明治のキリスト教と教育(その3)―新渡戸稲造と札幌バンドー私たちの教育のルーツをたどる(14)

その1で幕末に宣教師として来日し、初の和英辞典を編集したほか、聖書の翻訳、明治学院大学創立などさまざまな貢献をしたヘボン、そしてその2で同志社を設立した新島襄について触れました。ヘボンたち外国人宣教師たちが拠点にして活動を開始したのは横浜だったので、そこに集まった信徒たちは「横浜バンド」と呼ばれます。また、新島襄の設立した同志社は京都ですが、熊本洋学校出身の若者たち「熊本バンド」が同志社創立期に活躍しました。明治初期のプロテスタントの源流というと、「横浜バンド」「熊本バンド」「札幌バンド」の3つがあると言われますが、今回は、札幌農学校(現北海道大学)教授、第一高等学校(現東京大学教養学部)校長を歴任したほか、キリスト教系の女子高等教育としては最初期にあたる東京女子大学の創設や、貧しい人たちの夜間学校の創設など、さまざまな学校を立ち上げた新渡戸稲造を中心に「札幌バンド」についてまとめておきます。(次回は明治期に多く設立されたミッション系の学校、特に女子教育について書きたいと思います。)

 

【クラーク博士と札幌バンド、そして教育】

 

「少年よ、大志をいだけ」のクラーク博士の言葉を知らない人はあまりいないと思います。クラーク博士は、1876年(明治9年)に開校した札幌農学校の初代教頭で、新島襄が学んだアマースト大学の大学教授でもあり、新島襄の招聘によって日本にやってきましたが、日本滞在は研究休暇中の8ヶ月ほどに過ぎなかったにもかかわらず、学生たちに与えた影響は甚大でした。2期生として入学した内村鑑三や新渡戸稲造らも、クラークに直接触れたわけではありませんが、その影響は学問のみならず、宗教的にもとても大きなもので、内村は後年キリスト教思想家として、後に帝国大学総長となり戦後の教育基本法にも携わった南原繁ら多くの日本人を信仰に導きます。一方で、新渡戸稲造は伝道的な活動や聖書の注解などを一切行わなかったことから、キリスト者として語られることは少ないかもしれませんが、クエーカー(フレンド派)の信仰の元、一生をキリスト教の奉仕に捧げた人です。札幌農学校の2期生としてまさに札幌バンドの核であった内村鑑三と新渡戸稲造、そして植物学者となった宮部金吾はそれぞれの道を歩みつつも生涯の友でした。

 

左から新渡戸、宮部、内村
出典:北海大学附属図書館 展示アーカイブ

 

キリスト教思想家としては内村鑑三のほうが今でも語り続けられていると思いますが、今回は教育ということもあって、上述のとおり札幌農学校教授を経て、第一高等学校校長を務め、東京女子大学を設立し、その他夜間学校設立、日本のフレンド派の学校、普連土学園設立のきっかけとなり、最晩年には札幌農学校の愛弟子が設立した現新渡戸文化学園の校長となった新渡戸稲造を中心にご紹介しておきたいと思います。

 

 

【新渡戸稲造の幼少期、そしてキリスト教との出会い】

 

新渡戸稲造は1862年生まれ。内村鑑三の1才下、横浜バンドの植村正久、熊本バンドの海老名弾正らに5年ほど遅れて生まれます。盛岡の地で南部藩士の家庭に生まれますが、6歳の時に父親が亡くなります。一般的な武士の教育を受けますが、母親は藩中でも有名な賢夫人で、地元の医師から英語を習えるようにし、稲造が10歳のときに教育のために養父に預けます。稲造は上京し、築地の外国人学校、共慣義塾で学びますが、養父は成績が良い稲造を見て、明治8年当時開校まもない東京外国語学校[i](英語科は後の第一高等学校→東京大学教養学部)に最年少の14歳で入学させます。そして明治9年には、札幌農学校に入学します[ii]。この時も前年すでに入学許可がでていましたが、年齢が低すぎたため、一年待っての入学でした。

 

ところで、新渡戸も内村もそうですが、札幌農学校には、貧乏士族の師弟で優秀な者たちが、官費生の待遇に惹かれて集まってきていました。進級が厳しかった一方で、行き届いた寄宿舎、食事、制服、教科書を与えられ、校舎で働くことで報酬が支払われることは魅力でした。一方で、クラーク博士のリベラルな教育により、卒業した生徒たちは、ほとんど奉職の義務を守らず、開拓使の手を逃れてしまったといいます。(MZ12-14)

 

17名の2期生の中で特に新渡戸稲造と内村鑑三は成績が良く、一等二等を争っていたといいます。英語の練習のために全て英語を使い、日本語を使った場合には罰金を課すようなこともしていたようです。(M 31)前年に教頭だったクラークは校則全てを抹消し「紳士であれ」一条のみをのこし、全科目が道徳(修身)であるとして毎朝黙祷してから授業を始めるなど、全人教育を行いました。「イエスを信ずる者の契約」を起草して一期生に配り、全員が署名しています。二期生であった新渡戸稲造や内村鑑三、宮部金吾らもその契約に署名をし、受洗しました。ところで、当時の札幌には牧師は居住しておらず、宣教師のハリスは函館で、年一度くらいしか学校にこなかったため、生徒たちは自分自身で聖書などを読み、順番に説教を行いました。そんなことから、札幌バンドは非常に民主的で教派からも影響を受けないという特徴を持っています。[iii]

ウイリアム・クラーク博士

 

稲造は、明治12年7月ごろまでは仲間で聖書を読み合い、闊達に生活を楽しんでいましたが、その年の8月に「父ノ光ヲ見」という神秘的な体験を受けたという日記を記したのち、寡黙になり、教会的な活動から距離をおくようになります[iv]。(M81) 10月には眼病となり本が読めなくなったことも加わってノイローゼ気味となった稲造は同級生から「モンク」と呼ばれるようになります。さらに明治13年7月には母が亡くなりますが、十年ぶりの再会を楽しみに郷里に戻ったのに数日の差で死に目に会えませんでした[v]。精神的にも孤立した[vi]稲造はそのころにカーライルの『衣服哲学』[vii]を手にして、生涯の本とします。

 

明治14年、札幌農学校を卒業し、開拓使御用掛として働き始めますが、また視力が衰え神経衰弱になり、回復後東京大学に入学します。明治16年ごろ、内村がキリスト教活動に精を出し結婚する一方で(M114-127)稲造はせっかく入った東大の授業が物質的で宗教的・倫理的空気もないことに落胆し、アメリカに渡ることを決心します[viii]。アメリカではジョンズ・ホプキンス大学に入りますが、建物も、集まる人たちの衣服も装飾的で牧師が蓄音器のように喋る教会[ix]には馴染めませんでした。そのような中でひょんなことからフレンド派の教会をみつけます。そこで祭壇も賛美歌もない黙座瞑想が気に入ります。ここで明治19年に同じくフレンド派のメアリー・パタソン・エルキントンに出会い、後年結婚します。

 

稲造はこのころから教育に熱意を持ち、明治18年11月の宮部宛書簡では以下のように将来の希望を語っています。当時稲造は23歳ですが、すでに成人教育、女子教育、貧困な家庭の子たちの夜間学校、高等学校にアクセスできない学生のための学校などの構想をしています。そして、それらは実際に次々に実現されていきます。

***
「第一は成人教育の学校、ここでは歴史、経済、農業、自然科学などを教える。第二は大学や専門学校に進むことを希望しながら正規の中学に通学できない青少年のための学校の建設、第三は第二より程度は低く、貧困な家庭の少年達に常識を与えるための英語、数学なども教える夜間学校の建設、第四には前述の学校に女子部を加えること。いかに僕はこれらの希望を成し遂げたいと思っていることだろう!僕は帰国して、東京に落ち着くならば、誇りと虚しい光栄の機会があることは知っている。しかし(略)僕は僕の総てをキリストへの奉仕にまったく捧げている。(略)そして、君もご承知のように、少年が大好きだから、彼らを有用な人物に仕上げるといふ事は、僕には非常な魅力がある。」 (M155)

***

 

このころ、はじめの結婚に失敗し、「社交的」キリスト教に違和感を持った内村も渡米し、アマースト大学に進学[x]していました。フレンド派が当時日本への伝道を視野に入れており、内村と稲造は招かれて、日本の神道とフレンド思想がその質素さや儀礼、装飾よりも実質を尊ぶ点において相通じるものがあると伝えます。そのことがきっかけで設立されたのが東京都港区にあるフレンド女学校(現在の普連土学園)です[xi]

 

ジョンズ・ホプキンス大学を卒業し、帰国してからはアメリカ留学時代に懇意にしていた佐藤昌介[xii]が、札幌農学校発展のための教授育成のために新渡戸をドイツに送ります。ドイツから戻り明治24年、新渡戸はメアリーと結婚し一緒に日本に戻り[xiii]、札幌農学校の教授となります[xiv]。当時、農学校は経営的に厳しく、新渡戸は農政学、植民論、農史、農業総論、経済学、さらに英文学とドイツ語までなんと週20時間近くを受け持ったそうです。溌剌とした元気いっぱいの教授で、知的教育よりも人格教育を優先させ、教科書に重点をおかず、問いによって知識を身につける方法をとりました。また、かならず数分の黙祈をもって授業に挑みました。日曜日にはバイブルクラスを開いて、集まった学生には聖書を与え、集会の後はお茶菓子で懇談したそうです[xv]。(M171) このころ新渡戸は忙しいさなかを縫って、北鳴学校(当時北海道にはなかった中学校)校長、明治27年には不幸な人たちの夜間学校「遠友夜学校」を開校し、貧民児童の教育のみならず、貧民街に看護婦を巡回させ、消毒薬を配るなどセツルメント活動のようなこともしています。(M176)

新渡戸稲造と妻メアリー・エルキントン

 

しかし、この間も体調不良に見舞われ、生まれたばかりの息子の死、夫人の病気に加え、自分も神経痛から神経衰弱気味となり、療養のために明治31年にアメリカに行きます。その病床の中で英語で書いたのが『武士道』です。武士道は日清戦争に日本が勝ったタイミングであったこともあり、ドイツ語、フランス語、ポーランド語、ロシア語、中国語などさまざまな言語に翻訳され、世界中で読まれることとなりました。ここまでみてきた通り、『武士道』は日本人が単に日本文化の紹介として武士道について書いたのではなく、米国で学び、自身がキリスト教を信仰する新渡戸だからこそ書けたものでしょう。私自身、いつだったかはじめて『武士道』を読んだ時、こんな人が明治時代にいたんだ!と衝撃を受けたことを覚えています。ただ、原文の英語が素晴らしいのと、翻訳だとなんだか受ける印象が違うので、原文で読むか、もしくは新渡戸が晩年に大衆向けに日本語で書いた『修養』のほうがおすすめかもしれません。よかったら、ぜひ読んでみてください。

『武士道』 Interne Archive

 

さて、『武士道』を出版し、日本に帰国してからの新渡戸は、40代前半は台湾総督において、植民政策(糖産業開発)で成果を出し、京都帝国大学教授を経て45歳の時に第一高等学校(現東京大学教養学部)の校長に就任します[xvi]。52歳になるまでの約7年間を第一高等学校で過ごしますが、教育方針は、札幌農学校時代からの心の根底となっているキリスト教による人格主義でした。もちろん官立で宗教教育をすることは許されなかったので、週1回倫理の正式講義に加え、一高の近くに一軒家を借受け、生徒との面会日を定めて生徒と話し合う機会をつくったそうです。そのほか、課外講義、特別講義を通して全人的教育を施し、南原繁[xvii]をはじめとして、多くの学生に影響を与えました。しかし、時代は大日本帝国憲法発布後。学生たちを育てることに対しての至上の喜びを感じながらも、政府の国体思想への傾倒はとどまることはなく、本人の健康状態も含め、新渡戸はもう限界でした。「一高の生徒は頗る面白い 彼等との関係は断ちたくないが 役人的権勢は御免蒙り度い[xviii]」と、校長を辞します。

 

同時期、内村鑑三はジャーナリズムの世界に身を置きながらもキリスト者として徹底的な「非戦」を貫きます。日清戦争に対しては、当初清国による朝鮮の属国化をさけるための義戦と考え、はじめは賛同した内村でしたが、それが「欲戦」に変貌したことに心の底から落胆します。その反省から内村は徹底した「非戦」論者となります。「国民之友」で内村を世に出した徳富蘇峰も民友社で帝国主義に転向したため、内村は決別します。明治33年、『武士道』出版の翌年に内村は「聖書之研究」を出し、自宅で日曜ごとの聖書講義を始めました。都市部の中間層、下流層に読まれた赤新聞の草分けとなる「万朝報」を使って「社会改良」に取り組みます。明治34年には足尾銅山で日本初の公害事件がおき、田中正造らを助け、青年層のホープの一人になっていきます。しかし、その「万朝報」も日露戦争において開戦論に踏み切り、内村は退社を決意。その後一切の職につくことはありませんでした。批判を貫く内村はジャーナリズムからもキリスト教界からも次第に忘れられていくことになります。

 

そして、新渡戸は大正2年、52歳の時に第一高等学校校長を辞し[xix]、東京帝国大学教授となり、数年は本などを書いて過ごし、57歳の時に東京女子大学を設立します。しかしそのきっかけは、明治33年にパリで安井てつと出会ったことでした。安井てつは、東京女子師範学校(現御茶の水女子大学)を卒業し、明治29年文部省留学生としてオックスフォードやケンブリッジで教育学を学びました。帰国後、海老名弾正から洗礼を受け、ウェールズ大学でも学び、帰国後に学習院や津田梅子の女子英学塾で教えていました。

 

安井が新渡戸に会った時の印象は、「新渡戸稲造氏と巴里にてスピリチュアル・フレンドに相成、わずか二度の会合が二十年以来の胞友の如く相成候、胞友ともうしては少しく失礼、師弟の如くに候」と友人宛の手紙に書くほど[xx]で(M196)非常に強い信頼関係のもとで、学校の立ち上げを二人三脚で行いました。安井てつは、新渡戸の跡をついで、第二代目学長になります。ところで、新渡戸が関わった普連土学園と東京女子大学の両方を卒業されているのが、「こんまり」さんこと近藤麻理恵さん。彼女の『人生がときめく片づけの魔法』は40ヶ国以上で翻訳出版、彼女の番組は190カ国以上で放映されているとのこと。新渡戸稲造もびっくりではないでしょうか。

 

60代は国連事務次長としてジュネーヴで働き、国際文化協力事業の中心となって現在のユネスコの基礎づくりに寄与しました。この時のメンバーはアインシュタイン、ベルグソン、キューリー夫人、ギルバート・マレーなど。特に、ベルグソン、マレーらとは霊的問題[xxi]においても意見交換[xxii]をしています。実は、ユネスコは新教育連盟の支援を受けており、そこにはマリア・モンテッソーリなども深く関わっています。

 

さて、こうして見てくると、札幌農学校の同級生だった新渡戸と内村はとても対照的な人生を送りました。大日本帝国憲法発布を経て、日清戦争、日露戦争、第一次大戦と戦争に勝利し、どんどんおかしくなっていく日本。内村は警告を続け、社会的な立場を失う一方、新渡戸は次々と名誉職を得ていきます。しかし、新渡戸も上述のように第一高等学校校長として国からの圧力に苦しみ、晩年は満州事変で軍部の力が強まる中、有力自由主義者と看做され、常に監視されていました。アメリカの対日感情が悪化し続ける中、当地に夫人と乗り込み、日米関係緩和のためにアメリカ各地で100回以上の講演をしますが、なかなか理解を得られないまま病死しました。

 

ところで、ここまでで私が非常に興味深く感じているのは、明治期に入ってきているプロテスタントは、基本的にはヘボン、新島襄に見られるように、西欧社会でも広く認められているエスタブリッシュな教派がその中でも優秀な人材を宣教に送っている一方で、神秘的な思想、例えばスウェーデンボルグ主義に近い思想に傾倒した森有礼やクエーカー信徒(フレンド派)として一生を過ごした新渡戸稲造のような人もいることです。こうした経験をした人たちが、伝道よりは修養を重んじ、現実世界によい形で関わることを望んだ、ということは非常に興味深いです。いずれにせよ、ある確固たる宗教感覚を持った人たちがリアリスティックなアプローチで日本の国政の真ん中、特に教育の領域で大きな仕事をしてきた、ということは改めて私たちが思い出してみてもいいことかもしれません。

 


ペンドルヒル(クエーカー教徒が大事にする土地)
The Guardian.com より

https://www.theguardian.com/travel/2021/may/10/walk-pendle-hill-radicals-witches-quaker-walking-trail-lancashire

 

最後に、プロテスタントの事ばかり書いてしまっているので、少しだけカトリックに触れておきます。高橋昌郎が指摘するように明治期においては、カトリック・キリスト教と当局の間でいわゆる浦上キリシタン問題が生じ、緊張していたのと対照に、プロテスタントとはむしろ長崎奉行所と親密な関係を持ちました。当時のプロテスタント宣教師の一人、フルベッキは幕府が長崎に設立した済美館、佐賀藩が長崎に設立した致遠館で英語を教え、その中には大隈重信、伊藤博文、大久保利通らがいます。フルベッキは本ブログでも何度か触れていますが、その後東京帝国大学の前身の開成学校の教師にもなっています[xxiii]。ただ、日米修好条約の締結にかかわったハリスがアメリカ人であり、その後も多くの日本人が米国を中心に留学をしたことがプロテスタント中心の受容に影響を与えたことは事実でしょう。明治政府のカトリックとプロテスタントに対する態度の差は信条ではなく、親しい人がいるとかいないとかいう非常に属人的でアドホックなもので、新興政府の未熟さを痛切に感じます。

 

ところで私自身は信者ではないのですが、実は家族としては父方も母方もカトリックの教育を受けたものが多く、親戚にはカトリック信者も少なくありません。逆になぜだかプロテスタントの学校に通ってしまい、中学・高校時代はなんとなくカトリックとプロテスタントがお互いにお互いのことをあまりよく言わない雰囲気を複雑な気持ちで受け止めていました。今、父はカトリックの教会に眠りますので、私が時々足を運ぶのはカトリックの教会です。歴史の教科書にもあるとおり、はじめて日本に本格的にキリスト教が伝えられたのは、1549年に鹿児島に来たカトリックイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってです。しかし、上述の状況もあり、明治期以降カトリックとしては、サン・モール修道会による1897年の雙葉学園の設立、1888年暁星学校、1904年の仏英和高等女学校(現白百合学園)附属幼稚園、などが設立されるものの、1905年にウィリアム・オコンネル司教が日本を視察し、日本にカトリックの高等教育機関の設置の必要性をバチカンに報告、イエズス会と聖心会が派遣されるまではプロテスタントと比較して非常に静かでした[xxiv]ので、今回はプロテスタントを中心にまとめています。

 

なんだか、すぐに長くなってしまいます。。お付き合いいただきありがとうございました。次回は、明治時代にたくさんできたキリスト教主義の学校、特に女子教育を中心にまとめておきたいと思います。

※「わたしたちの教育のルーツをたどる」ブログはこちらにまとまっています。

 

【参考図書・文献】

『新渡戸稲造』 松隈俊子 みすず書房 (本文 M)

「近代日本と内村鑑三」 松沢弘陽 (本文MZ) 日本の名著38 内村鑑三 中央公論社

『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』 内村鑑三 日本の名著38 内村鑑三 中央公論社

『武士道』 新渡戸稲造 岬龍一郎訳 PHP文庫

『近代日本キリスト者の信仰と倫理』 鵜沼裕子 聖学院大学出版会

『衣服の哲学』トマス・カーライル 宇山直亮訳 日本教文社

『修養』新渡戸稲造 角川ソフィア文庫

[i] 東京外国語学校ではスコットからシェイクスピア、ベーコン、ミルトンなどを学びますが、進化論を主張し、聖書をけなすスコットに違和感を感ずる一方で、そのころから聖書に惹かれ、論文「日本にキリスト教を導入する重要性」を書いています。

[ii] 前年に合格していましたが、年が若すぎ、2期生としての入学が許可されます。

[iii] 『新渡戸稲造の神秘思想』アントニウス・プジョ 「霊性と平和2巻 2017」P40

[iv] このころからすでに書物でわかるだけのことに疑問を抱き、聖書を読むだけではキリスト教の精神を生きられないという生涯を通じての信念にもなる考えを持つようになります。明治12年8月31日の日記「怒ル事ナク聖書ヲ接スルヲ楽トナス父ノ光を見タル事」

[v] 内村はこのときに非常に優しい手紙を新渡戸に送っています。(M91-93)

[vi] 内村の『余はいかにしてキリスト教徒となりしか』にこのころのことが書かれていますが、新渡戸は自分の神秘体験を自身の日記には書いているものの、友人にはあまり明確に語らなかったのでしょうか。

[vii] 雑誌で目にしたカーライルの「神の存在論や霊魂の不滅論は、今後、二十年、いな二千年研究しても、とうてい解決し能うものでなく、これらは、ただ信じて初めて解ける問題である」という言葉はまさに新渡戸の悩みそのものであり、共感した新渡戸は本を探し歩いた末、受洗したハリスから送ってもらいます。

[viii] 私が卒業した頌栄女子学院でかつてあった頌栄幼稚園初代園長の岡見京は、福沢諭吉の娘と一緒に横浜共立女学校で、ミス・ツルーに学び、頌栄創始者の岡見清致の弟である千吉郎と結婚しますが、千吉郎は新渡戸稲造と一緒に渡米します。京も後に渡米して、ペンシルベニア女子医科大学で学び、日本女性初の女子医科大学生となり、頌栄で教鞭をとりながら、医師や看護師育成に携わりました。

[ix] 「唯奢と装飾が眼に付き過ぎて、腰掛ける椅子が贅沢、聴聞する信者の衣裳は所謂日曜服、合奏する人々は唯声のいいのを誇り顔、牧師は耳朶を喜ばす雄弁の蓄音器、僻み根性かは知らんが、何んだか新約聖書に載せてある宗教とは別物のような感じが起こった。」新渡戸稲造『帰雁の蘆』(M144)

[x] その後ハートフォード神学校に進みますが、卒業しないまま帰国します。

[xi] 普連土学園は実家から近く、私も受験を検討した学校です。卒業した友人などを見ていると、(サンプルが少なすぎますが)非常に闊達で仕事をしっかりするタイプが多いように勝手に思っています。

[xii] 札幌農学校第一期生で北海道帝国大学初代校長となります。新渡戸にジョンズ・ホプキンス大学への転学を勧めた。ジョンズ・ホプキンス時代は同居していました。

[xiii] 内村は一足先に1888年に帰国し、北陸学館、東洋英和、明治女学校などで教えましたが、明治24年、1891年に不敬事件を起こしてしまいます。せっかく第一高等中学の嘱託となったのに、全国の新聞雑誌に攻撃され、病に倒れ生死をさまよう間に2月依頼解嘱、4月には2年前に結婚した妻も亡くすという悲劇を経験します。この時期、国家体制の御用学者の帝国大学教授の井上哲次郎らは、教育勅語の実質上の国教化を推し進めていきます。その後、内村は熊本洋学校でも教えますが、とうとうその後定職につくことなく、京都で3年間過ごします。一方で、この間に書いた本8冊『キリスト信徒のなぐさめ』『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』『地理学考』『求安録』などが彼の人生を大きく変えていきます。

[xiv] 明治25年1月には待望の男の子が生まれますが、生後一週間もしないうちに亡くなってしまいました。

[xv] こうして多忙ななか、北鳴学校の校長を引き受けます。専門学校または大学に入学を希望しても官公立の予備校に入学できない人のための学校をやりたいという以前の希望の2番目を叶えます (M174)

[xvi] 新渡戸はさまざまな仕事に従事するため、よく知らない人たちからは「新しいもの好き」と批判されることもありましたが、基本的には台湾総督にせよ、第一高等学校校長にせよ、後年の国連事務総長にせよ新渡戸は仕事を頼まれ、断るが懇願されて引き受けるというパターンを繰り返していました。

[xvii] 南原繁は内村鑑三の聖書講義にも帝国大学の学生時代ずっと通っており、非常に大きな影響を受けています。

[xviii] 友人佐伯理一郎への手紙(M215)

[xix] 京都帝国大学(現在の京都大学)初代総長であり、第一校長後に井上毅の元で文部省にいた木下広次が、新渡戸が校長退任する時に次のように振り返っていたと言及しています。(森有礼ファンとしてのメモ)

「自分の生涯中一高校長時代が最も苦しい時期であったと共に、最も愉快な時であった。(略)文部省に言ってやりたいことがある。即ち新渡戸を無理に呼ぶ以上は、あれの肩を持ち、世間の者が避難してもあれを助けてやれと云ってやろうと思ってる。自分が一高の校長として兎も角つとまったのは、森有礼と云う文部大臣が居て、世間の者の避難に対して自分を認め、自分を庇ってくれたからである。然るに森さんが逝くなられてからは、志しばし違いて、苦しい思いが遥かに殖えた。」 (M217)

[xx] 後に安井は自伝で以下のようにも新渡戸を評しています。「殊に私の心を最も刺戟したことは、先生が教室に出られる前数分間黙禱せられたという事柄だった。先生はフレンド教派に属せられるから黙禱の習慣を有って居られたと想像する。(略)先生の経験談に感激した私は、教育は実に祈をもってなさるべきで神聖なる仕事であると深く覚ったのであった。(略)正義と愛とを基調とするクリスチャンの生活が決して愛国の精神と矛盾するものではないことを明かに覚るに至ったのである」(M195)

[xxi] 時代もあるかと思いますが、日本女子大学の創立者成瀬仁蔵も神智学にかなり接近していたと言われています。この時代には自由学園もそうですが、創立者がキリスト教者であっても、宗教を全面に打ち出さない選択をする学校がありました。

[xxii] 新渡戸はジャンヌ・ダルクを信奉しており、ベルグソンとの対話を記録して『東西相触れて』に書いています。(M233)

[xxiii] 『近代日本キリスト者の信仰と倫理』鵜沼裕子 聖学院大学出版社 P23

[xxiv] 明治期のカトリックの教育活動は皆無ではありませんでした。明治元年にパリ外国宣教会のド・ロ神父が長崎に上陸し、印刷、出版、教会建築、開墾、土木、医療、社会福祉、布教・司教などさまざまな活動を行いました。遡って、フランシスコ・ザビエルが1549年鹿児島に上陸後は、庶民層に対する教育に注力し、大分で40-50人、島原で70人、口之津で60人、有馬では100人以上が学んだそうです。その後育児院、保険事業、孤児院などができました。1865年の信徒発見後はプチジャン司祭が大浦の司祭館の屋根裏に10名の神学生をかくまい、江戸ではヨーロッパ語学習の学校があり、そこでは200名ほどが学び、女子教育のための修道会の設立なども計画していたようです。外国人居留地の子女の学校もできており、1871年、横浜天主堂外国塾や、神戸、高知、弘前、東京などにも学校ができました。1872年に日本にフランスサン・モール修道会の修道女たちが初めて日本に来て、社会事業を行います。1875年、明治8年には築地明石町に「築地語学校」ができ、後の雙葉学園になっていきます。その後は上述のとおりですが、「明治期のキリスト教と教育事業―カトリックを事例に」長崎ウエスレヤン大学地域総合研究所紀要10巻1号(2012)、「近代日本における国家とミッションスクールー上智大学の創設をめぐって」高宇 東京大学大学院教育学研究科紀要 50巻(2010) 「二〇世紀初頭における転換期の日本カトリック教会 ― 日本人カトリック者とフランス人宣教師との関係を中心に」山梨淳 あたりに詳しいです。

 

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