ブログ藤原 さと

吉田松陰から“教育”について考える〜私たちの教育のルーツを辿る(3)

山口教育フォーラムにて、お話しする機会をいただきました。テーマは「教育の潮目」。バックラウンドがバラバラであっても今教育に関わっている四人がそれぞれ今思う「潮目」について話し合う、というもの。たとえば、都内区立中学の諸戸先生はGIGAスクールの推進によるICTの導入が教育の潮目、と言いました。また東京都小金井市教育長の大隈先生は、「主体的・対話的で深い学び」ならぬ「主体的・協働的な崖登り体験」を提唱しました。軽井沢風越学園理事長の本城さんは、昨年スタートした学校での新しい取り組みを紹介しました。さて、みなさんは今、「学びの潮目」はきていると思いますか?

一方で、日本が過去に経験した「潮目」としては「明治維新」を挙げる人が多いのではないかと思います。そして、山口県といえば、萩の私塾「松下村塾」を起点に多くの幕末の志士たちを精神的に指導した吉田松陰を思い出す人も多いのではないでしょうか。松陰は29歳という若さで亡くなりますが、松下村塾でたった二年余りの間に高杉晋作、久坂玄瑞、明治新政府で活躍した伊藤博文、山縣有朋らを育てます。松下村塾の塾生名簿はないのですが、八十名、九十名くらいいたのではないかと言われています。どんな人だったのか、ちょっと気になり、今回吉田松陰について少し色々読んだので、備忘録として残しておきたいと思います。

【吉田松陰はどのように育ったか】

松陰は、1830年、萩の兵学師範の家に生まれ、叔父の玉木文之進から非常に厳しい指導を受けたと言います。9歳で、明倫館(長州藩の藩校)に進みます。ちなみに、藩校とは、江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校で、一般的には、7〜8歳くらいから入学、14〜15歳から20歳くらいで卒業します。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わったそうです。代表的な藩校としては、会津藩の日新館、米沢藩の興譲館、長州藩の明倫館、中津藩の進脩館、佐賀藩の弘道館、熊本藩の藩校時習館、薩摩藩の造士館などがあります。

ただ、びっくりするのですが、松陰は生徒として何かを習うために明倫館に行ったのではありません。山鹿流兵学の教授見習いとして藩校に出向き、翌年には、叔父の後見のもと教授になってしまいます。11才の時には、第13代藩主・毛利敬親の面前で『武教全書』の講義を行い、敬親を大いに驚かせます。

武士の教育といえば、薩摩藩の「郷中教育」や会津藩の「什」のような同年代の子供同士で、社会性を徐々に身につけるものもありました。そういったものは、厳しくとも、仲間と競い合い、のびのびとした側面もありました。でも、兵学師範の家庭で叔父からスパルタともいえる教育を受けた吉田松陰の育ち方はそれとは似ても似つかないものだったようです。

【吉田松陰の青年期から亡くなるまで】

そんな神童ぶりを発揮していた松陰ですが、その後、19才になった松陰は、外国との玄関口・長崎のある九州に行きます。萩しか知らなかった松陰はこの時に世界の大きさを痛感し知識欲に火がつきます。江戸に遊学し、さらにロシア船がしばしば訪れる東北に行こうとします。しかし、なんとそこで友人との待ち合わせの約束を優先させ、「過書」という通行許可証をもたずに出かけてしまいます。本当はこれをやってしまうと脱藩扱い。しかし松陰にこれといった悪意があったわけでもなく、藩としても困り、家禄没収の代わりに実質的には遊歴許可を与えたといいます。

1854年、黒船が来航。当時江戸遊学中だった25歳の松陰は、当然ながらショックを受け、浪人の身でありながら幕府批判と攘夷(外国船の撃ち払い)を提案する意見書『将及私言』を出します。さらに、同じ年、松陰は長州藩の下級武士である金子重之助とともに、夜小舟に乗って米艦ポーハタン号に乗り込み、密航を企てますが、失敗。しかもこの時も、小舟に乗って行ったのに、その舟を流してしまい、自力で帰ることができずに自首。投獄されます。この出来事を「下田踏海」と言いますが、松陰はかなりのメモ魔だったようで、『三月二十七夜の記』で当日舟を手放した様子、全体のいきさつを『幽囚録』というものに残しています。

松陰は「下田踏海」で師匠の佐久間象山と共に、自藩幽閉の処分となり萩へ移され、野山獄に収容されます。その獄中生活では、読書と思索に没頭。入獄の半年後には、囚人たちの間で読書会がスタートしました。このときの『孟子』講義をもとに、主著『講孟余話』が生まれます。講義を通して獄内の風紀は向上、出獄が叶い、その後実家「松下村塾」での講義が始まります。

そんな時、安政5年(1858年)、幕府は「日米修好通商条約」の勅許を得るため調停工作を行い、失敗。井伊直弼は、勅許を得ずに開国へと踏み切ります。そのことに絶望した松陰は、思い詰め、だんだんと過激な言動を行うようになったといいます。そんな激動の年の11月。松陰は水戸藩・薩摩藩の有志が、井伊直弼暗殺計画を練っていると聞きます。当時、井伊と「井伊の赤鬼、間部の青鬼」と並び称されていたそうで、いてもたっても居られなくなった松陰は、老中・間部詮勝の暗殺を考えます。そして門下生17名を集め、藩の重役・周布政之介に願書案分(暗殺計画書)を提出します。「常人から見れば狂いでもしたように多くの意見書をーしかも驚くほど激しい語調をつらねて(p144 奈良本)」いたその内容に、当然藩上層部もこれには困り果てます。また、松下村塾の門下生も、一人ふたりと距離を置くようになります。

最後、安政の大獄で松陰は江戸で斬首されますが、もともと松陰にかけられた嫌疑は京都の梅田雲浜との交際、幕府中傷文書の作成という軽微なもの。当時幕府側としては、橋本左内ら一橋派の制裁がメインの目的で、幕府側も松陰のことを大して重要視していませんでした。だから普通にしていれば、そこで命を落とすことはなかったのです。それなのに・・・松陰はあろうことか奉行を信じ、先の間部詮勝の暗殺計画について自ら語り出してしまいます。

松陰は伝馬町の獄舎で、一枚の白い布に『孟子』の「誠を尽くしても感動しない者は、いまだ一人もいない」の一句を書いたものをずっと持っていました。しかし、心を開き、真心をつくして間部詮勝の暗殺計画について話したところ、その「誠」は通じませんでした。安政六年十月二十七日、死刑に処せられます。

【吉田松陰像の変遷と教科書】

ところで、吉田松陰は歴史的評価に大きく翻弄されます。その評価は、戦前戦後の日本の教科書における松陰の扱いを見るとよくわかります。日本の歴史観は第二次大戦後、ひっくり返りましたが、特に私たちの価値観に影響を与えたのが、教科書でした。戦前の教科書ではすべてが天皇中心の歴史であり、人物評価でいえば、その人物がいかに天皇に忠誠を尽くしたかが判断の基準でした。しかし、戦後、教科書は民主主義的な考え方を基本に歴史は叙述されることとなります。

上記のことを含め、戦後の教科書を丁寧に辿りながら、吉田松陰像の変遷について書かれた田中彰『吉田松陰−変転する人物像』が非常に分かりやすかったので、ここでは、この本を中心に記録していきたいと思います。

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吉田松陰は、戦時中「大東亜戦争」における「忠君愛国」の理想的人間像として鼓吹された。とりわけ、学校教育の中では、児童・生徒に対して「少松陰たれ」とイデオロギー教育がなされた。(略)そこに生み出された「少松陰」たる軍国少年(少女)たちが天皇や国に尽くす最短距離の道は、松陰にならって、「尊皇」の精神に徹し、戦場に赴くことだった。松陰像は、軍国主義教育にフルに活用されたのだ。(略)しかし敗戦により価値観が一変した。あれほど熱狂的に松陰を担ぎ上げた人々は沈黙した。松陰に関する伝記は姿を消した。
『吉田松陰−変転する人物像』まえがき
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ところで、松陰は自身の書いたものがそれなりに残っています。死後、松下村塾は久坂玄瑞らによって復興され、松陰の遺書が出版されはじめます(松下村塾蔵版)。しかし維新政府が成立後、松陰の伝記はなかなか出なかったと言います。幕末から維新期にかけて、松下村塾の弟子のあいだで何度か作成が試みられたそうですが、高杉新作が「何だ!こんなものを先生の伝記とする事が出来るか、と言って引き裂き捨てた」こともあって、その精神を人に知らせるなど絶対不可能、という暗黙の了解がありました。田中彰氏は「この異様なまでの慎重な雰囲気がしだいに松陰を絶対的な聖域へとまつりあげていくひとつの伏線となったと言える」と書いています。

明治26年に徳富蘇峰『吉田松陰伝』(初版)が「真誠の人」として松陰を伝えました。明治41年にこの本は改訂版がでますが、同年に帝国教育会が、松陰没後50年の記念大会を催します。この大会では井上哲次郎、徳富蘇峰、嘉納治五郎らが委員に名を連ね、松陰は明治天皇制国家の体制の人として祭りあげられていきます。大正十三年の安岡正篤『吉田松陰と国土的陶冶』に至っては、その傾向がさらに明らかになります。

松陰は、国定教科書に取り上げられ続けます。第1期(明治37年)第二期(明治43年)では、松陰と高杉晋作、久坂玄瑞という弟子との間の「人をそねむな」「けんそん」という人間関係において、道徳の前身となる修身教科書で登場しました。第3期(大正7年)になると、松陰が松下村塾で、「弟子たちに内外の事情を説き、一生けんめいに尊王愛国の精神を養ふことにつとめ」た話が載り、「身はたとひ」の辞世の句が引用されます。

昭和8年の第四期に本格的に修身の教科書に乗りますが、これは、天皇制ファシズム台頭期における「臣民」教育強化の教科書として規定されている時期のもの。

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「松陰はアメリカの軍艦が来て通商を迫った時に藩主に意見書を出したが、その一つを時の天皇がご覧になったと聞いて松陰は感泣しました」

「松陰は、『我が国は万世一系の天皇のお治めになる国であって、我等は祖先以来、天皇の臣民である。天皇は皇祖皇宗の大御心のまゝに臣民をいつくしませ給ひ、臣民は祖先の志をついで、天皇に忠義を尽くしてきた。天皇と臣民は一体をなし、忠と孝が一致してしてゐる。これが我が国の万国にすぐれたところである。誰でも日本人と生まれた者は、我が国体がかやうに尊いことをわきまへるのが最も大切なことである』と信じ、先ず自分の郷里から始めて、全国の人に此の事を知らせて、忠君愛国の精神を振るひ起こさせようと決心しました。」
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昭和16年5期、大東亜戦争下の教科書になると、国民教育の理想像としての松陰へと高められていきます。少年松陰の言葉が以下のように掲載されています。

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臣民としての道を守り、命をささげて陛下の御ためにつくすのが、ほんたうの日本国民だと、玉木のをぢ様が教しへてくださいました。
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しかし敗戦とともに熱狂の「忠君愛国」松陰像は姿を消しました。戦時中の異常な松陰ブームの反動で、松陰伝の刊行は敗戦後ピタリとなくなりました。そして、それまでの天皇中心の教科書には、黒々と墨が塗られたのです。

【吉田松陰は本当はどんな人だったのだろう?】

私は、通常本を読む時に「この人はどんなひとなのだろう」とキャラクターを想像しながら“その人の書いたもの”を読みます。昔銀行員をしていたときに、決算書の数字を読みながら、その会社の姿を細かいところまでビジュアルで想像するのが好きだったのですが、それに近い感覚です。ですが、今回は本当に悪戦苦闘しました。

先に書いたように、飛び抜けた知性を持つ一方で行動が破天荒、時に激烈です。「普通こうするだろう」というふうに論理的に動かないのです。「人を信じる力」が「論理」を突破しているという見方もできなくはないのですが、それだけでは弟子たちにあれほど慕われなかったでしょう。松陰の死後の伝記編纂における弟子たちの言動をみても、松陰へののめり込みようは尋常ではありません。明治時代に井上哲次郎、徳富蘇峰、嘉納治五郎といった知性に賞賛されます。陽明学の研究者である安岡正篤も松陰に一目置きます。戦後は奈良本辰也氏が松陰を復活させます。

今回、私は松陰自身が書いた『講孟余話』『武教全書講録』『将及私言』『幽囚録』『回顧録』『留魂録』などを中心に読んだのですが、論理で読もうとすると躓きます。たとえば、『講孟余話』などは、『孟子』の講話であるにも関わらず「わが国は上は天朝より下は列藩にいたるまで、君たる地位は千万世にわたって世襲し絶えることがない。この点は漢土などの比肩しうるものではない」と繰り返し、繰り返し、中国に対する日本の優位性を述べます。外国とはちがう国体のもとで、日本全体のためにはいのちを投げ出す志を称えます。そもそも読み方が独自すぎるし、いわゆる現代でいうところの「批判思考」を読み取ることができません。

ただ、奈良本辰也『吉田松陰』を読んでいると、その人となりが少し垣間見えるように思います。松陰は、野山獄で十一人の囚徒と共に過ごし、一年の間に500冊以上の本を読むような生活を送りますが、一緒に過ごす囚徒たちの能力を認めるようになります。獄中では経学(儒教)を論じただけではなく、囚徒である吉村善作と河野数馬には俳諧、富永有隣には書道を教えさせ、松陰自身も俳句をつくり、書を学んだそうです。それは、松下村塾を始めてからも同じことでした。集まる子弟たちは、主として藩の軽輩、つまり足軽よりも下で、下士よりさらに下と見られていたものが多く、藩学明倫館から締めだされている人々だったそうです。授業は非常に熱く、夜の授業が朝四時まで続いたこともあったそうです。塾では「飛耳長目」を左右に備えて、松陰自身が見聞きし、体験したこととともに、圧倒的な知識を受け取るのですから、停滞していた藩校に比べ、よほど魅力的な授業だったのだろうと想像することは難しくありません。

さらに、士族の中でも身分の低い下士、軽輩たちが、松陰に優れたところを認められ、用いられていくわけですから、その喜びは相当なものだったでしょう。余談ですが、松陰は野山獄にいたとき、高須久子という女囚と恋仲になります。高須久子は武家の未亡人で、三味線好きが高じて、被差別部落民と深く関わったとの罪で投獄されていました。本当に分け隔てなく、その人の人間性をそのまま見通す力があったのではないかと感じます。

ただ、「熱烈な皇室至上主義 理性を絶した狂信的態度(p5奈良本)」はやっぱり受け入れがたいですし、 その後の弟子たちによる神格化もなかなか理解に苦しみます。もしかしたら、私たちには、松陰のような「非合理・非論理なものであってもそれを信じる」そして、それを「儚く」「美しく」感じる、みたいな感覚を持っているのでしょうか。それは戦争を振り返る時などに「物語」の原型として私たちに強力に作用したりするのでしょうか。以前、平和教育に関してのブログを私は書いているのですが、日本が戦争をしっかり反省できていないことに、この辺のことが繋がってしまっているのであれば、もう一度考え直したいな、と思いました。

さて、私が思う潮目について書いていませんでした。私がこのところ思っている潮目は「辺・変人の時代」つまり「ヘンジンの時代」です。「辺」は辺境の「辺」、「変人」は文字通り「変わった人」の意味もありますが「物事を変えていく人」という意味を持ちます。松陰の言葉に、「草莽崛起(そうもうくっき)」という言葉がありますが、メインストリームにはいない「辺境」にある「在野」の人が立ち上がり、事を起こしていくのも面白そうな時代だなぁ、と思っています。さすがに松陰のように激しくはなれませんし、同じになってはそれはそれでまずいと思いますが、メインストリームだけではなく、こうして様々な人たちが物事を動かしていく、ということに現在の閉塞感の突破口があるように感じています。

さて、今日も長くなってしまいました。ではこのへんで。

<参考にした本など>

『日本の名著31 吉田松陰』責任編集松本三之介 中央公論社
『吉田松陰』田中彰 中公新書
『吉田松陰』奈良本辰也 岩波新書
『松陰と女囚と明治維新』田中彰 日本放送出版協会
『戦後教科書運動史』俵義文 平凡社新書
『現代日本教育政策史』海老原治善 三一書房
『日本の名著40 徳富蘇峰』責任編集隅谷三喜男 中央公論社
『世界の名著 3 孔子 孟子』責任編集貝塚茂樹 中央公論社
『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』フランソワ・ジュリアン 講談社学術文庫
「吉田松陰が導入した孟子の民本思想」中島隆博 テンミニッツTV