明治時代のキリスト教と教育(その1)横浜にやってきた宣教師たちと学校―私たちの教育のルーツをたどる(12)

福沢諭吉の回でも少し触れましたが、私の卒業した中学・高校の創立者は福沢諭吉と同じ中津藩出身の武士で福沢諭吉を江戸に呼び、蘭学塾を開き、慶應義塾の原点をつくった人物の甥でした。東京高輪にある頌栄女子学院という学校なのですが、この学校はプロテスタント・キリスト教の学校で明治17年に開校しています。二代目校長は島崎藤村に洗礼を施し、明治女学校を設立した木村熊二です。私の場合、特別に宗教教育を受けたいと思ってこの学校に入ったわけではないのですが(制服が可愛いと思った)、さすがに6年も毎朝礼拝をするような生活をしていると、なんらかの影響は受けるものだと最近になって思うようになりました。私だけではなく、私のように何気なくキリスト教の学校に入学し、なんとなく聖書を読んでいたという人は結構いるのではないかと思います。

 

さて、日本にはカトリックにしろ、プロテスタントにしろ、かなりの数のキリスト教系の学校(私学)があることにお気づきでしょうか。プロテスタント系でいうと、新島襄の設立した同志社、立教、青山学院など、カトリックだと上智大学、聖心女子、清泉女子など相当数あり、とてもではありませんが、全部をここで紹介することはできません。中学・高校になるともっと多く、浦和明の星、女子学院、栄光学園、カリタス女子、雙葉、暁星、サレジオ、ラ・サール、大学もある白百合、明治学院など挙げても挙げてもきりがないくらいにたくさんの学校があります。

 

西欧ではキリスト教と学校はもっと密接な関係を持ちます。たとえば、1636年に設立されたハーバード大学は、当初開拓のリーダーたるべき聖職者の養成学校としてスタートしています。イギリスのオックスフォード大学は、1133年にパリ大学から神学者ロベール・ピュランが来講したのを起源とすることが多いそうですが、12世紀末に全キリスト教国に共通の認定権を取得し、「ローマ教会の第二の学校」としてパリ大学に次ぐ地位を与えられています。

 

ところで、明治時代にはどれだけのキリスト教系の学校があったのでしょうか。以下の表を見ると、明治期にできたプロテスタント系の学校は、84校が開校し、閉校などされず最後まで残ったものだけを数えても57校あります。そのうち42校が女子校で、明治22年の大日本帝国憲法発布前の10年間に開校ラッシュがあり、発布後は一転して閉校だらけとなり、むしろ数を減らしました。一方で、カトリックの学校は、明治20年代までに9校、それ以降に9校設立されています[i]。(この辺の事情については「その3」でカバーしています)

※ちなみに「ミッションスクール」とありますが、海外のミッショナリーから独立したプロテスタント・キリスト教の学校も数に含まれていると思います。

 

こうしたキリスト教系学校はどのようにして日本で創立されてきたのか、明治時代に何があったのか。特に黎明期を中心にまとめておきたいと思います。

その1:ヘボン、ブラウン、バラたちと横浜バンド(今回)

その2:新島襄と同志社、そして熊本バンド

その3:新渡戸稲造、内村鑑三と札幌バンド

その4:キリスト教系女子学校

 

【横浜で宣教を開始したヘボン、ブラウン、バラ】

 

日本における聖書の歴史は1549年にフランシスコ・ザビエルが初めて鹿児島にやってきたときにはじまることは教科書でも学んだと思いますが、幕末から明治期にかけては、特にアメリカから来日したプロテスタントの宣教師が非常に活発な動きをした時期でした。特に、旧約聖書、新約聖書の双方の和訳を完成させ、和英辞書を編纂し、英学塾を開設し、教会建設、明治学院の創立など、八面六臂の活躍をしたヘボンのことははずせません。ヘボンといえば、ヘボン式ローマ字?と思うかもしれませんが、そうです。そのヘボンです。

 

ヘボンの名前は正式にはジェームス・カーチス・ヘップバーン。ヘップバーンが「ヘボン」と聞き取られ、本人も自分の名前を「平文」としていたそうです。ヘボンはアイルランド系アメリカ人で、アメリカ東部の由緒正しい家で育ちました。父親はプリンストン大学を卒業した地元の名士で、小さな頃から熱烈な外国伝道の精神を伝えられて育ちます[ii]。優秀だったヘボンは16歳の時にプリンストン大学の3年に編入します。当時化学に興味のあったヘボンでしたが、プリンストン大学学長のグリーンに諭されて、ラテン語、ギリシャ語、ヘブル(ヘブライ)語を学びます。これが後年日本の辞書の編纂や聖書翻訳に大きな意味を持つこととなりました。プリンストン大学を卒業後、ヘボンは医師になるべくペンシルベニア大学医学部を21歳の時に卒業しますが、このころから宣教医として海外にいくことを自分の使命だと考えるようになっていました。(T13-17)

 

1841年、開業医として働いていたヘボンは同じく海外伝道の強い意志をもつクララと結婚、米国長老教会の宣教医として中国に向かいます。途中船酔いが激しい中、クララ夫人は早産し赤ちゃんは死んでしまいます。夫妻は厦門で医療伝道をスタートし、中国語を学びはじめます。当時、シンガポールにはアメリカン・ボードの印刷所があり、ヘボンはギュツラフ『ヨハネ福音書』[iii]などを入手します。ここで、日本でのミッションを共にする米国オランダ改革派教会のブラウン夫妻に出逢います。シンガポールで2年過ごしたのち、1845年にマラリアに罹ったことから一旦アメリカに戻ります。(T26-30)

 

ヘボン夫妻は、ニューヨークで開業しますが、この病院は大繁盛します。3つの広大な住宅のほか別荘を持つようになりますが、宣教への情熱は消えることがありませんでした。このあいだに、日本ではペリーが1853年に来航。その5年後の1858年には日米修好通商条約が締結されます。下田、函館のほか、神奈川、長崎、新潟、兵庫を開けて、下田を閉じますが、条約の宗教上の規定にあたる8条は、「日本に在るアメリカ人自ら其国の宗法を念じ礼拝堂を居留地の内に置くも障りなし。」としました。8条はこの条約の担当者だったハリスが日本宣教の可能性をめぐって、慎重熟慮の上、入れ込んだものですが、いずれにせよこの条項の解釈次第では、日本人が外国人の住宅で英語を学び、英語の讃美歌をうたい、英語の聖書を研究することが可能になったのです。

 

このことは、ただちに米国聖公会、長老教会、ダッチ=リフォームド教会の三つのミッション本部に連絡され、宣教師派遣が勧告されました。ニューヨークで開業していたヘボンは、この書簡のことを知るや否や宣教師志願を決心。クララ婦人もそれに応じます。夫妻は13年間築き上げてきた病院、邸宅、別荘その他全部を処分し、老いた父親と14歳の息子を残して、出発を急ぎました。親戚や知人はみな驚き、切支丹迫害の浪士が横行し、命の危険すらある鎖国攘夷の国へ行くなど狂気の沙汰だという人もいましたが、ヘボン夫妻は希望でいっぱいだったといいます。(T47)

 

ヘボン夫妻が神奈川についたのは、1859年の10月。米国領事に面会し、神奈川の成仏寺を借りることとしました。シンガポールで一緒だったブラウンも同じ敷地内に住むことになります。ヘボンとブラウンは中国語に堪能で、日頃『論語』、『日本外史』などをスラスラと読んでいました。ヘボンは日本語を学ぶべく、米国公使のハリスの世話で矢野隆山を教師としましたが、矢野が日本で最初にプロテスタントの洗礼を受けた日本人となります。(T68)


成仏寺

 

ヘボンは1861年あたりから、宗興寺で診療を始めました。ニューヨークで得た財産は全てそのために用い、医術では一銭も自分のポケットに入れずに18年過ごします。この施療事業は大盛況となりました。幕末から維新にかけては、ヘボンを「ヤソの君子」であるとして、スパイも刺客も浪人も彼の前には頭を下げ、尊敬したとのことです。このころ、米国領事館を通じて幕府の委託生9名の教育を依頼され、教えていますが、ヘボンは彼らの数学の能力の高さに驚いています。明治元年には施療所のあったところに、洋館の宣教師館がたてられ、ヘボン塾ができ、長崎が切支丹と蘭学の港だったように、横浜はプロテスタンティズムの発祥の地となっていきます[iv]。(T82)

 

ヘボン夫妻の宣教師館と施療所は横浜における唯一のプロテスタントの礼拝堂ともなり、安息日学校も開始し、1866年からはキリスト教の礼拝をおこないます。当初は平均して12名でのスタートでしたが、日本のプロテスタント教会形成における重要な礎石となりました。

 

ところで、プロテスタント宣教師の中国語の聖書は、幕末の日本に多く輸入され、既に知識階級には読まれていました。中国語を読むことができたヘボンとブラウンは翻訳に中心的な役割を果たします。一方で、彼らは聖書協会が出版の権限を有する日本語聖書の翻訳は米国聖書協会に提案される共同委員の労作でなければならないと考え、在日各派宣教師と共同して翻訳に取り組みました。明治維新の直前の1867年にブラウンは創世記と4福音書の翻訳を終えたといいます。(T130-133)

 

そして、いよいよ明治に変わりました。ヘボンとブラウンが成仏時で活動を始めたのは、幕末の1859年ですが、その2年後にジェームス・バラ夫妻[v]も日本に到着します。バラ夫妻は、現在横浜海岸教会のある居留地167番で小さな会堂を開き、押川方義(後に東北学院、宮城学院を創立)、植村正久(東京神学社設立、東京富士見町教会牧師)、本田庸一(青山学院第2代院長)らがバラから受洗します。明治5年(1872年)、こうして洗礼を受けた日本人信徒たちが教会員となる無教派の日本基督公会がいよいよ設立されます。これが日本で初のプロテスタント教会で、ここで初期に集った日本人信徒たちは横浜バンドと呼ばれます。[vi]同年には、プロテスタント各派の宣教師14名が集まり、日本初の宣教師会議が開かれ、聖書翻訳の共同委員の選定、神学教育を共同事業とすること、日本基督公会を全国に広めること、などが決められます。


ヘボン邸中庭の写真 岡山洋二氏寄贈 横浜開港資料館所蔵

横浜開港資料館HP http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/122/02-2.html

 

ところで、ヘボンの家では幕末から英語や医学を学ぶ者たちが集まり、1862年に横浜居留地39番に住居を移転してからはヘボン塾と呼ばれていましたが、1875年には40人以上の立派な学校になり、安息日学校は70名くることもあったようです。上の写真はそのころのものではないかと言われています。一方で、ジェームス・バラ夫妻は明治2年にバラ塾を開き植村正久らが学んでいましたが、1875年、ヘボンはすでに60歳となっており、聖書翻訳の業務に集中することからも、ヘボン塾をバラ塾に引き継ぎます。ブラウンも塾を明治6年に山手に開き、バラ塾の生徒は神学を本格的に学ぶためにブラウン塾に移りました。ところで、『茶の本』で知られ日本の美術運動の指導者だった岡倉天心は横浜の貿易商の子として生まれ、7―8歳のころにヘボン塾で英語を学び始めました[vii]。バラ塾、ブラウン塾でも学んでいます。子供の頃は英語のほうが日本語よりはるかに上手だったとのことで、なんだか今時のインターナショナルスクールに通う都会の子どもみたいですね。

 

明治5年に本格化した聖書翻訳については、委員長はブラウンでしたが、四福音書を含め、新約聖書の主要な部分はヘボンが訳すことになりました。明治12年に新約聖書の翻訳が無事完了します。(T157-160) ヘボンは、このあと旧約聖書の翻訳に取り組みます。明治17年のヘボンの日記を見ると、翻訳に没頭していたことがわかります。彼らはあまり漢文が混じらない、日本人からも文学的作品と認められることを目指しましたが、日本人の協力者のなかでも植村正久は名文家だったといいます。ヘボンたちは、ヘブル語から旧約聖書を和訳し、難解な場所ではギリシャ語やラテン語、フランス語の聖書や原文批評注解書を複数参照しながら進めました。フルベッキ、ファイソンと共に毎日9時から午後3時半まで、歴史書であれば、一日20節から30節、詩篇は一日10節程度を訳していったそうです。明治20年の12月末日で旧約聖書の翻訳は全部完了します。新約聖書、旧約聖書の翻訳は11年かかり、全期間を通じて働いたのはヘボンだけでした。(T171)

 

聖書翻訳が終わってから、ヘボンは明治学院の創立[viii]に携わり、明治23年にヘボンは初代総理(フルベッキは副総理)となります。しかし、すでに75歳、アメリカに戻ることを強く望むようになっていました。明治25年、横浜の指路教会の献堂式を見届け、33年の宣教を終えます。


1890年へボン夫妻金婚式の写真

 

【教派にとらわれない宣教と学校のありかた】

 

このように、ヘボン、ブラウン、バラたちから始まった横浜バンドですが、明治5年の日本基督公会を継承する形で、明治10年に複数のプロテスタント各派[ix]があつまって、日本基督一致教会(The United Church of Christ in Japan)が設立されました。この時に、日本基督一致教会[x]の教職養成のために、東京一致神学校が築地に創設され、ブラウン塾[xi]をはじめとして、各ミッションの宣教師が主催する神学塾が合流します[xii]

 

ところで、日本基督公会は、その公開条例に「我輩の公会は宗派(教派)に属せず」と明示し、それを引き継いだ日本基督一致教会も英語名がThe United Churchであり、教派を超えて協力する「United」という言葉が入っていました。私が卒業した学校も、創立者たちは第一長老派教会がつくった霜月町教会で受洗し、東京一致神学校に学んだとのことなので、上記の流れをくんでいます。それが理由なのか、学校に通っていた時には、カルヴァン派に近いとか、長老派のルーツがあるという話はぼんやり聞いていたものの、あまり教派の違いのようなものは意識していませんでした。

 

会派の違いがよくわからない、というのは私の不勉強もあるのだと思いますが、少なくとも私の母校は今、宗教の時間に東京神学大学を卒業された牧師先生たちがいらしているようで、私が学んだ時も似たような精神で授業を受けていたかもしれません。東京神学大学は大学名にUnionという言葉が入っており、メソジスト系、バプテスト系なども包含して、まさに合同神学校となっています[xiii]。 逆にアメリカに住んでいた時、その町の教会は、Methodist ChurchとかBaptist Churchと教派が名前についているものがほとんどで、違いもわからなかったし、なんとなく違和感を覚えていました。こうした違和感は、あまり教派に囚われないような教育を受けたことが影響しているかもしれませんが、いかんせん不真面目な生徒でしたので、記憶が曖昧です。

 

いずれにしても、今回は横浜をルーツとした流れについてまとめました。日本のプロテスタントの受容は、3つの発祥のルーツがあると言われており、それぞれ「横浜バンド」「熊本バンド」「札幌バンド」と言われることがあります。「バンド」というとバンドマンのようですが、ここでは有志一団みたいなイメージだと思います。次回は熊本洋学校からはじまり、同志社の創立期に寄与していったルーツ(熊本バンド)と新島襄、その次は札幌農学校にはじまる札幌バンド、特に新渡戸稲造について教育の側面を中心に書き留めておきたいと思います。ちなみに、それぞれの「バンド」は個性があります。横浜バンドは「教会」が大きな意味を持つ一方、札幌バンドでは「教会」のあり方について再考を促しました。一方で、熊本バンドは言論界や政財界に進んだ人が多くいます。最終回(その4)では、ブラウンやヘボン塾にもルーツのあるフェリス女学院含め、女子教育にも触れていきます。

 

なお、今回あることの下調べとして日本の教育のルーツを辿っています。その中で色々読み、母校について知らなかったことがいかに多かったかと認識させられました。そして、縁あって宗教教育を受けたことに改めて感謝を感じています。ただ、私はキリスト教信者ではなく、当時お世辞にもいい生徒ではありませんでした。なので母校に連絡しないまま、これを書いています。もし認識違いや不適切な表現、見落としなどありましたら、ぜひご指摘いただけますと幸いです。

 

※「わたしたちの教育のルーツをたどる」ブログはこちらにまとまっています。

 

【主な参考図書・文献】

『ヘボン』高谷道男  吉川弘文館 (文中T)

『幕末明治耶蘇教史研究』 小澤三郎 日本基督教団出版局

『明治期のキリスト教と教育事業〜カトリックを事例に』 長崎ウエスレヤン大学地域総合研究所紀要 10巻1号 2012

「近代日本におけるプロテスタント系学校の設立と展開」 塩野和夫 西南大学国際文化論集 第25巻 2010

『宗教年鑑 令和2年版』 文化庁

 

[i] 「近代日本における国家とミッションスクール-上智大学の創設をめぐって」高宇 東京大学大学院教育研究科紀要 第50巻 2010

[ii] 1810年、アメリカ東部の名門ウイリアムズ大学学生の熱狂的な外国伝道の活動から始まり、アンドーヴァー神学校の学生と教授が一緒にキリスト教宣教を目的とするアメリカン・ボードが創設されます。(T3-9)ヘボンが生まれる5年ほど前のことですが、これをきっかけに海外伝道の熱が一気に高まったといいます。

[iii] 日本における聖書の歴史は、フランシスコ・ザビエルがはじめて鹿児島に来た時に持ってきて、日本語に訳された「マタイ福音書」と言われているますが、現在記録は残っていません。ザビエルに同行した修道士フェルナンデスは信仰問答をローマ字に訳しており、この中にはモーセの「十戒」や「主の祈り」が入っていたといいます。フェルナンデスは四福音書の全訳を試みたようですが、詳しいことはわかっていないとのこと。一方で、ギュツラフの『ヨハネ福音書』は近代プロテスタントによる最初の日本語訳であり、断片を除けば現存最古の日本語訳聖書だそうです。

一社)日本聖書協会
https://www.bible.or.jp/know/know14.html

[v] ヘボンと同じ、米国長老派教会の宣教師でした。

[vi] この時の公会定規のうち、公会条例第二条例「公会の基礎」:「我輩の公会は宗派(教派)に属せず。ただ主イエス・キリストの名に依て建る所なれば、単に聖書を標準とし、是を信じ、是を勉むる者は、皆是キリストの僕(しもべ)、我等の兄弟なれば、各中の各員全世界の信者を同視して一家の親愛を尽くすべし。是故にこの会を日本基督公会と称す。」

[vii] 「東洋の告知者天心―その生涯のドラマ」色川大吉 『日本の名著39―岡倉天心』中央公論社 p14

[viii] 明治学院大学HPにその経緯が詳しい
https://www.meijigakuin.ac.jp/about/history/history.html

[ix] カルヴァン主義的背景を持つアメリカのプレビステリアン教会、(米)オランダ改革派教会、(米)ドイツ改革派教会、スコットランドの改革派教会などを合併した教会で、これらの諸教派は日本を地理的に分割して伝道します。

[x] 明治20年には、日本のプロテスタント教会の三分の一を占めている一致派(日基派)と同じく、三分の一の勢力を占めている組合派(会衆派)と両方が合同組合のための委員を選出することになりました。組合教会という名称は、米国会衆派の教派性をそのまま受け継ぐものではないという意味をこめて、その前年から使われ始めていました。しかし、同志社を設立した新島襄を派遣したアメリカン・ボードはウイリアムスカレッジからスタートしたため、もともとは教派に対するセクト主義はなかったのですが、実質的には会衆派の色が濃く、新島自身も会衆派で洗礼を受けており、一致派の組織や考え方、合同の進め方に新島は大反対し、その時には見送られました。(新島の教え子や、グリーン・ゴードンなどボード派遣の宣教師は合同を推進する側にたったこともあったようです。また、会衆派の宣教は横浜の動きに比べ後発で、そのこともあって、立ち遅れた会衆派が関西に地盤を築こうとしたことが、同志社が京都に設立された経緯に関わっています。ただ、熊本バンドに影響を与えたL.L.ジェーンズは長老派です)『新島襄』和田洋一 岩波現代文庫 P259-

[xi] ブラウン塾の跡地には今横浜共立学園が立っています。ここには福沢諭吉の娘たちも通い、後に女子学院を設立する櫻井ちかも学びました。

[xii] 聖書翻訳に携わった植村正久も東京一致神学校を卒業後、この教会の伝道者となります。伝道者の育成にもつとめ、明治学院神学部の教授を務めたのち、現在の東京神学大学の前身にもつながる神学校「東京神学社」を設立します。

[xiii] 東京神学大学HPの説明がわかりやすいです。
https://www.tuts.ac.jp/about/history.html

 

<私たちについて>


こたえのない学校HP

https://kotaenonai.org/

こたえのない学校ブログ

https://kotaenonai.org/blog/

Learning Creator’s Lab – こたえのない学校の教育者向けプログラム

こちらをクリック→Learning Creators Lab

Facebook ページ →https://www.facebook.com/kotaenonai.org