歴史は何のために学ぶのか(幕末の国学から考える)―わたしたちの教育のルーツを辿る(16)

ロシアによるウクライナ侵攻が始まって1ヶ月余りが過ぎました。このような時は、どうしても自らのことは棚にあげてほかの国のこと、またそれを率いる指導者のことを勢いよく批判してしまいがちです。でも、こんな時にこそ私たちは過去を振り返り、どうしたら同じことを繰り返さなくて済むのか、日常あまり意識することはないけれども私たちの日々の思考様式の中に、争いに繋がるような危ういものがないかを少し考えてみたいと思います。

 

この一年くらい日本の教育のルーツを辿っているのですが、明治時代から第二次世界大戦で敗戦するまで、学校が政府に巻き込まれ、公教育の仕組みを使って、「教育勅語」を中心とした国体思想教育が行われたことは、みなさんご存知のことと思います。そもそも、私たちの学校教育というものは、かならずしも民主的、合理的に決まってきたものではありません。特に明治時代、日本の骨格そのものがバタバタと決まった時代に、ごく一部の人たちが非常に短い期間に作ったものがそのスタートです。今でもその名残が多く残っています。

 

さて、明治時代に日本の近代教育の骨格づくりに、まず大きく関わったのが、福沢諭吉、中村正直、森有礼ら啓蒙思想家たちでした。彼らの多くは海外経験をもち、非常にリベラルな思想をもって、明六社を立ち上げます。しかし、彼らの啓蒙雑誌『明六雑誌』は自由民権運動の高まりの中の政府の言論弾圧でわずか1年半あまりで廃刊(明治7年)となります。その後、伊藤博文の強力な後ろ盾もあって、初代文部大臣となった森有礼は、初等教育の義務教育化や、帝国大学の予備教育機関としての中等教育の設計や教科書検定制度など、日本の近代学校制度の骨組みを作りました。

 

しかし、西洋かぶれであると考え、森を面白く思わない人たちがいました。森が文部大臣になってちょうど2年経った頃、明治21年10月に伊勢神宮不敬事件がおきます。翌年2月11日。大日本帝国憲法発布の日。森は不敬行為の報道を信じた国粋主義者に刺され、亡くなります。森の亡くなった次の年、「教育勅語」が下されます。形式的には、明治天皇の勅語の体裁を取りますが、実際には井上毅、元田永孚らが起草したもので、忠君愛国主義と儒教的道徳を基礎としたものでした。その後、勅語は神聖化され、日本は歯止めがきかなくなったように、常軌を逸した行動をとるようになっていったことは、以前書いた通りです。

 

さて、その明治天皇ですが、今、東京の原宿駅の近くにある明治神宮に昭憲皇太后とともに御祭神として祀られています。初詣は例年日本一の参拝者数を集めるそうです。私の友人の何人かもこちらで結婚式をあげました。私の家の近くには熊野神社があり、私もお正月には初詣に行きます。このように、私たちにとって神社はとても身近なものです。もう少し足を伸ばすと吉田松陰を祀った松陰神社が世田谷にあります。小学校から高校にかけて住んでいた地域には碑文谷八幡があり、そこのお祭りはとても大きなもので、毎年行っていました。その後住んだ家の近くには氷川様があり、お祭りの日には毎年驚くほどの高確率で雨が降ります。亡くなった父は、晩年奈良にある三輪山に何度も足を運んでいました。私も大好きな神社です。

 

ただ、それらの神社が何を祀っているかなんて、今までそんなに気にした事がありませんでした。でも徳川家康のような過去の武将が日光東照宮で神様として祀られていたり、よくよく考えると「人」も「神」として祀られるって、なんだか不思議な気がします。その中でも今回は、江戸時代後期から明治初頭の「神」概念に大きな影響を与えた平田篤胤を中心に、その時代の風景を理解してみたいと思います[i]


平田篤胤 (江戸ガイドHPほか)

 

【幕末から明治にかけての平田国学と神】

 

幕末の時代、徳川慶喜の大政奉還をうけて、明治新政府の設立を宣言した王政復古の大号令(慶応3年)が明治天皇によって発せられました(勅令)。ここでいう復古の「古」とは、神武天皇の時代に遡ることが示され、祭政一致の政体に回帰することだそうです。この時に、この祭政一致の政体、つまり神道の国教化に大きな影響を与えたのが、江戸時代に形成された平田派の国学を信奉した人たちだったといいます[ii]

 

平田篤胤というと国学の四大人の一人です。国学の四大人というのは、賀茂真淵の師匠であった荷田春満、賀茂真淵、真淵の門人であった本居宣長、そして、宣長の死後に「没後の門人」を名乗った平田篤胤の四人のことです。しかし、私たちが通常歴史や国語で学ぶのは圧倒的に賀茂真淵と本居宣長ではないでしょうか。平田篤胤を知っている人は少なく、仮に知っていたとしても「戦前戦後の皇国史観の平田篤胤」というイメージが強いようです。私も名前を聞いたことがあるかな、、くらいの認識でした。ただ戦争に繋がる私たち、ということを考え、さまざまなものを読んでいたとき、平田篤胤についてはきちんとわかっておかなければならないという気がしてきました。平田篤胤が皇国史観の張本人とされていた時期があったとしたら、なぜそのようになってしまったのでしょうか。篤胤の思想をどのように過去の日本人(私たち)は受容し、解釈し、戦争に利用してきたのでしょうか。

 

さて、篤胤は秋田の大番組頭の子として生まれ、非常に貧しい中、学問にも恵まれずに育ったと言われています。当時の日本は、社会秩序が崩壊し、民心には不安が広がっていました。天明の大飢饉、一揆や打ちこわしが頻発、松平定信による寛政の改革などの努力がなされ、非常に不安定な時代でした。篤胤は20歳の時に脱藩して江戸に来て、大八車の車夫、火消し、流し、飯炊などのほか歌舞伎役者市川團十郎の子女の教育、などで生計を立てながら西洋の医学・地理学・天文学などを苦労して学びます[iii]。その後、25歳で山鹿流兵学者の平田藤兵衛篤穏に才覚を認められ、翌年結婚。国学に目覚めますが、本居宣長はもうすでに亡くなっていました。そこで、夢の中で本居宣長とちぎりを結んだとし、宣長の長男に願い出て「没後の門人」を名乗ります(本居宣長との「夢中対面の図」篤胤30歳のころ)。知識欲に貪欲な篤胤は、独学で本居宣長の国学を学び、同時に西洋の情報も仕入れていきます。激しい著述活動でまともに睡眠をとることがなかったといいます。


(本居宣長との「夢中対面の図」 本居宣長記念館HP)

 

1812年、37歳の時に書き上げた『霊能真柱(たまのみはしら)』によって、宣長とは違う篤胤独自の国学を形成したと言われていますが、歴史家の宮地正人は、1792年から1813年にかけての対露危機に対する篤胤の深刻な受け止め方を評価しています[iv]。当時の西洋の世界包摂の動きはキリスト教の布教が天文学を中心とする自然科学や近代医学と一緒に行われ、それに対抗しうる神を持たない地帯ではキリスト教が新しい宗教になっていきました。その時にいかに土着の信仰をより体系的でより民衆の心の中に根を張ることのできる宗教に成長転化させることができるかどうかが切実な課題となっており、それを極めて早い時期に、ある宗教感覚を持って受け止めたのが篤胤だとします。

 

篤胤は、「神」と「霊魂」の問題を真剣に考える中で、宣長の『古事記伝』に付された服部中庸の『三大考』を手掛かりに儒教説・仏教説を徹底的に拒絶した復古神道神学を構築していきます。結果として、六十六ケ国二島の御民の魂の安着のために霊魂の行方をはっきりさせるべく、師である宣長の説に対抗することになります。宣長は、死後は善人も悪人もみなあの悪しき夜見(黄泉)の世界にいく、それは悲しいこと、「せんかたなし」としました[v]。しかし、篤胤は私たちの霊魂は亡くなっても、幽世の世界に止まるとしたことで、地域と産土神の位置付けをしっかりと結びつけ、現世が辛くとも祖先と村を大切に守り維持する役割を持つということを生活意識の中に確立していきます[vi]

 

篤胤は「生きては天皇の顕界の御民であり、死後は大国主神が主宰する「幽冥」の神となり仕える」ため、死後は怖いものではないし、私たちは幽冥界が見えなくても、幽冥界からはこちらが見え、神はいつも私たちを見守り、加護するのだとしました[vii]。そうして、民衆の日常や不安に寄り添うかたちで、彼らの俗信や祭礼を建国にも関わる記紀神話の神々の系譜や文脈と繋いでいきます。寺子屋の師匠たちや、村々にいた漢方医、在地の名手、庄屋、篤農家たちに、六十六ケ国二島の御国の御民と天子との情緒的共同体を出発とした神道神学を伝え歩きます。在地の名望家である神職たちへの影響力を強めるために江戸時代の神職を統括していた吉田家や白川家とも関係をもつようになっていきます[viii]

 

こうした平田国学の考えは天皇の政治世界と民衆を繋ぐものであり、民衆の秩序維持に責任をもつ地域の名望家層にはその考えが非常に魅力的に映りました[ix]。当時の儒教的封建教学は将軍・旗本・御家人・大名と家臣の関係を、上位者が絶対的に優先する君臣の義、主従の義を強調し、百姓・町民を呼び捨てにするものでした。こうした篤胤の考え方が民衆に勇気を与えるものだったことを想像するのは難しくありません。1823年には、旅をして京都では光格上皇、仁孝天皇に自著を献上し、伊勢神宮参拝を経て松坂では念願の宣長の墓参を果たし、社会的にも認知されていきます。しかし、篤胤が60歳前後のころ、天保の大飢饉(1833-37)に見舞われます。大塩平八郎の乱(1837)も起こる中、幕府による秩序回復が急務となっていきます。篤胤は66歳の正月を迎えたその元日に秋田に戻され、幕府からは著述も禁止されました。篤胤は江戸での再起を願ってさまざまな工作をする中、1843年、68歳で病没しました[x]


(嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航 ペリーに随行した画家ウィルヘルム・ハイネによるリトグラフ 参考:明星大学図書館

 

篤胤の死後10年ほどしてペリーが来航します(1853年)。たった4隻の黒船に幕府が対峙できなかったという事実は、百姓、町民たちから年貢・夫役・御用金を取り立てる資格は武家階級にはもはやないことを白日のもとに晒してしまいます。漢学と儒学による封建的な主従関係に失望が広がり、そもそもの疑問が持たれるようになります。そのような中で、藩校でもそれまで軽視され続けてきた国学・古道学が見直されはじめます。篤胤の死後になってから幕末にかけて、篤胤の唱える神道が神職を先頭に日本の隅々まで浸透していき、百姓・商人たちもその中に入っていました。力量のある国学者も輩出されます。島崎藤村の『夜明け前』にもみられるように、東濃・南信地域はあらたな平田国学の拠点となりました[xi]。草莽といわれる在野の尊皇攘夷活動家が各地に増えていきます。篤胤の門人は生前で553人、没後の門人は1330人、明治9年までの平田塾(気吹舎)の門人は4200人にのぼったといいます。

 

さて、平田門人たちは、神武天皇の時代に遡って神道を中心とした祭政一致を求めた慶応3年の王政復古を「新たないにしえ」と捉え、期待に胸を膨らませます。慶応4年、五箇条の御誓文の翌年には神祇官が設置されます。さらに翌年、大教宣布がなされ、政府は各地に宣教師を派遣し、神道の国教化をはかります。慶応4年には社僧(神社に属する僧侶)の還俗が命じられ、神仏判然令が出されます。いわゆる廃仏毀釈が徹底的に行われます[xii]。しかし、伊藤聡『神道とは何か』によると、早くも王政復古の翌年に神祇官は神祇省として、太政官の一省として格下げとなり、後退し始めます。平田派の主張するような祭政一致の政体の実行が困難だとされ、平田派の多くが神祇省から排除されたといいます。明治4年には廃藩置県が断行され、平田派が大事に考えていた神職の世襲制は廃止され、伊勢神宮を頂点とした社格の整理が行われます。神道は布教能力に乏しく、国教化は仏教界の協力なしには、目的遂行ができなかったとして、明治5年には神祇省は教部省に編成され、神道・仏教が共同して、キリスト教を排斥する体制を作ったと言います。しかし、キリスト教排斥に対する西欧諸国の反発は強く、明治7年には高札の廃止。明治8年には大教院を解体し、教部省も廃止、内務省社寺局となります[xiii]

 

島崎藤村『夜明け前』でモデルとなった平田門人である藤村の父親正樹は、憂国の建白を繰り返し、相次ぐ挫折の末に発狂し、座敷牢で死去します。明治19年1886年のことでした。しかし、こうして平田国学は一旦お取り潰しのようになったにも関わらず、第二次大戦において日本の歴史が万世一系の天皇を中心として展開されてきたといういわゆる「皇国史観」の立役者として利用されるようになります。

 

【平田篤胤に対する批判と再評価】

 

さて、今までどちらかというと平田篤胤を肯定的に捉えてきましたが、そもそも篤胤の論の立て方は非常に危ういものであるという指摘はあちこちでされています。篤胤は、古今の資料だけではなく西欧、中国、インドの文献を渉猟しました。『霊能真柱』にはキリスト教の影響が見られ、天地創造神話をメタファーに、天地開闢にあたっては、はじまりの混沌たる原質から天・地・泉(月)から成る宇宙がいかに生成されたかを説きつつ、儒教・仏教を排除した神道を説いていきます。宣長が『古事記』の文献の権威を認め、徹底的な文献学的解釈を行い「古道」を取り出したのに対し、篤胤は、古今東西さまざまな文献を読み漁り、自分の思想に都合の良いものを取り入れていきます[xiv]。海外の文献すら引き合いに出していくため、その思想は、日本が世界の宗国であり日本の古伝・民俗にはもっとも正しいものが流れている、ということにも結びついていきます。

 

たしかに『古道大意』には「皇国史観」に利用されやすい記載はあちらこちらに見受けられます。さらに「生きては天皇の顕界の御民であり、死後は大国主神が主宰する「幽冥」の神となり仕える」という主張は、生きている間(顕界にいる間)は、天皇に仕えなさいといいつつ、死後の安寧を説く訳ですから、非常時に悪用されると取り返しのつかないことになります。

 

篤胤は、宣長の「もののあはれ」は全く継承せず、『古事記』などでの矛盾を主観的に再構成した自作の文章を註解するなどの手法にも及び、文献学的・考証学的手法の徹底を旨としてきた本居派門人の多くからは、邪道・逸脱として捉えられるようになります。

 

ちなみに、当時、後期水戸学でも、天皇中心の国体論を唱えることで、「内憂外患」の克服を目指していました。この国体論は記紀神話を儒学の概念と言葉で語った宗教体系を備えていたため、武士層の心を捉えていきますが、水戸学者、藤田東湖は篤胤を評して以下のような言葉を残しています。篤胤のイメージを伝えるものとして有名なものだそうです。

 

「平田大角(篤胤)なるものは奇男子にござ候。(略)その怪妄浮誕(とりとめのないでたらめ)にはまり申し候えども、気概には感服つかまつり候。(略)三大考を元にいたし附会(こじつけ)の説をまじめにわきまうるはあきれ申し候えども、神道を天下に明らかにせんと欲し、今持って日夜力学、著述の稿は千巻にこえ候。気根、凡人にはござなく候。」[xv]

藤田東湖  水藩人物肖像  国立国会図書館HP

 

これだけ読むと、「トンデモ本」を量産する風変わりな人、という感じですが、2001年に代々木の平田神社に伝えられてきた平田篤胤、銕胤、延胤、盛胤の四代にわたる気吹舎資料の研究ができることになったようで、近年再評価もされているようです。さらに、篤胤は、しばしば神かくしにあって仙人の世界を知っている寅吉という少年をつかまえて、執拗に仙人の世界を聞きだそうとした『仙境異聞』というものを書きました。『古今妖魅考』など、妖魅、幽郷、物怪を取り扱った一連の著作があるのですが、折口信夫は篤胤の「人間世界の外に、日本人の考へてゐた、別のものがあるといふことを調べようとした」というその姿勢を評価しています[xvi]

 

私も篤胤の論の立て方はともかくとして、霊がこの地に共存するような感覚は私にもあるし、昔のテーマというよりは、今若い世代が触れているアニメーション(呪術廻戦、鬼滅の刃、おおかみこどもの雨と雪、君の名は、+宮崎駿作品などなど)の世界でも繰り返されているモチーフではないかと感じます。

 

【私たちの歴史認識を問う】

 

前出の宮地正人氏は、「戦後の歴史学は、悪いことは平田国学のせいだとすれば事が済むとでも思ったのでしょうか。神仏分離も廃仏毀釈も国家神道樹立もすべて平田国学のせいにされてしまいました。しかし私は復古神道と国家神道は全く別物だと思っています。」と言いました。子安宣邦氏も『平田篤胤の世界』で「近代日本の歴史は平田篤胤を国粋主義的なイデオローグとしてのみ伝えてきた。逆にいえばそのようなものとしてのみ篤胤国学は近代日本に残存した。(略)篤胤国学がなにゆえ明治以降その思想的生命を絶ち、国粋主義的イデオロギーとしてのみ天皇制政府に貢献したのか(を考えなければならない)。」と書いています[xvii]

 

こういうことを調べていて痛切に感じるのが、私が教科書から得てきた「歴史認識」を問い直す必要性です。平田篤胤も、森有礼も、その時代に大きな影響を与え、戦争を引き起こすための思想に巻き込まれている部分があるのに、教科書ではほとんど触れられません。教科書は、何を取り上げ、何を取り上げないかだけでも、十分になんらかのイデオロギー的な主張をします。私の「歴史認識」は要は「教科書の歴史認識だったのだ」という発見はとても恐ろしいものです。歴史教科書問題は繰り返されていますが、そもそも「正しい」唯一の歴史認識なんてこの世に存在するのでしょうか。

 

ところで、先進諸国、特に西洋諸国で国際的に教科書の使用義務がある国はほとんどありません[xviii]。イギリス、アメリカ、フランス、オーストラリア、ドイツ[xix]は教科書使用義務がありません。国家レベルでの検定制度もありません(教科書は無償支給です)。娘もアメリカの学校に通い、いわゆる検定教科書のようなものはありませんでしたが、不安を感じることはありませんでした[xx]

 

例えば、米国の連邦スタンダードのCommon Coreにおける6-8年生の歴史のガイドラインだと、一次資料と二次資料がわかるように引用すること、引用を正確に要約すること、著者の視点や目的を明らかにすること、資料における事実(fact)と意見(opinion)と合理的判断(reasoned judgement)を明確に分けること、同じトピックにおける一次資料と二次資料の関係を見極めることなどが求められますが、指導コンテンツの具体的詳細の指示はなく、むしろ、有象無象のものも含めて受け取った情報を整理し、歴史的資料を批判的に読むトレーニングを重要視しています。

 

また、国際バカロレア機構(本部ジュネーブ)が提供する国際的な教育プログラムの高校生対象のヒストリーガイドでは、歴史という学問そのものが多角的な視点(multiple perspective)と多様な意見(plurality of opinions)を許容した上での解釈的なものであるとし、過去を批判的に探究し、さまざまな歴史解釈を理解することを求めています。さらに、歴史を学ぶにあたっての根本理念として、人種や宗教や階級の壁を取り払い、文化の多様性を尊重し、なによりも「平和」を希求することを第一とする、と書いてあります。なお、「平和への希求」はお題目ではありません。カリキュラムとしても全ての生徒は「軍事指導者」「征服とその影響」「世界規模の戦争への動き」「権利と抗議運動」「紛争と介入」の指定5項目の中から必ず一つを選択し、世界の異なる地域の事例2つを使用し、自ら深く学ぶことが求められています(本単元の推奨授業時間数は40時間)。

 

ちなみに、国際バカロレアには「知の理論(Theory of Knowledge)」という授業があります。これは高校2年間のディプロマプログラムの間に100時間の必修として全員が受けるもので、徹底的に自分の「知識」を批判的に考察していく時間になります。たとえば、「文化の影響を受けない知識はあり得るのか」「歴史学者は客観的に歴史をつくることはありうるのか」というプロンプトが提示されて、それに対して批判的に考え、レポートを書いていきます。私たちが「知っている」と主張することは、一体どのように知ったのでしょうか。

 

「知識のどのような特徴がその信頼性に影響するのか。」
「確実性というのは、どの程度達成可能なのか」

 

「どのようにして私たちはそれを知ったのか」は中心となる問いとして繰り返し問われ、自分の知識がどのように出来上がり、いかにバイアスがあるかを学んでいくのです。そのなかには宗教のテーマも含まれます。自分の思考にバイアスがあることがわかれば、人の思考にバイアスがあることも見抜けるようになります。お互いの知識の前提を知ることによって、より良いコミュニケーションが可能になります。そこには、世界平和のためには自己を疑い尽くさなければならない、という強烈なメッセージがあります。

 

もともと国際バカロレアは1968年にジュネーブで設立された団体ですが、二度にわたる世界大戦への深い反省がその根幹にあります。また、世界各国から国連などで働く職員の子女や外交官の子女が集まる地でもあり、彼らの母国における進学問題は大きな課題でした。そのため、その学力を保証し、証明するディプロマを出す、というのがスタートです。なので、自ずと、さまざまな人種と宗教・文化的背景の子女が集まります。イスラム教徒、ヒンズー教徒、仏教徒、キリスト教徒が一緒に学ぶことは日常の風景です。民主主義の国から来た子もいれば、社会主義の国から来る子もいます。特定の思想やイデオロギーから自由なカリキュラムを組むことがそもそも求められていたとも言えます。こうした団体から出てきたカリキュラムから学ぶことは多いように思います。

 

平田篤胤に関わらず、国体論や皇国史観に利用されて、捨てられたかのように見える人たちを見るたびに、私たちは本当に戦争を反省しているのだろうか、と思ってしまいます。だって、つい数十年前に私たちは、国体論や皇国史観で燃え上がり、もしくは日本の政府や軍に結局従ってしまい、あのような戦争を引き起こしました。それなのに、その原因を私たちの自身の思考の癖や構造に求めず、特定の歴史的人物に罪をなすりつけているようでは到底戦争を反省しているとは思えないのです。また仮に「教科書」のありかたやその使い方から、私たちが「唯一の正しい歴史観」があるように感じてしまっているとしたら、そこに再考の余地はないでしょうか。何のために私たちは「歴史」を学んでいるのでしょうか。

 

長くなってしまいました。。ここまで読んでしまった方・・・私の拙いメモにお付き合いくださり、ありがとうございます。 今日はこの辺で。

 

<参考に読んだもの>

『日本の思想史における平田篤胤』相良亨 「日本の名著24 平田篤胤」中央公論社

『平田篤胤の世界』子安宣邦 「日本の名著24 平田篤胤」中央公論社

『古道大意』平田篤胤「日本の名著24 平田篤胤」中央公論社

『霊能真柱』平田篤胤「日本の名著24 平田篤胤」中央公論社

『仙境異聞』平田篤胤「日本の名著24 平田篤胤」中央公論社

『夜明け前』島崎藤村 「日本の文学7」 中央公論社

「平田国学の幕末維新」宮地正人 明治聖徳記念学会紀要 H30.11 講演録

「宗教史から見た幕末維新期の平田国学」遠藤潤 明治聖徳記念学会紀要 H30.11 講演録

『神道とは何か』伊藤聡 中公新書

『神道の成立』高取正男 平凡社ライブラリー

『日本的思考の原理』高取正男 ちくま学芸文庫

『日本の歴史を読み直す』網野善彦 ちくま学芸文庫

『【地理歴史編】高等学校学習指導要領』(平成30年告示)文部科学省

『【公民編】高等学校学習指導要領』(平成30年告示)文部科学省

 

[i] ちなみに私は大学受験では世界史を選択しています。なので、そもそもあまり日本史には馴染みがなく、歴史ものの小説などもほとんど読んできませんでした。そうした無知に対する恥ずかしさはあるのですが、無知故に、下手な固定観念もないかもしれないと、勇気をもってまとめてみます。認識違いや、言葉の用法、定義その他の不備については、ご指摘いただければ幸いです。

[ii] ちなみに、平田派、津和野派の国学者、神職、水戸学の人たちが主導した廃仏毀釈の期間は極めて短いものでしたが、徹底的に組織的に行われたため、その被害は甚大なものだったそうです。たとえば、藤原氏の氏寺として、中世では大和一国の国主でもあった興福寺は、春日大社と一体だったため、廃寺となり、僧侶全員が還俗させられました。五重塔が25円で売られ、食堂、一乗院、大乗院などは収公、破却され、明治14年に再興されますが、今私たちが見ている興福寺は往年の姿を取り戻すことはできなかったと言われています。また、神道国教化は挫折しますが、神社制度の再編は着実に進行し、世襲神職の禁止、伊勢神宮、宮中祭祀の改革、神社祭祀の体系化、社格の整理、神社合祀などが行われていきます。『神道とはなにか』伊藤聡 P4-6

[iii] 『日本の思想史における平田篤胤』相良亨『日本の名著 平田篤胤』P30

[iv] 篤胤は、ロシア語も含む幕府の極秘文書まで収集し『千鳥の白浪』(1813)を書きあげています。

[v] 和辻哲郎は、宣長のいうような「せんかたなし」と悲しむことには、女々しいかもしれないが永遠の思慕があるとした。その悲しみと思慕は溶け合い、悲しみは不可知な永遠なるものへの感情的な極めて消極的な触れ方である。『日本の思想史における平田篤胤』相良亨『日本の名著 平田篤胤』P12 サマリー

[vi] 宮地正人 講演録「平田国学の幕末維新」2018年11月

[vii] 篤胤のように幽冥界の関心が学問探究や思想形成の契機になるというのは、本居宣長にはまったくないという見解が主流のようです。「宣長はむしろ幽冥界への関心や、それにもとづく生死の教説を漢心として退ける。宣長にとって、漢心とは人間の事象を率直に見ようとしない思弁癖。死の不安から仏教に救済を求める情は認めたが、その救済の論理を展開したり、死後世界への観念的思考へといざなうことをよしとしなかった。どうしようもなく訪れる死の不条理、悲しさをとりだしつつも、その不条理を克服する観念的志向を抑制する。」 『日本の思想史における平田篤胤』相良亨『日本の名著 平田篤胤』P26

[viii] 江戸時代の神職を統括していたのは吉田家と、白川神祇伯爵家でしたが、最終的にどちらも篤胤に協力を求めることになりました。白川家は、神祇伯として朝廷祭祀を担当し、伝統的権威を保持する名門であり、吉田家は江戸幕府と繋がって、全国の神職を統括していました。白川家は、近世後期になると地方の神官に影響力を強めていく中、平田篤胤を重要視し、吉田家も白川家に対抗するために、平田国学に近づいたようなこともあったようです。遠藤潤 講演録「宗教史から見た幕末維新期の平田国学」2018年11月ほか

[ix] 宮地正人の講演録『平田国学の幕末維新(2018年11月)』

[x] 『日本の名著 平田篤胤』P37-8

[xi] 東濃・南信地域は昭和恐慌まで日本を代表する養蚕・製糸業の地域で、経済力があり、中津川の豪商の力が強く、武士が大きな顔をできなかった地域だったことも影響しているそうです。また、南信も飯田班と高遠藩という小藩のみで、村の庄屋や名主の力が強く、経済力に裏打ちされながら平田国学が浸透していったといいます。 宮地正人 講演録「平田国学の幕末維新」

[xii] 『神道とは何か』伊藤聡 中公新書 P3-4

[xiii] 『神道とは何か』伊藤聡 中公新書 P6

[xiv] 「篤胤のいう古伝は、宣長のように一つの文献の権威を認めたものではなく、さまざまな文献によって彼によってつくられた古伝であり、主体的な判断によって、もろもろの文献を取捨折衷する態度への移行は、すでに近世の儒教が示した経過であるが、宣長から篤胤への移行には国学の内部にそれが現れている。」と『日本の思想史における平田篤胤』相良亨、『日本の名著 平田篤胤』P10 とありますが、特に「主体的な判断によって、もろもろの文献を取捨折衷する態度への移行は、すでに近世の儒教が示した経過」というのは、とても興味深いです。こうした態度は篤胤だけではなく、私も江戸時代の儒教を見ていて強く感じるところであり、もっといえば、本地垂迹説や現代のおけるさまざまな意思決定の構造にすら非常に似ているところがあると感じます。丸山眞男『日本の思想』、河合隼雄『中空構造日本の深層』などにも指摘されるような思考様式が明治に始まったのではなく、かなり前からのものであるということは、私にとって驚きであるとともに、大変興味深いものです。

[xv] 『日本の名著 平田篤胤』P39

[xvi] 『日本の思想史における平田篤胤』相良亨『日本の名著 平田篤胤』P8 折口信夫の講演『平田国学の伝統』(全集第二十巻)を引用

[xvii] 『日本の名著 平田篤胤』P59

[xviii] 「諸外国における教科書制度について」文科省
https://www.mext.go.jp/content/20201111-mxt_kyokasyo01-000010983_04.pdf

[xix] ドイツのみ、各州の省令で規定があるケースがある(国家レベルではない)。

[xx] アメリカ公立小学校の多くでは、強要されないという前提はありますが、皆で毎朝、国歌斉唱、国旗敬礼、宣誓の言葉を述べる学校は多いです。娘の学校でもそうでした(本件については、バーネット裁判という大きな裁判が過去ありましたので、よければ調べてみてください)。11月11日には退役軍人の日(Veteran’s Day)というものがあって、学校はおやすみです。日本から来て英語が全くわからない小学校低学年生だった娘が “Dear Veteran, Thank you very much for protecting our country.”と見様見真似で書いたレターを学校から持って帰ってきた時には当時びっくりしましたが、形の違いこそあれ、どのような国にもこのようなことがあると思います。批判的思考が育つ前(いわゆるピアジェでいう形式的操作期の前、10歳前後)の小学校の段階で歴史をどのように教えるかというのはまた別の大きなテーマだと思いますが、ここでは深入りしません(アメリカでは小学校二年生くらいから建国の歴史を学び始めてしまいますが、個人的には反対です)。ちなみに、住んでいたのはテキサス州ですが、オースチン・ヒューストンなどの大都市はどちらかというとリベラルな傾向を持ちます。学校にもよりますが、とにかく移民も多くクラス内にインド人、ロシア人、メキシコ人、ベトナム移民、キューバ移民など多様なバックグラウンドを持つ子どもたちが集まっていますので、自然と教師はそのことに配慮するようになっていた印象がありますし(私も受講したのですが、テキサス州ですら)、カレッジの教職課程では特別支援、人種差別、ジェンダーを扱う科目がコア科目として大事にされており、比較的安全に感じています。