(本ブログは哲学登山の個人的な振り返りになります)
今年のオリンピックでは、体操の宮田笙子選手(19)が喫煙・飲酒が確認されたということで、五輪を辞退するというニュースがありました。「ルールだからいけない」という言い方も無くはありませんが、でもそもそもなぜ「未成年の喫煙はよくない」のでしょうか。
「教育言説」という言葉があります。たとえば、「子どもの喫煙はよくない」とか「体罰は必要だ」「いじめは根絶されなければならない」というような教育問題に関わるものから、「教育はこうあるべき」というようなものも入るかもしれません。これらの言葉は、一体だれがいつ決めて、なぜみんなそれを「正しい」と思い込むのでしょうか。
哲学登山でも紹介された『教育言説をどう読むか(1997) [1] 』という本があって、「子どもの喫煙はよくない」という言説の問い直しがされていました。
われわれは、こうした根拠の医学的あるいは法律的な妥当性を問うつもりはない。それよりも、ここで問題にしたいのは[‥](その)背後にある<子ども>と<大人>は区別されるべきものだという考え方である。喫煙をはじめとする種々の行為を<子ども>に禁止する際、人々は<子ども>はどういう存在であり、<大人>はどう区別されて、どのようにふるまうべきものであるかについて、暗黙の理解を共有している[2]。
もともと日本では、酒や煙草は儀礼で用いられていたものが、江戸時代の商家では手代という職階に昇進するとたばこ入れが贈られるという風習があったといいます。それが、明治以降たばこが流通するようになると、喫煙規範の再編がなされていったという歴史的経緯があるそうです。いずれにしても、「喫煙をするような子どもは悪い子である」というような言説は、論理的に成立しないように見えます。少なくとも「喫煙」の意味と「子どもとは何か?」「悪いとは何か?」もしくは「儀礼の意味」が問い直されなければならないはずですが、日常的にはみんながなんとなく「そうだ」と素朴に思い込んでしまっていて、そこでさまざまな問題が起きているようです。
たとえば「教育は中立であるべき」というとき、そもそも誰が「中立」を決めるのでしょうか? 私が日頃から疑問に思っているのは、学校教育におけるその「中立」が多くの先生たちの間で暗黙のうちに「国家が決めた学習スタンダード」になってしまっていることです。そもそも「学習スタンダード(学習指導要領)」はどこからどのように生まれるのでしょう? 子どもの個性の尊重を一方で謳いながら、なんらかの基準を設けてそれで評価することとの関係はなんでしょうか。「スタンダード」から逸脱する(と勝手に教師が判断する)子どもの発言を嗜めたり、忖度を強いたり、そこから外れた意見の点数を下げるというような抑圧は実際に日常的に無意識に行われています。もし国が戦争をすることになったら、それが「中立」だから戦争に参画することを子どもたちに強要するのでしょうか。
【日常の些細なコミュニケーションから発生する権力】
私たちの日常では、なぜだかわからないけれども、私たちが「そういうものだ」と感じるものに溢れています。「女の子」はスカートを履き、フリルのあるものを身につけていてもみんななんとも思いませんが、「男の子」がフリルのあるワンピースを着てイヤリングをつけていたら、違和感を感じる人もいるかもしれません。家族は「お父さん」と「お母さん」が揃っているのがデフォルトで、それこそ両親とも男性だったり、女性だったりすると「あんなものは家族とは呼ばない」という人すら出てきそうです。その上で、わたしたちは「女の子はやっぱり女の子らしいのがいいわね」とか、「美しい」お母さんとお父さんと子供たちが2−3人いるような家族を指して「あのご家族素敵ね」と言ったりします。
先日、高校生の私の娘が「この絵・・どう思う?」と言って私のところに持ってきました。 令和2年(2020年)発行の中学校の教科書の背表紙に載っている家族の絵です。
(このイラストはイメージで、実際のものとは違います)
娘が言うには「どうして、お母さんとおばあちゃんが端っこにされているの?なんで、きょうだいの”妹”のほうが背が低いの?両親揃ってて、きょうだい2人ってなんかあまりにステレオタイプすぎるし」とのこと。さらに「お父さんがお母さんの肩に手をかけているのなんかやだ」「なぜおばあちゃんと妹だけ手を前で合わせているの?」と。明らかに不快に感じたようです。
昭和の時代であれば、皆がなんとなく見過ごしていた絵かもしれません。しかし、「多様性」を謳う国の検定教科書になぜこのような絵が載るのかは少し疑問に思ったほうが良さそうです。ちなみに、この特定の教科書だけを批判したいのではありません。さまざまな教科書で同様のことが起きています。例えば、どの国語教科書でも、筆者も登場人物も男性が圧倒的に多くなっています。
こうした「女の子はこうあるものだよね」「家族はこうあるものだよね」という日常の会話は、世間で一般的に言われている「女(男)の子」「家族」の姿に自分の姿が合致していれば、スルーしてしまうかもしれません。そう言う人たちにとっては、そうした会話は透明で、意識すらされない軽やかなものかもしれません。でも、そうでない人たちにとってはとても苦しい力(権力)となります。学校も同じで、みんなが一般に感じる「生徒」像と自分がほぼほぼ一致していれば、それほどの葛藤がないかもしれませんが、「明るく元気な子」とか「最後まで責任感をもってやり通す子」というような言葉は、そうしたカテゴリーから外れた子たちには抑圧的に聞こえます。
こうした日々私たちが当たり前に受け取っている「常識」や「社会規範」について、哲学登山では、1970年12月にコレージュ・ド・フランスで教鞭をとっていたフーコーが「思考システムの歴史」という講座で話した内容を記した講義録『言説の領界 (L’odre du discours)』を読みました。この講座は「言説(discourse)」に対する研究仮説を示したもので、その後、フーコーが知と権力がどのように結びつき、監獄のみならず、学校、病院、工場などを通じて社会が統制されていったかについて歴史的に論じた『監獄の誕生』(1975)などの一連の著作の起点となるものです。フーコーはこうした、私たちが日常的にさしたる信念もなく、話されている世間話のようなもの(言説 discourse)が、制度や権力と結びつき「現実」を創造してしまう大きな力を持つと考えました。
私たちの世間話。それは「あのお嬢さん、〇〇大学に入ったのね、すごいわねぇ」「会社経営しているなんて、素敵なご主人ね」「あの奥さんは美人だ」「あの芸能人は性被害に遭ったらしいよ」「あいつは我慢強くないから仕事も続けられない。」「あの子は障害があるらしいわよ。」というようなものでしょうか。SNSなどを見ているともっと酷い表現をたくさん見ます。フーコーはそうした「世間話/言説」についてこんなふうに問います。
しかし、人々が話すという事実、人々の言説が際限なく増殖するという事実において、かくも危険なものは一体なんでしょうか [3]。
「言説が際限なく増殖する」というのは、何気なく「男らしくて素敵なご主人」という肯定的なモードにせよ、同性愛に関する差別的な雰囲気にせよ、それが日常の会話に乗って、運ばれ、増殖していくイメージでしょうか。抑圧は権力者から流れてくるもののように感じてしまいますが、実は身近な人から日常的に受けているものかもしれません。たしかに自分が性的マイノリティだったとすると、わざわざ外に説明する気にはならないものです。しかし、別に法的に「喋るな」と言われているわけではありません。SNSで、だれかが自身のマイノリティ性について苦しいと呟いたり、怒りを表現すると、嘲笑したり、そんなことをするべきではないと禁止するのはなんらかの権威を持つ主体ではありません。その辺に漂う「言説」です。かくも危険なものは一体なんでしょうか?
【学校において言説はどのように産出されるのか】
哲学登山では取り扱った教育言説は「学校に政治を持ち込むな」でした [4] 。
例えば、学校で現在進行中の選挙や政治の腐敗の問題を扱いたいと考えた教師がいたとします。その時にたとえば管理職が「法律でも教育の中では中立性を守るべきと言われているだろう」と言うかもしれません。しかし、法律がいっていることは「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」であり、政治をテーマとして対話をすることを禁止するものではありません。しかし、ここで管理職がやろうとしていることは「学校に政治を持ち込まれたくない」という欲望を正当化するための「教育の中立性」の持ち出しです。そもそも「政治の中立性」はその管理職が考えたことでもありません。その管理職は、顔のない「誰かの声」によって表されたタブーの現実を本人の発話によって創造していることになります。
そこで、もし誰かが「アメリカや欧州で模擬投票をやったり政治を題材に対話をすることは学校で行われていますよね」と助け舟を出したとします(既存の言説批判)。しかし今度は他の先生が「いや、それは海外の話であって日本では当てはまらないでしょう」と言ったとします。それが「日本人だったらあんな授業をしないよね」という空気を生んでいくのであれば、それはすでに「言説に依拠した権力」が職員室内に蔓延していることになります[5]。
「教育に政治を持ち込むな」「教育の中立性を守れ」という言説を繰り返すとき、私たちは、自分について語る必要はありません。自分に由来する言説を語る必要もありません。そこには「教育の中立性を守る教師と言われたい」という欲望が蠢いています。「政治の問題を教室で扱いたい」という言説を始める必要をなしで済ませたいのです。多くの人は政治を持ち込むようなやっかいな教師と思われたくない、つまり標的にされたくないので「波風をたたせたくないし、巻き込まれたくないし・・」と黙っていきます(沈黙と注意による囲い込み)。そうして「あの先生の授業はやめさせましょう」と判断されていく。「言説」の持つ力がいかに強力かが分かります。
フーコーはいいます。
結局のところ、教育システムとはいったい何でしょうか。もしそれが、発言の儀礼化でないとしたら。もしそれが、語る主体に対する資格付与および役割決定でないとしたら。もしそれが、漠然としたかたちにせよ教説グループの構成でないとしたら [6] 。
この事例は「政治」に関するものでしたが、「性」についても同様のことが言えます。国際的には「国際セクシュアリティ教育ガイダンス[7] 」が国連諸機関の共同で作成・発表されているにも関わらず、現場では「教育に性を持ち込むな」という言説がまだ大きな力を持っています。その背景には「性教育をしたくない」という学校・教員側の欲望が絡んでいることは言うまでもありません。それは恥ずかしいという感情だけではなく、「取り扱う自信がない」という気持ちも含まれるでしょう。民族的差別の問題や、被差別部落の問題、戦争への反省、宗教なども同様です。(だからこそ、私は自分がその分野の専門でなければ教授できないという気持ちにならず、児童・生徒たちと共に学んでいけば良いという意味でも、教師と子どもが共にフラットに探究することが大切だ、というスタンスでいます)
【わたしと実存】
『言説の領界』はこんな言葉ではじまります。
私が今日述べるべき言説のなかに、そしてこれから何年にもわたって私がここで述べるべき言説のなかに、こっそりと忍び込むことができたらよかったのに。
言葉を発するよりもむしろ、言葉に包まれて、あらゆる始まりの彼方へと運ばれてしまえばよかったのに。[8]
欲望はいいます。「(略)私は、言説が、私のすぐそばにある穏やかで深く無際限に開かれた透明性のようなものであってほしいと思う。[9]
「言説のなかにこっそりと忍び込みたい”欲望”」は確かに自身の中にありました。誰しも、タブー(禁忌)とまでいかずとも、社会規範から少し外れてしまうような経験というものはあります。そして、そのことについて沈黙しているということはあるでしょう。私自身のケースだと、「子どもの不登校」や「離婚」など。こうした経験によって、私は境界線の向こう側を眺めるという経験をすることになりました。そして、確かに私は、かなり長いあいだ、子どもの不登校のことも、自分の離婚のことも話さないできました。
当初、私はどちらかというと「言説に黙らされている」という非難めいた気持ちでいました。でも、フーコーはそうではなく、「あなたのなかに黙っていたいという”欲望”があるのだ」と言います。たしかに「欲望」です。なぜなら私は沈黙していることで、言説が産出されているメカニズムに加担し、結果的に権力が発生されるがままにしてきたわけだから。
私が子どもの不登校について外に向けて発言ができるようになったのは、2017年に施行された教育機会確保法があったことが大きいです。私の娘が不登校になったのは、まさに2017年でした。娘が「私は学校に行かない」と宣言したことがそのきっかけでしたが、当時こうした「”積極的”不登校」に対する世間のイメージは法律が施行されたにもかかわらず、まだまだ「義務教育違反」というものでした。当時から公教育に携わる先生たちに向けての研修をしており、個人的に親交のある先生たちに相談はしていましたが、なかなか公にすることができませんでした。そして、私は教育機会確保法があったことで「法の内側に入った」ということにほっともしていましたが、それがそれまでに声を上げてきた人たちの恩恵によるものだということにも意識が及んでいませんでした。
私は「言説を始める人」ではありませんでした。しかし、この数年であっという間に「子どもが不登校である」「子どもが不登校なのはその子が悪いのではない」ということは世間でもなんの抵抗もなく受け入れられるようになってきました。それは声を上げてきた人がいたから。そして、そうした人たちのおかげでフーコーの言う、「穏やかで無際限に開かれる透明性」のある言説の世界が近づいてきたのです。私たちには、言説の領界を変える力があるのです。
ふと、前ブログで触れたアニー・エルノーが「アンガージュマン(engagement)」について語っていたことを思い出したとき、さまざまなことが繋がってきました。彼女がどうして、そこまでして自分をさらけ出すのか、サルトルが何をしようとしていたのか、ボーヴォワールが『第二の性』を書くことで、何を求めていたのか。サルトルの「実存は本質に先立つ」”l’existence précède l’essence”の言葉の意味。ブルジョワの家に生まれたサルトルは著書『嘔吐』に於いて、自分自身の姿を30歳の主人公ロカンタンに重ねます。ロカンタンは親のお金で研究をし、何不自由ない生活をしていますが、あるときから「吐き気」を感じるようになります。実は、私自身にもつきまとう「吐き気」がありましたが、その吐き気がロカンタンのそれにどうやら繋がっているらしいことに当初は気がついていませんでした。
しかし私の「吐き気」を少し探ってみると、それは困窮を極めたり、社会的に抑圧され、凄惨な経験をする人たちのいる境界線の向こう側を知らずに、ずっと踏みつけにしてきた自分に対する嫌悪感に行き当たります。そこには、私は絶対にその人たちと同じ苦しみや痛みを感じることができないという不甲斐なさも含まれます。自分の出自を調べていて、見つけた事実は私を打ちのめしました。少なくとも明治の初期から私のルーツはずっと社会階層の比較的上部にあり、その階層の中で結婚を繰り返してきました。多少の事業の失敗や、例えば上記のような離婚や子どもの教育にまつわる問題が出たとしても、何層にもわたる血縁によるサポートによって吸収され、地獄を見ることがありませんでした。
たとえば父は事業に失敗し、会社は倒産し、父母共に破産、父はその直後に過労で亡くなりましたが、そのころには教育を受け自立していた私と弟がさまざまな面で母を支えることができました。母にもやがて自身の父母の死による遺産が入りました。つまり、贅沢を諦めるなどの多少の制限はかかったとしても、食べるものにも困るとか、睡眠も十分に取れないなどという人権に関わるような経験をせずにすんでしまったということです。しかし、そんなことが現実的ではない人たちはたくさんいます。それなのに、社会の制度はこうしてどこか非公式に頼るところがあり「究極には困らない人」たちが設計しています。その残酷さとともに、私のルーツがいかに偶然によって配置されたものあったとしても、許しがたいものに感じられ、それが吐き気という形になっていたように思います。そして、私の人生はそうした吐瀉物に塗れることによってしか立て直すことはできないような気がしたし、そこがある種の私自身の出発点でもあるように思います。つまり「吐き気」こそが私の実存の正体を指し示すものであり、その気づきからしか私の本質的な人生は始まらなかったかもしれないのです。
サルトルによると、わたしの「本質」は、活動(選択および行動)によって現実化していきます。絶え間ない自己の反省と変革への勇気によってこそ、「自己」が創造されていく。フランス語のアンガージュマン(engagement)を名詞にすると、アンガジェ(engager)。 英語では「engage」「engagement」であり、「参加させる、拘束する、巻き込む」というような意味だそうです。自己創造の道程において、もっと積極的に社会、そして世界に働きかけていくことが未来への責任を持つ、ということは誰にでも開かれているはず。いくら非力であったとしても、自分の力の及ぶ限りなにかをしていかなければならないと思うようになりました [10] 。
サルトルはアンガージュマンの過程に「人間の自由」を見ました。たしかにそうかもしれません。
次回、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を読みながら考えていきたいと思います。
(私はあくまで教育活動者の立場から、読書メモとして本ブログを書いています。正確な理解のためには、下に参考図書・資料を掲載し、できるだけ引用元を明記しておりますので、そちらをご確認ください。また明らかな間違いがあれば、こちらよりご連絡ください。)
<関連ブログ>
「わたし」ってなんだろう?(1)〜E.H.エリクソンから学ぶアイデンティティ
「わたし」ってなんだろう(2)〜デリダから学ぶ「声」
「わたし」ってなんだろう?(3)〜フーコーから学ぶ「言説」(本ブログ)
「わたしってなんだろう」(4)〜ジュディス・バトラーから学ぶジェンダー(今後掲載)
その他哲学に関するブログはこちらから
<参考図書・文献・映画>
『言説の領界』M.フーコー 堤改康之訳 河出文庫
『監獄の誕生ー監視と処罰』ミシェル・フーコー 田村 俶 訳 新潮社
『フーコー<性の歴史>入門講義』 仲正昌樹 作品社
『教育言説をどう読むかー教育を語ることばのしくみとはたらき』今津孝次郎・樋田大二郎 新曜社
『続・教育言説をどう読むかー教育を語ることばのしくみとはたらき』今津孝次郎・樋田大二郎 新曜社
『教育言説の歴史社会学』広田照幸 名古屋大学出版会
『育児言説の社会学ー家族・ジェンダー・再生産』天童睦子編 世界思想社
『実存主義とは何か』ジャン-ポール・サルトル 伊吹 武彦ほか訳 人文書院
『嘔吐』ジャン-ポール・サルトル 鈴木 道彦訳 人文書院
『改訂版 国際セクシュアリティ教育ガイダンスー科学的根拠に基づいたアプローチ』ユネスコ編 明石出版
「教育社会学における言説研究の動向と課題ー権力・統治・教育言説ー」高橋均・天童睦子 教育社会学研究第101集(2017)
<積読だけど読もうと思っている本>
『<教育>の社会学理論ー象徴統制,<教育>の言説,アイデンティティ』バジル・バーンスタイン 久冨善之ほか訳 法政大学出版局
『生活世界の構造』アルフレッド・シュッツ, トーマス・ルックマン 那須壽訳 ちくま学芸文庫
[1] 『教育言説をどう読むか』今津孝次郎・樋田大二郎編 新曜社 ちなみに2010年に続編『続・教育言説をどう読むか』が出版されています。
[2] 『教育言説をどう読むか』今津孝次郎・樋田大二郎編 新曜社 p164
[3] 『言説の領界』ミシェル・フーコー 慎改康之訳 河出文庫 p11
[4] 『言説の領界』ミシェル・フーコー 慎改康之訳 河出文庫 p12-13 フーコーは現出産出の手続きの一つ、「排除」のなかで、タブー(禁忌)がもっとも明白且つ、私たちに馴染み深いとしています。タブーは語ることができず、仮に語れたとしても誰もが語れるわけでもないこと、どんな場でも語ることはできないものです。そして、こうした「語れる領域」が極めて狭い(格子が狭い)のは政治とセクシュアリティであると指摘しています。
[5] 『言説の領界』ミシェル・フーコー 慎改康之訳 河出文庫 p10
[6] 『言説の領界』ミシェル・フーコー 慎改康之訳 河出文庫 p58 ーーフーコーは言説産出において、狂者の例を出して、「分割と廃棄の手続き」を説明しています。狂者の言葉は18世紀以前には、その中で何が語られているかなどは全く受け取られておらず(p15)、もしくは象徴的なやり方(神の宣託など)でしか発言が許されていなかった(p16) それが治癒をもたらすべき怪物(p17)となり、精神分析の領域では、「精神障害者」というカテゴリーに分割されるようになる。また、「真偽の手続き」においては、もともとギリシャの詩人や預言者の権威に基づく言説(効果的で儀礼化された正義の言表行為)だったものが、ギリシャ哲学に至って言表の意味・形式・対象・対照物との関係(問答に於いて適切に答えられているか)が「正しさ(真偽)」の産出になっていく。さらに、16世紀から17世紀の転換期になると「観察可能で測定可能で分類可能な対象になるものの見取り図」である、科学的な制度によって、知が価値づけられるようになる。(結局あの・・によればと言わなければならない)。西洋文学においてもこの「真偽の手続き」を経た「真なる言説」を自らの支えとしてきた(p24)としています。
[7] 『改訂版 国際セクシュアリティガイダンスー科学的根拠に基づいたアプローチ』ユネスコ編 明石書店
[8] 『言説の領界』ミシェル・フーコー 慎改康之訳 河出文庫 p7
[9] 『言説の領界』ミシェル・フーコー 慎改康之訳 河出文庫 p9
[10] フーコーは禁忌の中でも、そもそも語ってはならない「対象の禁忌」、状況によって語って良いけど、この場では語ってはならないという「状況の禁忌」、語ってよい人と語ってはならない人がいるという「主体の禁忌」について触れています(『言説の領界』p11-)。その通りなのですが、実際には何も持たずに状況も見ずに素手で世の中に出て行ったら大変なことになります。その状況や自身の主体を吟味した上での戦略というものはあって、現実的にはそこは踏まえていくということになるのだろうと個人的には思っています。フーコー自身アンダーグラウンドのゲイシーンに親しみ、HIV/AIDSの合併症で亡くなりますが、自分の性的な志向や経験については晩年になるまでは著作などで明確に述べられることはなかったとのこと。特にSNSのような言いっぱなしになるスペース(つまり、顔を合わせての対話にならない場)において「誰もがどんな場でも何を語ってもいい」というような考えがそれこそ記号化し、自らの欲望を実現させるための新たな「言説」として流通してしまっているとしたら。AIやSNSが出てきた今の時代にフーコーだったらどんなことを言っただろう、と思いをめぐらせています。
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