2021年の2月頃に重度の障がいがある子のお父さんからお声がけをいただいたことをきっかけに、いわゆる障害当事者家族といわれるお父さん・お母さんのお話を聞くようになりました。今は、FOX Projectといって、さまざまな活動もしています。そこで、当初より続けているのが、コアメンバーである坪内博美さん(医療的ケアの必要な重度心身障がいのある14歳の双子(ゆうすけ君・まさき君)の母)、橋場満枝さん(自閉傾向のある広汎性発達障がいの23歳のRay君の母)、あしたかせいこさん(重度知的障がいのある19歳のTaiki君の母)との井戸端会議。何度か一緒に旅行もしています。この2年ほどは毎月一回Zoomでおしゃべりしています。大体2時間から3時間程度喋りっぱなし。また日常的にSNSのグループでもやりとりしています。
ゆうすけ君・まさき君、Ray君、Taiki君はそれぞれ発話が難しく、また言葉が出ても自分の想いをきちんと表現することが難しいのですが、ときどき「おしゃべりできない子」とどのようにコミュニケーションをとるのかが話題にのぼります。先日はこんなやりとりがありました。
せいこさん:ほんま、言葉っていらないって思ったりするけど、言葉によって落ち込む一方で、言葉によってハッピーになったり救われることもあって。私たち言葉から逃げられへんよなと思ったときに、言葉を喋らない子たちが神に見えてきて。だって、私は言葉で人を傷つけまくっている。私も人に流血させられている、人を流血させてきている。
ひろみさん:あはは
せいこさん:言葉で伝えられない子どもたちは私たちが逃げられない枠からひょいと外に出ちゃっている。支援学校でも、繊細だけど知能に問題がない子が全然喋れなくて突然謎の動きをし出す子ととても気があって、仲良くしている。これどういうことやろー、とめちゃ感動して。
ひろみさん:だから分けちゃだめなのよ。
みつえさん:でもそれって結局「伝わっている」ってことよね。テレパシーじゃないけど。
せいこさん:そうそう。一番お互いの気持ちが伝わるような気がするって言っていた。私は言葉を使うからそれがわからない。言葉を使う能力があるから、その世界が見えない。言葉が使えないから見える世界があるし、言葉が使えないから誠実だし嘘がないと思ったらこの二人素敵だなと。
みつえさん:動物だって、人間の感情が伝播して感じることができるという論文もあるし。支援級の自閉症の子供たちのクラスでは、一人がクラスで泣くと、他の子供も一緒に泣くということがよくあって。映画『帆花』の帆花ちゃんは、脳死に近い状態と言われている。でもあの子は確かに言葉を持っているでしょう[1]。
ひろみさん:うちの双子の生活周辺は「言葉」のない世界。「言葉みたいなもの」たとえば発作だったり、呼吸器のアラームだったりが表現のツール。たとえば、ゆうすけは嬉しくても悲しくても筋緊張が一挙に入って「ぎゃー!」って泣く。あんまりすごいと(発作を抑えるために覚醒度を落とす)お薬を入れるんですよ。もちろん生命維持の目的とはいえ、親サイドのエゴではないかと悩んでしまう。でもそんな自分を受け入れながら日常を過ごしている。それがうちの「言葉」なんですよね。なんじゃこりゃ、って感じだけど。
「言葉」ってなんでしょう?「声」ってなんでしょう?いつも考えさせられます。
フランスの哲学者、ジャック・デリダ(本ブログは哲学登山で学んだことの振り返りで、私がその後読んだ本の読書メモも含みます)は、沈黙している人たちの、内側の声を分析しました。その結果、私たちのそうした心の声について、「内部(主体)」と「外部(世界ないし他者)」の関係が決して透明な通路のようなものでつながれているのではなく、いくつもの障壁に阻まれていると考えました[2]。たしかに、私は日常の発話に問題はありませんが、内面で「苦しい」とつぶやくとき、それがそのまま絶対に私の精神のあり方を表しているかというと、一筋縄ではいかない感じがします。障がいがあってもなくても私たちは本当のことをそんなに簡単に声に出したりしていません。むしろ言葉があることで邪魔になっているものも多いのかもしれません。
デリダは亡くなる直前、フランスの新聞『ル・モンド』(2004年8月)のインタビューに「私は私自身と戦争状態にある、それは確かです」と答えたそうです[3]。当時デリダは膵臓がんを患っており、化学治療に伴う投薬の副作用に苦悩していたといいます。デリダはこの年の10月9日に亡くなりました。この言葉を受けて、デリダの研究者、宮﨑裕助氏はここでいう「私とは記号的な『私』と現実の私自身との齟齬の中で、たえず葛藤している二重の生であり、実のところの意味で、根源的に『私自身と戦争状態』にあるのだ」「私が、『私』という記号に媒介されることで私自身の生と食い違う宿命にあるというこの葛藤状態に、晩年の最後までデリダがこだわっていた」と解説しています[4]。
ここで、この先に続く宮﨑裕助氏の文章を「私」を「子どもたち」に置き換えてみます。
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子どもたち、そして子どもたちの生とは、それ自身のうちに抱えている根源的な葛藤をくぐり抜けて生き残ったなにものかである。この葛藤は、子どもたちがつねに子どもたち自身のものではない痕跡[5]ー言語、記号、物質、他なるものーに媒介されざるをえないという危機であり、子どもたちの生が、みずからの不在、みずからの死そのものに穿たれることで、絶えず制御不可能な漂流状態に置かれており、他者の恣意によって誤解、誤読、歪曲、簒奪されるかもしれないという危機を示している。
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発話の難しい子どもたちが置かれている状況を思うとき、まさにその子たちは、その死に穿たれつつ、常に制御不可能な状態に置かれていて、取り巻く周りの人たちによって、誤解されたり、場合によっては簒奪(さんだつ)されることもあるのかもしれません。子どもたちは、たしかに言葉や記号、身体(物質)に媒介されざるを得ない根源的な葛藤のなかに置かれており、その「生」は、それを乗り越えて残った「何か」であるというのは、本当にそうなのかもしれません。そして、それは日常的な発話に問題のない私たちにも同様に言えるのかもしれないし、逆に言えば、上述の井戸端会議のなかで触れられているように、言葉なんてないほうがその「ズレ」が少ないかもしれません。
【私たちを取り巻く差延】
「私」って本当になんなのでしょうか。「私」と代名詞を使ってなんらかの述語を置くときには、何かしら一致しない感じがつねに付き纏うのは誰しもが感じていることではないかと思います。私自身も「教育活動者です」「母親です」と自己紹介しても、しっくりしない感じがあります。こうした「記号」的なもので自分を表すことは究極的には不可能です。『ジャック・デリダ「差延」を読む』という本に以下のような比喩があって分かりやすかったので、紹介します。
たとえばいまわたしが「猫」というとき、この場に猫はいないので、私は「猫そのもの」の代わりに、その不在を埋め合わせるために、「猫」という記号を口にすることで間に合わせる。(略)私たちのコミュニケーションの大部分は、このように、いま・ここに不在のものを「代補」することで成り立っている。–「記号とは差延された現前」[6]
確かに「記号」の猫は「猫そのもの」にはなり得ません。同様に、「猫」を「子」に置き換えてみると、記号の「子」は「子そのもの」には絶対になり得ません。そうではなく、人は大切な子どもの痕跡をたどるようにして、自身の声を聴き、ときには不在の「声」を心のなかで再生しながら、能動的でも受動的でもなく、ただただ声たちのなかに放り込まれていくのかもしれません。もしくは聞こえてこない「声」を必死に求めることもあるかもしれません[7]。
そんな「言葉(記号)」を取り扱う「声」をデリダはどのように捉えていったのでしょうか。哲学登山で読んだ『声と現象』第六章「沈黙を守る声」では、デリダはまずフッサールが「心・内面の声」というものをどのように捉えていたかの分析から始まります。
フッサールは「自分が語るのをー聴く」経験を「自己-触発 auto-affection」[8]という言葉で説明しました。声を通じて自らに触れていくようなイメージでしょうか[9]。(『声と現象』に記述されているように)フッサールが、純粋で理念的な意味作用は究極的には意識の内部で生じ[10]、「声」が自分について語るときにこそ自分の固有な心のありようを純粋に感じることができるし、その声は普遍性を伴い、意識そのものでもあると考えた[11]のだとしたら、デリダは少し違うふうに考えているようです。
ソクラテスは「沈黙のうちに自己自身を相手として述べられるもの[12]」が人間の真の思考であると言いました。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と考えました。たしかに、私たちは「主体の意識がすべてを基礎づけている」と思ってしまうし、そこに内面の自由があると感じるかもしれません。しかし、デリダは、こうした内面の声が外界にかかわらず、本当に純粋に存在するものなのか、と問いかけます。実際に、私たちは他者の声を聞いているし、時間も移りゆく中で自身の「声」のズレを気づくことがあります。過去の私が書いたものを見ると、当然ながら、今の私とは違います。
日常的な対話の場面でも、相手が内面で発している声を私が同じように受け取れていなければ、コミュニケーションにもズレが常に生じています[13]。相手の声を精神的・身体的なものを含めてまるごと受け取りたいと願いつつも、また信じたいと思いつつも、そこにはなんらかの「抵抗感」が常に付き纏います[14]。私たちは、心と身体と対象の間にある差異のもどかしさの中で生きているし、一瞬後は「違う私」です。つまり、私たちは差延のシステムのなかに放り込まれ、「自分が自分の声に触れる」と同時に他者に触れられ、触発され、自分自身が違う自分(他者)になりつづけつつも「私」であるという意識が過去と現在と未来の私に繋がっている・・そんな存在なのかもしれません。(参考:フッサールの時間図式とアイデンティティについては過去紹介していますので、よかったらこちらを)
上に引用したように、デリダは移りゆく時間のなかで、人は「私は私自身と戦争状態にある」としかいいようのない状況に追い込まれていると考えました[15]。「私」は瞬間瞬間に「私の」意識が主体的に生み出しているように見えますが、私が何かを心で呟くとき、それはその呟きの声によって、自分に触れるという経験であるとともに、確かに主体としての私はつねにさまざまな差延の渦に巻き込まれているかもしれません。
【わたしの「痕跡」を残す】
デリダは「今を生きている」経験を考えるとき、むしろ「痕跡」に着目しました。そしてその痕跡が「私は」という主語で記述(エクリチュール)されたものであることに意味を見出しました。たとえば、私の子どもへの愛ということを考えてみます。私という主語で語られる「愛」は、永遠に捉えることはできないけれども、その足跡(痕跡)から「愛」に送り返されるその差延の永遠のプロセスのなかに「愛」があるというイメージでしょうか。(デリダは無意識の領域すら”痕跡”だと考えました)[16]
たしかに「私」の気分は移ろいやすいものです。「ああ、これが愛だ!」と思うことはあるけれども、その瞬間は、声の響きと共に変わりゆきます。でも、その瞬間の「確かさ」を抱え、それぞれの瞬間を紡ぎながらも私たちは常に何かに抵抗し、差延に取り巻かれるもどかしさを抱えながら歩いているのでしょう。そんな自分を認めてあげたいし、誰かが認めてくれたらもっと生きやすくなるのかもしれません。
そして「エクリチュール」ということを考えていたときに、ふと読み直したくなったのが、アニー・エルノーの『事件』でした。「あのこと」という題名の映画にもなっており、2年ほど前に劇場で見ているのですが、エルノー自身が、大学生のころ(1963年)に経験した准看護師による違法且つ極めて危険な人工中絶の経験を記したものです。フランスでは、1975年まで中絶が非合法で、エルノーは、学業を続けるために中絶を選択しました。当時は、中絶処置をほどこした医師・助産婦や自らの身体に中絶処置をほどこした女性双方が懲役および罰金を科されることになっていました(恐ろしいことに、妊娠の原因となった男性は懲罰の対象になっていません!)[17]。
アニー・エルノーは、2022年のノーベル文学賞に選ばれた時のスピーチでこのようなことを言っています。
「あらゆる物事は否応なく個人のレベルで体験される――『私がこんなことの当事者になるなんて……』――ので、その物事が一様に読み取られるためには、書物の中の「私」がある意味で透明になり、男性読者または女性読者の「私」がそこに乗り移ることが必要です。つまり、私なるものが複数の人格に通じるものとなること、単一性が普遍性に達することが必要です。このような角度から私は、ものを書く行為を、社会的責任をともなう積極的関与(アンガージュマン)と考えています」[18]
「あらゆる物事は否応なく個人のレベルで体験される」ーー『事件』を読んでいたとき、エルノーの経験は、たしかに透明になって、「わたし」に重なっていました。私自身は中絶の経験はないのですが、3ヶ月すぎてから突然にお腹の子どもが亡くなったことがあります。その時、WHOが2012年のレポートで、子宮内膜を傷つけたり、子宮の壁に穴があく子宮せん孔などのリスクがあり、安全でない時代遅れの手法だと勧告した「掻爬法」による手術を受けました[19]。私は、手術室でぼんやり見えた緑色の冷たいタイルや、手にじっとりと流れる汗、ラミナリアを入れる時の悶絶するほどの痛みや自分が発した呻き声が反響する中、エルノーのテクストを読むことになります。
あの部屋のイメージにはたどり着けた。それは分析を越えている。そこに沈潜することしかできない。わたしの脚のあいだでせっせと仕事をしている女の人、膣鏡を挿入している女の人は、私を誕生させようとしているように見える。 その瞬間、わたしは自分のなかの母親を殺した。
長年、わたしはあの部屋とカーテンを仰向けに横たわっていたベッドから見るようにして見てきた。あの部屋も、もしかしたら、あの階をそっくり買った若いエグゼクティヴのアパルトマンの一部となってスウェーデンのイケア社の家具の備わる、明るい部屋になってしまっているのかもしれない。それでも、あそこには、ゾンデを挿入してもらいにやってきた娘や女たちの思い出が保たれている、わたしがそう確信するものをさまたげるものは何もない[20]。
私自身は、この手術のあと、一年以上に渡って子宮からの絶え間ない出血と腹痛に苦しみ、その後も流産を繰り返すわけですが(そのことがきっかけとなって当時の仕事も辞めることになりました)、どうして妊娠・出産にまつわることになると、女性が身体的にも社会的にも全ての責を負わなければならないのでしょう。
彼女は処置後産気づき、大学のトイレで亡くなった子を産み落としますが、その後出血が止まらずに友人の助けで市立病院に運び込まれます。当時、違法な中絶処置で命を落とす女性は後をたちませんでしたが、彼女はそこで「掻爬」を受けることが出来、五日間入院の上、日常に戻ります。
大学都市のトイレで、わたしは生と死を同時に産みだしていた。生まれて初めて、自分が女性たちの連鎖ーそこから次々と世代が発生してくる連鎖ーのなかに捉えられているのを感じていた。冬の灰色の日々だった。わたしは世界の真ん中の光のなかに漂っていた[21]。
なぜ、このつらい体験を題材にしたのか。その理由について、エルノーは中絶を法的に認めないことで女性を、そして自らを守らなかったフランスに対する強い憤りがあったと語っています[22]。『事件』の一番最後の文章で本稿は終わりにしたいと思います。
さまざまなことがこの身に起こったのは、それを説明するためなのだということ。それと、わたしの人生の真の目的は、おそらくこういうことでしかないからだ。わたしの体、感覚、思考を、書く行為によって ー言い換えれば、一般的に理解できるものによって ーほかの人たちの頭と人生のなかに完全に溶けこむ、わたしの存在にするということ[23]。
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本ブログは、哲学登山で読んだ本の振り返りです。次回はフーコー『言説の領界』についてです。
(私はあくまで教育活動者の立場から、読書メモとして本ブログを書いています。正確な理解のためには、下に参考図書・資料を掲載し、できるだけ引用元を明記しておりますので、そちらをご確認ください。また明らかな間違いがあれば、こちらよりご連絡ください。)
哲学に関するブログはこちらから
<関連ブログ>
「わたし」ってなんだろう?(1)〜E.H.エリクソンから学ぶアイデンティティ
「わたし」ってなんだろう(2)〜デリダから学ぶ「声」(本ブログ)
「わたし」ってなんだろう?(3)〜フーコーから学ぶ「言説」
「わたし」ってなんだろう(4)〜ジュディス・バトラーから学ぶジェンダー
<参考図書・資料>
『声と現象』ジャック・デリダ 林好雄訳 ちくま学芸文庫
『ジャック・デリダ ー死後の生を与える』宮﨑裕助 岩波書店
『ジャック・デリダ「差延」を読む』森脇透青・西山雄二・宮﨑裕助・ダリンテネフ・小川歩人 読書人
『哲学の余白』ジャック・デリダ 高橋允昭・藤本一勇訳 法政大学出版局
「声は何を触発するのかーデリダ「自己ー触発」をめぐるいくつかの考察」櫻田裕紀 p127 表象・メディア研究 11 125-145, 2021-03-10 早稲田表象・メディア論学会
『嫉妬/事件』アニー・エルノー 堀茂樹・菊池よしみ訳 早川書房
「予期せぬ妊娠 中絶を書く理由」2023.02.07 NHK サイカル
<関連して読んだ本・おすすめの本>
『ならず者たち』デリダ 鵜飼哲・高橋哲哉 訳 みすず書房
『言葉を撮るーデリダ/映画/自伝』ジャック・デリダ+サファー・ファティ 港道隆・鵜飼哲ほか訳 青土社
『場所』アニー・エルノー 堀茂樹訳 早川書房
『ある女』アニー・エルノー 堀茂樹訳 早川書房
『それで君の声はどこにあるんだ?ー黒人神学から学んだこと』榎本空 岩波書店
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[1] 橋場さんは、介助付きコミュニケーション(指筆談通訳)で、脳性麻痺同士のお子さん同士でコミュニケーションを取っていると聞いているとのこと。PCの意思伝達装置も、映画の中に出てきています。
[2] 『ジャック・デリダ「差延」を読む』p19, p23 フッサールは『論理学研究』で人間の表現の「純粋な核」を「孤独な心的生活」ー他人とのコミュニケーションから隔絶され、誤解の危険を免れた「独白」にあるとする。この「孤独な心的生活」においては、「意味」が私たちに対してありありと現前(現前化 présentation)しており、私はその意味を遅れなく「今」、瞬時に理解しているからである。
[3] 『ジャック・デリダ ー死後の生を与える』宮﨑裕助 岩波書店 p2
[4] 『ジャック・デリダ ー死後の生を与える』宮﨑祐助 岩波書店 p5 この文章のあとに「記号としての『私』と、現実の私自身ー両者を区別できるとしてーこれら両者の距たり、両者を根源的に距てているこの働きこそ、デリダが「間隔化」と呼び、「差延」と名づけてみずからの思考を展開した当のものにほかならない」と続く。差延と訳される用語différanceは、「差異」を意味するフランス語différenceの後半部分のeをaに変えてつくられた言葉であり、それによって「遅らせる」「延期する」という動詞的な意味が含まれるようになる(『ジャック・デリダ「差延」を読む』p33-48に詳しい)。
[5] 『差延を読む』p46 (「痕跡」は差延の言い換えとしても使われるので、とりあえずは同義語だと思って良いとのこと)まさに痕跡は、それ自身とは別のものへと「送り返す」システムである。(動物が足跡を残した時に、不在の「存在者」である動物を想像の中で「再現前化させる」とき、デリダは、その足跡を残した動物のほうではなく、痕跡からの動物への「送り返し」のほうに着目すると言って良い)『差延を読む』p44「ソシュールによれば、ある特定の記号の意味は、ある充足・自足した現前者から引き出されるのではない。記号が意味を持つのは、あくまで記号のシステム全体の関係性・相関性でのみである。デリダはソシュールの議論を引き継ぎ、記号から記号への「送り返し(renvoi)」を差延の特徴として展開する。
[6] 『差延を読む』p37-8 p43 ソシュールにおいて、「猫」という記号において、「猫」という意味ないよう、概念、その指示対象(特定の動物)は「シニフィエ」、そうした内容を指し示す「ねこ」という語の発音的、聴覚的なイメージが「シニフィアン」。ソシュールによれば、記号は事物との対応関係を持たず、シニフィエとシニフィアンのあいだには有機的な関係はない。ー「猫」という記号が存在しうるのは、他の記号との差異によってでしかない。猫という記号の根拠は、犬や狸「でないもの」(略)という否定性・差異性によって成立している(差異テーゼ)。猫は猫自体で猫なわけではない。
[7] 『哲学の余白 上』ジャック・デリダ 法政大学出版局 p44 差延の運動の根底に、諸々の差異を産出する能動的な統一体をみてはならないともデリダは警告し、(略)差延の動きはたんに能動的でもなければ受動的でもない「むしろ中動態のような何か」とデリダは言及。
[8] ジャック・デリダ『声と現象』林好雄訳 ちくま学芸文庫 p174
[9] 「声は何を触発するのかーデリダ「自己ー触発」をめぐるいくつかの考察」櫻田裕紀 p127 表象・メディア研究 11 125-145, 2021-03-10 早稲田表象・メディア論学会
[10]「声は何を触発するのかーデリダ「自己ー触発」をめぐるいくつかの考察」p128 (フッサールは)われわれがなんらかの「意味」を有する原表を行うためには、まず所与の同一的でイデア的な対象、ノエマをわれわれの意識の志向性が生気づけるという過程が必要であり、そのようにして志向された意味を運ぶものこそ、言語という「表現」だというのである。(略)「自分自身を(他者に)伝達することのない」いわば意識の中で自分の<語り>だけを聞く沈黙の対話、これが「孤独な心的生」である。(フッサールが想定する私の独白はあくまで同じ<私>の内部の出来事である)p129-130 「このようにフッサールの語る独白の領野はー純粋な意味の産出場であ(り)ーそしてこの場の明確性は、ひとえに私が語る意味が、今この瞬間に現前する私の言いたいことの直接的な反映であるという、この論理に支えられている。ー私の意識と私の言表の一致ーこの論理を産出する特権的な媒体こそ、デリダが「声の審級」と呼ぶものである。(『声と現象』p157)
***
触発(affection)の語源は、ギリシャ語の<pathos>に由来し、後期スコラ哲学において、<affectio>と<Passio>の二つのラテン語に翻訳される。<affectio >には「情念」の意味に加えて、認識論的な特別な意味を獲得するが、決定的なのがカントの用法(『純粋理性批判』の「超越論的感性論」で、時間と空間を感性のアプリオリな純粋形式として位置付け、その形式が作動する場、つまり外的な対象(物自体)からなんらかの情報が感性へと与えられるその契機を、カントは「触発(affektion)」と規定した。「声は何を触発するのかーデリダ「自己ー触発」をめぐるいくつかの考察」p127
[11] 『声と現象』p177 「声は、普遍性の形式において意-識(共通の知識 con-science) として、自己のもとある存在(エートル)である。声は意識である。(孤独な心的生)
[12] プラトン『テアイテトス』田中美知太郎訳 岩波文庫 p185-6
[13] 『声と現象』p178 「私が自分を語るのを聞くかわりに、自分が書くのをみたり、身ぶりによって意味するのを見る時には、この近さは打ち破られるのである」
[14] 『声と現象』p182 「根源的な非現前性」
[15] 『ジャック・デリダ 死後の生を与える』宮﨑裕助 p56 デリダの思考は、差異そのものに亡霊的に取り憑いた時間生を「差延」として、つまり私たちの生のただ中を穿つ根源的な遅延として究明することにより、生の自身との現前的合一を根拠とした「生の哲学」から袂を分かつことになる。
***
フッサールとデリダの間での「響き」と「時間」に関しての備忘録。その声が発せられた「瞬間」とは何か。時間は一刻一刻と過ぎていくわけで、どうしても純粋とは言い切れず、なんらかの「差異」そして「他者性」が入り込むことは避けられないとデリダは考える。フッサールの時間図式の中にも「響き」は捉えらえているが、デリダは「私には自分の声の響きが聞こえないし、その響きを認知することもできない」とする(『哲学の余白 上』ジャック・デリダ 法政大学出版局 p211) 日常的にも、私たちは語られた言葉そのもの以上に、そのときの声の質やリズム、抑揚、テクスチャーなどから多くのことを感じる。ただ、デリダは<響き>といった場合にはもはや、私たちは自分の声をそのまま他者の中で再生させておらず、私たちにつきまとう身体その他の影響を受けてしまうと考ええた。(ジャック・デリダ『他者の言語』p371, 『哲学の余白 上』ジャック・デリダ 法政大学出版局 p211 (響きや文体といった要素がまさに身体的である限りで、私が決して制御し得ない「余白」である)
[16] 『ジャック・デリダ「差延」を読む』p80-81 にデリダによるフロイトの考察「デリダによれば、無意識はどこかにつねに隠れて存在しているような潜在的な「もの」ではない。それはあくまで事後的に「読解」され、あったことになるものである。だとすれば無意識は潜在的な・充溢した・エネルギー的な統一隊ではなく、たんに痕跡である。「フロイトとエクリチュールの舞台」
[17] 『嫉妬/事件』アニー・エルノー 堀茂樹・菊池よしみ訳 早川書房 p106
[18] 「予期せぬ妊娠 中絶を書く理由」2023.02.07 NHK サイカル https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2023/02/story/annie-ernaux/
[19] https://heart-net.nhk.or.jp/heart/contents/14_1/index.html
World Health Organization, Department of Reproductive Health and Research, “Safe abortion: technical and policy guidance for health systems” Second edition, 2012
[20]『嫉妬/事件』アニー・エルノー 堀茂樹・菊池よしみ訳 早川書房 p163
[21] 『嫉妬/事件』アニー・エルノー 堀茂樹・菊池よしみ訳 早川書房 p193
[22] 「予期せぬ妊娠 中絶を書く理由」2023.02.07 NHK サイカル より
[23] 『嫉妬/事件』アニー・エルノー 堀茂樹・菊池よしみ訳 早川書房 p204-205
※ブログは教育をテーマに私が考えたこと、感じたことや経験したことの足跡を残すために書いています。(一覧は以下)
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