福澤諭吉が私たちに残してくれたもの〜私たちの教育のルーツを辿る(7)

 

新学期が始まりました。新しい生徒たちが教室に入ってきて、ワクワクしたり、不安になったり、色々する季節です。こたえのない学校も、Learning Creator’s Lab 本科5期生36名、Schools for Excellence 1期生 24名、合計60名のメンバーと共に、秋から年末に向けての旅に出発しました。わたしもワクワクしたり緊張したりしています。哲学登山などのオープンラボも引き続き実施しますので、今年度もどうぞよろしくお願いいたします。

ところで、今年は日本の近代学校教育としての「探究学習」のルーツを辿りたいと思っています。一方で、そのルーツは直接的には「大正自由教育」に見出すことができるだろうと思ってスタートしたのですが、実は「大正自由教育」を調べていると、結局明治の教育に遡らないとわからない。そうなると明治維新、江戸へ・・とどんどん古い時代に足を踏み入れております。2月に吉田松陰について書いたのですが、今回同時代人の福澤諭吉について少しまとめました。ま、ブログですので、気の向くまま、気がついたことをメモしていきたいと思っています。

 

【福澤諭吉とはどんな人?】

福澤諭吉といえば、現一万円札の肖像になっています。1984年からで、その前は聖徳太子でした。今度2024年に肖像が渋沢栄一(ちょうど大河ドラマになってますね)に変わる予定です。2004年に五千円札と千円札は肖像が変わったのに(それぞれ樋口一葉と野口英世)福沢諭吉だけはそのまま継続となりました。財務省のホームページでは、「最高券面額として、品格のある紙幣にふさわしい肖像であり、また、肖像の人物が一般的にも、国際的にも、知名度が高い明治以降の文化人」として採用したとあります。

 

どうして調べようと思ったかというと、私自身が慶應義塾大学の卒業生であるにも関わらず、学校創立者である福澤諭吉がどんな人かほとんど知らないな、、と思ったことからでした。大学時代にその人となりや思想について話を聞くタイミングはいくつもあったのかもしれませんが、何せ興味が向かないため、きっと聞いていたとしても左から右へ抜けてしまっていた可能性があります。ご多分に漏れず、私にとっても福澤諭吉の顔は一万円札の顔の部分を蛇腹にして眺める対象でした。

また、私は都内の私学女子校(中高)を卒業しているのですが、その創立者は福澤と同じ中津藩出身の武士で福澤諭吉を江戸に呼び、蘭学塾を開き、慶應義塾の原点を作った人物の甥でした。開校時には福澤諭吉もお祝いに来てくれたそうです。そんなこともあって、「どんな人だろう?」と思ったわけです。

丸山眞男の『文明論之概略を読む』にもあるとおり、福澤諭吉は、実は幕末の志士時代の人です。吉田松陰は福澤の4歳上、橋本左内は同年、坂本龍馬は一つ下、高杉晋作、渋沢栄一は5歳下です。でも、幕末の志士として並べられないことの一つには、福澤の生き方が、他の幕末の志士とは大きく違っていたことにあります。明治維新の時に、福澤は士籍を脱し、平民になりました。明治新政府が本当に開国するかどうかなど、新政府の方針に本人が懐疑的であったというのもありましたが、それ以降も再三の政府の要職への招聘には応じませんでした。「爵位、勲章、学位などの噂がたてば、すべてあらかじめ辞退の意をあきらかにして、とうとう政府から何も受けなかった(F, 68)」そうです。明治維新の段階で、福澤諭吉はアメリカ、欧州、再度アメリカと3回の渡航をしており、その様子を『西洋事情』という本にまとめ、その本が大ヒットとなっていました。そんなことに鑑みると、要職や称号を断り続け、資材を投げうち義塾の立ち上げに地道に集中したのは、自身が主張する独立自尊を地でいっていたとも言えるし、相当の変わり者だった、ともいえます。

福澤諭吉は1835年(天保5年)に大阪にあった中津藩の蔵屋敷で生まれ、1901年に66歳で亡くなります。明治維新の時には33歳だったので、福澤はその人生を前半と後半をほぼ正確に半分ずつ送ったことになります(M,8)。福澤は18ヶ月の時に父親を無くし、母に伴われて母子六人今の大分県に移ります。18歳の時にペリーが浦賀に来航します。それをきっかけとして志をたてて、長崎遊学し、長崎にとどまること1年、江戸への修行を目指しますが、この辺は若き頃の松陰ととても似ています。しかし理由あって、大阪にとどまり、緒方洪庵の塾(適塾、大阪大学の前身)で3年にわたって修行を重ねました。緒方洪庵は医師・蘭学者で、非常に人望の厚い優れた教育者でした。適塾は福澤のほかに、橋本左内、長与専斎、大村益次郎などを生みましたが、学問に打ち込む一方で、酒も飲めば悪戯もするような学風だったようです。適塾の先輩が後輩を教えるというスタイルはそのまま慶應義塾に引き継がれました。

その後、23歳の時に江戸の奥平家の長屋に慶應義塾の起源であるといわれている小さな蘭学塾を開きます。(このときに私の母校の創立者、岡見清致の叔父が江戸に福澤を呼びました)しかし、間も無く福澤は、徒歩で行った横浜でオランダ語が全然通じないことにショックを受け、独学で英語を学び始めます。25歳の時には、下級武士であった福澤には本来チャンスがなかったのですが、驚くほどの行動力でコネを辿り、1860年、幕府の軍艦奉行木村摂津守喜殿の従者として咸臨丸に乗り込み、サンフランシスコに50日あまり滞在します。次に、1861年暮れには幕府の外国方に雇われて、外交文書の翻訳をしていたことから通訳官の1人として、渡欧します。このとき船はアジアを経由してフランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルの6カ国を周ります。福澤はここで東洋各地でアジア人が英国人に圧制使役されていることを目の当たりにし、痛切に国力の差異を知ります。福澤はつねにメモを携帯し、街にいる人たちにもどんどん話しかける一方で、懐の許す限り本を買い、情報を得ていきます。この渡航は行き帰りを含めると約一年。この渡欧後、すぐに福澤は『西洋事情』の著作にとりかかり、3年余りで初編を発表します。この本は瞬く間にベストセラーになり、実売だけでも15万、偽版も含めれば、20万部以上売れました。

 

(写真出所:福澤諭吉旧居・福澤記念館)

 

この『西洋事情』という本は政治、収税、紙幣、商人会社、外国交際(外交)、兵制、文学技術、学校、新聞紙、文庫(図書館)、病院、貧院、唖院、癩院、痴児院、博物館、博覧会、蒸気機関、蒸気船、蒸気車、電信機、ガス燈など、さまざまな側面からまさに「西洋事情」についてレポートしていったものでした。個人的には『学問のすすめ』より余程面白く読みました。いったいどのようにしたらこんな短期間にここまで情報収集し、まとめ上げられるんだろう、と驚嘆します。たとえば、政治だと「政治に三様あり。いわくモナルキ、アリストカラシ、レポブリック・・」などとロシアの帝政や、フランスの共和政治、などを紹介したかと思えば、英国でハノーヴァー家がプロテスタントの宗旨を奉じ、他宗を禁じたがアイルランド人のごときは政府の命に屈し、宗門は人々が決めるべきだとしたことを伝えます。港運や手形、借財などで印税、地税などを徴収する仕組み、国際の発行、会社を設立する仕組み、アリストレレスからベーコン、デカルト、ガリレオ、ニュートンに至る哲学や科学のことなどなど。学校については「西洋各国の都府はもとより村落に至るまでも学校あらざるところなし。学校は政府より建て、教師に給料を与えて人を教えしむるものあり、あるいは平人にて社中を結び学校を建て教授するものあり」と書いています。貧困にある人、身体が不自由な人、虚弱な人、精神障害や視覚に障害のある人を受け入れる院などには強い印象を受けたようで、具体的にどのような教育やサポートがされているかについても書いています。博物館、博覧会、蒸気船、蒸気車、伝信機(電話)など、福澤の興奮とともに、幕末・明治の人たちがどのように「西洋事情」を受け取ったかが手に取るようにわかります。

 

さらに1967年からは、再度5ヶ月に渡って、今度はアメリカ東海岸のニューヨーク、ワシントンにいきます。この3回の外遊によって福澤は西洋諸国の文明と富強を知り、日本の独立は国民を文明の域に進めるよりほかはない、と覚悟しました。以下の部分は、明治八年『文明論之概略』の結論の章の第1節にあるものですが、これを福澤は繰り返し、繰り返し説きます。そしてその文明とは福沢の場合西欧文明です。(F,23)

 

***
「此独立を保つの法は文明の外に求む可らず。今の日本国人を文明に進るは此国の独立を保たんがためのみ。故に、国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり
***


【福澤諭吉の本の読みにくさ】

慶應義塾長を長らくつとめ、明仁上皇の若き日の教育係としても有名な小泉信三は多くの福澤に関するものを書いていますが、「福澤の思想家としての第一の事業は科学主義の確立と国民独立の精神の鼓吹にあったといえる(F, 110)」としています。ただ、福澤の科学主義や、文明論については、現代の文脈に捉え直して読んでいかないと、間違ってしまう、という意味で、『学問のすすめ』をはじめとした福澤の書物は少し読みにくいところがあるように思います。

よく知られているように、福澤は漢学嫌いで、西洋の学問、実学を勧めました。漢儒学を実学に対し「虚学」と呼び、ことさらに過激な言葉で儒者と儒教を非難しました。文学も同様で、明治13年に慶應義塾内で詩文集を編集したものを見た時には、「何様の馬鹿が右様のタワケを企てるか」云々と罵ったそうです。(F,88)小泉信三が慶應義塾の普通部に入った時、実際に漢文がカリキュラムになかったそうで「これは実に迷惑で、このため吾々はどれほど損したか分からない。」と書いています(笑)(K,72)

でも、きっと福澤がなによりも心配していたのは、儒学云々という前に、文明が遅れることによって、日本という国が独立できず他国に従属する可能性。1842年、中国はアヘン戦争に負けて大変な不平等条約を結ばされ、日本に大きな恐怖を与えました。さらに福澤は1861年の欧州旅行で、アジアの各地が欧米諸国に支配され、現地の人たちが虐げられている様子を見て、まさに震撼。「まずは相手を知らないといけない」という危機感は相当に強かったと思います。

 

さらに福澤が心配したのは、平民の無気力。「全体としてみた人類総体の行動は、人類の有する知識の総体によって左右される」というバックルの歴史観(F,122)を重要視した福澤は、君子教育だけではなく、中産階級、平民の教育も大事だと考えます。「いかなる人物が現れても、船にその馬力以上の速力をださせることはできない(F,125)」のだったら日本全体としての知識レベルが高まらなければならない、しかもそれは漢儒学ではない、西洋列強と対話できる洋学でなければならない、というのは極めて合理的な判断だとも言えます。

でも、さすがに詩文集を見て「何様の馬鹿が右様のタワケを企てるか」とまで言ってしまうと、行き過ぎです。

 

 

小泉信三は、福澤が科学は全てのことを解決する、くらいの勢いでいる部分については当然賛成していません。「智の進歩に対する驚嘆とその未来に対する楽観とは福澤の思想の根長をなす(F, 126)」と、そうした態度を「楽観」と言っています。さらに、福澤には「形而上学の語気に全く欠けている」「儒学に形而上学がなかったとは言えないが、彼は絶えてその方向に興味を惹かれた形跡がない」とも言及しています。

では、福澤の思想には見るべきところはなかったのか、というとそんなことはないところが、とても面白いところです。福澤は、時空を超えた真実を追うというよりは、その時代に必要なものを、その時代の人に必死に伝え、少しでもよい将来のために身を投じた人ですが、その行動そのものには普遍性があります。

たとえば、小泉信三のエッセイ集(K)の昭和32年の「福澤先生が今おられたら」で小泉はこう書いています。「福澤先生の常に志すところは中道即ちまん中の道であったといえると思います。それ故、世間が右に傾きすぎる時には左りを指さし、左りにかたよったと思うときには右の方にひきもどすということを常に考えた方でした。(略)先生の議論の局部々々だけをみるとしばしば極端な言葉を吐いていますが、しかし先生の常に見失わない方針は適度の中道であったといえると思います。」

 

福澤は「議論の本位」の設定が大事だとしました。「西洋の文明を目的とすること」をまずおき、議論の目的を、“江戸から明治への転換期における”日本の発展を議論の本位としているのです。ここでも、時空を超えた真実というよりは、その「時」に集中し、物事を動的に捉え、ベストな最適解を見出そうとする中道の精神が見え隠れします。

 

小泉信三は、第二次大戦で自分の息子を戦地で失い、慶應義塾でも多くの教え子を失い、自分自身も空襲で全身にやけどを負いました。そんな小泉が、戦後、「憲法があり、議会があり、新聞雑誌がありながら軍人の横暴を、するままに任せておいたのは誰か。立憲国民がこれを制止しないで、一体誰が制止するというのであるか。」「従順なる人民ばかりでは国の前途は心細い。今にして先師福澤諭吉先生を憶う」と熱く語ります。第二次大戦の始まる頃まで福澤が生きていたら、きっと軍の暴走に対して、中道の精神で戦ってくれたのではないか、という悲痛な声が聞こえてくるようです。

 

福澤の書いたものに関わらず、江戸時代から明治維新、明治期はとにかく動きの早い時期で、みんな激しく活動しながら書いていくわけだから、どうしてもゆったりとした思索の時間がとれません。だから読みにくくもあり、時代に合わせた翻訳が必要なわけですが、それらがきちんと整理されないまま、そのまま日本は第一次大戦、第二次大戦に突入して、反省されなかったとしたら? 福澤諭吉は、儒学をあれほど批判しながら、その行動様式が非常に儒教的なのがとても興味深い。今に生きていれば「虚学」だと吐き捨てていたものを重要だといい、行き過ぎた科学に疑義を挟むことすらあり得るかもしれません。

 

【日本には稀な健康人、福澤諭吉】

ところで今回、「福澤惚れ」を自認し、日本思想史研究における生涯の大半を福澤の研究に費やしたという丸山眞男も並行していくつか読んでみました。でも、なぜ丸山眞男がこれほどまでに福澤が好きなのか、はじめのうちはよくわかりませんでした。上述にもあるように、福澤は非常に活動的で多くのことを成し、今の日本があるのは福澤のお陰だといってもいいほど重要な仕事をした人であることは間違いがないのですが、「深い思索」とは無縁の人のように思えたからです。

しかし、丸山は『文明論之概略を読む』で指摘するように、日本の学者はヨコのものをタテにしただけ、つまり横文字を読んで、日本に紹介しただけと批判をされるが、福澤は決してそうではなかったと言っています。

全く違った伝統のもとに育った文化を移植する仕事は本来大変なことであり、そこにオリジナリティがあるが、福澤は無意識のうちに投影されてしまう「日本」を排除しつつも、文化の伝統の深さを理解し、異質性の意識をもって、ヨコをタテにした人だと、丸山は指摘しました。さらに、日本の直面する課題はなにかという問いが先にあり、それを解決するための知的道具としてヨーロッパの思想を駆使するという、非常に現実的な考えがそこにあったと言います。

でも、さらに、丸山に福澤が非常に魅力的に映ったのは、そうした「非常に優れた仕事」をしつつ、「大樹の陰」には絶対に近づかず、最後まで独立自尊の精神で、一生を貫き通したその姿だったのではないかな、と想像します。福澤は「言葉だけ」「思想だけ」では無い、戦う人でした。

たとえば、儒学批判においても、「私の真面目を申せば、日本国中の漢学者はみんな来い、おれがひとりで相手になろうというような決心」だったと回想します。小泉は「分かって罵っていた」と言います。(F,91)

 

福澤の「放言」のエピソードは数えられないくらいたくさんあります。例えば、三度目のアメリカ渡航で、福澤は船中酒を飲んで幕政の腐朽や鎖国思想を罵り、「こんな政府はうちこわしてしまえ」と放言。委員長、副委員長の不興を買って、帰国早々謹慎処分、さらにありったけの所持金をはたいて買った本の差し押さえもされてしまった(F, 64)そうです。笑ってしまいますが、思ったことはその通り口にし、生涯長いものに巻かれることなく、さまざまな要職や賞を断り続けた、福澤の生き様は潔く気持ちのいいものです。

丸山は第二次大戦の日本の失敗、そして「國體(国体)」の問題も含め、私たち日本人の歴史意識の根底に流れる、執拗なまでに繰り返し現れる思考パターンについて考え続けました。たしかに学習指導要領の改正の問題など、おなじ議論が何度となく繰り返されては、スタート時点に戻ってくるという教育行政の現状を見ていても、丸山の指摘は現代においても非常にアクチュアルです。

そんな丸山の目には、福澤がとても「健康」に見えていたのではないか。日本の病理に侵されない健康さを見ていたんじゃないか、という気がします。江戸時代、幕末、明治維新期に活躍した人たちの中にももちろん優れた人は多くいましたが、実はそうした日本がずっと持っている病理と無縁ではなかった人は少なくない。

 

今の時代、「賢く」ても「気概」の無い人がとても多い。「分かっています」と言いながら一向に行動を起こさない人だらけ。自分の思考や行動の奥底に何があるのかについて無自覚です。第二次大戦の時だって、うっすらおかしいと感じても、「みんな」行動を起こさなかった。でも、きっと福澤諭吉が生きていたら、「バカヤロウ」と言って、世論を動かしていたかもしれない。しかもきっととても洗練された形で。小泉信三の「福澤先生が今おられたら」という言葉はつい私の口からも漏れてしまいそうです。

今日はこの辺で。

 

<補足>

今回、書いたブログ。ひょんなことから、仕事でもお世話になったことがあるベネッセの竹内新さんが慶應義塾高校で福澤研究会に所属されていたことを知り、確認してもらったところ、福澤諭吉の教育者としての側面も知っておくといい、といくつかのポイントを教えてもらったので、ぜひこちらも読んでみてください!

教育は市民を作る。だから、武力ではなく、教育で幕府は倒れる

同時代の傑出した人物のほとんどが幕府は倒さないといけないと考えており(おそらく徳川慶喜すらも)、その手段としては武力を考えていた時に、福澤だけが「教育を広めれば、自然と幕府は倒れるだろう」と考えていた。つまり、教育を受けて、一人ひとりが自分の頭で考えて行動できるようになれば、社会は自ずと変わる、と。その意味では、徹底的な教育原理主義者とも言えます。

若者の未来に必要なのは教育

福澤の有名なエピソードに「ウェーランドの経済書の講義」というものがあります。

新政府軍と彰義隊の激しい戦いが上野で始まり、江戸の町は大混乱状態に。にもかかわらず、福澤は当時、慶應があった芝新銭座で「ウェーランドの経済書」という洋書の授業を平然と続けました。武力での戦いなどいつまでも続くことはないし、どちらが勝つにせよ、いずれ終わる。そのとき、君たちに、世の中に、必要なのは教育だよ、というメッセージを塾生に伝えたかったのだと思います。

社会変革のキードライバーとしての教育

「慶應義塾の目的」には、「気品の泉源、知徳の模範」という言葉があります。

これは慶應で学んだ人が、卒業して、日本各地に散って、その人が泉のように周りにいい影響を与えて、模範のようになってほしい、ということを言っています。

だから、福澤は慶應で学んだ人が、さらに学校を作ることを、とても喜んだ。日本各地にある「義塾」とついた学校(例えば東奥義塾などのような)は、慶應で学んだ人が出身地で作ったり、慶應を真似たりして作った学校が多い。教育が社会を変革する装置として機能するところまで福澤は見通して考えていたといえます。

 

 

<参考にした本>

『学問のすすめ』福沢諭吉※

『文明論の概略(抄)』福沢諭吉※

『福翁自伝(抄)』福沢諭吉※

『西洋事情(抄)』福沢諭吉※

※『日本の名著33 福沢諭吉』永井道雄編集 中央公論社から (M)

『福沢諭吉』小泉信三 岩波新書 (F)

『私と福沢諭吉』小泉信三 慶應義塾大学出版会 (K)

『善を行うに勇なれ』小泉信三 慶應義塾出版会

『文明論之概略を読む(上下)』丸山真男 岩波新書 (B)

『日本の思想』丸山真男 岩波新書 (S)

『翻訳と日本の近代』丸山真男・加藤周一 岩波新書

『現代語訳 学問のすすめ』福沢諭吉 斎藤孝訳 ちくま新書

『伝記 小泉信三』神吉創二 慶應義塾大学出版会

(今回福澤諭吉、と旧漢字で統一しました)

 

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