森有礼ー日本の近代教育制度の骨格をつくった初代文部大臣(前半)―わたしたちの教育のルーツを辿る(9)

以前吉田松陰福澤諭吉について書きました。その後、明治の教育はどうなっていったのでしょうか。「日本の教育のルーツを辿る」と思った時、特に探究学習となると、多くの人が考えるように私も大正自由教育にそのヒントがあると当初思いました。しかし、大正自由教育を調べている間に、その萌芽となるものはすべて明治時代にあることに気がつきました。もちろん江戸時代以前の教育のあり方が、明治時代のベースにあるわけですが、日本の近代教育の骨格ができたのはまぎれもなく明治時代です。明治時代が理解できると、大正自由教育がもっとよくわかるし、昭和の戦前戦後に何が起きて、今につながったのかが分かってきます。私たちの今の知識観・学習者観・学びがどのように形成されてきたかということが分かれば、その課題もわかるし、批判的に自分たちを捉えつつ、未来を考えることができます。これからしばらく明治時代についてまとめていこうと考えています。

 

【日本最初の文部大臣、森有礼】

 

まず、はじめに日本最初の文部大臣、森有礼(もりありのり)。実は歴史の教科書でもそれほど大きく取り上げられる人ではありません。名前を知っている人でも、英語を日本語化しようとした「国語英語化論」などハイカラで突拍子もない人で、大日本帝国憲法発布式典の日(1889年・M22)に伊勢神宮不敬事件をきっかけに国粋主義者に刺されて死んだ人、くらいのイメージではないでしょうか。もしくは、学校で教育史を学んだのであれば、初の文部大臣として国体主義の教育観をもって様々な教育制度を構築し、師範学校に軍隊式の教育を取り入れた人、と思うかもしれません。しかし、生きている間も、亡くなった後もさまざまな誤解に晒され続けながらも非常に重要な仕事をした人でした。今回、本棚に挟まっていた 井上勝也著『国家と教育』を読んで森有礼について興味を持ったのですが、知れば知るほど森が好きになっていくし、森有礼を中心に明治時代を見ていくと、日本の近代教育がどのように成り立っていくのかがよくわかります。結果として、ものすごく長いサマリーになってしまったのですが、2回に分けてご紹介しておきます。

 

森は、時代的な感覚でいうと、幕末の激動の時代に海外経験をもとに同志社を立ち上げた新島襄と同じ時期に生まれ、亡くなっています。福沢諭吉が咸臨丸に乗り込み、初めて海外にでたのが、1860年ですが、森がイギリスに渡ったのはその5年後の1865年、新島がアメリカに渡ったのが森がイギリスに渡る1年前の1864年です。年齢的にいうと、森は福沢諭吉の12歳下、新島襄の4歳下、渋沢栄一の7歳下。後述するように日本初の啓蒙結社である明六社を立ち上げたのが、27歳の時、初の文部大臣になったのが39歳の時なので、非常に若くしてさまざまな仕事(活躍)をした人となります。

 

 

 

【森有礼の幼少-青年期】

 

森は、薩摩出身。薩摩には郷中教育という独特の武士教育があります。森もその中で育ちました。薩摩では、城下の武士団をその居住地域に従って「方限(ほうぎり)」というものに分け、各方限ごとに青少年の教育的集団を設けました。これが「郷中」と呼ばれます。青少年は六、七歳から十三、四歳までの稚児と、十四、五歳から二十三、四歳までの二歳(にせ)に大別され、それぞれ年長の郷中頭の監督指導の下に、学問武芸の鍛錬習熟に励んだそうです。忠孝仁義、質実剛健を目標に文武の練磨と胆力の養成につとめる一方、郷中組員の交わりはとても親密で、兄弟のように育ったと言います。青少年の自治的組織の形成という意味で、ボーイスカウトのモデルになったとも言われているそうです。もちろん西郷隆盛や、大久保利通といった薩摩藩士も郷中で育っています。

 

郷中教育では「詮議」といって、ケーススタディを討論する今でいう課題解決型学習の仕組みがありました。森の逸話で面白いものがあります。ある詮議で「君侯の用務で大変火急を要する場合、早駕籠でも間に合わぬときはどうするか」という問題がだされたとき、森は年長者たちの討論の中チョコチョコと前に進み出て、「そんな事わけないです。馬に乗って行って、その馬をチクチク針で刺せば、馬が痛がって苦しまぎれに駆けるでしょう。さらに刺せばもっと早く駆ける。そうすればどれほど早くいけるかわかりません」と答えて一同を笑わせたそうです。(犬塚 p10-11)

 

1858年、12歳になった森は他の少年と同じように藩校造士館[i]に入学。14歳の時には、林子平の『海国兵談』を読むなどして、海外事情に通じる必要性を痛感し、尊王攘夷の嵐の中、森は、英学者上野敬介に英語を学びます。その頃、桜田門外の変など、幕府主導による時局収拾はもはや不可能になっていきます。16歳の時に薩英戦争(1863年)を経験し、イギリス軍艦のアームストロング砲の威力に驚きます。薩摩藩も攘夷の愚かさを改めて認識し、富国強兵に舵を取ります。こうしたペリー来航以降、西欧列強の威力をまざまざと見る経験は、福沢諭吉、吉田松陰、新島襄を含め、この時代の変革者皆に共通しています。

 

しかし、森は、みなが尊王攘夷運動などで、血をたぎらせている間、一人静かに薬法書を書いていました。1864年、薩摩藩に最初の洋学校「開成所」が創設されると、森は造士館から開成所に移ります。この頃まだ蘭学全盛の中で、英学を志したのは、森含めてまだ8-9人。ここで英語を選んだことが森の運命を大きく変えます。(犬塚p16-19)

 

開明路線を歩む薩摩藩は幕府に対抗して大量の海外留学生派遣を決定。森は1865年、19歳の時にこの15名の派遣留学生のうちの一人に選ばれ、イギリスに向かいます。とはいえ、薩摩としては正規であっても、幕府としては当時海外渡航は依然として国禁であり、露顕すれば厳罰のため、変名を用意しました。 (犬塚p26)

 

出所:薩摩藩英国留学生記念館 (前列一番左が森)

 

イギリスでは、ロンドン大学の教官宅をはじめとする一般家庭に分散居住させられ、無宗教性を特色としていたロンドン大学のユニバーシティカレッジに聴講生として通いました。[ii]当時のイギリスはビクトリア朝最盛期。ロンドン大学で学び、近代国家の威力を改めて思い知ります。また、当時イギリスでは聾唖院、盲院があり、視聴覚障害者の人々も点字や手話で自らの意思を伝え、相手の意思を理解する方法が確立されており、自覚の道が保障されていることを知って驚きます。(井上p16)(この辺は福澤諭吉も経験しており、『西洋事情』に詳しい)森の驚きは、当時日本では弱者として遠ざけられている人々が人格として取り扱われていることでした。彼が学んだ儒教倫理にそれはなかったため、西洋の技術だけではなく、その生き方や考え方の研究も大事だと考えるようになります。(井上 p16)

 

イギリスで森たち薩摩藩の留学生の面倒をみたのが、外交官として日本に滞在していたローレンス・オリファント。オリファントは、ヨーロッパ、アフリカ、中国、ネパール、ロシアなどにも渡航したことのある知識人で、アメリカの宗教家のT.L.ハリスと親しく、薩摩藩の留学生を彼に引き合わせます。森は、夏休みを使って、1866年に農奴解放令(1861)後のロシアを訪れていますが、農奴解放の大義名分と現実の矛盾、プロイセンがビスマルクの元で軍事力をつけつつある様子を肌に感じた後、1867年、ほかの薩摩の5名の留学生とともにアメリカに渡り、トーマス・レイク・ハリスが運営するコロニー「Brotherhood of the New Life」に参加します。そのコロニーは、私有を許さず、厳しい規律とはげしい肉体労働を通して「専ら良心を磨き、私心を去る」修行を経て、自己否定を通して自己肯定(再生)を得ることを目指すものでした。いわば新興宗教団体で、ハリスはスウェーデンボルグ派の宗教改革者でした。留学生のうちの何人かは異端ともいえるその考え方を受け入れられなかった一方、森は最後のほうまでコロニーに残り、ハリスとは長い間交流を続けます。ただ、ハリスが徳川幕府の崩壊を知り帰国を勧めたこともあり、1868年(M1)、明治維新の直後に一旦帰国します。その時まだ、22歳でした。

 

トーマス・レイク・ハリス

 

【アメリカでの外交官としての仕事をスタート】

 

帰国後、森はいきなり明治政府で外国官権判事などの役目をもらいます。若かった森がこれほどの高位につけたのは、新政府の実力者である岩倉具視と大久保利通の存在があったといいます(犬塚 p85) このころの森は、国内の無益な戦で国家が疲弊していくのは見るに耐えないと、規定の給与の減俸を自ら願い出たり、横井小楠を訪ねて、アメリカで見たハリスのコロニーのことやキリスト教について説明したりしています[iii]

 

明治2年当時、新政府は祭政一致の思想に基づき、神道を事実上の国教として国民の宗教的統一を推し進め、神仏分離を促す一方で、キリスト教を激しく弾圧していました。森は、アーネスト・サトウにキリスト教弾圧政策の撤廃がすぐにできないのであれば、北海道に信教自由の土地を確保できないかと提案します[iv]

 

役人1年目の森は、役所で空気が読めずに廃刀令の提案をして、議会は騒然となり、1年ほどで免職されて薩摩に戻ることになります。この頃、故郷の薩摩では西郷隆盛が下級士族を中心とした軍事的体制を敷いていましたが、森は城下の喧騒とは裏腹に狂ったような藩の「寺つぶし」を憂い、禅宗の廃寺を借りて英学塾を始めます。しかし、故郷に戻ってから1年少しで再度明治政府から米国駐在を命ぜられ、23歳にして、アメリカに赴任することになります。[v] 森は公使は荷が重すぎるとして「書生」としてアメリカに渡りたいと大久保利通に直訴しますが、受け入れられず、少弁務使として渡航になりました。こうして森は日本初の外交官になりますが、この人事は、さすがに列国からも森が若すぎると苦情が出るようなものだったようです。

 

しかし、米国に渡った森は政治家・文化人・知識人などとの交流を深め、期待に応じた動きをみせます。グラント大統領下で国務長官だったフィッシュを介してグラント大統領に会い、両国の文化交流を進め、農務長官のホーレスケプロンの招聘(1871-75)を実現しました。北海道開拓といえば、黒田清隆が表舞台にたっていますが、その裏を外交で取り仕切ったのは若かった森だと言われています。(犬塚 p128)

 

ところで、そのころ森と同時期に幕府の後ろ盾もなく密航で渡米した新島襄は、たまたま乗った船の船主ハーディに認められ、なんと生活や学費の援助を受けて米国東海岸の名門フィリップスアカデミーに入り、その後リベラルアーツカレッジのトップ校であるアマーストカレッジを経てアンドーヴァー神学校で学んでいました。アマーストカレッジは、日本ではあまり知られていないかもしれませんが、現在においてもハーバードを蹴ってこの学校に入る学生がいても不思議ではないトップ校です。この話はこの話でシンデレラストーリーのようですごいのですが、1871年、森は新島に会い、明治政府に取り次いで新島が正式な留学許可証とパスポートが得られると手助けしました。さらに森は、日本のキリスト教の状況を新島に語り、新島は数年のうちに日本での宣教の可能性を感じとります。新島に米国式の私立学校を日本に設立することを熱心に薦めたのも森でした。(井上P109, 犬塚P131)

 

そのほかにも、永井荷風の父久一郎のためにプリストン大学学長に掛け合い転校をとりはからったり、岩倉使節団と一緒にきた津田梅子、山川捨松ら女子留学生の滞在先の世話などをしています。さらに、東洋文学関係の書物の収集、米人東洋学者の世話、米国内文化施設や教育機関の視察、米国国会の外交委員会や予算委員会への出席と講演、マスコミでの論説公表など、文化活動にも精力的でした。そうした森の活動を援助したのが、国立博物館の初代理事ジョゼフ=ヘンリーで、森は彼の薦めで多くの学会に出席し、思想家のエマーソン、オリバー・ホームズなど、当時のボストン文化を代表する知識人たちと知遇を得ています。専修大学を創設した目賀田種太郎は、「学者社会、教育社会、政治社会にも相当に尊重されて頗る(すこぶる)人望のある人であった『元文部大臣森有礼君のこと』)と書いています。(犬塚131) このころの森はまだ20代中盤です。

 

明治女子留学生(一番右が山川捨松、右から二番目が津田梅子)
出所 『明治の女子留学生』ほか

 

しかし、こうした活躍の一方で、最重要任務であった岩倉使節団とアメリカの交渉はうまくいきませんでした。アメリカは、使節が天皇の全権委任状を持っていなかったという理由で条約調印権を否認。関税自主権も、治外法権の回復もできず、かえって内地解放や輸出税の全廃を提案されるありさまで、森は孤立します。森は年齢・能力共に優れた大臣級の人物を早急に米国に派遣してほしいと大久保と伊藤に切願します。(犬塚p145-6)

 

この解任督促の書簡をおくって二週間後、森は『日本における宗教の自由 (Religious Freedom in Japan)』という論文を発表します。太政大臣三条実美への建白書の形をとっていますが、実は日本政府に対する国民の自由な信仰心を保障するように要求したものでした。「重要な人事が多くある中で、宗教的信仰に関するものが最も重要であると思う」という一文からその論文ははじまります。(犬塚 p153) 国家が、個人の宗教的信仰や教育に不当に干渉することは、極力回避されねばならないと森は訴えました。

 

このときのアメリカは南北戦争後の再建の時代。ダーウインの進化論が影響し、人間社会も競争を通じて進化し最適者選別されることが文明の進歩を促す、というようなスペンサーの思想が広がっていました。そのような中、1872年[vi]、森は『日本における宗教の自由』が公刊されてひと月半後にもう一つの代表的な啓蒙論『Education in Japan』を書き上げます。森の教育質問状に対する有識者の回答集ですが、冒頭森は日本の歴史について「Introduction」として41ページにわたって書いています。古事記から明治時代当時までに至る日本の歴史で、冒頭で神武天皇から2500年以上にわたって続く、日本のEmpireは世界でも一番古いものである、とし、平安、鎌倉、江戸と淡々と歴史的事実を中心に述べ、フランシスコ・ザビエルによる布教と弾圧、鎖国、ペリー来航、明治政権についても書かれています。この序文を研究者がどのように評価・判断しているか私はわからないのですが、私が読む限り、有識者が質問状に回答するにあたって必要と思われる、且つ日本に興味を持ってもらうための情報を、平たく良心的に書いたと思えます。この序文と質問状の設計を見るだけでも、英語も上手だし、仕事がよくできた人なのだろうなぁ、という印象です。

 

この二つの啓蒙論を書いて、森は帰国準備をしました。3月下旬にアメリカを離れ、途中ヨーロッパへ行き、英国で1ヶ月半を過ごしますが、そこでなんとハーバート・スペンサー本人に会って話をしています。スペンサーの後年の手紙によると、スペンサーは森に「日本人は結局のところ、自らの進歩にあまり先んじない形態に止まってしまうだろうから、そこから大きくそれるような試みをすべきではない」と保守的な忠告をしたと振り返っています。 (犬塚 p158-9) スペンサーとはその後、森が後年駐英公使としてイギリスに赴任した際に、親しく意見交換をするようになります。スペンサーは、日本の歴史と文化に非常に興味をいだき、その情報の多くを森から得ていたといいます。(犬塚 220)

 

ところで森は、日本語廃止論をこのころから唱えており、エール大学の言語学教授のウィリアム・ホイットニーに書簡を送り、自らの考えを述べますが、ホイットニーは彼の日本語廃止に真っ向から反対しました。アーネスト・サトウも森が北海道に信教自由の土地をつくることを提案したときに、穏便な方法をとるようにアドバイスしています。スペンサーにまで、「保守的なアドバイス」をさせてしまう森の提案とはどのようなものだったのだろうかとつい想像が膨らんでしまいます。

 

さて、『Education in Japan』では、アメリカ人の著名な政治家、大学総長、教授、牧師、実業家たちに特に以下の五点において「教育」がいかなる効果を有するかについてアンケートを行いました。(井上 p30)

1)国家の物質的繁栄について

2)その商業上において

3)その農業上、工業上の利益について

4)国民の社会的道徳的肉体的状態について

5)法律および統治上の影響につて

 

このアンケートは15名に送られ、13名から回答をもらいました。回答者には第二十代大統領ガーフィールド、ハーバード大学総長チャールズ・エリオット、アマースト大学学長スターンズ、同大学シーリーらが丁寧な回答を寄せています。特にアマースト大学のシーリー教授は新島襄を通じて、日本のキリスト教禁教についてよく知っており、日本の宗教上の寛容と、あらゆる宗教に広く門戸を開くように求めました。森はこのあと10年余りを経た1885年に日本初の文部大臣になります。森といえば、外交官から転身していきなり文部大臣になったかのような印象を持たれることがありますが、この頃から教育への並々ならぬ意欲を示していることは明白です。

 

【明六社の活動】

 

1873年に森は帰国します。森は「日本橋近辺の文明開化」には批判的でした。単なる模倣ではなく、真に日本を文明国として導きたい。新しい職務につくまでの時間をつかって欧米式学会の設立準備に入りました。まず森は佐倉藩出身の洋学者で、旧幕臣系洋学者とも親しい西村茂樹のもとを訪ねて、学会について相談します。

 

西村は森の考えに賛同し、旧幕府開成所の出身者を中心に当時の最前線にいた洋学の大家たちを誘います。誘いに応じたのは、加藤弘之(文部大丞)、津田真道(陸軍大丞)、西周(陸軍大丞)らの官僚学者と、福澤諭吉、中村正直(同人社)、箕作秋坪(三叉学舎)ら在野の教育家たちでした。(犬塚 p162)

明六雑誌表紙

 

彼らはそれぞれ森とは旧知の間柄で、彼が一目を置いていた人たちであり、多くの著作、翻訳書を著した近代的知識人でもありました。彼ら同人は政治に左右されない自由な立場から結社に参加し、一種の批判的精神をもって、明六社をつくりました。これが日本で最初の啓蒙結社と言われるようになります。森は図書館の設立も夢見ていました。(犬塚163)

 

このころは、世は「征韓論」に沸き返っていました。国内には種々の特権を奪われた士族層の反政府熱が高まり、彼らの不満を抑えるのに政府は手を焼いていました。西郷隆盛は不平士族の長として、朝鮮に乗り込むと主張しましたが、大久保、岩倉、木戸はこれに反対し、阻止。西郷、板垣退助らが政権を離れ、大久保独裁体制がはじまったところでした。

 

政変直後の12月、森は外交官として昇進し、外務大丞となります。省内で卿(大臣)、大輔(勅任官)、小輔の次のナンバー4の立場となりますが、森は半年の閑願を大久保に出します。その内容は外交業務とは直接関係ないもので、司法・教育・財政などの諸政策が地方人民にどのような影響を与えているか地方視察をしたい、というものでした。(犬塚166)どう考えても『Education in Japan』を日本側でやりたかったように思えますが、当然にしてこの願いは却下されます。こんなところからも森の人柄が伺えます。

 

さて、「明六社」が発刊した『明六雑誌』は売れに売れました。平均20ページくらいのもので、4月の第一号を皮切りに毎月2−3冊ずつ刊行されましたが、毎号平均3200部あまりが販売されました。内容は政治、法律、外交、財政、社会、哲学、宗教、教育、歴史、科学など多岐の論題にわたり、啓蒙雑誌の名に恥じないもので、当時の知識青年が競って買い求めたそうです。(犬塚169)

 

「明治啓蒙思想の形成とその脆弱性―西周と加藤弘之を中心として」[vii]を書いた植手通有は、明六社のメンバーの社会的背景には以下の6つの共通点があったとします。(植手p15-18)

  • 1820年代の後半から1830年の半ばに生まれ、ペリー来航前後青年期を迎え、明治元年に30代から40代という働き盛りの年齢であり、明治維新を推進し、維新後の新政府の実質的権力を担った政治家と全く同一の世代に属する。(早熟の箕作麟祥、若くして活躍した森はもっと後年の生まれ)

 

  • 啓蒙思想家はほぼ下級士族の出身。士族の中での身分や経済面でも劣悪な状況におかれ、そのことが封建制への批判、立身出世に対する強い野心を植えつけている。このことにおいても維新の政治家とかなりの類似性を持つ。

 

  • まず儒学を修め、その後に洋学に進んだという学問上の経歴の点で、ほぼ一致している。特に西周と中村正直は儒者としての専門訓練を受けている。福沢諭吉も比較的に素養があったと思われる。言い換えると、彼らは儒教を基礎とし、儒教的な観念を媒介として洋学を摂取し、近代西洋を理解していった。

 

  • 蘭学、しかも多くが兵学から入り、洋学(英学、仏学、独乙学など)に進んだ点でも共通する。蘭学を学ぶために脱藩したメンバーも多い。彼らによって、佐久間象山的な「東洋道徳・西洋芸術(技術)」の観念が突破されて、西洋から、科学技術だけではなく、社会政治理論や思想も学ぼうという態度へと変化。

 

  • 幕末の最終段階として幕臣として、幕府の洋学機関(蕃書調所→開成所)または、翻訳方に勤めていた人が多い。比較的に開放的な中小藩に生まれ、飛び出して江戸や大阪に遊学する。一方で、倒幕運動の中心だった薩長からは、啓蒙の意味でめぼしい活動をした人はほとんどいない。

 

  • 明治維新、幕末の前に西洋を見聞した人が過半数。 福沢諭吉(欧米)、森有礼(英露米)、箕作秋坪(欧)、西周(蘭)、箕作麟祥(仏)、中村正直(英)など。

 

植手通有は、明六社のメンバーの中でも福沢諭吉がその西洋文明の理解の深さと日本の理解において、群を抜いていると言及する一方で、森については「明六社の結成を推進した点では重要な人物であるが、彼の役割はいわば産婆役。彼は学者というよりもむしろ政治家とみたほうがよい(植手p14)」とし、あまり森に注意をはらっていません。しかし、森はここまで見てきただけでも明らかに「政治家」以上の働きをしています。

 

「明六社」設立翌年の明治8年、森は広瀬常と「婚約契約」に基づく結婚をします。森の自宅に200余名が集まり、福沢諭吉が証人となりました。結婚式は相当にハイカラなものだったらしく、新聞でも揶揄されました。そのころ『明六雑誌』による演説は英語でなければならないと言い張る森を福沢が自ら日本語で演説を実演して、納得させたりもしています。福沢は『学問のすすめ』の17編に「日本の言語は不便利にして、文章も演説も出来ぬゆえ、英語を使い、英語を用るなぞと、取るにも足らぬ馬鹿をいう者あり」という部分がありますが、この「取るにも足らぬ馬鹿」というのは森のことです。有能でフットワークが軽いが、持論を言い出したら止まらない森を10歳ほど年上の福沢が「たわけ者!」と怒鳴っている様子が目に浮かぶようです。

 

しかし、『明六雑誌』は明治7年(1874年)の発刊からわずか一年半あまりで廃刊になります。このころ、加熱する自由民権運動に苦慮する政府が「新聞紙条例」を改正して、言論取り締まりを強化します。新聞・雑誌記者の投獄が相次ぎ、大久保独裁のなかで、空前の文字の獄が始まりました。明六社は社員に官吏が多かったこともあって、解散となります。森は当然不服でした。この「明六社」は明治12年に会員の多くは文科省直轄の官設アカデミーである「学士会院」に移行します。これが日本学士院の前身となっていきます。

 

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明六社解散のころ、森はまだ29歳でした。このあと、壮年期に教育に対する熱い思いをもちつつも、外交官との仕事を続け、38歳のときに文部大臣に就任します。42歳、明治22年、大日本帝国憲法発布の日に森は刺されて亡くなります。後半は具体的に森が文部行政として何をしたのか、どのように日本の近代教育をつくったのか。そこに問題があったとしたら、何が問題だったのか。そんなことをまとめておきたいと思います。それにしても、このブログ、、前半だけでも1万字に・・。自分用メモとはいえ、ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました!

※日本の教育のルーツについて書いたものはこちらからまとめて見れます。
https://kotaenonai.org/tag/roots/

※森の年齢は、数えの問題なのか、引用と年譜から引いたもので一歳程度ずれてしまうことがあります。ブログとして書いておりますので、ご容赦ください。何かありましたらこちらよりお知らせください。

 

【参考図書・文献】

『森有礼』 犬塚孝明著 日本歴史学会編集 吉川弘文館 (本文犬塚)

『国家と教育―森有礼と新島襄の比較研究』 井上勝也著 晃洋書房 (本文井上)

「明治啓蒙思想の形成とその脆弱性―西周と加藤弘之を中心として」植手通有 (本文植手)

(日本の名著34 中央公論社より)
『Education in Japan: A Series of Letters』 Addressed by Prominent Americans to Arinori Mori. New York: D. Appleton and Co.
『森有礼―悲劇への序章』 林竹二著作集 筑摩書房

『学制百二十年史』 文部省

『学制百年史』文部省
『兵式体操成立史の研究』奥野武史 早稲田大学出版部

『明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女』 寺沢龍 平凡社新書

「林竹二『森有礼とトマス・L・ハリス』を中心として」 高木八尺

 

[i] 1773年に島津重豪が創設した藩校。隣接地には諸武芸を学ぶ演武館や、医学を学ぶ医学院も創設された。西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎などが学んでいます。(https://www.kagoshima-kankou.com/s/industrial-heritage/52562/

[ii] ここで長州藩士の留学生とばったりと出会い、お互いにびっくりしたそうです。(どちらも幕府には内緒なので)のちに外務省で森の上司となる井上馨らもこの留学で、ロンドンにきていたが、行き違いだったとのこと。

[iii] 小楠はこの話に心から共感しましたが、それから半年も立たずに暗殺されます。(犬塚 84-88)

[iv] この時に長崎の浦上切支丹弾圧の指揮にあたった木戸孝允も一緒でした。木戸は禁教を暗黙裡には認めていたが、その苛酷な処置については多少の疑念も抱いていたといいます。(犬塚p96)

[v] アメリカ駐在中も彼はハリスに会いにいき、自分のポケットマネーで新井奥邃(あらいおうすい)をハリスのコロニーに入れます。(井上p27) ハリスのコロニーは1891年にスキャンダルに見舞われ、そのときに新井はそこを去ります。

[vi] Religious Freedom in Japanは私家版として配布されましたが、浦上切支丹弾圧を批判。国民に対する暴力行使であり、政府がつくられた目的に反する行為であると批判しました。アメリカ政府との条約改正交渉を難航させた原因の一つに明治政府のキリシタン禁制の問題があったことを指摘しています。(井上 p36)

[vii] 植手は、西洋の自由・権利の観念が儒教、特に朱子学の「天賦人権」や「性法」という観念において、人間性としてのアプリオリな本来の道徳性が付与され、五倫五常、宇宙自然の秩序に連続させたにも関わらず、当時すでに「自然法」がすたれてしまったベンサムやミルの思想を受容する過程において、ついでに日本は「性法」の思想さえ手放してしまった、と考えているようです。また、「天賦人権」の思想さえも、自由民権派の挫折とともに急速に解体されたために、近代日本では普遍的規範が存在するという観念そのものが消滅し、国家を拘束する規範ではなく、万世一系の国体の理論が確立される悲劇につながったと考えています。(植手 p12)なお、加藤弘之については、「天皇」を日本神話から切り離し、(所謂)国学流の国体思想を批判したが、儒教の民本主義を超えることができなかった一方、西周は政教分離を唱え、徂徠学の影響をうけて、朱子学を克服したといわれているが、動的に文明を捉えていた福沢に比べて、固定的、形式的に物事を考えていたという意味で、啓蒙思想の思考様式が朱子学を超えるものになっていなかったと評価しています。

 

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