明治のキリスト教と教育(その4)―女子教育とキリスト教ー私たちの教育のルーツをたどる(15)

いままで明治期にどのようにキリスト教が広まっていったのか、またその過程でどのように私たちの教育も影響を受けていったのかについて見ていきました。今回は明治期に60校新設されたプロテスタント系の女子校を中心に、明治期の女子教育全般にも触れていきたいと思います。明治期のキリスト教教育のまとめとしては今回が最後となります。

 

【明治初期の思想、政府と女子教育】

 

五箇条の御誓文にはじまる明治の新しい政治は、廃藩置県、学制の発布、徴兵令の頒布、地租改正と進んできたことは前に確認しましたが、なかでも女子教育に関連するのは明治5年の学制です。「学事奨励に関する被仰出書」の中に第三段として一般の人民のなかに華士族だけではなく、農工商および、婦女子を含めることが明記され、「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」との有名な言葉があります。

 

そして、その中身は福沢諭吉の「学問のすすめ」からそのまま借用したのではないかというほどの言葉が散見され、大きな影響を受けていることがみてとれます。福沢諭吉は、女性も学問を修めるべきであり、女性も文学はもちろんのこと、教育物理、医学などの領域においても直接社会に貢献するべきだと考えており、『日本婦人論』などさまざまな著述を行なっています。

https://www.nier.go.jp/library/shiryoannai/shiryo3.html

「学事奨励に関する被仰出書」

 

この学制では、布告の「男女の別なく小学に従事せし」むる、本文第二十七章「尋常小学校(略)ハ男女共必ス卒業スヘキモノトス」、本文第四十六章「小学教員ハ男女ノ差別ナシ其才ニヨリ之ヲ用フヘシ」[i] とあり、江戸時代までの封建制度のことを考えると驚くべき内容のものでした。この学制をもって、明治5年の2月には、官立女学校が開校して、東京女学校ができます。

 

また、開拓使長官の黒田清隆は女性教育の重要性を説き、明治5年11月に普通学研究の目的で、5名の女子を米国に留学させます。このなかに津田塾の創立者、津田梅子、華族女学校(後の学習院)設立や津田塾の立ち上げに尽力した山川捨松(結婚後大山捨松。以下捨松)がいました。この背景には、黒田がその前年にアメリカに行ったときに、女性が教育を受けており、社会的地位が高いことに心底驚いたこと、そして、そのときに駐米少弁務使として米国駐在中だった森有礼がそのアイディアに同意したことがあります。それにしても、このとき津田梅子はまだ6歳、捨松は11歳でした。彼女たちを10年間の留学にだそうというのですから、当時は仰天の内容です。実際に第一次募集では応募者がおらず、2次募集で集まったのが彼女たちで、維新で賊軍とされた幕臣や佐幕藩家臣の子女たちで、官軍側には一人の応募者もいなかったといいます。[ii]

 

続いて、明治7年に文部少輔田中不二麿が「女子師範学校設立建議書」をたて、女子師範学校の設置を最重要課題の一つとします。明治5年に設立された東京女学校は、生徒がどんどん増え[iii]、8歳から15歳までの6年のカリキュラムで国書、英学、手芸、雑工からはじまりました。また、西洋の女性教師を雇って一般教養を授けました。明治8年には変更が加えられ、小学校卒業以上の学力をもっている女子を対象に14歳から27歳まで、同じく6年間、地理、歴史、物理、修身、経済、科学、法律、数学なども教え、男子の通う中学となんら差のないようなものだったようです。しかし、西南戦争の影響で財源がなくなったこともあり、明治10年には、ほかの外国語学校や多くの師範学校とともに廃止されてしまいます。

東京女子高等師範学校 (Wikipedia)

 

とはいっても、完全な廃止ではなく、英学科を残し、明治12年の教育令とともに、別科として存続させ、明治15年には附属高等女学校として存続しました。その後事実上東京女子高等師範学校[iv](現お茶の水女子大学)に組み込まれていきます。ただ、この教育令は、女子教育にとっては大きな後退となります。中学校における男女分離が示され、当時三千名近くいた中学校の女子生徒は明治13年には389名、17年にはとうとう皆無に至ります[v]。教育令は女子校について規定がなかったため、わずかに京都、前橋、岐阜、徳島、栃木などで公立の女学校が設置されたにとどまり、小学校より上の女子教育については明治30年代になるまでいわば放置状態が続きます。小学校においてさえ、女子の修業率は30%程度というのが実情でした(O52)。

 

これまでみてきた通り、明治の本当の最初期の時代には、日本初の啓蒙結社である「明六社」のメンバーの福沢諭吉、森有礼、そして後年に東京女子高等師範学校の初代校長の中村正直らがリードして、女子教育は非常に高度なレベルで導入されましたが、あっという間に失速していきます。その中で空洞を埋めるように増えていったのが私学の女子校でした。

 

【キリスト教女子教育のはじまり】

 

こうした明治12年の教育令以降、法的な整備がないまま国漢学を中心とするものや、医学、語学、裁縫など、多種多様な女学校ができていきますが、その中でも非常にプレゼンスの高かったのがキリスト教系の女子校でした。

 

前回、前々回にみたように開国と同時に渡来してきたのは、アメリカプロテスタント各派の宣教師が多かったわけですが、幕末から明治の初期にかけては政府も基本的に積極的な態度で欧米文化の摂取につとめていました。当時の宣教師たちは日本における女子の社会的地位の低さにひどく驚き、女子教育の急務を感じます。ヘボンと一緒に活動をしていたブラウンはおよそ10年の日本での活動のあとに一時帰国しましたが、その後、弟子のミス・キダーを伴って、再び来日します。そして、このミス・キダーによって最初のキリスト教主義女学校が誕生します。

 

ギダーはヘボン塾の一クラスを受け持ち、そのうち女子だけを教えるようになり、明治5年には生徒数が22名になります。その後も生徒数が増加し、ミッション本部からの資金も得られると、明治8年には横浜の山手に新校舎を落成し、正式な学園としてスタートします。これがフェリス女学校の始まりになりますが、同時期に同じように宣教師の家塾からスタートした学校としては神戸女学院、東京築地に女子学院の前身となる学校、青山女学院、立教女学院がつぎつぎと設立されていきます。明治10年代の後半になると、欧化主義もあり女子教育ブームが起きて、全国的にその数は増えていきます。(O53-4)


1875年に竣工したフェリス女学校の校舎・寄宿舎(学校法人フェリス女学院HP)

 

これらの学校の教科は発足当初は英語と聖書、簡単な読み書き程度のものであったのが、学校の整備拡充によって、広がっていきます。福沢諭吉の娘も学んだ横浜共立女学校[vi]は、英語、音楽、家政からスタートし、漢学、和学、数学なども教えていくようになります。同志社女学校では天文学、心理学、地理学、数学、万国史などもカリキュラムに入りました。フェリス女学校、神戸女学校などでは、物理や合衆国史、哲学、経済学、植物学など高等教育に匹敵するようなものまで学ばせていたようです。教授法も進歩的で、植物学では生徒に木箱を与え、実際に草花を種から育てて観察したり、天文学では望遠鏡で観察、共立女学校では化学実験に東京の大学から教授を招いていたそうです。(O55)

 

宗教教育については、教育と伝道のどちらに重きをおくかについては、学校によって違いますが、多くは聖書の時間は週1―2回程度で、通学生がいても寄宿舎があることがほとんどであったため、宣教師と一緒に生活し、朝夕の礼拝、日曜日の祈祷会、クリスマスなどの儀式によって、宗教を感じることのほうが大きかったようです。明治25年くらいになると、フェリスは全館スチーム暖房で、栓をひねればお湯が出て、非常に恵まれたものだったと、当時入学してきた相馬黒光[vii]は驚いています。また、明治23年に女子学院を卒業したガントレット恒は、学校にはデモクラティックな要素があり、生活に関することは朝礼で皆で決め、議長は上級生が受け持ったと回想しています。「あなたがたは聖書を持っているのだから、自分で自分を治めなさい」と口癖のように言われていたそうです。ただ、一般的に勉学も躾も厳しい学校が多かったようです。 (O57)

 

この時期の卒業生は、母校に残って教鞭をとるものや、キリスト者、牧師の夫人となって伝道に励む者が多く、たとえば、フェリスの第一回卒業生巖本嘉志子は7年間母校で教え、その後、後述する明治女学校の校長となる巌本善治の夫人となって若松賤子の筆名で「女学雑誌」に「小公子」などを翻訳していました。共立女学校の通学生だった桜井ちか子は、桜井女学校(後に女子学院に発展)を創立しました。

 

明治16年には「鹿鳴館」が完成し、上流社会の男女は毎晩のように催される夜会に出席するようになり、「時事新報」がキリスト教を国教とすべしとの社説を掲げるほどの状況になります。この影響は官立の東京高等女学校にも影響し、土曜日にはダンスパーティを開き、制服には洋服を採用、英語と音楽に半分字以上の時間をあてます。それまで国学的な私立女子学校だったところですら、欧化主義に転向するほどの状況となり、この時代英語や音楽、西洋礼法を学ぶべく、こぞって良家の子女たちはキリスト教主義学校に押し寄せました。明治17年に創立した東洋英和女学校は、NHKの朝の連続ドラマ小説にもなりましたが、赤毛のアンを翻訳した村岡花子、その友人の白蓮などが通いました。

 

【明治女学校、そしてキリスト教教育の衰退と国家主義の台頭】

 

こうした文明開花の狂乱の中、西洋文化の押し付けのようなキリスト教教育に疑問をもつ生徒たちも現れます。明治24年の宮城女学校では洋風一点張りの教育方針に対して5名の生徒がストライキ[viii]を起こし、日本の精神を基調とした教育を施してほしいと意見書を出したことに対し、退学処分になりました。このときにこのリーダーたちに共感した相馬黒光(のちに新宿中村屋創立)は彼女たちの後を追って、フェリス女学校に入ります。しかし、ここでも黒光は日曜日に奉仕活動の編み物をしていたところに上級生から安息日であることを理由に叱られたり、祈祷会の時に指名されて形式的に祈らされることに違和感をもち、明治女学校に転入することになります。[ix]

 

この明治女学校は、今は存在しないため、知らない人も多いと思いますが、二代目校長の巌本善治が「女学雑誌」を通じて女性啓蒙活動をしていたこともあり、当時は時代の先端をいくような進歩的な女生徒たちや文学に憧れる女生徒たちがこぞって憧れるような学校でした。創立者は、アメリカで12年間学び、苦学の末に牧師の資格を得た木村熊二[x]で、妻の木村鐙子とともに明治女学院を設立します。木村は儒教精神にはぐくまれた日本女性のためのキリスト教女子教育を主張しました。(O65)

 

明治女学校ではキリスト教信仰を強要せず、生活のなかで感取感得することを重要視しましたが、木村自身はアメリカ改革派教会に属するキリスト教牧師であり、学校維持の中心となる評議会員はキリスト教を信奉することが資格条件になっていました。ただ、他の多くのミッションスクールと違っていたのが、ミッションから経済援助を受けていないことであり、海外のものをそのまま移植してはならないという基本的な考えがあったところにあります。当時、外国人のすることならなんでも立派なことだという風潮があった一方で、西洋のことなどなにもわからずにいた当時の婦人たちに対し、キリスト教に源泉を持ちながらも、日本人が日本人として主体性をもって教育することを表明しました。(O65)

 

設置科目も、英語、数学、漢文が最重要科目におかれ、地理、歴史、生理、物理、科学、植物、鉱物など自然科学関係が多く、家政関係は皆無でした。教科書は漢文を除いては、全て原書または翻訳書で、満14歳以上、30歳以下の女子を対象に修業年限5年の学校でした。明治18年に生徒4名、木村以外の女性教師6名でスタートし、鐙子夫人が寄宿舎管理をしました。木村校長は女性たちに運営を基本的にまかせ、とくに一切を鐙子夫人に委ねたといいます。しかし、全生命を明治女学校に傾注した鐙子夫人は一年後に倒れ、その後教頭に招かれた巌本善治が学校の運営の中核を担うようになっていきます。[xi]


巌本善治

 

巌本善治は、「真の社会改良、道義の樹立は女子教育にあると確信し、その教育の基礎として特定の宗派に属しないキリスト教信仰と、自由平等の精神を原理」とすることを主張します。講師陣には、「文学界」の北村透谷、島崎藤村[xii]、星野天知らを擁し、内容も芸術と恋愛を承認するロマンチックで華やかなものだったそうで、学校には自由闊達な独自の雰囲気がつくられていたといいます。巌本自身、非常に魅力的な人だったようで、明治女学校の生徒は300名に達し、明治23年から29年、校舎が麹町下六番地にあった時代に最盛期を迎えます。この学校からは進歩的な女性がどんどん育ちます。日本初の女性ジャーナリストで、婦人之友社、自由学園を創立した羽仁もと子や作家の野上弥生子を知る人もいるかもしれません。(羽仁もと子については大正自由教育の項で改めて触れます)しかし、明治29年に校舎が全焼し、巌本の夫人が病死すると、活気が急速に衰えます。成瀬仁蔵が日本女子大学校を創立し、後述する津田塾が昇格する中、巌本は焦りますが、資金のことも含めうまくいきませんでした[xiii]。ついに明治42年には廃校となりました。

 

明治10年代後半に急拡大したキリスト教主義女学校は、20年代に入ると、一転して衰えはじめます。大日本帝国憲法が明治22年に発布され、欧化主義とはうってかわって、国家主義が台頭したことが原因でした。入学者は大幅に減り、中途退学者も増えました。フェリス女学校ですら、明治21年に185名いた在校生が23年の卒業生はわずか4名となります。神戸女学院も、明治25年ごろから減少が目立ち、24年から25年にかけて、生徒数は50名も減ったといいます。(O66)

 

やはりここでも文部大臣森有礼が暗殺された影響は大変大きいものでした。明治19年に森の名の下に、東京師範学校附属女学校が廃され、東京高等女学校が開校します。この年に東京美術学校、東京音楽学校も直轄学校として発足しますが、東京高等女学校はその職員の顔ぶれをみても、東京美術学校、東京音楽学校に遜色ない予算が割り振られていたことをみても、文部当局の意気込みと努力が明白なものだったようです。しかし、森の暗殺後、東京高等女学校の醜聞デマが流布され、明治23年には廃校に追い込まれます。新聞により醜聞がかきたてられたのは、森の死後2ヶ月もたたないうちの出来事で、森の死に乗じた反対派の攻撃だったと思わないわけにはいかない、と日本女性史の研究者、青山なをは論じています。[xiv]

 

そのころから無差別的に西洋の文物を排斥する極端な国粋主義、ドイツ的中央集権国家観をベースとした国家主義が台頭します。明治20年に森有礼は修身教科書の使用を禁止し、倫理に変えましたが、明治23年には、「教育勅語」が出され、キリスト教徒の不敬事件、教育と宗教の衝突論争がおこり、「勅語の主意は一語にて之を言えば国学主義なり、しかるに耶蘇教は甚だ国家的精神に乏し、(略)国家的精神に反するものあり」とキリスト教は非難攻撃されます。(O68)

 

一方で、明治28年になると高等女学校規定が出されて、女子教育が復興しはじめ、明治32年になると高等女学校令が制定されます。しかし、この高等女学校令は国家を支える良妻賢母の育成をねらいとするもので、キリスト教主義女学校に対抗するものでした。まがりなりにも、各県に少なくとも一校の高等女学校が設けられ、新設校は物珍しさもあって、志願者が殺到したといいます。しかし、それ以上にキリスト教系の学校をさらに追い詰めたのは、いわゆる宗教教育を禁止する訓号12号[xv]でした。この訓号によって、宗教教育、宗教儀式を行う学校は正規の学校とは認められず、各種学校扱いとなります。フェリス女学校も、神戸女学院も各種学校として出発することを余儀なくされました。

 

【津田梅子と津田塾】

 

冒頭の話に戻ると、明治5年に海外に渡った津田梅子らはどうしていたのでしょうか。梅子は、捨松と共に明治15年に帰国します。二人ともすっかり日本語を忘れてしまっている状態でした。明治16年、梅子は船上で一緒だった伊藤博文と再会し、華族子女を対象にした教育を行う私塾、桃夭女塾を開設していた下田歌子[xvi]を紹介されます。歌子から日本語を学び、桃夭女塾で英語を教えます。明治18年には伊藤に推薦されて学習院女子部から独立して設立された華族女学校で教えることになりました。しかし、日本の生活や結婚話にも辟易、明治22年には再度渡米、アメリカのトップ女子校であるブリンマーカレッジで生物学を学びます。大学からは研究を薦められますが、明治25年には帰国、再び華族女学校で教鞭をとります。明治31年には、女子高等師範学校教授となります。明治32年の高等女学校令、私立学校令が交付されて法制度が整ったところで、留学時代の友人、アリス・ベーコン、捨松らの協力を得て、明治33年に「女子英学塾」(現津田塾大学)を開校します。


左から津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、捨松 (出展:津田塾大学ホームページ)

 

設立資金としては、親日家のメアリー・モリス夫人のほか、母校のブリンマーカレッジのケアリー・トーマス学長(当時は学部長)らに援助をたのみ、委員会が組成される中で進みました。「女子英学塾」開校時は梅子とアリス・ベーコンとその養女の渡辺光子ほか2名。大山巌(伯爵)と結婚し、鹿鳴館の貴婦人として活躍した捨松は塾の顧問を務め、新渡戸稲造も相談役としてときおり特別講義をしました。明治女学校校長の巌本善治も隔週ごとに講話をおこなったといいます。梅子は初めのアメリカ渡航で独立系キリスト教会で自ら望んで洗礼を受けていますが、明治36年に生徒数が100人を超え、明治37年に公的な組織として社団法人にする際に、キリスト教主義に基づき女子に高等教育を授ける学校であると明記します。この社団法人の理事には梅子、捨松が選ばれ、社員には新渡戸稲造、巌本善治、上野栄三郎が名を連ねました。上野栄三郎は同志社を卒業したクリスチャンで、梅子の姉の夫。東京帝国大学で農学を教える教授でしたが、ずっと津田塾の日本での借入の調達を引き受けていました。忠犬ハチ公の主人でもあります。

 

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第一回目に書いた通り、明治期に設立されたプロテスタントの女子校は60校もありました。もちろん明治期には、官公立の女子学校もあり、華族女学校があり、下田歌子の実践女学校、跡見学園のようなすぐれた女子教育を行う学校もありました。明治30年代にはいると、雙葉学園、白百合学園、聖心女子学院などのカトリックの学校も設立されていきます。いずれにしても、この時代は女性たちのバイタリティも凄まじいですね。一方で、明治時代のキリスト教に対する政府の対応は、本当にいきあたりばったりで、縁故があれば保護するし、そうでなければ弾圧するという非常に未成熟なものであったのだなぁ、とため息が出ます。まさに激動の時代。こうした大変な時代に切り開いてくれた人たちがいるからこそ、今の私たちがいるのだとつくづく思います。

 

これで明治期のキリスト教については一旦、ここまでとしたいと思います。次は、明治期の自由民権運動にどのように教師たち、教育が関わっていたのか、ということについてまとめてみたいと思います。まだまだ明治、いきます!では、このへんで。

 

※「わたしたちの教育のルーツをたどる」ブログはこちらにまとまっています。

 

【参考図書・文献】

「明治期のキリスト教主義女学校に関する一考察」 大滝晶子 教育學雑誌 6巻 (本文O

『明治女学校の研究』 青山なを 慶応通信

『明治の女子留学生―最初に海を渡った五人の少女』 寺沢龍 平凡社新書

『黙移 相馬黒光自伝』 相馬黒光 平凡社ライブラリー

 

[i] 『明治女学校の研究』 青山なを 慶応通信P6

[ii] 『明治の女子留学生』 寺沢龍 平凡社新書 P10

[iii] この時期、京都女学校も開校。東京女学校の閉校以降も次第に発展します。なお、当時の官公立の女子師範学校は明治10年までに金沢、岡山、富山、福井、愛媛などで開校されていましたが、当時は卒業後の服務義務がなく、教養目的で入学する者も多く、女学校と同じような役割を果たしたそうです。(O52)

[iv] 東京女子高等師範学校の初代校長は中村正直、福沢諭吉、森有礼らと一緒に明六社のメンバーでした。

[v] 『明治女学校の研究』 青山なを 慶応通信P14

[vi] 福沢諭吉は、3人の娘を共立女学校に入れますが、明治20年には「時事新報」に「耶蘇教会女学校の教育を批判す」として、キリスト教学校の宣教師の目標は布教であり、日本婦人の実際に即した教育法を採用するようにと論じました。(O60)

[vii] 夫の相馬愛蔵とともに新宿中村屋を創立。

[viii] 宮城女学校は横浜バンド出身の押川方義が、1886年にドイツ改革派教会宣教師とともに、伝道者育成のためにつくった学校(現宮城学院)。同時に仙台神学校(現東北学院)も設立した学校です。ちなみに、この騒動のあと、押川は最後まで五人の少女の面倒を見ます。一人は結婚、三人は明治女学校、一人は青山女学院に転校させます。黒光はこの五人の中には入りませんでしたが、自主退学をして、押川らに報告にいくと、才気煥発な彼女が希望する明治女学校にいくのはかえって危ないとフェリスを勧めたといいます。ちなみに、押川方義は、藩の下士の子弟として生まれますが、更進生として開成学校、大学南校(現東京大学)で学び、廃藩置県の時に横浜の洋学校「修文館」に通い始め、それがきっかけとなって「バラ塾」に学び、明治5年に受洗、横浜公会を設立します。プロテスタント諸教派は福音伝道は協働する方針だったため、各教派の宣教師たちは日本を地理的に分割して伝道を担当したため、東北地方はドイツ改革派教会が割り当てられました。それが、宮城女学校、仙台神学校設立に繋がります。

[ix] 『黙移』相馬黒光に詳しい。ちなみに「華やかな恋愛」に関して黒光の従姉妹の信子と国木田独歩のことや、島崎藤村のことなども書かれています。

[x] 木村熊二は明治3年、森有礼が少弁務使として渡米する際同行した留学生の一人でした。

[xi] 詳細は『明治女学院の研究』青山なを、に詳しい。

[xii] 島崎藤村に洗礼をほどこしたのは木村熊二。

[xiii] 明治32年、高等女学校令が出て政府としては良妻賢母教育の徹底がなされる中、良妻賢母主義は、国家主義と表裏一体をなすものであると真っ向から批判したことなどもあるようです。「巌本善治の女子教育思想」木下比呂美 「教育学研究」52巻2号 1985年 p8

[xiv] 『明治女学院の研究』青山なを p548

[xv] 文科省HP

https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317974.htm

[xvi] 下田歌子はキリスト教者ではありませんが、明治の女子教育のキーマンです。5歳で俳句と漢詩を詠むなど幼少期から神童ぶりを発揮し、明治5年に女官に抜擢され、宮中に出仕します。皇后美子から寵愛され、「歌子」の名を賜り、宮廷で和歌を教えるようになります。明治12年に結婚し、宮中出仕を辞しますが、夫の看病の傍、桃夭女塾を開講し、当時の政府高官の妻の多くが芸妓などであったため、彼女たちに古典の講義や作歌などを教えます。その後、夫の病死にともない、明治17年に華族女学校の教授に迎えられ、明治26年には欧米教育視察、キリスト教信仰が学校教育や生活習慣の基盤になっていることを理解します。帰国後に大衆女子教育の必要を感じ、活動を始めます。明治40年、学習院女学部長を辞任し、翌年実践女学校の校長に就任します。大正7年には板垣退助の妻絹子に招聘され、順心女学校(現広尾学園)創設にあたり初代校長となります。

 

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