藤原 さと

私たちの教育のルーツを辿る(1)大正自由教育のはじまり

新型コロナウイルスの感染者拡大が止まらず、気持ち的にも落ち着かない日々が続いています。

ちょっと前のブログから時間が空いてしまいました。12月に『探究する学びをつくる』という本を出しまして、その関係もあって、最近オンラインでお話しする機会が増えているのですが、今月の頭にドルトン東京学園の荒木貴之校長よりお声がけをいただき、“「探究」がある学校をつくる −大正自由教育のリバイバルとPBL−”というテーマでお話しさせていただきました。


ところで、「ドルトンプラン」また「大正自由教育」という名前は聞いたことがあるでしょうか? 今、今学習指導要領などで「探究」という言葉が重要視されています。また、私自身アメリカの学校のプロジェクト型学習(PBL)を紹介する本を書いたわけですが、そもそも近代学校教育としての「探究学習」のルーツは、日本で言えば「大正自由教育」に見出すことができます。荒木先生と当日どんな話をしましょう、とディスカッションをする中で、PBLや探究というものを海外モノとして無批判に受け入れるというスタンスでないことをやっていきたい、となりました。「探究」はもともと100年の歴史、もしくはそれ以前から私たちがやってきたことだし、自分たちのルーツの中にもそれを見いだすことによって、「新しい学び」の導入という感覚でなく、誇りをもって「学びをリバイバルさせる」という感覚を持てるのではないか、ということになりました。そのほうが、閉塞感もある現代の日本社会の中で、より前向きに自信を持って探究学習を実践できるのではないか、と強く感じたのです。

ハイ・テック・ハイのような米国の先端といわれるプロジェクト学習校の実践と大正自由教育で大事にされてきた考え方は、実際に多くの部分で重なっています。今回、私たちの今の「学び」にはどんなルーツがあるのか、「大正自由教育」とはなんなのか、また「ドルトンプラン」をはじめとした新教育はその中でどのように位置づけられるのか、ということについてまとめていきたいと思います。なお、日本の教育のルーツは私自身も辿ってみたいと思いますので、大正自由教育・新教育はもちろんのこと、今後、江戸時代もしくはそれ以前の学びも、だんだんに遡ってご紹介していければと思っています。

(写真:ダルトンプランを提唱したヘレン・パーカスト)

教育勅語と日本の近代教育のはじまり】

さて、日本の近代教育制度は、明治時代に始まります。明治5年(1872)の学制、明治12年の教育令の公布などにより整備が進んでいました。一方で、当時、日本の伝統的な道徳教育が軽視され、西洋崇拝の風潮が生まれているという危機感を持つ人たちが増えていました。

明治維新の時には、教育の中心を国学にするか、漢学(儒学)にするか、洋学にするかとなり、各派の主導権争いの末、実学に優れた洋学を主体とするという経緯があったようです。しかし、徳育論争などを経て、最終的に1890年(明治23年)には天皇の勅語としての「教育勅語」の渙発がなされ、概ね儒教思想に基づいたものになります。

「教育勅語」は文科省HPによると、下記のような経緯をもちます。

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教育勅語は元田永孚の起草になる明治十二年の教学聖旨の思想の流れをくむものであるが、同時に伊藤博文や井上毅などの開明的近代国家観にもささえられ、両者の結合の上に成立したものといえよう。また日本軍隊の創設者であり、軍人勅諭の発案者でもあるといわれる山県有朋が内閣総理大臣として参画したことも注目すべきである。

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ちなみに教育勅語そのものは、父母に孝行を尽くし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に分を守ってむつまじくし、友には信義をもって交わること等の部分は、今の感覚で読むと常識的なことに思えます。しかし一方で、冒頭に「朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」と、皇室の御祖先が我が国をおはじめになった、と歴史観としては議論のあるところかと思います。(『尋常小学修身書 巻六』参照)

さらに、1891年の文部省令 2号では、教育勅語の謄本と御真影を一定の場所に 保管することが義務づけられ、校長室などにきちんと保管され、それに向かって敬礼する保管規定が定められました。同じく 1891年に作成された小学校祝日大祭日儀式規程では、学校儀式 において教育勅語を奉読することや、奉読中の最敬礼姿勢を命令しています。こうした規定よって、「不敬事件」が多発するようになります。中でもよく知られているのが、内村鑑三不敬事件です。第一高等中学校嘱託教員であった内村 鑑三が、儀式の際、壇上に上がっていくときのお辞儀が深くなかったことで、依願解嘱に追い込まれたものですが、『明治期における不敬事件の研究』などを書かれた小股 憲明氏によると、実は、こうしたことは、何百件も起きていたようです。さらには、教育勅語の謄本と御真影を火災や天災によって焼失したりしても不敬扱いとなるなど常軌を逸したものになっていったようです。


樋口勘次郎と明治の教育のアンチテーゼ】

一方で、大正期(1912-1926)は国内外で民主主義の高揚期でもあり、こうした明治の教育のアンチテーゼとして、「大正自由教育」というものが出てきます。今回、荒木先生にも勧めていただいた、中野光(なかのあきら)『大正自由教育の研究』を中心に、まとめておきたいと思います。

『大正自由教育の研究』によると、大正自由教育の萌芽はすでに明治時代に見られ、そのキーパーソンが長野県諏訪の出身で東京高等師範学校(今の筑波大学)をでて、附属小学校の教諭となった樋口勘次郎。当時の東京高等師範学校附属の校長はあの嘉納治五郎で、樋口の論文を見て異例の抜擢をしたそうです。樋口は、「修身」という教育勅語に基づいた道徳教育を、ヘルバルト派が低学年のカリキュラムで重視した「昔噺(ヘルバルト派の場合はグリム童話を使用)」で実践しようと試みました。また、樋口は言葉や絵図によるよりも、実際のものを見て、触れることが肝要だと感じて、「遠足」と「学び」の統合をはかりました。かの有名な「飛鳥山遠足(1896年)」では尋常小学校2年生の生徒たちに、地図を持たせ、上野―飛鳥山を歩きます。不忍池を観察し、東照宮、五重の塔、動物園、博物館と地図を照らし合わせ、田畑や汽車を眺め、飛鳥山でお弁当を食べます。学びの要素として、「動物学」「植物学」「農業」「商業」「地理」「物理学」「修身」「詩」などが明記されています。今でいう教科横断の学びがこの時代にすでに美しい形で統合されていることに驚きを隠せませんが、当時さほど重要視されておらず、教育的意義をもつと思われていなかった遠足を「学び」と関連付けた樋口の実践は当時革新的なものとなったようです。

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郊外は良教場なり、遠足は良体操なり(略)蒼天の屋、山林の壁、青草の席、岩石の床、自然を書とし、自然を筆とし、自然を紙とし、自然を硯とし、耳にきき目によましむ。(中野 P24)

児童には、知らんとし、感ぜんとし、意志せんとする、天賦の活動力充満して、恰も欝したる電気のごとく、熱したる蒸気のごとく、常に発散の機を求めて、片時も静止するを得ざる者なり(中野 p29)

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樋口は子どもの自発的活動に大きな価値を認めようとしました。「生徒の自発活動によりて教授せざるべからず」という「活動主義」はとりわけ当時の青年教師に共鳴・共振され、その精神が鼓舞されたようです。

「児童をして喜びて学ばしめよ。学問は遊戯的になさしめよ。愉快を感じつつ、内部より起こるるところの活動は強く、随って発達も亦著しければ」と言った樋口。中野は、樋口を日本の公教育における「子どもの発見者」と評価しています。※


【谷本富による「新教育論」の提唱】

次にご紹介するのは、谷本富(たにもととめり)。四国の高松出身(私は丸亀出身ですので、なんだかそれだけで親近感)で、現在の御茶ノ水女子大学に繋がる東京女子師範学校の校長も歴任した中村正直が小石川の自邸にて設立した同人社を経て、帝国大学特約生教育学科にて、ドイツ人ハウスクネヒトからヘルバルト教育学を伝授されます。明治20年代にはヘルバルトの紹介に努め、五段階教授法の普及に尽力しますが、1900年に3年間、欧米に留学します。フランスの新学校「ローシュの学校」の創設者ドモランには特に影響を受けたほか、帰国途中にアメリカのデューイのシカゴ附属小学校を参観し、「学校と社会」も読むなど、「新教育」の風を地肌で感じた谷本は、帰国後それまでのヘルバルト主義から距離を置き、「新教育」にぐっとシフトしていきます。

谷本は、海外視察において日本の公教育がどれだけ前近代的であるかということを指摘し、近い将来実現するだろう普通選挙を見据えて、「総ての者をして普通選挙の選挙人たるに適当するような教育を施さねばならぬ」と強く考えました。(p41 中野)また、資本主義の発展に伴って現れる社会主義思想の拡大にも警鐘を鳴らし、階級を超えて助け合う「共存同衆」、海外進出の可能性に向けて、教育改革の必要性を主張しました。具体的には「公民」育成のために、国民の義務ばかりを唱えるだけではなく、国民の権利を教えるべきだとしました。

谷本が『新教育講義』(1906)において、学校教育のあり方を改造し、新教育を具現化するための指標とした十ヶ条は次の通りです。(中野 p47)

  • 第一条:学校は根本的生徒のために立てられん事を要す
  • 第二条:学校は一層平等にし一切の児童に均等の機会を与えんことを要す。
  • 第三条:学校は自然と合体せんことを要す。
  • 第四条:学校は能動的方法に依りて其事業を遂行せんことを要す。
  • 第五条:学校は遺伝、境遇、生得の能力及び傾向を承認し、自働・創作・並びに自治のための機会を与えんことを要す。
  • 第六条:学校は画一の要求を離れ、差別の教育の最大必要を承認せんことを要す。
  • 第七条:学校にては一切虚偽の勧奨を排斥し、純粋の課業を敬愛すること並びに其正道たるが故に是れを断行して完遂することを主とせしめんことを択取することを要す。
  • 第八条:学校は身体・智力並びに道徳共に通じて健全ならんことを促進するを要す。
  • 第九条:学校は既に其設立を得たる上は、また其結果に就て責任を負わんことを要す。
  • 第十条:学校の産物は自由且つ奮励の精神にして観察を怠らず、勤労・創作的研究乃至美術的享楽等の良習慣を有し、活世界に立って創造者たるべく自治思想の独立を有し且つ富資に貢献する公民足らんことを要す。

ここに今、現代の教育においても、大切にされている要素がかなり入っていることがすぐにわかります。第一条では、児童が学びの中心におかれるべきであること、第二条において機会の均等、第三条における自然の教育の重要性、第四条では、まさに学びはアクティブ(能動的)でなければならないとしています。第六条で書かれている「差別」は今の日本語のニュアンスとは少し違って、英語でいう“Differentiation” であり、子ども一人ひとりの個性を認めた上で、個別的に教育をなすことの重要性(学びの個別化)について言及されています。第五条・第十条の創造的教育、自治思想は、英語で言えばデモクラティックエデュケーション、クリエイティブラーニングとなります。

さらに、谷本は「手工科」を重要視し、「手工科」こそが「新教育」における教科課程の中核に位置するべきだとすら言いました。手の労働を通して職能だけではなく、感覚器官の訓練、さらには、品性陶冶の可能性、つまり「目なり手なりを媒介として一切の心力体力を養成する。心身共に完全なるものを作り出す」を見出しました。(中野p46)こうした考え方はウッドワード『教育に於ける手工』からアイディアを得たとしていますが、まさにハイ・テック・ハイのクラフトマンシップや、“Hands and Minds”のカリキュラムとも共振します。


【ルーツを知ることの重要性】

このように、そもそも大正自由教育の前駆である明治の教育者たちが、すでにこれだけのことを為していたことに触れると、「一体私たちは何を永遠に繰り返しているのだろう?」と思わずにいられません。さらに、荒木先生が当日のプレゼンテーションで、大正自由教育がそもそも文部省や各都道府県の教育行政担当者からの指導によるものではなく、在野の教育者や現場の教師が主体となった教育運動として展開されていったものであることを指摘されていたことにも非常に考えさせられました。

つまり、こうした「教育の本質」はいつの時代もメインストリームからは生まれず、在野、から生まれてきているのです。

玉川学園の創立者、小原国芳先生が中野先生にこんなことを漏らしたそうです。

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あの当時、わたしもそうでしたが、日本の教師たち全体が燃えていましたよ。内外のむずかしい文献もよく読んだ。講演会や研究会だって千里を遠しとせずに、安月給の中から自腹をきって参加した。“内から何かを求めて燃えていたからですよ。”それにくらべると、戦後の新教育もはじめはよかったが、60年代以降はダメだね。やはり与えられたものの弱さだろうか・・・。
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「今こそ、パッションをもって、在野からの教育改革を進めましょう。」とおっしゃる荒木先生。今、新しい価値観が次々と流入する一方で、将来の見通しがつきにくく、不安定な時代だということについては時代性として非常に大正期に通じるところがあるように感じています。こうした激震の時代に必要なものは安定した組織にすがることではなく、民間・公立・私学に関わらず、アンチ体制的な気概なのかもしれません。(なお、これは今勤務している学校や役所を辞めたり、民間への就職を考えるなど極端なことを差すのではなく、つねに旧体制に寄りがちな組織に客観的・批判的な目を向け、個人を振り返り、自分ができる範囲で変革できる余地を探すことも充分な在野精神で気概だと考えます。)

ところで、ドルトン東京学園は開校は2019年4月なのですが、母体となる河合塾では、1976年にニューヨークのドルトンスクールと提携し、マリヤン B.プレキシコ氏をアドバイザーとして迎え、40年以上ドルトンスクールの運営、および教育研究を継続しています。こうした民間塾が「新教育」の歴史を引き継ぎ、じっくりと育てていることにも驚きますが、今後のドルトン東京学園が楽しみです。

ドルトン・プランを提唱したヘレン・パーカストはアメリカ人ですが、マリア・モンテッソーリの元で学びました。どこかで、ドルトンプラン についても詳しく触れたいですし、次回以降、澤柳政太郎(さわやなぎまさたろう)の設立した成城小学校や、明星学園、池袋児童の家など、新学校設立による自由教育の実現や、及川平次、木下竹次などによる地方の師範学校を軸にした公教育における新教育の実験、また鈴木三重吉の「赤い鳥」山本鼎の自由画教育など、民間教育における「新教育」についてメモを重ねていきたいと思います。

なお、1月6日のドルトン東京学園さんでお話させていただいた内容を今回公開することにしました。もしご興味があったら、『探究する学びをつくる』で紹介したハイ・テック・ハイと大正自由教育との共通点や違いなどお話していますので、ぜひ見てみてください。1時間半で少し長いのですが、画像下の説明書きのところにタイムラインがあり、時間のところをクリックするとお好きなところから見れるようになっています。

「探究」がある学校をつくる −大正自由教育のリバイバルとPBL−

0:02:45 ドルトン東京学園校長:荒木貴之先生による「ドルトンプラン ・大正自由教育」 

0:12:03 STEAM / PBL とは:High Tech High の現地取材映像 

0:15:32 藤原さと 「探究する学びをつくる」

0:58:23 対談:荒木校長・藤原さと

では今日はこの辺で。

※中野によると、樋口がヘルバルト主義を管理的だと言って鋭く批判をしたとしますが、感情的な側面もあり、このことが、日本において、必ずしもヘルバルト主義が本来の意味で受容されなかった原因の一つとも言え、この辺はまた別の機会にまとめておきたいと思います。なお、中野は、「樋口の「子どもの発見」はルソーやペスタロッチーにおけるような子どもの人権中心とした近代教育思想、民衆を解放する課題と結んだ思想の系譜においてなされたのではなく、明治絶対主義的教育体制を海外進出を志すブルジューアジーの立場から改良するためになされた」(p31)としますが、まさに中野によるその樋口の引用部分を読む限り、明らかに「子どもの人権中心とした近代教育思想」と共振している様子が伺えます。本書全般を通じてのことなのですが、こうした実践はそれぞれ時代とは不可分であったとしても、そこまで当時の政治的イデオロギーと直結させ、批判的に捉えるべきなのかは保留したいところです。とはいえ、「飛鳥山遠足」の1896年には教科書改良のために、樋口一葉に協力を求め、一葉に惚れ込んでしまったエピソードや晩年樋口自身の性格的な問題で身近な人たちからの支持を得られなくなり、最後には孤立して行ったくだりなど、引用も多く、とても纏まっていて、こういう本があるというのはとにかくありがたいものです。

<参考文献>

『大正自由教育の研究』中野光 黎明書房

「ドイツ社会的教育学の受容と社会教育―熊谷五郎の教育論から」倉知典弘 京都大学障害教育フィールド研究 vol.6, 2018年

「日本におけるヘルバルト派教育学の導入と展開」 山本正身

「及川平治の教育方法論と教育実践の展開」木下繁弥

明治憲法と教育勅語(文科省)

https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317610.htm

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