「蝶々」「蛍の光」を作ったのは?〜日本近代音楽教育の黎明−私たちの教育のルーツをたどる(11)

前回日本初の文部大臣、森有礼についてみていきました。ただ、森が文部大臣になる明治17年に先立ち、明治政府は明治5年に「学制」を交付しており、小学校から大学までの教育制度は走り出していました。明治維新直後の混沌とした時代にどのように日本の近代教育は形づくられていったのか。師範学校の一番はじめのカリキュラムを作成し、文部官僚として、教科書検定制度を導入、唱歌など音楽教育の基礎部分をつくった実務の人、伊沢修二についてまとめておきたいと思います。

 

伊沢修二は、森有礼以上に知られていないと思うのですが、なぜこの人を選んだのかというと、伊沢を追うことによって、日本の近代教育の創生期がありありとわかるからです。伊沢自身、明治の極初期に当時の最高学府(今の東京大学)で高等教育を経験します。そして、新政府の派遣留学生として米国の師範学校で学び教育技術を持ち帰った初めの世代でした。信州高遠藩(現在の長野県伊那市のあたり)という小藩における軽輩士族の出身で、非常に貧しい少年時代を過ごし、能力一本で立身出世をしていくさまも、この時代をよく表しているように思います。

 

江戸時代、日本には五線譜もドレミファもありませんでしたが、今私たちはあたりまえのように、五線譜をベースに音楽を学んでいます。私たちの「思考の枠組み」は実は「教育」に大きく影響を受けています。明治時代の近代教育のはじまりを知ることで、こうした枠組みが当時のごく少数の人たちの努力にいかに影響を受けているかも気づくこともできるのです。

 

【明治五年の学制とは?その前の日本の教育とは?】

 

ところで、ここで教科書的な整理ですが、日本の教育を古代からざっと辿っていきたいと思います。まず、古代日本では、他国の文化や制度を学ぶために文字の習得は必須で、渡来人や留学生から教育を受けていました。特に飛鳥時代以降、律令制度を整え、中央集権国家を支える役人を育てるために、都には大学寮、地方には国学・府学などができていきました。しかし、貴族たちは家庭教師から学び、大学、国学は有力者の子女にしか門戸が開かれていませんでした。

 

そのような中、弘法大師の名でも知られる空海は、大学・国学が儒教中心のなかで、身分貧富にかかわりなく、賊人も学べる儒教・仏教・道教などあらゆる思想、学芸を総合的に学ぶことのできる教育施設、綜芸種智院を828年に京都に設立します。広く開かれた公的教育としての意味を持った学校として知られているものとしては、世界的にも最も古いものの一つに数えられると言われています。

 

鎌倉時代あたりからは武士や庶民が学ぶ場として、寺院が使われ、読み書きや算術を学ぶようなことがありました。南北朝時代から室町時代初期には『庭訓往来』が民間教育の初等教科書として作られ、寺子屋で使われるようになっていきます。江戸時代は平和な時代が続いたこともあり、教育に力が入っていました。武士のための藩校が各地にでき、庶民の子どもたちは寺子屋で「よみかきそろばん」を学びました。

 

『庭訓往来』国立教育政策研究所教育図書館 デジタルコレクションより

 

下級武士や庶民でも、経済力がある家庭の子どもたちは、寺子屋だけではなく、私塾に学ぶこともありました。吉田松陰の松下村塾、福沢諭吉が学んだ緒方洪庵の適塾などは知っている人も多いでしょう。藩校のみならずこうした私塾から多くの人材が輩出されていき、明治維新の原動力になっていきます。江戸時代の日本の識字率は世界的にみても最高水準、幕末に西欧から来日した宣教師たちは日本のレベルに驚きます。たとえば、ヘボンは数学で幕府の委託生たちが二次方程式や幾何などをすらすらと解くのを見て、アメリカの大学卒業生を超えるレベルであると驚いています。これらは主に、江戸の蘭学者たちから学んだものでした。

 

そして、江戸時代から明治になり、明治5年、新政府は小学校から大学校までの教育制度を定めた「学制」を交付します。「学制」では誰もが教育を受けることができ、それによって「立身出世」ができることがアピールされました。これは新政府の「三大改革」つまり、「学制」「兵制:徴兵令」「税制:地租改正」のうちの一つでした。

 

「徴兵制」ともセットであったため、近代的な兵隊をつくるにあたって、方言が問題となり、「標準語」の整備がされました。全国を大学区に分け、中学区、小学区に分けました。全国で53,000くらいの小学校が配置され、皆が地域で学校に通えるようになりました。しかし、教科書は英語のものを和訳しただけのもの。師範学校でもアメリカ人教師が教員養成をしているような状況でした。

 

当時の政府は西洋文明の吸収に必死でした。実際にこの時期に海外留学をした人たちから、教育の世界においても大きな役割を果たした人たちが出てきます。たとえば、明治4年、岩倉使節団として、後に津田塾を創立する津田梅子がアメリカに渡り、自由民権運動の理論的指導者となる中江兆民がフランスに留学しました。その前年の明治3年に森有礼が少弁務使として渡米する際に随行した木村熊二は後に明治女学校を設立します。こうした繋がりの中から外国人教師たちを招聘していきます。こうして来日したお雇い外国人教師としては、『少年よ大志を抱け』という言葉を残し、明治9年に開校した札幌農学校の初代教頭だったクラーク博士、岡倉天心に大きな影響を与え、嘉納治五郎、井上哲次郎らも学んだフェノロサ(明治11年に来日)、などが有名です。

岡倉天心とフェノロサ(ジャパンアーカイブスより)

 

なお、「学制」では初等教育が重視され、満6歳になった男女すべてを学校に通わせることが義務になり、全国各地で小学校がつくられましたが、当時授業料は家庭負担、学校建設費用は地元負担。そもそも、農家で子どもたちは重要な仕事の担い手であったのに、その人手がとられるうえに金銭負担がのしかかります。これが人々の大きな不満の対象となり、各地で学制反対一揆や学校の焼き討ちがおこり、就学率も3割程度に落ち込みます。そのため、明治12年に「教育令」が出され、町や村を学校運営の中心とし、地方色が強いものになります。その一年後には「改正教育令」によって、ふたたび中央集権に戻っていきます。同時に明治時代の始まりにおける極端な西洋文化の受け入れから一転して、儒学の教えが復活してきます。明治19年の「小学校令」になると「義務教育」という言葉が登場します。この辺から先は森有礼の項を一旦見ていただけばと思います。

 

【信州の貧しい士族の家から立身出世】

 

伊沢は、高遠藩、今の長野県の伊那市のあたりにある信州小藩である高遠藩の軽輩士族の家に1851年に生まれました(森有礼の4歳下)。当時高遠藩は財政危機にみまわれており、伊沢の家もコメつき、稲刈りの労働はあたりまえでした。一方で、母親は学者の娘として『唐詩選』を愛誦し、父親も武より詩文や絵を好み、教育熱心な家庭に生まれます。伊沢は6-7歳ごろから外祖父の内田文右衛門(進徳館助教)について素読と習字の手解きを受けた上で、地元の藩校、進徳館で、漢学や撃剣を学びます。算術は正科になかったのですが、父が私塾に学ばせます。伊沢は13歳ごろには四書五経の素読と講義を終えて、和漢の歴史や無点本を読み、暇さえあれば漢詩、和歌、俳諧に心を寄せる秀才に育っていきます。(K3-17)

 

小さな頃の伊沢は正義感が強く、少年の仲間に加わる時も弱い方を味方にするような子どもだったそう。15歳で進徳館の寮長となり、英語に興味をもち信州の片田舎で和漢書を片手に死に物狂いで自学自習しました。一度江戸に出ますが、江戸では良い教師に巡り会えないまま失望のうちに郷里に帰っていた時、明治改元の詔が信州にまで届いてきます。(K18-25)

 

伊沢はどうしても学びたく、あらためて父親に江戸に出ることを願い出ます。明治2年、新政府は維新の改革を進め、「知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基を振起スベシ」という国是のもとに、西洋文明の吸収に必死でした。新政府は教育政策を重要施策の一環におき、旧幕府以来の学校を復興していきます。明治元年には、医学校、昌平学校[i](旧江戸幕府直轄の教学機関、昌平坂学問所)、開成所(旧洋書調所)が設けられ、翌2年には、開成学校や医学校に外国人教師を雇い入れ、内容を拡充していきます。(K31-2)

 

伊沢は洋学を学ぶべく、開成学校に入りたかったのですが、なんらの後ろ盾もなく、衣食にもことかく貧乏人で、そんな可能性は彼にはありませんでした。そんなとき、土佐藩の下屋敷に中浜万次郎(ジョン万次郎)がいることを聞きつけます。伊沢は当時の深川にあった中浜の住居に通い詰め、熱心に英語を学びたいと訴えます。中浜はその熱意にほだされ、伊沢にはスペルから教えました。しかし、明治3年、欧州で普仏戦争がおき、中浜は政府の視察団の通訳として随行を命じられ、中浜からの学びは中断せざるを得ませんでした。(K33-4)

 

そのころ政府は人材を集めることに必死で、育成手段として全国諸藩から貢進生を召集しました。当時、教育制度も朝令暮改があたりまえ、大学の中でも国学、洋学、漢学のうちどれを中心にするのかの意見で対立し(学神祭紛争事件)、大学そのものが閉鎖されるドタバタ。一旦洋学を学ぶ大学南校(旧開成学校)と、医学を学ぶ大学東校をもって進められることになります。(K35)

 

そんな中で、伊沢にチャンスが巡ってきます。郷里の高遠藩からも一人貢進しなければならないことになったのですが、先に声のかかった二人は不合格と辞退。伊沢に番が回ってきました。当時伊沢は20歳。つい少し前まで夢のようだった旧開成学校である大学南校(後の東京大学)に進学します。当時各藩から集まった貢進生は310人。しかし貢進生の多くは権勢家の子弟たちで、伊沢のみすぼらしさは際立っていました。一方で、藩校のときからの鼻っ柱の強さは相変わらずで、当時の寄宿舎長や幹事となっていた井上毅、九鬼隆一たちは伊沢を持て余していたといいます。当時の南校の学生たちは、新世代のエリートだという自覚も強く、将来の大政治家、大外交官、大軍人を志し、焼き芋を齧りながら口角泡飛ばし、治国平天下を談じていました。(K35-8)


大学南校(東京大学附属図書館HP)
https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai2005/tenji/index-a.html

 

明治4年に新政府は廃藩置県を断行。この年に従来の大学は廃せられ、文部省が設けられます。佐賀出身の大木喬任が文部卿となり、教育行政の中央組織が成立します。この時にお雇い教師によるスペリングの学習やせいぜい地理書の講読くらいで、レベルはあまり高くなかった南校は再編となり、明治5年には箕作麟祥などの学制取調掛によって「被仰出書」が宣言され、「学制」が頒布されます。(K40)

 

「学制」頒布とともに、南校は「第一大学区第一番中学」と改称され、伊沢は第一番中学幹事に大抜擢されます。しかし、有頂天になっていたのも束の間、学生が九段坂上で雪投げをしたことに対し、警察が罰金を課したことを不服とし警察に楯突きます。学生たちを庇った行為であり、伊沢の論に合理性はありましたが、司法省と文部省の政治的な問題にも発展し、最終的には不敬として扱われ謹慎を余儀なくされます。失意の伊沢は職人になってよいと考え工部省技師に転じますが、1年ほどの冷や飯のあとに、愛知師範学校校長に任命されます。(K41-49)

 

このとき伊沢はまだ24歳。当時は師範学校といっても、教授法も整わず、国語・漢文以外の教科書が必要でした。伊沢は南校時代の教頭フルベッキからニューヨーク州のオルバニー師範学校の教育書などを参照し、同僚の荒野とともに、明治8年『教授真法(初編)』という師範学校用の教育学教科書を著します。日本ではおそらく最初の試みだったと考えられています。(K51)

 

【音楽がきっかけでアメリカ留学】

 

愛知師範学校校長時代の伊沢は、唱歌と遊戯にも取り組み始めます。[ii]国学者の野村に命じて面白い童謡をさがさせ、改作していきます。『古事記』のネズミ遊びを唱歌にしたり、「蝶々の歌」などもこのときに初めてできました。伊沢はこうした唱歌遊戯の実験結果をそのつど文部省に報告しますが、これが「学制」のために来日していたD・モルレーの目にとまります。モルレーは米国派遣生として伊沢を強く推薦します。(K53-54)

 

明治8年、文部省は「師範学科取調」のために3名の留学生を米国に派遣することになり、伊沢もその一人となりました[iii]。文部省からは伊沢だけで、もう一人は慶應義塾から高嶺秀夫、同人社から神津専三郎が選ばれます。伊沢は明治8年にマサチューセッツ州にある米国初期の由緒あるブリッジウオーター師範学校に入学します。明治10年師範学校を卒業し、ハーバード大学理学部に入学します。伊沢は当時米国で一世風靡していた社会有機体説を唱えたスペンサー、ダーウィン、ハクスレーの進化論の思想を浴びて28歳の時に帰国します。(K64-79)

 

帰朝してしばらくして、伊沢は東京師範学校学校長に任命されます。しかし、当時の東京師範学校の教育方法は南校のスコットの受け売りや外国の形式模倣にすぎず、物理・化学なども読書で済ませ、教育科ではスペンサーの『教育論』を読ませる程度のものでした。伊沢は、これでは有名無実と高嶺秀夫と一緒に師範学校の教則の整備に入ります。

 

具体的には、予科(2年)高等予科(4年)及び本科(上下二級一年)の三課程に大別し、予科より本科下級にはいるものを小学師範学科とし、高等予科より本科上級にはいるものを、中学師範学科とするにコースに分けました。こうして修業年限を延長し、知識の獲得(予科)と伝達(本科)を分担させました。そしてこの知識を格物学、史学、哲学、数学、文学、芸術に分け、教育学を独立させて各学科に配分し、心理学、論理学、学校管理法などを加えて、精密な課程一覧表を編みました。(K84-5)

 

伊沢は著述も積極的に行い、明治12年にはハクスレーの『生種原始論(Origin of Species)』の部分翻訳、明治14-15年にはスコットランドの教育家マレーの翻案をベースに教育令や文部省布達などを加えて、学校の意味や校具の整備、教師の心構えなどをまとめた『学校管理法』を上梓。15-16年にかけてブリッジウォーター師範学校のボイデン校長の講義筆記をもとに『教育学』を出版しました。(K88)


(若き日の伊沢修二)

 

【音楽教育の基礎をつくる】

 

さて、ここから伊沢の近代音楽教育への取り組みをご紹介したいと思います[iv]。当時、文明開化の日本は美感の劣った国民としての海外の風評は避けなければならないという考えもあった一方、伝統的な武士中心の教育では芸能方面の教育は軽視されており、音楽を正科とすることに政府はそれほど積極的ではありませんでした。

 

ところで、伊沢は音楽がもともと得意であるとか、音楽が好きだったから音楽教育に取り組んだというわけではありませんでした。アメリカ留学時代に最も苦労したのが、音楽と英語の発音でした。封建制度の中で育った侍として音楽や美術は極めて遠いものであり、いくら高遠藩の鼓笛隊師範であっても、西洋音楽には歯が立ちませんでした。音譜はものにならず、音階が上がりすぎて唱歌にならない伊沢。ブリッジウォーター師範学校のボイデン校長は特別に音楽を免除すると恩典を提案しますが、全科目をどうしても修めたい伊沢は三日三晩悔し泣きをしたといいます。(K71)こうした経験から伊沢は音楽教育は欠かすことができないと、帰国直後に目賀田種太郎と連名で文部省に建議したのでした。(K95)

 

明治12年、文部省では音楽教育の調査をはじめ、伊沢は創設された音楽取調掛の御用掛兼務となりました。このころはまだまだ音楽教材も楽器も選定されず掛図もなく、用語も整わずに混沌としていました。その中で、伊沢はブリッジウォーター師範学校の恩師である音楽教師メーソンを日本に呼び、国内外の音楽の相違点と類似点を調べ、唱歌集のベースとなる楽曲の作詞作曲を始めます。当時は、一曲つくるたびに音譜などの諸記号を定め、楽典の翻訳など一からやらなければならず、その作業は難航します。

 

曲の選定においては日本の民情に遠いものは選ばないとして、日本の雅楽や俗楽に近いものを選んでいきました。スコットランドや古代イギリスの曲が日本の伝統的な音律と近いとメーソンから指摘され、多く採用されました。たとえば、「蝶々」はスペイン古伝でしたが、「蛍の光」や「思ひ出づれば」はスコットランドの曲が採用されました。歌詞については、3人の作詞家を広く集め、委嘱しましたが、数十回の歌詞の改作は当たり前でした。日本人の作曲も重視され、雅楽の伶人、箏曲、長唄などの大家と一緒に新曲をつくります。伊沢はこの時に雅楽、俗楽に優れた人こそ洋楽の会得が早いことにも注目しています。(K 98-101)


『小學唱歌集 初編』第二十 蛍 (国立国会図書館)
https://fujimizaka.wordpress.com/2015/08/17/luxun-17/

 

こうして楽曲が整い、東京師範学校付属小学校と、東京女子師範学校付属幼稚園での実践に移ります。しかし、当初師範学校には誰一人賛成者がおらず、やむなく文科省の役人たちを集めてこれを聞かせたところ、眠気を催したとか、経文をきくようだと冷評、酷評が集中。しかし、メーソンが「蝶々」を幼稚園の子どもたちにヴァイオリンで演奏したところ、こどもたちは熱心に唄って、躍り立って喜びあがったことから難を逃れたようです。師範学校に相談せずにここまで楽曲を先に作ってしまったことには驚きますが、明治14年に皇后陛下の東京女子師範学校の行啓にあたり、本科と付属小学校の生徒の唱歌が立派な歌を披露したこともあって、一転して唱歌が広まっていきます。 (K102)

 

明治14年6月、伊沢は東京師範学校長を辞し、いよいよ音楽取調掛の長になります。伊沢がかねてからやりたいと考えていた「明治の国楽を興すべし」という立場にたって、以下の六項目を定め、洋楽や隋・唐の楽、日本の古典楽の粋を集めていきます。(K104-105)

 

  • 日本の雅楽および俗曲を調査し、外国楽曲の調査範囲を広げる
  • 学校唱歌を一層発達させ、楽譜・歌詞を選定し、図書を出版し、楽器を普及する
  • 高等音楽の調査も開拓。日本と西洋の管弦楽を調査する
  • 国歌製作の資料を調査する
  • 俗曲を改良して、民間の音楽を進歩させる
  • 音楽伝習所を設ける(音楽を教える教師の育成)

 

 

こうして文部省音楽取調掛は唱歌集『小學唱歌集』を明治14年から17年にかけて全91曲を3編に分けて出版します。日本初の五線譜による音楽教科書であり、第一編には「蛍」「蝶々」「君が代」を含めた33曲、第3編には「仰げば尊し」などが入っています。伊沢は、明治15年に「音楽取調成績報告」として大演奏会を開き、一応の結実とします。その後、明治18年に音楽取調掛は昇格、ついに明治20年、音楽取調所は宿願の官立東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)に昇格。伊沢は初代校長に命ぜられます。[v](K107-109)

 

【近代教育開拓者としての伊沢修二】

 

こうして伊沢は、日本の近代音楽教育の始祖として覚えられることが多いのですが、文部省の役人として、音楽教育以外にも極めて重要な仕事をしています。

 

遡ること明治14年、伊沢が31歳のころ、当時は在野の民権家たちによる「自由」の掛け声が大きくなり、国会開設運動が最高潮に達していました。政府においては、国会開設の時期について即時開設を主張する大隈重信と、ゆっくり進めたい伊藤博文・井上毅が対立し、結果として大隈が追放され、国会開設は10年後に決定、薩長藩閥政府の専制的な体制を固め,天皇制立憲国家への道に大きくベクトルが向いていきます(明治14年の政変)。

 

このころ、伊沢は地方学務局員として調査係に所属し、教則や教科書の調査を担当していましたが、教科書は書肆(出版社)や市場とのつながりが深く、弊害が多いものでした。その問題を解決するために、伊沢は図書編纂の仕組みを調べ、全国の学校の視察を行います。しかし、そこで見たものは、教科書の妥当性以前の厳しい教育現場の現状でした。明治13年の改正教育令の成果を確認するために回った和歌山の山間僻地では、床のついている家などほとんどなく、土間に寝ゴザを敷いて2本の木かたけで戸を挟んだだけの家が多く、村中里芋を主食としていました。教員も不足しているし、そもそも教育どころの話ではありません。(K113)

 

引き続き訪れた高知では板垣退助が立志社を創立したところでもあり、血気盛んな青年たちが饅頭傘に「自由民権」などの文字をつけ、郡長はもとより、師範学校の校長や教員までが自由党員。教員から生徒に至るまで手に腰をあて、咳払いをして演説風に気取っていたそうです。帰りに立ち寄った徳島県境では僻地特有の差別や風紀に関する悪習を目にします。明治17年には秋田・山形の巡視をしますが、学費、教員給与、学校経費金などの問題が山積していました。

 

明治17年には、文部調査課長として編輯局兼務となります。明治18年、文部省は教育令の改正に着手し、改正小学校令を公布し、中等教育の調査にかかります。この年、伊藤博文内閣が成立し、初代文部大臣として森有礼が就任します。明治19年には、「師範学校令」を中心とするいわゆる「学校令」を出します。伊沢は、森の知遇もあり、編輯局長になります。文部省は明治13年に編輯局を設け、初期の翻訳教科書から脱するとともに、民権運動の押さえ込みにかかっていました。同年、「教育上弊害アル書籍」を禁止し、教科書統制が進んでいました。(K121)

 

伊沢は、アメリカ留学前の愛知師範学校の校長時代から市販の教科書ではなく、廉価で内容の優れたものが教科書でなければならないという考えを持っており、明治14年には仕事の傍らで教科書編纂において、心ある資本家と学者の協力を求める方法を考え始めていました。当時の民間出版の教科書は内容より外見で、学者や教育者の内職となっており、極めて不完全なものであった上に編集方針が定まらず、場当たり的に作成されていました。当然にして、標準的な教科書の編纂は至上命題でした。

 

明治19年、伊沢は森有礼に、意見書「教科書ニ付文部省編輯局意見」を提出します。まず普通教育の整備と充実を国家のなすべき事業であるとし、「小学校令」に基づきながら、区町村に授業料負担を含め、学校を維持する責任をもたせました。府県においては教員と教科書を両輪とし、府県地方税によって教員俸給を定める原則に立って、教科書供給の方針を検討すべき責任があるとしました。極貧地方において、小学簡易科教員給料を含む小学校経費を地方が負担とするのであれば、政府はせめて教科書は無代価とするか、低廉なものとすべきだとしました。(K125)

 

森大臣は快くこの意見を受け入れたため、伊沢は翌月にはさっそく印刷機器をドイツへ発注し、『読書(よみかき)入門』『尋常小学読本』の編纂に着手します。教育専門家を主任に、和漢洋の学者をその補助者しました。しかし教科書の原稿を東京高等師範学校長の山川浩を委員長とした審査委員会に審議させたところ、さまざまの意見が付箋となって流れてきてしまいます。しかし、これを全部受け入れると支離滅裂になってしまいます。森は伊沢にその処理について問い、伊沢は自分を信頼し大臣の代理を命ぜられたいと希望します。森はそれを受け入れ、ある種トップダウンで編纂が進みました。この『読書(よみかき)入門』は、従来の市価の3分の1となりました。(K125-7)

『尋常小学読本』二学年後半 (国立公文書館HP)

 

しかしこの取り組みはそれまで利益を独占していた民間出版社に脅威となり、陰に陽に攻撃と圧迫の手が伸びます。当時の文部大臣森有礼は外部からの妨害の矢面に立ち、自ら防波堤となって伊沢を庇護したといいますが、明治22年、憲法発布の日に刺され亡くなってしまいます。庇護を失った編輯局は翌23年に廃止されてしまいます。明治19年に甲部図書から『読書(よみかき)入門』『尋常小学読本』あわせて合計8冊、『高等小学読本』全9冊ほか13種、教科書の採用は3府28県と着々と軌道に乗っていたのですから、当然に伊沢は失望します。明治24年6月、荒れた伊沢は文部省内の意見の不統一を公開の席上で暴いたという理由で非職となります。(K 142)

 

【伊沢修二のその後、聾唖教育】

 

血気盛んな伊沢は文部省退官直後にはただちに「教育学館」(後の国家教育社)を興し、大日本印刷社と出版契約を結び、教科書供給に尽力します。残念なことにその後、極端な国体主義教育の提唱者となり、教育勅語の普及者として活躍するようになります。日清戦争後に日本が台湾を領有すると、統治教育の先頭にたちます。一方で、特別支援の黎明期にもいた人でした。伊沢は文部省の最後の仕事のひとつとして、東京盲唖学校(現筑波大学附属視覚特別支援学校)の校長ともなっています。アメリカ留学時代にグラハム・ベル(電話の発明者)の父親が開発した発話障害のある人たち向けの視話文字に興味をもち、グラハム・ベル本人から直接発音矯正の指導を受け、晩年は、吃音矯正運動に身を投じます。この辺はまた触れられたらと思いますが、長くなってしまいますので、この辺にしておこうと思います

 

明治維新からはじまる教育の激動期。自らもその新しい体制の中で学び、信州の小藩から出てきたにもかかわらず、努力と能力で立身出世していく伊沢の姿から、日本の教育がどのように形作られていったのかを垣間見ることができるような気がします。伊沢の仕事(特に前半生)は一言でいって「標準化」の仕事でした。私たちが「五線譜を使って音楽を表現し演奏する」ことが当然だと思うこと、日本の言葉は一つではないはずなのに「国語は日本語一つ」と思ってしまうこと[vi]、「(検定された)教科書は“正しい”ことが載っている」と信じること、これらは本当でしょうか? 成立の過程を知ると、そんなことは決して言えないはずです。特に教科書検定制度は、明治時代にはまさに必要でしたが、これだけ社会が多様化し、メディアへのアクセスが容易になり、不確実性も増している現代において、このままでいいのでしょうか。100年以上前のことを振り返りつつ、私たちが無批判に受け取っている枠組みを改めて捉え直し、再考するというようなことは今こそ必要なのではないかと思うのです。

 

また長くなってしまいました。。今日はこの辺で。次回は同じく明治初期において文明開化と西欧文化の受容にあたって非常に重要な役割を果たしたキリスト教の教育への影響について、まとめておきたいと思います。

※教育の歴史に関するブログはこちらにまとまっています。

 

【参考文献】

『伊沢修二』上沼八郎 日本歴史学会編集 吉川弘文館(ブログ内Kで表記)

[i] 昌平坂学問所は、1630年、林羅山が徳川家康から与えられた屋敷で営んだ儒学の私塾が起源で、1790年の寛政異学の禁により朱子学が奨励されたときに、幕府の直轄機関となりました。幕末期には、洋学の開成所、(西洋)医学の医学所と並び称される規模の教学機関でしたが、昌平学校は、皇学(国学、神道)を上位におき、儒学を従としたため、旧皇学所の国学教官と儒学派の対立によって、開校2年後の1870年には休校となり、そのまま廃止されます。そのため東京大学の前身となる東京開成学校、東京医学校に比べると、限定的な影響力しか持てなかったとされています。

[ii] 伊沢は謹慎中にフルベッキからフレーベル流の幼児教育に関する『児童論』という本を贈られていたそうで、もしかしたらそのことが関係するのかもしれません。

[iii] このころ、新政府の遣欧渡航に関する期待と関心は大きく、明治2年から4年にかけて発行した海外渡航免許状は約400名となり、これは明治8年から41年にいたる海外留学生446名に匹敵するそうです (K56)

[iv] 伊沢は、体育科の立ち上げにも携わっています。遡って明治4年、岩倉使節団の一員として欧米を巡遊した田中文部大輔は米国アマースト大学を見学したときの体育が盛んな様子を見て、学長シーリーに体育の最も優れた教員の招聘を依頼しました。その選にあたったリーランドと一緒に伊沢は「新体操法実施」の構想を提出します。ダンベル、クラブなどに漢字をあて、握力、胸囲などの言葉も作り出されました。体育の効果を身体測定で科学的に測っていくという意味でも画期的なものでしたが、伊沢としてはこの仕事は一年で、音楽取調御用掛に任命されます。(K84-94)

[v] しかし、明治24年に伊沢が非職になるとたちまち衰退し、東京高等師範学校の付属の一校に堕ちてたちまち衰微しました(K109)

[vi] 「標準語」ではなく、多様な各地の文化と言葉を大事にする運動は明治時代では南方熊楠が世界的な民俗の比較研究をおこない、日本民俗学を確立させた柳田国男によって全国的な活動となっていきます。「民俗伝承の会」には非常に多くの小学校教師が含まれていましたし、宮本常一も教師でした。昭和の戦前から戦後に渡って、非常に重要な流れであり、成城学園における柳田社会科のように戦後社会科にも大きな影響を与えています。現在のローカルカリキュラムを考える際にも切っても切り離せないので、改めてまとめる予定です。

 


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