも(NR下400)「個人の観想」に終わらず、集団による幸福の実現を目指します。徳は知っただけでは十分ではなく、実際に活用されなければ意味がありません。また、優秀な一部の個人だけが徳を持つのではなく、多数の人々を善美に方向づけなければなりません。(NR下422-423)アリストテレスはここで、それを解決するのは法であると『ニコマコス倫理学』の続編となる『政治学』へと進みます。[ii]

 

アリストテレスは、さまざまな視点から物事の構造を明らかにしていくだけではなく、高い視座によって、わたしたちがどうあるべきかという問いから決して離れることはありませんでした。アリストテレスは、車(わたしたち)を分解し、その中身がなんであるかを示すだけではなく、車がどのように何処へに向かうのかを伝えてくれました。だからこそ、最終的な主張はプラトンと非常に近しいものがあるし、2000年以上後に生きる私たちにもありありと息づく形で「真なるもの」を考え続けるよう導いてくれているように思います。

 

【対立する考え方を理解し和解させる】

 

前述のとおり、私とは思考回路も感じ方も大きく違うアリストテレスは今まで読みにくくて仕方がありませんでした。私が論理に強くないとか、経験から読んでしまう、ということもあったでしょうが、それだけでもなく、「信じている」ものが私を引っ張ってしまって、読むのを困難にさせていたと思います。たとえば、私の場合、同じような感覚や考えを持っているルソーやカント、ロールズなどは納得しながら読みやすく、デカルトやマルクスなどは読み進めるのに苦労します。違う考えを持つ人との対話は、やはり少し難しいのです。

 

だれしも「信念」や個性的な「思考の構造」を持っています。もし研究者であれば、たとえばロールズの論理の穴を見つけていくというようなことも大事なのかもしれませんが、そうではない私たちがもし「教育」に携わっているとしたら、どちらが正しく、どちらが間違っているかということに躍起になるよりも、どの考え方も理解しようとして、受け入れるという態度のほうが大事なように思います。

 

きっとクラスの中にはプラトン派、アリストテレス派、両方いるはずです。私がアリストテレスをなかなか楽しんで読むことができなかったように、やっぱり理解しにくい人はいる。理解しにくい生徒もいます。でも、そのことからあまり逃げないで、頑張って理解しようとするところに、教室の面白さ、教育の面白さがあるように思います。ロールズは生前、年下の批判者であるサンデルの授業にも参加していたといいます。また、自分の主張に対するさまざまな批判に応えるために、自分のやりたい研究を差し置いてまで、人生の後半の膨大な時間を割きました。まさに「正義論」を地でいったわけで、そうした真摯な態度にやっぱり、謙虚さや敬虔さを感じます。一方で、サンデルのような人たちが力強く論を発信することによって、「公共善」に向かう議論を深めることもできます。「煩いな、いやだな」って思ったらそこから先に進まないわけです。

 

そんなことを思いつつ、次回はいよいよ、「正義」を教育の現場で体現するにはどうしたらよいのか、ということを考えるべく、デューイの『民主主義と教育』をご紹介していきたいと思います。

 

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<参考図書・文献>

『ニコマコス倫理学』アリストテレス 光文社古典新訳文庫 (NR上・下)
『政治学(抄)』アリストテレス 世界の名著8 中央公論社
『民主政の不満 公共哲学を求めるアメリカ』M・Jサンデル 勁草書房
『公共哲学』マイケル・サンデル ちくま学芸文庫
『これからの「正義」の話をしよう』マイケル・サンデル 早川書房
『心の習慣』R・Nベラー 島薗進ほか訳 みすず書房
『徳川時代の宗教』R・Nベラー 池田昭訳 岩波文庫
『美徳なき時代』A・マッキンタイア 篠崎榮訳 みすず書房
『世俗の時代上下』チャールズ・テイラー 千葉眞訳 名古屋大学出版会
『マーサ・ヌスバウム 人間性涵養の哲学』神島裕子 中公選書(MN)
『経済成長がすべてか?』マーサ・C・ヌスバウム 岩波書店
『第三の道 効率と公正の新たな同盟』アンソニー・ギデンズ 日本経済新聞社

 

[i] 第二次大戦後のアメリカについてサンデルは以下のように書いています。ニューディール期、ルーズベルト大統領は、共和的な志向から反トラスト政策を支持しますが、大きな効果はなく、ケインズ的な財政政策(リベラルにも整合)に頼っていったといいます。戦後アメリカはトルーマン、ジョンソンと、基本的にリベラルの思想の基底とした福祉国家の形成をしていきます。

一方で、サンデルはケネディが共和主義として、最も強い展望を示した政治家である、と高く評価しました。彼は、政治権力の分権化を主張し、主意主義的な自由の観念を離れ、自己統治を可能にする公民的側面に注目し、最低所得保障による福祉を不十分だとして、人々が仕事を創ることによって、コミュニティや家族、国に対する参画の感覚を作り出そうとしたといいます。

サンデルは、カーターは清廉と言われたが、最も実質的な道徳的政治的目的を棚上げしているという意味では共和主義的ではなかった、レーガンは、自己統治とコミュニティの理想を思わせるレトリックを用いたが、しかし、実際の政策においては、結局は市場重視の保守主義的政策を行なっただけ、と評価します。クリントンについては、権利と同時に責任も重視し、価値の喪失、家族とコミュニティの崩壊に取り組もうとしますが、党内のリベラル派に抑えられてしまったと評価しています。こうした記述をみていくと、たしかに「自己統治を目指す有徳な市民像」よりも「個人の権利を主張する市民」を認める方向に憲法判例は移行して行っているように見えます。

[ii] 『ニコマコス倫理学』では上記のほか、欲望の抑制や、愛、正義について触れています。「正義」については、正義の徳は「対人関係において発揮される徳」のことをいい、(NR下328)「他人のものである善」、他人との関係におけるもの、となっています。アリストテレスは正義を「配分的正義」と「矯正的正義」に分けました。配分的正義とは、名誉や財産をどう配分するのが正義にかなっているかということを問題にしていて、それぞれの人の価値(例えば業績や努力)に応じた比例的分配が正義であるとしました。もう一つの矯正的正義とは法の前で平等とされる市民の間に現実に存在する不均等を矯正する調整の正義であって、社会に生じた不正や歪みを調整します。たとえば、損害賠償や、犯罪により不当な利益をあげた場合の調整などがあります。

 

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