儒教が分かると江戸の教育が分かる?(儒教と教育その3)―日本の教育のルーツを辿る(23)

前回、日常使う言葉のなかにも多く存在し、私たちの思考様式の見えないところに深い影響を与える「儒教」の存在について書きました。今回は特に江戸時代に「儒教」がどのように入り、受容されていったのか大きな流れだけ把握しておきたいと思います。

 

【日本における儒教の歴史―伝来から徳川以前】

 

まず日本に儒教が公式に伝わったのは仏教より早く、百済から五経博士という儒教の五経(詩・書・礼・易・春秋)を教学する学官たちが、日本にきた513年と言われています。それ以前『古事記』の記載によると5世紀には陰陽五行思想とともに伝来していたといわれ、604年の聖徳太子による「17条の憲法」[i]は仏教の影響も一部受けるものの、17条のうちの半分は儒教が由来になっています。

 

その後、飛鳥時代には蘇我氏の影響もあり仏教が広まっていきますが、645年大化の改新は、中国律令制を模し、位階について定めた官位令や喪葬など強い儒教の影響を受けます。平安時代初期の天武天皇の律令制においても、儒教思想が官吏養成に応用され、国家における学問研究を担う式部省の大学寮において明経道が教授されていきます。空海(774-835)は若い頃まさにこの大学寮で官僚を目指し儒教を学びますが、その後大学寮を飛び出し、山林での修行に入ります。

 

その頃、仏教は聖徳太子の遣隋使派遣をきっかけに隆盛していきます。804年の最初の遣唐使には最澄・空海が乗りました。聖武天皇が大仏造立の詔を743年に発布し、鎮護国家のための仏教としてまず知識層に広がります[ii]。平安末期から鎌倉時代になると法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、日蓮などが活躍し、仏教が日本人一般の精神生活の中に溶け込んでいきます。

 

一方で、儒教は大学寮での教授にも関わらず、中国のように科挙制度として取り入れられたわけでもなく、儒教本来の価値が定着しないまま歴史や漢文学、陰陽道に押され、衰退していきます。南北朝時代から室町時代にかけては京都五山や鎌倉五山など主に臨済宗の禅宗寺院において儒学が研究されましたが、十年にわたった応仁の乱(-1477)により京都は荒廃し、儒学者も地方に散らばります。室町から江戸幕府が開かれるまでは、日本における儒教は、大学寮の明経道において博士家が天皇に経書を講じるなどのほかは、禅宗の僧侶中心に、漢詩文などと並んで教養の一部として読まれるに過ぎなかったといいます[iii]

 

 

【徳川初期における朱子学の受容ー林羅山・山崎闇斎】

 

こうした状況ががらっと変わるのが徳川幕府に入ってからです。思慮深い徳川家康は、絶大な権力だけで天下太平を維持しうるとは考えず、武士階級の身分道徳から幕府の支配体制を確固としたものにすることを目指します。朱子学・道学・宋学など近代儒教の信奉者の藤原惺窩は徳川幕府成立直後、家康に謁見[iv]。門弟の林羅山を推薦し、将軍の侍講とします。羅山は幕府の援助とともに、江戸の忍岡に学堂(今の湯島の孔子廟)を建てます。

 

林羅山は独学で朱熹の『四書集注』を熱心に読み、『大学』『中庸』『論語』『孟子』を含め、日本で訓読できるテキストを作成します。こうして徳川幕府における儒教は朱子学の受容から入ったのですが、鎖国で入ってくる明代の船載書をもって『四書集注』の注釈に終始するのではむしろ朱子の真意を見失わせると江戸初期の儒学者、山崎闇斎は強く批判しました。

 

闇斎は幼い時に比叡山に入り僧になりますが、禅と決別し儒学者になりました。朱子原典に自ら訓点を付して定本を定めます。闇斎の塾は「崎門」と呼ばれますが「林家の阿世、崎門の絶交」と言われ、林家が幕府お抱えとして世におもねること、崎門はその厳しい思想的姿勢が揶揄されました。実際に闇斎の講釈の態度は極めて厳しいもので、一方的に闇斎が独演し、杖で高座を叩いたり、門人は怖くて顔をあげることもできなかったとのこと。しかし、江戸全期を通じて多くの門人を輩し、最後の崎門は昭和まで生きました。この学派が力を注いだのは、朱子学の基本文献の編集、出版、講釈。闇斎は居敬の修養法を重んじましたが、闇斎は晩年従来の神道と儒教を統合して、垂加神道を開きます[v]

 

 

【徳川初期における陽明学の受容ー中江藤樹・熊沢蕃山】

 

江戸初期には朱子学の批判として出てきた陽明学に傾倒する儒者も出てきました。代表的なのが『翁問答』の中江藤樹、そしてその弟子の熊沢蕃山です。中江藤樹の『翁問答』はとても読みやすく、その人柄がしのばれます。明治時代から昭和10年代までは小学校の教科書にも藤樹の逸話は教科書に収められ、学者としてよりは世俗としての名利に背を向けて田舎に隠れ住み、その徳を慕って教えを請うものの絶えなかった「近江聖人」としての藤樹が主に評価されてきました[vi]。『翁問答』を書いた当初は王陽明の全集を読んでいなかったにもかかわらず、その内容は一貫した理論で構築され、仏教から脱却し「孝」を説くあらたな世界観と実践原理を提示したことは見事であるという評価があります[vii]

 

藤樹の弟子の蕃山は藤樹の弟子でありながら、その宗教性に同調するよりも、経世済民論で多くの人々の尊信を集め、農兵、財政、治山治水、新田開発、北方国防など卓越した頭脳によって、活躍しました[viii]。ちなみに、藤樹・蕃山ともに「時・所・位」論、水土論によって、政治、法、礼などは普遍であるとともにその実行にあたっては国や時や地位の違いによって、実情に即して良いと考えました。中国儒教にとって重要な三年の喪を一年にしてしまう、というような大胆な考えも含まれています。熊沢蕃山の思想はむしろ幕末に再び脚光を浴び、藤田東湖、山田方谷、吉田松陰などが傾倒し、倒幕の原動力となりました。

 

なお、少なくとも江戸時代の初期には武士が学問をする、聖人の道を学ぶということは必ずしも当然の振る舞いではなかったようです。中江藤樹が大洲藩に仕えていた頃は、経書をひもといているのを同僚に見られないよう隠したとか、蕃山も武士が弓馬合戦に明け暮れる様子を伝えています。しかしその30年後には状況が大きくかわり、荻生徂徠の時代には「武士は君子であるべし」となります。そうした変化に大きく貢献したのが林家のエリートだった山鹿素行で、実践的な軍学(武士道)の源流をつくっていきます。朱子学では人は「理」によって生きるものでしたが、素行にあたっては「誠」によって生きることが人物のあるべき姿とされました。吉田松陰の家も山鹿流兵法の教授でした[ix]

 

 

【朱子学への批判と古学派―伊藤仁斎・荻生徂徠】

 

さて、武士中心に少しずつ広がり始めた儒教でしたが、まだまだ儒を職業として生活するのは難しい時代。武士、僧侶、医師などの知識階級の好学のものがぽつぽつと儒教を習い始めたとき、武士でもなければ僧侶でもない一般市民の儒家、伊藤仁斎が出ます。京都堀川にある仁斎の塾「古義堂」は別名堀川学校ともいわれ、当時は京都を代表する私塾として誉れ高く、伊藤家が1662年以来、三百年以上にわたって塾を守ってきました。仁斎は終生どの藩にも仕えず町の儒者として生前だけでも門弟が三千人を超えたといいます[x]

 

仁斎は、穏やかな人柄だったようで、30代前半から開いた古義堂には門人が続々と増え始めました。仁斎の学習組織は驚くべき民主的な組織と運営で、師と門弟という身分の差がなく、入塾試験も検定もなく、弟子たちが入門料を納めるだけ。会員は茶と菓子を持ってきて、その日ごとに会長を推薦して、もちまわりで主宰、講者が輪番で書を論じ、それをもとに討論しました。ちなみに上述の山崎闇斎の塾は堀川通りを隔てて向かい合い、その雰囲気は対照的だったようです[xi]。30代後半には「四書」の新注をスタートし『朱子集註』をひもときつつ、同志会の講義によって改訂するということを47歳まで続けます。なお、思想的には朱子学を厳しく批判するようになります。朱子学では「居敬」を重視しますが、仁斎は日常の徳を重要視しました[xii]

 

ところで、この時代、仁斎にとって中江藤樹は20歳上、山崎闇斎は9歳上、熊沢蕃山は8歳上、山鹿素行は5歳上ということで、大変短い期間に江戸時代を支えるような儒者が次々に登場します。そして、仁斎と同時代(3歳下)の貝原益軒[xiii]は、子どもの遊びを大切にし、子どものなかにある自然を大事にする『和俗童子訓』を書きました。『楽訓』『養生訓』など日常に即した柔らかい書物が多いのですが、相当の博学だったようです。いずれにせよ、この徳川前期は国中が一息ついた時期でした。一方で幕府における寺院の戸籍係化は仏教を形骸化させ、井原西鶴が揶揄するように当時弓馬のできない武士や、そろばんのできない商人の子が出家するような事態を招き、江戸時代は儒者が寺子屋の教師として僧に代わっていったといいます[xiv]。そして、少し安定した時期を経て、儒学のありかたを一変させる儒者、荻生徂徠が出てきます[xv]

 

荻生徂徠は新井白石と同時代で激しいライバル関係にありました。白石は将軍徳川家宣に仕え、徂徠は徳川綱吉の寵臣、柳沢吉保に仕えます。朱子学者としての道徳政治の実現を合理的人間観のもとに目指した白石に対し、徂徠は同じ朱子学を出発点としながらも、やがて独自の学問体系を樹立していきます[xvi]

 

徂徠は「道」を朱子学のように「天地ともに自然に存在するもの」とは捉えず、物事を営為・運用するのが人間の本性である、道はつくられたものである、としました。さらに聖人のたてた「道」は政治の技術であるとともに、教育の方法であるとも言いました[xvii]。徂徠にとっては聖人の道を歩むとは、五経[xviii]にあるような先王の道「礼楽刑政」を学び、その道がどのようにつくられているかを学ぶことに他なりませんでした。ここで「道」の認識が朱子学が天地自然の「理」だとして教えられていたものから、大きく変わります。朱子学では『大学』にあるように「道」は「身を修める(修身)」からはじまり天下太平に通じるように、「個」からスタートしますが、徂徠はまったく逆向きで「個」を超えた社会全体の側から「道」を構想します。「道」は世界を全体として統合する「定準」であり、社会の多様な事物、人間のあり方を全体として統合する「統名」だとします[xix]。こうした徂徠学の「道」の考え方は本居宣長、後期水戸学にも大きな影響を与え、幕末および近代日本の国家主義思想の源流となっていきます[xx]

 

また、徂徠は「古文辞」をベースにした独自の学習体系を形成しました[xxi]。中国の良質な古典に戻るべく、返り点・送り仮名に導かれながら読むのではなく、白文(中国の原文)に戻るように主張します[xxii]。当時山崎闇斎の塾で行われていたように、訓読された漢文を「耳で聞く」ことが「学問」となっている風潮に異議を唱えたものでももありました。「先王の道」が示され、本旨が失われていない「古」の文章を理解する足掛かりを古典に学ぼうとする徂徠のもとには、その後多くの俊才が徂徠の門下に集まり、しだいに学界の一大勢力を成すように育っていきます[xxiii]

 

 

【幕末の破天荒な儒者たち―佐久間象山と横井小楠】

 

荻生徂徠の社会秩序に基づきつつも人々の多様性を許容し、人の才を見出し発揮させる社会の「道」を説いたその教えは大きな影響を与えます。一方で朱子学が不振となったことを懸念した幕府はその指導力を取り戻すために上下の序列を重視する朱子学を正学として復興させ、流行していた古文辞や古学を規制します。それが1790年に「寛政異学の禁」であり、幕府の教学政策として朱子学が奨励され、林家の私塾は林家の門人が古文辞や古文を学ぶことを禁じられ、昌平坂学問所は幕府の直轄となります。

 

ただ、国内の異学派を禁じたわけではないため、仁斎の塾も継続したし、昌平坂学問所の塾長を経て儒官(総長)として天下に文名をはせた佐藤一斎は陽明学への理解深く「陽朱陰王」と呼ばれました[xxiv]。そして、佐藤一斎は佐久間象山ら幕末に活躍した英才を多数生み出します。いよいよ幕末は大変アクティブで破天荒な儒者たちが出てきます。

 

とくに佐久間象山と横井小楠については、吉田松陰・橋本左内・西郷隆盛・高杉晋作・坂本竜馬・勝海舟などをはじめとする維新期の人物群のほとんどはこの二人のどちらか、もしくは両方からの強い思想的な影響を受けています。彼らは幕府に意見をするだけではなく、黒船が来航し、徳川幕府が停滞する中で、危機感を伝え、具体的な政治の実行者としても動きました。横井小楠は1809年生まれ、佐久間象山は1811年生まれと同世代[xxv]です。二人とも思想家であるとともに、治国平天下の政治家でありたいと切望していましたが、その志も半ばに二人ともこれからというときに暗殺されました。

 

象山は信濃松代藩士の子として生まれ、22歳で藩から江戸の遊学で佐藤一斎の門に入り、30歳過ぎには大成した儒学者として認められるようになります。老中になった藩主真田幸貫は象山に海外事情の調査を依頼。象山は自力で翻訳洋書を読破し「海防八策(1842)」を建議します[xxvi]。「海防八策」では、アヘン戦争からイギリスが中国に続いて日本に手を伸ばす可能性を示唆、四海に囲まれ、どこからでも自由に攻めてくることが可能な日本では陸軍のみでは太刀打ち不可能、西洋式の火器を大量に造り、洋式軍艦を用意して強力な海軍を育成することの必要性を説きました。当時象山は30歳そこそこですので、その洞察たるや驚くべきものです。

 

残念ながらこの提案は当時は全く理解されませんでしたが、この仕事をきっかけに象山は西洋兵学を真剣に学びはじめ、やがてその興味は科学技術全般に及びます。1844年からはオランダ原書に取り組み、ショメールの百科事典を見ながらガラス制作、薬品の研究、馬鈴薯の栽培や養豚、開墾の道具作製に取り組みます。1848年には国元に帰るときに豚を連れ帰り、国元で殖産興業に熱意を燃やし、上信越国境の山地を調査[xxvii]します。しかし、その性格はかなりクセがあったようです。藩主真田幸貫は象山の自信過剰で傲慢なさまを「才智すぐれた非常の人物だけれど明徳暗く」と書いています。しかし、自力でオランダ原書を読めるようになった象山は、オランダ語の辞書を刊行。1851年に江戸木挽町に「五月塾」を開き、儒学・蘭学・砲術の塾を開きます。塾には勝海舟、吉田松陰、坂本竜馬らが入門。翌年には勝海舟の妹を正妻にします。

 

そして「海防八策」から10年、1953年にペリー来航となります。江戸幕府老中の安倍正弘に『急務十条』を奏上。しかし門弟の吉田松陰が海外渡航(密航)を決意して、象山に相談すると、象山はとても喜び松陰を焚きつけ、送別の詩や旅費を送り、漢文の密航趣意書に手入れしたところ、松陰は密航に失敗。こともあろうに艦上にあがるための小舟を流してしまいます。小舟に象山の送別の詩と密航趣意書の添削が入っていたため、国元で蟄居となります。蟄居生活は8年に及び、その間に通商条約交渉から井伊直弼の安政の大獄、桜田門外の変、幕政改革と時代が大きく移り変わります。1862年に蟄居が解かれ、ほどなくして象山は慶喜に京都に呼ばれますが、京都に出てきたところを攘夷派の志士の手にかかり亡くなります。享年54歳でした。

 

一方の横井小楠は、熊本藩士の次男として生まれ、藩校の時習館で際立った秀才が選ばれる特別な寮に入り塾長に。30歳のころ藩費による江戸遊学で林大学頭に入門し、当時70歳くらいになっていた佐藤一斎に敬意を評します[xxviii]。しかし遊学中の素行により帰国を命じられ、窮地におちいった小楠は国元で元田永孚らと学問と政治をつなぐ「実学党」を結成。843年には私塾を開き、その評判は九州一円に届くようになります。

 

40代に入ると諸国遊歴の旅に出て、大阪では緒方洪庵の塾にいた橋本左内にも会います。そのころ、越前藩(福井)に学校を興すことについての相談[xxix]を受け、招聘されます。福井では藩主松平慶永に厚く引き立てられ、1862年慶永が政事総裁職に任ぜられ、幕政の指導的立場にたったときに小楠は文久2年幕政改革の基本方針「国是7箇条」をまとめます。参勤交代の廃止、大名の妻の帰国、海軍の強化などが盛り込まれ、数百年の幕府体制をゆるがす大幅な改革であり、幕末維新の大きな指針となったと言われています。

 

1860年には咸臨丸で米国に行って帰ってきたばかりの勝海舟は小楠と会っていますが、小楠のことを「途方もない聡明な人だと心中大いに敬服、おれはいままでに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と、西郷南洲だ(略)横井は西洋のことは知らぬが、その思想の高調子なことは自分には梯子をかけても及ばない、横井の言を用いる人が世にあったらそれこそ由々しい大事」とベタ褒めしています[xxx]。相当優秀な人だったようで、幕府からの登用の誘いもありましたが、慶永のもとにとどまり、攘夷・開国にあたって誠心誠意対話することを唱え続けます。結局は明治維新は小楠の考えていたような理想ではなく、薩長連合の武力倒幕によって実現されました。その後、明治政府が成立し小楠も士籍を取り戻し新政府で参与となりますが、体調も崩し、その次の年には尊王激派の浪士に斬られなくなりました。享年60歳。

 

小楠を評価する研究者は多く、伝統的な儒教的理念の普遍化を通して、西洋近代を自らの体系のうちに包摂することができた[xxxi]、儒教をベースにしながらも、学問の眼目を「思」、堯舜三代の政治の本質を「仁」と整理するなど儒学の「型」を意識的に壊してそこから本質を取り出そうとした[xxxii]などと評され、キリスト教や西洋文明・技術に対しても非常にフェアな態度をとっていました。

 

 

【儒教とわたしたちの教育】

 

さて、3回に分けて「儒教と教育」をテーマにまとめてみました。19世紀の日本は民衆の学習熱が高揚し、手習塾から最先端の洋学塾までさまざまの私的な塾が成立した「教育爆発の時代」といわれているそうですが[xxxiii]、18世紀後半(天明・寛政期)にはすでに、藩校の増加による武士教育の一般化、藩校の増加や医学校、洋学校などの専門のための学校の増加、民衆への教化活動(郷学、幕府や諸藩における「孝義録」などの編纂や出版)、都市はもちろん、農村部までの寺子屋の普及・浸透、私塾の増加と多様化(漢学塾の他に国学、洋学、医学の塾の増加)など全社会的な教育・学習への需要や熱意の高まりが見られました[xxxiv]。士農工商の身分は人間価値とは関係ないとし、性別も紹介も問わない無料の講座を開いた石田梅岩のような思想家・教育家も現れます。

 

宝暦から寛政(-1801)にいたる時期は、公権力が教育のもつ意味を自らの政策の中で自覚、教育の組織化や制度化が幕藩領主層にほぼ共通の認識となり、藩校の設置や拡充に繋がっていきました。それまでの日本の歴史の中で、この時期ほど、教育的諸事象が全社会的、しかもほぼ全国的規模において活発さを示した時代はほかになかったそうです[xxxv]。そして、子供たちに文字の読み・書き、場所によってはそろばんを教える庶民の教育施設の寺子屋は全国の町や村にあり、天保期(1830~1844)には著しく増加。幕末になると全国で15000以上も存在していたと言われ、江戸時代の人々の高い識字率を支えました[xxxvi]

 

今回の儒教のまとめは「私たちはなんでこんなに型が好きなの?」という問いから入りましたが、どうだったでしょうか。むしろ意外と江戸時代の儒者たちは破天荒で、「型にはまらない」人も多かったようです。「守破離」という言葉も私たちは持っていますが、もしかしたら私たちはそもそも「型」がうまく使えていないのかもしれません。「概念を使う」「児童中心」ということが仮に「型」だとすると、その「型」も習得できていないのに、放り出すということを繰り返しているのかもしれない、と思ったりもします。

 

私から見ると、朱熹は「理」を説いているだけあって、非常に優れた「概念」の使い手であったように思えます。だとしたら、わたしたちのその受容の仕方に問題があったということはないでしょうか。もちろん私も居敬をやりたいかとか、経書を読みまくることで悟りに到達できるかというと、そんなに自信はありません。でも、朱熹の良いところを捉え、発展させることは出来なかったでしょうか。「一物一理」は「気」が常に運動を繰り返していることに鑑みると、その瞬間の「気」そして「物」の再現性は極めて低いわけで、一見同じ「物」に見えても多様な「理」がでてきて当然だという気がします。だとしたら「一物一理」は「一問一答」では当然ないはずです。これは道徳的問題なのでしょうか。

 

さらに「理」の決定基準を朱熹が決めなかったとしたら、それはたしかに課題だったと私も思いますが、それを「道」さらには「統名」に委ねたとしたら、そしてその「道」というものに対する理解がどこかでずれてしまったとしたら、そのことについて現代の私たちも話し合うべきなのではないかという気がします。現代における「教科書」や「学習指導要領」の問題は、「道」の話とは無関係ではない、と思うのは私だけでしょうか。洗いざらい読んでいない私の意見は、どこかで事実の捉え方を間違っているのかもしれません。ただ、それでも敢えて恥を忍んでこうした問いを置いてみたのは、まさにこういうことを誰かと話す場があってもいいのかな、と思ったからです。

 

そして、今回儒教を追ってみて思ったのは、現代の私たちの学校現場において、「型」そのものがいけないというよりは、むしろ「型」すらきちんと使いこなせていない、もしくは「型」とすべきものではないものを「型」と思い込む、さらには「型」の本質を捉えられず、間違った使い方を繰り返している、もしくは柔軟に扱えられていないのではないかということ。概念「型」とするなら、それもいいでしょう。でもちょっと試してみて「うまくいかない」と放り投げてしまうとき、それはそもそも対象を理解が出来ていないケースが圧倒的のように感じています。

 

いずれにしても、これだけ多様で魅力的な儒者が過去たくさんいたのに、今ほとんど省みられないのはなんだか勿体ない。まだまだ学べることはたくさんあります。今回とにかく儒教の全体像を知りたくて、さまざまな本を走り読むような結果となりましたが、これからはしばらくゆっくりと孔子の言葉を楽しみながら、また新たな発見が出来たらいいな、と思っています。もし「ここはおかしいよ」ということがあればぜひお知らせください。

 

3回に渡る長いブログ、、お付き合い頂いた方、ここまでお読みいただきありがとうございました。ではこの辺で。

 

参考図書

『近代教育思想史の研究』辻本雅史 思文閣出版

『日本学校史の研究』石川謙 日本図書

『江戸の朱子学』土田健次郎 筑摩選書

『儒教入門』土田健次郎 東京大学出版会

『日本政治思想史研究』丸山真男 東京大学出版会

『氷川清話』勝海舟 江藤淳・松浦玲編 講談社学術文庫

『宗教社会学論選』マックス・ヴェーバー 大塚久雄・生松敬三訳 みすず書房

『マックス・ウェーバー』マリアンネ夫人著 大久保和郎訳 みすず書房

『江戸の学びと思想家たち』辻本雅史 岩波新書

 

今回、江戸の思想の概観をとるために中央公論社の「日本の名著」シリーズを中心に読みつつ、見解や批判については最近の研究をチェックしながら纏めました。「日本の名著」は50年ほど前のものなのですが、解説が面白いのに加え、現代語訳が本当にわかりやすいです。下に挙げたものは基本的には解説は読んでおり、収録と明記されたものはざっと目を通す、もしくは一部精読という形で進めました。いずれにしても、本格的に調べられる方は元の文献にあたっていただくよう、お願いいたします。

『日本の名著 11 中江藤樹・熊沢蕃山』ー『翁問答』他収録

『日本の名著 12 山鹿素行』

『日本の名著 13 伊藤仁斎』ー『論語古義』『童子問』収録

『日本の名著 14 貝原益軒』ー『和俗童子訓』『養生訓』他収録

『日本の名著 15 新井白石』ー『折たく柴の記』他収録

『日本の名著 16 荻生徂徠』ー『弁道』『学則』他収録

『日本の名著 29 藤田東湖』ー『弘道館記述義』他収録

『日本の名著 30 佐久間象山・横井小楠』ー象山『海防論』小楠『遊学雑志』『学校問答書』『沼山対話』他収録

『日本の名著 32 勝海舟』ー『氷川清話』他収録

 

その他参考にしたのはこちら

『論語』金谷治訳注 岩波文庫

『大学・中庸』金谷治訳注 岩波文庫

『思想家が読む論語ー学びの復権』子安宣邦 岩波書店

『世界の名著 続4 朱子・王陽明』ー『朱子語類抄』陽明『伝習録』

『世界の名著3 孔子・孟子』 ー『論語』『孟子』

『詩経』石川忠久 明徳出版社

『礼記』下見隆雄 明徳出版社

『書経』野村茂雄 明徳出版社

 

[i] 『日本書紀』の記載による。ただし津田左右吉『日本上代史研究』の研究などにもあるとおり、成立時期や作者については、後世の創作という説があり、現代でも議論になっている。

[ii] 「国家主義の祖型としての徂徠」尾崎正英 『日本の名著16 荻生徂徠』中央公論社p53

[iii] 「日本儒教の創始者」貝塚茂樹『日本の名著 13 伊藤仁斎』中央公論社 p10, 『日本の朱子学』土田健次郎 p39 ほか なお、朱子学の伝来がいつかははっきりしないものの、臨済宗の栄西は1168年に南宋に留学して多くの典籍を持ち帰ったため、朱子学の紹介者と捉えられることが多いようです。天台宗の玄恵(-1350)は朱子学に通じ、後醍醐天皇の側近として仕えました。確証性が薄いようですが、玄恵は『庭訓往来』という江戸時代の寺子屋などでよく使われた初級の絵入り教科書の作者ともされています。なお、もともと朱子学は特に禅宗、および禅宗を理論化するときに使用された華厳数学から影響を受けたため、朱子学を深く理解できたのは、大学寮よりも禅僧であったと言われます。

[iv] 「日本儒教の創始者」貝塚茂樹『日本の名著 13 伊藤仁斎』中央公論社 p9-10 本文では、二条城での家康への謁見は1600年とありますが、二条城ができたのは1603年で他の文献をみても、1605年と考えるのが妥当そうです。そして、その7年前に藤原惺窩はすでに、唐の太宗による重臣との問答を記した『貞観政要』を講じていたそうです。

[v] 「日本儒教の創始者」貝塚茂樹『日本の名著 13 伊藤仁斎』中央公論社 P10, 『江戸の朱子学』土田健次郎 P78-, P54, 辻本雅史『江戸の学びと思想家たち』岩波新書 p62-72

[vi] 「藤樹・蕃山の学問と思想」伊東多三郎 『日本の名著11 中江藤樹・熊沢蕃山』中央公論社P10-29 この時代牢人の子として生まれた秀才が幕府諸藩に登用され、活動しますが、藤樹も蕃山も同じような秀才コースを歩むものの、在野の精神で一生を終えます。藤樹は27歳で大洲脱藩によって一生の在野人になりましたが、当時は世襲制による封建社会秩序の固定化が進む時期で藩を捨てて農に帰るというのは非常に勇気のいることだった一方、自由な思索の時間が許されたとも言われています。もともと朱子学の信奉者で、11歳で大学、17歳で四書大全を読み、成人してからは五経に移ります。30代前半に翁問答を書いた頃から、「規範は聖人のつくったものだから従え」ではなく「規範は人為ではなく天命」と説く陽明学に傾倒していきます。道徳的規範は自己の外にあるのではなく、内に求めるべきという王陽明の「致良知」 に著しく接近。37歳のころに『陽明全書』を入手し心学を取り入れますが、40歳で没します。蕃山は藤樹を「うまれつき君子の風格があった」と評しましたが、次第に宗教性を増し「孝」を道徳の根源とする全孝説を唱え、毎朝『孝経』を独唱し、道教の神を祀り、黙座澄心で神人感応の心境に入り「良知」を霊覚として理解したといいます。『翁問答』は新井白石にも大きな影響をあたえました。

[vii] 『江戸の朱子学』土田健次郎 P57-

[viii] 「藤樹・蕃山の学問と思想」伊東多三郎 『日本の名著11 中江藤樹・熊沢蕃山』中央公論社P11, P34- その思想の違いと藤樹への批判から蕃山は藤樹派からは疎まれました。

[ix] 「山鹿素行と士道」田原嗣郎『日本の名著 12 山鹿素行』中央公論社 p37-57 なお、田原氏は素行、仁斎、羅山など日本の儒学者は理気論を正確に理解しなかったというスタンスですが、そうではないという見解もでています。

[x] 仁斎は京都堀川のとても裕福な商家に生まれます。母方は代々幕府の御用連歌師の家系で、はじめの妻の従兄弟は尾形光琳と非常に文化的な家でした。秀才だった仁斎でしたが、太極・無極の根拠について悟りを得ようと禅的に取り組んでいるうちに神経症のような症状となり、二十代中盤からほとんど十年間門庭を出なかったので、近所の人にはすっかり変人だと思われていたそうです仁斎の長子伊藤東涯が仁斎の死後、その人生についてまとめ、親戚友人に配った『古学先生行状』から仁斎の人生が読み取れる。行状は中国の習慣。このあたりは「日本儒教の創始者」貝塚茂樹『日本の名著 13 伊藤仁斎』中央公論社 p12あたりに詳しい

[xi] 『思想史家が読む論語』子安宣邦 岩波書店 p15 なお、闇斎塾と仁斎の古義堂が向かい合っていたのは闇斎が会津に帰る前までの三年ほど

[xii] 『江戸の朱子学』土田健次郎 P116- 仁斎は朱熹の四書の括りを否定し、『論語』『孟子』のみを典拠とすることを主張したほか、朱子学は「本然の性」と「気質の性」の両方をたて、性即理を説くのに対し、仁斎は「気質の性」は気の影響を受けた生まれつきであり、「理」を「性」に関わらせることを否定します。宇宙の理法を人間の内面の問題にもちこむべきではなく、孔子が道の本質である日常倫理に全関心をしぼったことに着目しました。山鹿素行も、仁斎と思想的交流は認められていないが、「性」は「気質の性」だと考えて、朱子学から離れていき、井上哲次郎『日本古学派の哲学』では仁斎・徂徠と一緒に「古学派」に含められます。性は単なる生まれつきだが、礼によって善に向かうし、その礼を武士の威儀にみました。なお、丸山真男氏が『日本政治思想史研究』において、仁斎・徂徠の朱子学批判より朱子学的思惟の解体過程に近代的思惟の形成を見た点について、実態として朱子学派は近代まで解体せず存続したこと、また丸山真男氏の理気論理解にも難点があることなどの指摘があることが紹介されています。『江戸の朱子学』土田健次郎 P84-

[xiii] 父親は150石の武士。幼少期に母も失い家政婦に育てられ、博多の港町で庶民の生活を見ながら育ちます。18歳のときに城主黒田忠之の近侍となりそのまま48年間仕えます。50歳までは朱子学一辺倒で王陽明も好んで読みましたが、黒田家への仕えが一段落した70歳すぎから独自の著作をはじめ、『和俗童子訓』『楽訓』は80歳『養生訓』は83歳の時に著されました。

[xiv] 「貝原益軒の儒学」松田道雄 『日本の名著14 貝原益軒』中央公論社 p19-

[xv] 安定した時代とは、元禄文化(町人たちの文化)。井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門、浮世絵など。新井白石は1657年生まれで荻生徂徠の9歳年長です。白石は元禄6年(1693)に当時まだ甲府藩主だったのちの六代将軍徳川家宣に仕え、一方で荻生徂徠は元禄9年から五代将軍徳川綱吉の寵臣、柳沢吉保に仕えました。彼らの活躍した元禄から享保の時代にかけては文化、経済の面で目覚ましい発展がありました。家康、秀忠、家光の三代のうちに幕藩体制は整い、4代家綱を経て、5代綱吉の時には最盛期となります。武断政治から文治主義へと転換し、農業生産力が増大、大阪・京都など(上方)の商業都市が貨幣の流通とともに繁栄します。

[xvi] 「国家主義の祖型としての徂徠」尾崎正英 『日本の名著16 荻生徂徠』中央公論社に詳しい

[xvii] 「国家主義の祖型としての徂徠」尾崎正英 『日本の名著16 荻生徂徠』中央公論社 p39-48

[xviii] 「五経」は、孔子が先王がつくった文化・制度・事跡をベースに編纂したもので、その先王の教えや実績を伝える「書経」などがあります。

[xix] 辻本雅史『近世教育思想史の研究』p23

[xx] 「国家主義の祖型としての徂徠」尾崎正英 『日本の名著16 荻生徂徠』中央公論社 p55

[xxi] 徂徠の父親は徳川綱吉の侍医で、名医としての評判が高かったにもかかわらず、綱吉から処罰を受けて上総に流罪となり、徂徠は13年間の青年期を片田舎で過ごします。25歳ごろに芝の増上寺のあたりで私塾をひらきます。そのころ処女作『訳文筌蹄』を書き、徂徠の才能が一躍学界に知られるようになります。44歳の時に綱吉は没した後は、藩邸を出て江戸市中に居住し、学者としての活動に専念します。40歳前後にある破産した蔵書家から譲り受けた本のなかで明代の文人の詩文集に出会い、数年古文辞に熱中したという通説があります。

[xxii] 徂徠は白文に自分で返り点、送り仮名をつけながら読むべきだと言いました。たとえば「国破山河在」という白文があったときに、もし何も印がついていなければ、「国破レテ山河在リ」としてもいいし、「国ハ破レタレドモ山河ハ在リ」としてもいいことになります。その語感も含め、「読む」ということは「国」が主語で「破」が述語であるというような文章の構造把握があり、そこではじめてその意味(義)が分かるし、そこではじめて「読める」のではないかと主張します。

[xxiii] 徂徠の塾は蘐園塾(けんえんじゅく)と呼ばれました。ところで徂徠は伊藤仁斎の40歳くらい年下で仁斎の見識に敬服し書簡を送りますが(亡くなる直前だったせいか)その返事がこなかったため、仁斎は反感を抱き、激しく仁斎を攻撃したことは有名です。ちなみに徂徠の『問答書』は書簡を集めたもので入門書としてわかりやすく、『弁道』が徂徠の主張がもっとも体系的に述べられているといわれています。『学則』は訓点がすでについたものを読むのではなく、返り点・送り仮名のない白文を読むことの価値について書かれていますが、とても短くすぐに読めますので、おすすめです。

[xxiv] 佐藤一斎が42歳から40年をかけて描いた『言志四録』は西郷隆盛が終生の愛読書としたと言われています。

[xxv] 水戸学の藤田東湖 も1806年生まれで同世代です。東湖は徳川慶喜の父、常陸水戸藩9代藩主の徳川斉昭の腹心として水戸学の大家として本居宣長の国学を取り入れ、儒学と神道を一致させ、尊王攘夷思想の基盤を築いたと言われています。ただ、菊池謙二郎氏は東湖の「国体」を建国の神々について建てられていた制度の総体としての「統名」とする考えは、徂徠にもあった考えで、橋川文三氏も「国体論」は17世紀の日本の精神運動の一つの帰結でしかなく、東湖の思想は宣長、篤胤、徂徠学などにみられる一連の展開を逸脱するものではなく、きわめて自然な筋道を辿ったものと考えるのが妥当としています。日本の名著29 『日本の名著29 藤田東湖』p55 「弘道館記述義」『日本の名著29』 p223-225

[xxvi] 「上書海防策」老中斉昭にあてた書簡。中に「海防八策」がある。『日本の名著30佐久間象山・横井小楠』中央公論社 p116- 「イギリスは必ず日本に戦争をしかけるに違いありません。(略)日本を困らせて莫大な貿易を要求し、日本のいいところは全部吸い取り、国の力を弱め、ついには属国のようにしてしまうつもりなのでございましょう。しかし、それを恐れて最初から貿易を許したのでは、ことは穏便におさまるでしょうけれども(略)イギリスとの貿易は絶対に許してはならないと存じます(略)かといって(略)いまの状態では日本側にはとても勝ち目はないと思われます(略)外国からの侵略は、国内の争乱と違って、なりゆきによっては、世界に比類なく百代を超えてその血統が続いている我が皇室にも影響が及びましょう」p110-120 と、その洞察には驚くばかりです。

[xxvii] 「殖産興業」佐久間象山『日本の名著30 佐久間象山・横井小楠』収録。P191- 上信越国境(熊の湯、湯田中、横手山、高天が原など)の調査については『鞜野日記』p206 に収められている。

[xxviii] 「遊学雑志」横井小楠『日本の名著30 佐久間象山・横井小楠』中央公論社 p339-に詳しい。東湖のことは「弁舌さわやかで議論は緻密、学風は熊沢蕃山を好み朱流の究理学を嫌い、政治の実際に役立つ学問を心がけているようである。当年三十七歳、色黒の大男、なかなか見事」佐藤一斎については「元気そうな老人。人ざわりのよいものごし」と評しています。当時からケンベルの『鎖国論』を読み、キリシタン弾圧の是非について考えています。

[xxix] 「学校問答書」横井小楠『日本の名著30 佐久間象山・横井小楠』中央公論社 p361- では越前藩に学校について訊かれたときの小楠の問答が記されています。「学校とは教師が生徒を教えるところではない。そこで書を読むのが学問でもない。君主・重臣から諸役人にいたるまで、いかに良い政治をやるかということを日夜購究するのが学問であり、それをやる場所が学校。だから学校は政堂に隣接し、政治にたずさわる人間がそこで出会って討論するところにせよ」と学政一致論を唱えました。

[xxx] 『氷川清話』勝海舟 講談社学術文庫 p68 なお、この本は勝海舟の人物評論が面白く、傲慢な象山を“軽はずみ”とあまり評価していません。ちなみに勝は、藤田東湖にも厳しく「藤田東湖は、多少は学問もあり、剣術も達者で、一廉役に立ちそうな男だったヨ。しかし、どうも軽率で困るよ。非常に騒ぎ出すでノー。西郷(隆盛)は東湖を悪く言うて居たよ。おれも大嫌いだよ。なかなか学問もあって、議論も強かったが、本当に国を思うという赤心がない」と評しています。ただ、あくまで一個人の人物評のため、あまり引きずられないようにしたいものです。

[xxxi] 『江戸の朱子学』土田健次郎 筑摩書房 p14

[xxxii] 「理想のゆくえ―思想は政治となりうるのか」松浦玲『日本の名著30 佐久間象山・横井小楠』中央公論社 p71

[xxxiii] 「教育爆発」という言葉は『講座日本教育史』入江宏より。『近世教育思想史の研究』辻本雅史 思文閣出版 序章 孫ひき

[xxxiv] 『近世教育思想史の研究』辻本雅史 思文閣出版 序章

[xxxv] 『近世教育思想史の研究』辻本雅史 思文閣出版 序章

[xxxvi] 東京都立図書館 HP 「寺子屋ってなに?」

 

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