戦争と平和教育~日本は本当に反省しているのだろうか

藤原さとです。

先日、友人のフェイスブックで流れてきた本を読んだことをきっかけに、日本の戦後平和教育について考えたこと、考えてきたことについて少し書きとめておきたいと思います。

<満州と祖父―私は何も知らなかった>

読んだ本は「五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後」という日中戦争当時日本が満州国に設立した最高学府「建国大学」の卒業生たちを追ってインタビューをしたドキュメンタリーです。「建国大学」という名前は聞いたことがある人はほとんどいないかもしれませんが、下記のような学校です。本文から抜粋します。

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中国東北部がまだ満州国という名前で呼ばれていた時代 、日本政府がその傀儡国家における将来の国家運営を担わせようと 、日本全土や満州全域から選抜した、いわば戦前戦中の 「スーパーエリート」であった彼らには当時 、極めて実験的な教育が施されていた 。日本 、中国 、朝鮮 、モンゴル 、ロシアの各民族から選び抜かれた若者たち(日本人は約半数に限定)が満州国の首都 ・新京に集められ 、約六年間 、異民族と(寮で寝食を共にした)共同生活を送るよう強制されていたのである。(中略)

そして驚くべきことに建国大学の学生たちには当時、戦前戦中の風潮からはちょっと想像もつかないようなある特権が付与されていた。言論の自由である。(中略)建国大学は開学当初から中国人学生や朝鮮人学生を含むすべての学生に言論の自由を―つまり日本政府を公然と批判する自由を―認めていたのである。その特権は彼らの中に独自の文化を生み出した。塾内では毎晩のように言論の自由が保障された「座談会」が開催され、朝鮮人学生や中国人学生たちとの議論の中で、日本政府に対する激しい非難が連日のように日本人学生へと向けられたのだ。

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この大学は開学から8年後、1945年8月に満州国の崩壊とともに姿を消しました。情報がほとんどないのは、日本が敗戦時にこの大学に関する資料の多くを焼却したこと、そして戦後それぞれの祖国へと散った卒業生たちが口を閉ざしていたことにあります。

実は、私の母方の祖父も同じく満州にいくつかあった国立大学の一つ、ハルピン学院を卒業しているのですが、この本で書かれている建国大学の学生の姿と私が垣間見た祖父の姿が重なり、吸い込まれるように読みました。

祖父はハルピン学院では、相当にリベラルな教育を受けたと言っており、実際にこの学校からは、東洋のシンドラーともいわれる杉浦千畝なども輩出されています。祖父がまだ生きていたころ、戦争について尋ねたときに、遠いところを見るように目じりを下げ、懐かしそうな顔をしていて、驚いたことがありますが、もしかしたらこの本の学生と共通するような学生生活をしていたのかと想像しながら読み進めました。

ハルピン学院は代表的最高学府であった建国大学とは違い、満鉄総裁や後の東京市長ともなった後藤新平の肝入りでロシアとの交易を担う人材育成を目的とし、外務省が監督した旧制の高等専門機関でした。授業のスタイルは建国大学と似ていたようで、全寮制の少人数制、日本の都道府県から試験で選ばれた学生が集まっていました。ロシア人教師も多く、午前はロシア人教師による徹底したロシア語教育、午後はソビエト憲法などを学んでおり、高学年になるとロシア人宅に下宿をしていたそうです。戦後に学生は、ロシア捕虜となったケースも極めて高かったようですが、祖父は繰り上げ卒業後朝鮮に召集され、半年の訓練後に将校として任務に就き、終戦後運よく日本に帰国しました。逸話もあり、日本が敗戦した時にはその知らせを聞きつけたハルピンで一緒だった朝鮮人将校が、夜中に祖父の家を訪ね、これから略奪や暴行が懸念されるから、一刻も早く祖母だけでも日本に帰しなさいと祖母の船での帰国を手伝ってくれたそうです。その時私の母は、祖母のお腹にいました。もし祖母が亡くなっていたら、私も生まれてこなかったことになります。

母によると、祖父は生前「皆ソ連を悪く言うが、ロシア人というのは個人で付き合うと実にいい奴らなのだ」、また学校に掲げられていた後藤新平の「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして、報いを求めぬよう」という言葉をよく言っていたそうです。一方で、朝鮮での訓練期間は酷いもので、上官(勿論日本人)に死んでしまうくらいに殴られ、その時に初めて殺意というものを感じたそうです。そして、戦争については多くを語りませんでしたが、死ぬ直前に病院で「日本の国は何と言ったって悪いことをしたんだよ」と言い残して亡くなりました。

しかし、私自身断片的に祖父の戦時中の話は聞いていましたが、この本を読むまで「建国大学」なんて聞いたこともなかったし、ハルピン学院や祖父のことについては、母に話を聞いたり、確認して調べなおしました。こんな身近な人のことすら何一つ知らなかったのです。

<母の満州旅行―母も知らなかった>

さて、こうしてこの本は私の祖父にとっての戦争を感じる本となりましたが、実は今年の夏に母は、自分の父親が青年時代を過ごした満州があった地を生きている間に見ておきたいと大連から出発し、ハルピンまでの地を訪ねました。

しかし帰国後、母は「疲れた。知らないことばかりだった。」と暗い顔でため息をつきました。母はハルピン学院のことも含め、祖父の思い出を辿るつもりが、思いがけず現地で日本がどれだけ酷いことをしたのかの情報に触れたのです。そして、「日本人は本当には戦争を反省していない。あなたも一度現場を見るべきだ。」「ドイツはナチスがあったから隠し通せなかったのかもしれない。でも日本は(そこまでいかなかったので)何とかなってしまったのだと思う。」と私に伝えました。

母は歴史が大好きでよく本を読む人です。もちろん731部隊の人体実験のことなど、歴史的な情報は知識としては知っています。その母が「私は知らなかった」と言ったことに少なからずショックを受けました。

<パールハーバーの授業>

話は変わって、3年前。アメリカの公立小学校2年生だった娘が、ある日泣きそうな顔で家に帰ってきました。「ママ、日本はなにかとっても悪いことをしたの?」と。

12月7日は日本がハワイの真珠湾(パールハーバー)を攻撃し、太平洋戦争が始まった日です。日本人の多くはこの出来事は知っているはずですが、この奇襲攻撃がどれだけアメリカ人を激怒させたかを理解している人は非常に少ないという印象です。

真珠湾攻撃は、モンロー主義に代表される孤立主義の伝統があり、他国の戦争に巻き込まれることを基本的には嫌っていたアメリカの行動を根底から変えました。今でも、“Remember Pearl Harbor”として、小学校以降の義務教育でもこの日を忘れないようにしようと、授業が毎年行われるのです。

原爆を落としたアメリカの傲慢さも事実であり、私自身も戦争を止めるために原爆を落とされたと言われても納得いきません。でも、アメリカの学校に通う子女にとっては常識ともいえるこの事実を知っている日本人はどれだけいるでしょうか?原爆について本当の意味でアメリカ人と議論をしたいのであれば、まずはこういう認識を彼らが持っていることを知ることが重要なのです。※

 

<日本人は戦争について正しい知識をもっているのか>

翻って、日本。「ちいちゃんのかげおくり」に始まって、数々の戦争に関する文章を読み進んでいきますが、その論調は「“私たち”は、戦争で悲惨な経験をした。だから戦争は繰り返してはいけない」もしくは「私たちはバカげた戦争をした。あのようなことは繰り返してはいけない」というものです。

そのこと自体が間違っているわけではありません。しかしそこにあるのは、「された」ことばかり。私たちは他国に対して何を「してきた」のか、もしくは、「どうしたら私たちは二度と戦争を起こさないように行動できるのか」という部分が抜けてしまっているのです。また、ここには「日本人」しか存在しません。戦争で傷つくのは私たちだけではありません。奇妙なバランスの悪さを感じます。

戦時の情報というものは、上記の建国大学の情報しかり、ハルピン学院の情報しかり、祖父も含め、戦争を経験した人が生前に語った言葉もあまりにも数が少なく、当然に全体を把握するには充分とは言えません。母が旧満州地域で見たものも本当でないものが含まれていたかもしれません。

しかし、中国を含めたアジア諸国、アメリカでこういう風に歴史情報と解釈が残っていて、日本のしたことについて考えを持っている人がいる、それは厳然たる事実です。

そもそも戦争なのだから、自分たちだけが傷ついて、対戦相手国、侵略した地域の人たちが傷つかなかったなんてことはあり得ません。そうした時に「“私たち”は、戦争で辛い経験をした。だから戦争は繰り返してはいけない」「あれは仕方がなかったのだ」というのは、実際に戦争を経験した世代が言うのはともかく、戦争を知らず、リアリティを同じようには持てない次の世代の私たちまでもがその考え方から先にすすめないのであれば、海外諸国から非常に偏った歴史認識である、反省はしていない、と言われてしまっても仕方がないと思います。

こうした考え方は日本国内にしか通用しないし、結果として戦争を止めるどころか、いざというときに、戦争を集団として加速させてしまうことすらあると心配しています。つまり、戦争をしない理由が「自分が傷つきたくない」という自分視点だけになってしまうと、仮に爆弾一つ国内に落ちてしまったら、一挙に「許せない」と暴徒になってしまう可能性だってあるのです。

むしろ戦争を知らない世代が戦争を繰り返さないためには、「原爆」「空襲」「特攻」だけではなく、傷つけた国や人たちのことを同じように、もしくはそれ以上に考えなければならないのかもしれません。

どんなことでも、自分に都合の良い情報ではなく、より信頼できる情報を広くとろうという意思を持つこと、そして自分の頭で考えること。自分たち自身のことをよく知ると共に、他国の人たちの経験や感情、信念をよく知り大事にすることなしに、国際理解と世界平和はあり得ないのではないでしょうか。

なお、「五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後」については必ず最後まで読んでいただけたらと思います。筆者は、数々の先進的な取り組みにもかかわらず、「(建国大学は)日本の帝国主義が生み出した未熟で未完成な教育機関だったと思う」とあとがきで書いており、中国人の元建国大学生であった楊増志さんの漢詩は全てを読んだ後で読むと心にずしんと来ます。

私たちは「戦争」について一体どれだけのことを知っているのか。

今日はこの辺で。

藤原さと

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※猪口邦子さんの「パールハーバーの授業」という文章があり、教科書も乗っていた(る)ようです。こちらも、パールハーバーがテーマにはなっており、内容はとても素敵です。しかし主題は「ほかの国の人のことを尊重しよう」であり、「パールハーバーで日本人がしたことの意味を考えよう」ではありません。よって、私は本質的に“戦争に対する”反省を促すものではないと思っています。

<参考文献>

「五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後」三浦 英之著

「キメラ―満洲国の肖像」山室信一著 (中公新書)

「ハルピン学院と私」谷藤助 著

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