私たちはなんでこんなに「型」が好きなのか?(儒教と教育その1)〜日本の教育のルーツを辿る (21)

日頃、学校教員、行政、民間教育、保護者など、さまざまな角度から教育にかかわる人たちと「探究する学びの場づくり」をしていますが、とても気になることがあります。それは「探究学習」に対する憧れは強いものの、導入し、実践レベルになるととたんに躓き始めるケースが多いことです。そして、うまく行かないケースの場合、往々にしてあるのが「形」だけの導入です。

 

昨今「概念型探究」とか「探究型学習」、「プロジェクト型学習」という言葉が認知度を高めていますが、ここに「型」という言葉が使われていること自体、実は変ではないかと個人的に感じています。「概念型探究」に対応する英語はconcept-based-inquiryであり、「探究型学習」に対応する英語はinquiry-based-learningです。そもそも「型」ではありません。抽象化された「概念(コンセプト)」もとにプログラムを組み立てましょう、と言われているのに「型」を探すし、「型」を見つけてそれに当てはめて実践をし、それに行き詰まると「型」ごと放り投げてしまう、ということの繰り返しです。

 

もちろん、全ての実践がそうだというわけではなく、優れた実践も多いわけですが、どうしてこんなことが起きてしまうのでしょうか。「型」がいけないのでしょうか。それとも私たちの運用のしかたの問題なのでしょうか。

 

日本人は「阿吽(あうん)の呼吸」があるとか、「慮る」「空気を読む」などが得意であると、よく言われます。「言わなくても分かること」「言葉にしなくても通じ合う」コミュニケーションを重んじる傾向にあります。もちろん、こうしたコミュニケーションが海外にないかというとそんなことはありません。アメリカに5年住んだ経験だと、アメリカ人で「気にしい」な人は結構多いです。私が文化圏の違う国から来ていて言葉が上手ではなかったからかもしれませんが、顔色を伺いながら、受け入れられるだろうかと一生懸命に話す人は多い。ただ、その様子が微笑ましいほどぎごちないのは事実ですし、アメリカ人に比べると日本人はたしかに「阿吽」の関係を築くのが得意で、それに肯定的な印象を持っているかもしれません。ただ、日頃の「言わなくても分かる」コミュニケーションを大事にするが故に、意見の違う複数の人たちで何かをしようとしたときに「対話」ではなく「型」に頼ろうとしたり、抑圧に負けて自分の意見を引っ込めることもあるかもしれません。

 

一方で、PBL(プロジェクト型学習)の実践を含め、レッジョエミリア、国際バカロレアなどの現場を見ていると、「型」ではなく、上手に「概念(コンセプト)」を使って、対話をベースに自由なカリキュラムデザインをしています。彼らは、そもそも「型」なんて考えたこともないのではないでしょうか。

 

またもう一度戻って日本。最近の話でいうと「制服の自由化」「制服のジェンダーレス」というテーマでさまざまな取り組みが昨年度中学・高校で行われました。でも、当初は「なぜ制服が必要なのか」という「問い」に取り組んでいたはずがいつしかその問いから離れ、「制服を自由化することは正義である」という新たな「型」となってしまいました。そして、その「型」実現のための流行りのプロジェクトに移行していきました。「制服の自由化」は私たちの「自由」を考えるための根幹にもなるとても良いテーマですし、「自由化」されるべきは制服にとどまりません。だから、本来は、継続的な活動としてさまざまな場面で学校文化に変容をきたす重要なプロジェクトのスタートになるはずです。しかし、はたしてこの取り組みはさまざまな場面における学校の「自由」に向けて展開していくでしょうか。

 

 

私が日本の教育のルーツを辿りはじめたきっかけのひとつがここにあります。ただ、ここで「概念」を上手に扱える西洋の人のほうが優れているとか、「型」にはまってしまう私たちに問題があるとかいう話をしたいのではありません。単純に、どうして私たちはこれだけ「型」というものに愛着を感じ、その活用を願うのかについて考えてみたいのです。なぜ、みんな型にハマりたくないといいつつ、根底では永遠に「型」を探してしまうのでしょう。そもそも「型」は悪なんでしょうか。

 

今回は「儒教」をベースに、日本の教育のルーツをたどり、なにか私たちのそうした考え方の癖になるようなものが過去にないか、もしあったとすればそこに突破口を見出だせないか、考えていきたいと思います。

 

【自覚されない儒教】

 

儒教研究者の土田健次郎氏は「自覚されない儒教」という言葉を使いましたが[i]、実は私たちの日常は儒教によって意味を持たされた言葉で溢れています。そして、これらの言葉を私たちはほぼ無意識に使っています。私たちは学校で特段に儒教を学んだ感覚はありませんが、言葉を通じて、儒教は案外私たちのなかに入っているのかもしれません。

 

たとえば、最近教育の世界で「コンピテンシー」という言葉が頻繁に使われるようになりました。OECDが1997年にDeSeCoプロジェクトにおいて、さまざまな形で解釈・定義されていたグローバルベースで「コンピテンシー」概念を統一することがミッションになったこと[ii]が大きなきっかけとなっています。

 

しかし、先生方に「21世紀に必要なコンピテンシーを子どもたちに身につけさせましょう!」と言ったところで、先生たちの表情は曇りがち。でも、「人は天性、天分を大切にすべきものだから、子どもたちの天性をみとり、それが発揮できるようにしてあげましょう。」と言うと、なんだかパッと理解できたような明るい顔になります。力も湧いてくるのではないでしょうか。

 

「天性」の定義なんて私たちは日頃意識することはありません。「天」とはなにか「性」とはなにかなんてすぐ答えられる人はほとんどいません。でも、なんとなく感覚的に捉えられるような気がする。そして、その「天性」という言葉は『易経』などにみられるような儒教の言葉から来ているのです。

 

一方で、「修身」という言葉は教員でない限りあまり馴染みがないかもしれませんが、嫌な語感を持つ人は多いのではないでしょうか。「修身」は第二次大戦に敗れ、GHQによって停止されるまで存在した教科で、明治5年の学制で教科として位置付けられました。もともとは国民道徳の実践、徳性の涵養を目的とするものでしたが、明治時代に自由民権運動が学校教育に及ぶのを恐れた政府は儒教主義にもとづく修身教科書を編纂し、1890年にはいよいよ教育勅語の発布にあわせ、忠孝を核とする儒教主義道徳の面をもちながらも、道徳の源泉を国体に収斂するものになりました。その内容は常軌を逸した国体思想教育の強力なビークルとなり、第二次世界大戦に繋がります。特に満州事変後の1934年の第四次国定修身教科書では「忠良ナル臣民」、41年に発行された第五次国定修身教科書「皇国民」としての道徳になったため、その時代を間接的にでも知る人にとっては「修身」という言葉は、身の毛もよだつような言葉になっています。

 


尋常小学修身書  児童用 巻一 昭和11年 文部省 筆者所有

 

しかし、「修身」という言葉の元を辿っていくと、儒教の四書五経の四書のうちのひとつ「大学」の本当の冒頭(第一章第二段)にあり、なんらそのような恐ろしいものではないことがわかります。

 

 

金谷先生の解説によると儒教は一般に「修己治人(しゅうこちじん)」の教えといわれ、「己れ自身を修める」道徳説と「人を治める」民衆政治に政治説とを兼ねた教説が儒教だということ。そして、四書五経のうちの一つ『大学』がそのことを最も端的に、しかも組織的、簡潔平明な文章で表現した書物であると言っています。一般に儒教というと『論語』から入る人が多いと思うのですが、江戸時代の寺子屋や藩校では多くの子どもたちは6歳くらいから入学し、四書のうち『大学』から学び始めました。

 

『大学』の第一章(第二節)では「天下に明徳を明らかにしようとした人はまずその国をよく治めたし、その前に家(家庭)を整(斉)えたし、その前に身を修めた(修身)」ということで、世界および国全体が良くなるには、いきなりそこにアプローチするのではなく、その前に家が整い、自分が整うことが前提であり、そのための「修身」である、ということ。

 

さらに「修身」とは具体的にどういうことか、と進みますが、身を修めたいなら心を正しくせよ、心を正すのであればその意(心の音)を誠にせよ、その意を誠にするなら知を致(致知)す必要があり、そのためには「物に格る[ⅲ]」必要がある、という教えです。「致知」も「格物」も儒教では「格物致知」「格物窮理」などという言葉にあるように極めて大事な言葉ですが、ここでは「致知」は知を極限まで極めて、物事の道理に通じること(朱子学)だったり、自然に私たちがもつ良い心(良知)を最大に発揮することを指す(陽明学)と一旦しておけたらと思います。

 

また「格物」は物事の道理を極めて、そこに原理を見出す(格す(いたす))という朱子学の考え方もあれば、陽明学のように「格す(ただす)」という生まれつき備わっている良知を明らかにして、天理を悟る意味を持つようです。儒教の世界だとそもそも訓読みをどうするかに始まって、複数の解釈が存在するため、それだけでも私たちにとっては十分挫折要因なのですが、そこに入り込むことは「教育」と「儒教」を考える上で得策ではないので、ある程度のところでとどめたいと思います。

 

いずれにしても、今の私たちにとっても、とても響く言葉ではないでしょうか。「修身」がそういうものだとしたら、なぜ現在のような汚名を被せられなければならなかったのでしょうか。

 

【壊れたレコード】

 

ところで、「学習者を中心とした探究する学び」を日本の教育に根付かせようという試みは、特に大正期から繰り返し起きてきましたが、その度に敗北を続けています。こうした状況を楽曲の同じ部分を何度も繰り返して前に進まない「壊れたレコード」のようだと表現する人もいます(若い人はわからないかもしれませんが・・)。でも、こうした繰り返しは「修身」という言葉の私たちのぞんざいな取り扱いの中に隠れているように感じるのです。つまり、もともとの意味を掘り下げようとせず、すっかり忘れ、安易に悪者扱いし、新しいものを導入する「繰り返し」に私たちが無自覚であれば、意味のない反復も永遠に避けられないでしょう。

 

 

ここで「探究する学び」を「児童中心の学び」と言い換えて考えてみてもかまいません。「児童中心の学び」は大正時代にもたくさん試みられていたし、その前からも存在しました。しかし少しでも失敗すると「這いまわる経験主義」とレッテルをつけ、簡単に葬り去ってきました。でも、それでうまくいかなくなると、また「児童中心」が顔を出しはじめます。この繰り返しは「ゆとり教育」や「生活・総合」などでも起きてきました。もちろんこうした振り子構造は全世界的にもあります。しかし、政治思想家の丸山真男氏が『日本の思想』でも指摘したとおり、日本におけるその頻度と程度は顕著ではないでしょうか。

 

新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほど早い。過去は過去として自覚的に現在と向きあわずに、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時あって突如として「思い出」として噴出することになる。『日本の思想』丸山真男[iv]

 

「儒教」は特に江戸時代以降、第二次大戦で敗戦するまで、「教育」という文脈でも極めて重要な位置を占めてきました。先ほどの「天性」という言葉などにも現れているように、私たちが意識しないところで、大きな作用をもたらしています。だとしたら、「儒教」を過去の遺物だとしてしまって忘れ去っていいものでしょうか。「修身」という言葉の私たちの受け取り方にもみられるように、その真正な評価をせずに、前に突き進んでも澱のように私たちの深いところに沈殿した思考様式や思考回路に目を向けないと、それこそ、同じことを繰り返してしまわないでしょうか。

 

ここでいいたいのは「修身」を復活せよ、という話では当然ありません。そうではなく、なぜ私たちはもともとの「修身」の意味をあれほどまでにねじ曲げてしまったのか。その意思決定プロセスに健全な「対話」はもたらされていたのか、もし何か失敗があったとしたら、なぜその失敗を正面から問い直さないのだろうか。「修身」の過去を見たくないからといって、過去を忘れて反省しないのであれば、壊れたレコードになってしまっても仕方がないのではないかと思います。社会に不健全な部分があるのであれば、そこを見出し、変化させていく力を子どもたちにもたらすということは「教育」の非常に大切な役目ではないでしょうか。

そんなことも思いながら、次回は「そもそも儒教とは何か」ということを少し詳しく見ていきます。

 


尋常小学修身書  児童用 巻一 昭和11年 文部省 筆者所有

 

[i] 『儒教入門』土田健次郎 東京大学出版会 p186

[ii]『OECDEducation2030プロジェクトが描く教育の未来』白井俊(ミネルヴァ書房)p3および“OECD Future of Education and Skills 2030, Conceptual learning framework, TRANSFORMATIVE COMPETENCIES FOR 2030” OECD 2019
https://www.oecd.org/education/2030-project/teaching-and-learning/learning/transformative-competencies/Transformative_Competencies_for_2030_concept_note.pdf

を参照のこと。なお、現在「コンピテンシー」という言葉が使われた時に語感としてよくイメージされるのはアメリカの心理学者マクレランドがアメリカ国務省職員の採用において、外交官として優れた職員に共通する特徴を抽出した研究です。ただ、その元となるコンピテンシー概念の提唱は、1970年代にロバート・W・ホワイトによって行われ『モチベーション再考―コンピテンス概念の提唱』(新曜社)にまとまっているので、興味のある方は読んでみてください。

[iii] この読み方は朱子学のもので、陽明学では「物を格す(ただす)」と読みます。本ブログは朱子学を中心に読み解いていきますので、混乱を避けるため、ことわりのない限り今後、基本的には朱子学の読み方を使います。

[iv]『日本の思想』丸山真男 岩波新書 p13

 

 

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