森有礼-日本の近代教育制度の骨格をつくった初代文部大臣(後半)―わたしたちの教育のルーツを辿る(10)

今回は森有礼についての後半です。前半部分をざっとサマリーすると、薩摩に生まれた森は、19歳のときに薩摩藩から派遣された留学生としてイギリスに向かい、ロシアやアメリカでも様々な経験をします。その後日本初の外交官としてアメリカに渡り、米国の政治家、文化人、知識人と積極的に交流。条約改正の仕事などに奔走します。1873年、帰国して欧米式学会の設立をしたいと、福沢諭吉らも社員となる日本発の啓蒙結社「明六社」を立ち上げますが、自由民権運動が加熱するさなかでの言論弾圧で、解散を余儀なくされます。まだこのころ森は20代後半。前半はここまでです。

後半は森が明六社解散後、清国やイギリスで外交官として活躍し、いよいよ38歳のときに文部大臣になり、日本の近代教育の骨格を作る部分を中心にまとめます。しかし、42歳で大日本帝国憲法発布の日に森は国粋主義者に刺されて亡くなります。森は、日本の教育にどのような影響を与えたのか。さまざまなものに「初」がつく森ですが、文化人、知識人としての側面と官僚、政治家としての側面両方を持ち、且つ教育に情熱を持っていた森がこの時代どう生き抜いたのかを見ていくと、明治時代、そして私たちの教育のルーツがよく見えてくるように思います。一方で、森は生前も、亡くなった後も誤解を受けることが多く、近年まで正当な評価がずっと与えられていませんでした。そうした森の歴史的評価についても簡単に確認しておきたいと思います。

 

【初の文部大臣へ】

 

明六社が解散となった年の年末、森は特命全権公使として、清国駐在を命じられます。きっかけは朝鮮で起きた江華島事件。明治初年以来、朝鮮侵略を考えていた日本政府はたびたび日本軍艦を出動させ、威嚇していました。1875年に日本の雲揚号が江華島近海に侵入し、砲撃を受けます。(雲揚号は艦砲で応戦の上、上陸し朝鮮人を殺害しています)国内では砲撃を受けたことに対して世論が沸騰し、開戦論がでますが、日本政府としてはまずは武力行使ではなく、朝鮮の宗主国である清国にこの事件の責任をとらせたいと考えました。その事前調整役として派遣されたのが森でした。

 

江華島事件 『明治太平記』 / 出所 Wikipediaほか

 

森の立場は外交官らしく冷静で、「朝鮮は主権国家であり、外交拒否権もあり、領海内に入った軍艦を砲撃する権利もあるのだから、国際法に照らして正しい行動であり、それを踏まえて外交すべき」というものでした。(犬塚 188) しかし、朝鮮の宗主国である清国と交渉がはじまってみると、清国の大臣たちは、朝鮮を属国といいながら「自主に任せる」とのらりくらり。一向に解決しない中、森は李鴻章と直談判し、交渉を日本側に有利に運びます。森は大任を果たしたことから、母親の病気を理由に二ヶ月間の賜暇を願い出て、内諾を得ます。5ヶ月にわたる日本での滞在時には、札幌農学校のウイリアム・クラークを自宅に招いたりし、再度清国に渡った時には、重責もなく、「政治倫理学」の勉強や『経書』の講究に時間を割きます。

 

明治9年に入ってから全国各地の士族層の空気はますます険悪になっていきます。明治10年5月、西南戦争のさなかに一旦帰国し、8月には再度公務で北京に妻と長男を連れて戻ります。この時もさしたる事件はなく、森は読書三昧だったといいます。そして、年が明けた明治11年の5月に日本に戻ります。森の帰朝直後、大久保が暗殺されます。

 

大久保暗殺の直後の6月に森は外務大輔に昇進。明治12年10月、時の外務卿井上馨は、関税・治外法権など条約改正において、最大難関の英国との交渉に森を起用、森は駐英公使となります。森はヴィクトリア女王の謁見、ディズレーリとの会談を経て、政府内外での有力者と知遇を得ていきます。ハーバート=スペンサー含め、当時一流の学者・文人・思想家たちの集まる学術団体であったアシニアーム・クラブの会員ともなります。同時に条約改正の交渉を森は続けますが、難航[i]します。

 

ハーバート・スペンサー

 

その時森のいたイギリスでは、1876年(明治9年)、初等教育令で本格的に義務教育制度が確立し、5-14歳の少年少女たちが過酷な労働から解放されます。森は外交官業務に忙殺される合間を縫って、英国教育制度を研究し、トーマス・ハクスリーに会うなど、自己研鑽を続けます。そんな森に幸運が訪れます。明治15年(1882年)、その前の年に10年後の国会開設を決定した日本での立憲制準備のために欧州に視察にきていた伊藤博文にパリで会うことができたのです。この時、伊藤はプロシア流の国家主義教育を念頭においており、森は英国式の義務教育を構想していたので、両者が完全に同じ教育観を持っていたわけではなかったはずですが、ウイーンに戻った伊藤は「国家の富強に奉仕する国民精神の涵養という教育方針」について森に書き送ります。パリで会談中に、すでに伊藤から教育行政の担当を要請されたと考えられています。

 

このあたりから、ぐっと森のことを理解することが難しくなってきます。森も伊藤に「学政片言」という意見書を書き送ります。そこで知識、道徳、体力をバランスよく発達させることが教育の目的であり、そのために「気力」が必要だと述べました。そしてその「気力」の源としての「邦国固有ノ政基」の活用、つまり天皇制という特殊な政治形態を求めていることが推論されます。その後、英国との条約改正交渉が一段落し、森は『日本政府代議政体論』を書きます。立憲制採用にあたってわが国固有の伝統的国体を考慮に入れるべきという論旨でした。 (犬塚238)

 

6年ほどの英国での業務ののち、明治17年に森は帰国し、文部省御用掛兼務となります。当時、文部少輔の九鬼隆一は(西洋思想の導入による急進的な改革を警戒して)森の文部省入りに大反対。その背後には天皇侍講の元田永孚らがいました。しかし伊藤博文は森の入省を強行突破します。遡ること明治5年、「学制」が発布され、明治12年、「教育令」によって欧米式の自由主義的な教育の方向が出されていましたが、儒教的徳育を重視する元田永孚は天皇の意を受けて、「教学大旨」を草したところでした。明治14年には「小学校教則綱領」の制定によって「修身」が教科書の中心に置かれるようになっていました。

 

このころ、森はもっぱら文部行政の改革に専念。制度の立案や整備に熱中します。京都、大阪、兵庫、滋賀、岡山、広島、徳島、高知、愛媛ほか日本中の学校を視察し、明六社で一緒だった西周と会談を重ね東京学士会院の機構改革に奔走しています。その後、明治18年12月に森は晴れて文部大臣に就任。閣僚中最年少の38歳、伊藤専断による大抜擢でした。文部大臣になってからの仕事は文部省による『学制百二十年史』にコンパクトに纏まっています。

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森は文相に就任するやいなや再改正されたばかりの教育令を廃止し、19年、学校種別にそれぞれの学校令を制定。帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令、及び諸学校通則など五種の学校令を公布した。東京大学を軸とし他の専門教育機関を統合した帝国大学令、帝国大学への入学者を育成する高等中学校を全国に五校設け、各府県一校の公立尋常中学校と(中学校令)各郡一、二校の高等小学校と各町村の尋常小学校を配して(小学校令)、国民教育の基盤の上に各段階の学校制度を体系づけたことと、教育養成について高等師範学校(全国に一校、官立)、尋常師範学校(府県に各一校府県立)の二段階からなる独自の師範学校制度を設立した。また開明主義の立場から従前の儒教的徳育中心主義を批判し、体育による集団性と知育による合理性とを基盤とした社会的倫理性の形成を重視した。海外生活経験から我が国の国際的地位を向上させるために、教育における愛国心の育成を特に重視し、その手段として学校における軍隊式教育や軍事訓練を積極的に奨励した。このほか男女平等的な観点から女子教育を重んじ、効率性を高める学校管理や教育費の受益者負担方式を広く採用するなど、異色の方策を展開した。

 

森の死後も新しい諸学校例が公布され、高等教育機関の部門を整備され近代学校制度の完成を見ることになるが、19年に森が制定した学校制度はその後数十年にわたって整備拡充された我が国学校制度の基礎を確立したものである。(p21-22)

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『学制百二十年史』にあるとおり、森による学校令は、日本の近代学校制度の骨組みを作りました。森は近代国家を底辺で支える啓蒙された国民の形成が急務であると考え、初等教育を重視し、尋常小学校、高等小学校それぞれ4年とし、前者を義務教育としました。このときに小学校の教科書は文部大臣の検定されたものに限られ、教科書検定制度が導入されるようにもなります。中学校令では、中学校を尋常、高等にわけ、尋常中学校は修業年限五年で、府県立、高等中学校は2年で官立としました。3年後の1886年には、第一高等中学校が、以下京都、仙台、金沢、熊本に設けられるようになります。高等中学校は、1894年の高等学校令で高等学校と名称変更し、帝国大学の予備教育機関となり、近代日本における高等教育機構を構成していきます。(井上53-55)

 

一方で、森の師範学校に対する兵式体操(軍隊式教育)の導入は、森の仕事の理解の中でも一番難しいところのように思います。なぜ、欧米で教育を受け、外交官として長く仕事をしてきて、思想的にもリベラルで、合理的な思考をする森がよりによって兵式体操なのか。この「なぜ?」に対しては、白石義郎「森有礼の二人の弟子 : 木下広次と嘉納治五郎の身体の西洋化」の説明がしっくりきました。つまり、森有礼は若くして薩摩を出て、トマス・レイク・ハリス教団の寮生活を過ごし、そこで彼なりの身体教育論を形成したというものです[ii]

 

井上勝也は、清国駐在以降に森の考えは変わってしまったという立場をとっており、実際に森の考えが変わったかどうかは研究者の中でも意見が分かれるそうです。しかし、白石氏が指摘するように、森が目指したものは、シンプルに規律に従い自らを教育する身体の創造だったと考えると、森の行動様式、そして人生は一貫してきます。森有礼のもとで高等教育に携わった初代京都大学総長の木下広次は、森の考えをベースに青年教育を行いました。嘉納治五郎も師範学校校長と熊本の第五高等学校の教授を務めており,教育者として森有礼の身体の西洋化に共感していたといいます。森、木下、嘉納は皆同年齢の青年が寝食を共にする学寮を若年期に体験していました。

 

岐阜県立岐阜中学校における兵式体操

出所 https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/02/26/084928

 

【森の死そしてその評価】

 

文部大臣になってちょうど2年経った頃、明治21年10月に伊勢神宮不敬事件がおきます。森は、学事巡視で近畿・北陸方面に旅立ち、金沢の第四高等学校の開校式に列席。富山、彦根、大津、大阪、神戸、京都、三重の巡視を経て伊勢神宮に参詣しました。この日、森は地元の小学校を視察したあと、2−30人の吏員属官と一緒に外宮を参拝したあとに、神宮の案内で内宮に向かいます。鳥居をくぐって内宮の前に進むと神官の先導で、石段を上り、御帳前にきたところで、神官が突然に身を翻し、御門の右側にうずくまってしまいます。そこで森はそのまま前に進むが、そこでその神官に押し止められ、引き下がったといいます。帰宿後、森は憮然とした顔で木場秘書官に向かって「どうも神官というものはわからない。はるばる神徳を慕って来た者を門前払いとはひどい」と言って憤慨したとのこと。(犬塚288)この一連の出来事を見ていた木場秘書官の報告が嘘でなければ、明らかに神官側に意図のあるものとなりますが、真相はわかりません。いずれにしても、このことは土足で昇殿した、ステッキで御帳を揚げて内部を覗いたなどというストーリーと共に、「とある大臣」の不敬行為として新聞で報道されます。残念ながら、極端な欧化主義者と思われていた森に対し、世間の声も温かいものでは決してなく、森に対する反発的な感情が渦巻いていきます。

 

翌年2月11日。大日本帝国憲法発布の日。森は自宅で大礼服に着替え、参内の時間を待っていました。その時に羽織袴の正装をした若い男、西野がやってきていきなり森を刺します。不敬行為の報道を信じた国粋主義者の犯行でした。このとき世間はむしろ、亡くなった暗殺者西野に対して同情を示し、新聞は賛美すらしました。藩閥仲間ですら刺された森に同情を寄せる者は稀だったといいます。しかし森の傷は腸に達するほどの深手であり、憲法発布の日で皆宮中に召されていたという不運も重なり、手当は遅れ、森はそのまま亡くなってしまいます。福沢諭吉は森のことを「天性剛毅率直の気に富み、敢て他を憚らざるの風」といい、「今更言ふて甲斐なきことなれども此西野なる者が偶然の縁を以て(略)親しく大臣の言を聞き又その挙動を目撃することを得たらんには、僅に数週間の交際にても談笑の間に互いに心事を解し」ただろう、と弔じました。暗殺者西野も森のことをよく知っていれば、森の誠実さに触れることによって、殺害するどころか友人になっただろう、ということですが、本当にそうだったのではないかと感じます。

 

森の亡くなった次の年、「教育勅語」が下されます。形式的には、明治天皇の勅語の体裁を取りますが、実際には井上毅、元田永孚らが起草したもので、忠君愛国主義と儒教的道徳を基礎としたものでした。その後、勅語は神聖化され、日本は歯止めがきかなくなったように、常軌を逸した行動をとるようになっていきます。

 

出所 『新皇居於テ正殿憲法発布式之図』安達吟光画/Wikipedia Google Arts and Cultureほか

 

さて、森は第二次対戦後、「国体主義教育」の主唱者として、非難されました。文部省では1992年の「学制百二十年史」の前の1972年、「学制百年史」が編まれているのですが、百年史について記載した文科省HP[iii]によると、井上毅が森の教育は「国体主義」であったと述べたことが引用され、続いて森の「閣議論」から「国家至上主義の教育観が、森文相の国体主義の教育の内容であり、この教育方針は二十年前後に明確にされてその後に引き継がれていくのである」結論づけていました。つまり、「国体主義」教育は森のせいである、という表現がなされていたのです。

 

しかし、『兵式体操成立史の研究』の奥野武志は、森の評価は戦後1950年代から、1970年代にむけて変化してきたとしています。1950年代、石田雄は森による教育政策を「余りにも露骨な国家主義教育」と評し、唐澤富太郎も「国家主義、軍国主義思想に立脚」と言及しました。しかし、1960年代に入ると林竹二が軍国主義、超国家主義と森を結びつけることに異議を唱え始めます。たとえば、上述の井上毅が森の教育主義が「国体主義」だと言ったのは、反国家主義者として暗殺された森を弁護する意図を含むものであって、教育勅語後に“神聖”なものにされた「国体」を主義とする教育に対して責任を問われる筋合いはない、としています[iv] 。

 

その後、1970年代に入ると、佐藤秀夫も森の教育政策は「国体主義」の出発ではなく、「啓蒙主義の終焉と見るべき」と林竹二の森評価に同意し、再評価が進んでいきます。(奥野 11-12) 犬塚孝明も、森の国家主義を「国家は生活、財産、良心等個人の国民の幸福増進を促すために機能すべき装置として捉え、国民の安全と幸福を守るためには、国家が管理され、機能する必要があり、そのために、国民と国家の約束が必要だし、国民は決められた制度を守る必要がある」というものであり、「本質的に個人の自由を侵害する性格のものではなかった」としています。1992年の「学制百二十年史」においても、その再評価が反映されていて、百年史の時とは全然違った書き方となっています。

 

ただし、森は『Education in Japan』を書いた頃から一貫して「万世一系」の伝統と「征服されざる民」としての民族的な誇りを強烈に持っていました。海外に住むと、当然ながら「日本」という国についてのアイデンティティは何度も問われます。その中である意味自己強化的に繰り返した説明が「征服されざる民としての誇り」だったのでしょう。また、明治時代の啓蒙主義のジレンマとして、西洋列強がひたひたと近づく中で、早急に「国家」の形を作らなければならないプレッシャーがあり、その中心軸をどこにおくのかについて圧倒的に時間が足りなかったことは事実で、そのことも当然頭にあったはずです。

 

当時の日本はまだまだ未成熟で、そもそも江戸の封建社会から抜け出したばかり。国民の健全な主体性、自律性によってできたばかりの新しい「日本」をまとめ、欧米諸国と対等に交渉することを期待することはできませんでした。つまり、国家の中心に「自由」をおくことも「民主主義」におくこともできませんでした。列強の餌食にされた清国やアジア諸国を目前に見た恐怖も大きく、急速に近代的な中央集権国家をつくり、国力を増強する必要があると、森も思っていたし、知識人を含めた多くの日本人はそう思っていました。実際にのんびりしていたら清国のようにばらばらにされていた可能性は高いでしょう。

 

しかしながら、その時に「国体」という時間も空間も超えないようなもの、つまり普遍性のないものを国家の中心に据えてしまったことは悲劇でした。しかし、森は残念ながらその決定的なミスには気がついてはいなかったようです。普遍性のないものは自ずとなにかを排除する構造を持ちます。その意味で完全にアウトです。たしかに西洋列強の迫る中、実質的に「使える」中心は「国体」しかなかったかもしれませんが、それを「方便」としてつかうのか、本気で飲み込まれてしまうのかで天と地ほどの差が出ます。森はほとんど私的な文書を残さない人でした。今となっては、どこまで「国体」を純粋に信じていたのかは実はわかりません。でも、少なくとも「国家」もしくは「人間」というものを必要以上に信頼し、政策として真ん中に据えてしまったのは事実です[v]

 

森は上に見てきた通り、非常に気持ちの良い人物で、世に認められるかどうかということにあまり囚われず、目の前の仕事をしっかりするタイプでした。上昇志向でも権力志向でもありません。今回複数の本を読んでみたのですが、政治的利害関係を持っていたり、少し離れていた立場から森をみていた人は別として、森と近しく仕事をした人たちからは、伊沢修二なども含め、基本的に好かれ、慕われていたようです。また、「兵式体操」や「英語の国語化」など、自分がそうだと思ったら誰がなんと言おうと、「空気が読めない」レベルで自論を展開し、福沢の言う通り「天性剛毅率直の気に富み、敢て他を憚らざるの風」の人でした。

 

林竹二も「森は、もっとも深い行動の動機を、つねに自己自身の確信に求めた人間であった。この姿勢は彼の生涯を貫いて変わらなかった。彼の一生は官僚として終始したが、それは自ら課した課題の性質からきたもので、彼の行動はもっとも深い動機においては全く官吏のそれではなかった。(略)森は官吏でありながら、その仕事の中で、どこまでも人間であることを止めないところがあった。」と書いています。(林 33)

 

森は大事な時に亡くなってしまいました。しかも、とにかく若すぎました。上述したように、亡くなった次の年には教育勅語が出され、“神格化”された「国体」が前面に出てきて、森が嫌っていた「修身」も復活し、あきらかに日本はおかしくなり、タガがはずれていきます。森が生きていれば、この状態を歓迎したとは思えません。こうしたおかしさにはすぐ気がつき、なんらかの手立てを打ったのではないかと考えます。日本の気狂いに森はストップはかけられたりはしなかっただろうか。少なくとも、「国体主義の教育」を森のせいにして、今の教育のあり方を本当の意味で反省しなければ、私たちは前進できないと思うのです。

 

***

さて、森が文部省に入ったのは明治17年ですが、その10年以上前の明治5年にすでに「学制」が公布されていました。学制の発布後、数年間の間に2万校の小学校が整備され、識字率もぐっと4割に増えました。しかし当初は義務教育とは名ばかりで、学費も家庭が負担し、学校の建設費用も地元負担だったため、学制反対一揆などが起きていました。次は、その辺のことに触れながら、森の下でも働き、日本の音楽教育の基礎をつくった伊沢修二についてまとめたいと思います。

 

※日本の教育のルーツについて書いたものはこちらからまとめて見れます。
https://kotaenonai.org/tag/roots/

 

【参考図書・文献】

『森有礼』 犬塚孝明著 日本歴史学会編集 吉川弘文館 (本文犬塚)

『森有礼―悲劇への序章』 林竹二著作集 筑摩書房 (本文林)

『兵式体操成立史の研究』奥野武史 早稲田大学出版部 (本文奥野)

『国家と教育―森有礼と新島襄の比較研究』 井上勝也著 晃洋書房

「明治啓蒙思想の形成とその脆弱性―西周と加藤弘之を中心として」植手通有

(日本の名著34 中央公論社より)
『Education in Japan: A Series of Letters』 Addressed by Prominent Americans to Arinori Mori. New York: D. Appleton and Co.

『学制百二十年史』 文部省

『学制百年史』文部省

『明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女』 寺沢龍 平凡社新書

「林竹二『森有礼とトマス・L・ハリス』を中心として」 高木八尺

 

[i] 交渉難航の責任の一端は、日本側の外交マナーや態度が要領を得ず、方針がころころ変わるため、日本の改正案が信用されていない、と森は意見書を提出しています。

[ii] この時期はまさに西洋世界における「規律の精神」と「スポーツ的身体」の勃興期でもあったそうです。

[iii] https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317609.htm

[iv] 『林竹二「森有礼とトマス・L・ハリス」を中心として』高木八尺

[v] 林竹二は、森たち薩摩からの留学生は、ハリスのコロニーに参加することで、オーソドックスのキリスト教や西洋文明の諸原則を確かにつきとめる前にその批判を教えられることになった、としていますが(林 p89)、これは本当にそうだと思います。新島襄が完全なる密航だったにも関わらず、アメリカ西海岸のピカピカの主流派プロテスタント(ピューリタニズム)を受容したのに対し、森らは、聖書を読むよりも共同体としての生活と身体的な鍛錬による人間的新生を優先し、最終的には性的な問題も起こしてしまった新興宗教のコロニーの中でキリスト教を受容しました。森は、西洋のさまざまな知識人と交流する中で、自分の宗教経験がメジャーなものでないことは重々承知していただろうし、だからこそ、信教の自由を唱えたのではないかと想像します。特定の宗教には頼れないという感覚と、人は自由にさまざまな信仰をしていいのだという信念が、森に「国体」思想を楽観的に捉え過ぎてしまった一因ではないか。社会とともに発展的に成長していく「人」の可能性を信頼していたのではないでしょうか。でも今となっては、何を考えていたのかはわかりません。本人に色々聞いてみたいものです。

 

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