(本ブログは、哲学登山をきっかけに読んだ本の振り返りとなります)
今年の夏、デンマークに行ったとき、オーフスという街にあるジェンダー・ミュージアムを訪れました。本当に行ってよかった。(上の写真はミュージアム内にある多様な性を示したポスターです)
常設展(Gender Blender)では、ジェンダーに関する歴史・研究・議論を追いながら、認識を高めるための工夫がされていて、そこには働くことや、ユーモア、身体、品性、政治、アクティビズム、芸術などの観点からさまざまな展示がされていました。1970年代のラディカルフェミニズム[1]の一つ、レッド・ストッキング運動については個別の展示室があります。
同じく常設の性教育の歴史のコーナーでは、200年に及ぶ性教育、具体的には避妊や性的虐待、初めての性体験、中絶、マスターベーション、ポルノ、性的平等に関する教材が展示されていました。文化が違うといえばそこまでですが、展示も具体的でたとえば”71% have masturbated before the age of 15 and 37% before the age of 12” (Danish Broadcasting Corporation opinion poll 2012)などの言葉が展示の目立つところにドーンと書いてあります。
また、ジェンダー・バロメーターという木のスケールがあって、自分の性自認・Gender Identity(WomanーMan)、生物学的性・Biological Sex (FemaleーMale)、性別表現・Gender Expression(FeminineーMasculine)[2]、性的指向・Sexual Orientation (HeterosexualーHomosexual)の間をいろいろ動かせます。
トイレの表示もGenderqueerと、Intergenderまではわかるのですが、もう一つはなんだろう。。。(以下の写真です。わかる人いますか?)
(筆者撮影:ジェンダーポスター、ジェンダーバロメーター、トイレ共に)
特別展「How DARE YOU?」では、ジェンダーと気候がテーマで、男らしさや女らしさに関する考えや期待が、問題に対する感度、何が恥しいかの感覚、不安、アクティビズムやアクションとどのように結びついているかについて研究しています。「ジェンダー危機を解決することが気候危機を解決できるのか、もしくはその反対は可能なのか?」という問いに基づく展示の数々。こんなミュージアムが日本にあればいいのにな。
【わたしは「女」なのか?】
「わたしってなんだろう」(1)〜E.H.エリクソンから学ぶアイデンティティでは、私が思春期に自身の身体が好きになれず、女性として自信がなかったことについて書きました。私が「女性らしい」のか「男性らしい」のかも分かりませんでした。実際に「男っぽいよね」と言われることがあります。良い意味で言ってくれているのだと受け取っていますが、気になったのでネットで調べてみました[3]。そうすると、男らしさのステレオタイプとして決断力やリーダーシップ、感情のコントロール、独立心などが出てきます。一方で女らしさとしては、優しさや思いやり、従順、感受性の豊かさ、外見への配慮などが挙げられてました。うーん・・、たしかに私は「男らしい」のかもしれません。
私は、1993年に大学を卒業し、政府系金融機関に「女性総合職」として入職しました。将来管理職になる可能性を持ちつつ、幅広い業務を経験するという職種です。男女雇用機会均等法が1985年に制定され、1986年に施行されていて、いわゆる大学の先輩たちが最初の世代でさまざまな苦労をしていた時代でした[4]。
当時、バブル崩壊直後だったことや、会社側の受け入れ体制が整っておらず、少し先に入職をした女性の先輩たちは、会社の古い意識や制度、男性職員の差別発言や差別的待遇に耐えきれず、数年で辞めてしまうこも多い時期でした。そのため、私たちは「総合職として採用された女性は後進のために、ちょっとやそっとのことでは辞めてはならない。女性でも”男性並みに”結果が出せるという実績を証明しなければならない」というプレッシャーをかけられていました。最初の一年は上司に呼び出されて「女性は4番バッターなんだから、周りと同じパフォーマンスじゃダメなんだ」という意味不明の指摘もされていました。社会全体が1989年に新語・流行語大賞にランクインした「24時間戦えますか?」の余韻をひきずったまま混乱していました。
一方で、一度明らかに私が女性であることに起因する理不尽なローテーションを組まれ、支店長に直談判したことがあります。しかし、そのローテーションがおかしいとは女性職員も含め、支店の誰一人として思っていませんでした。支店長は「まぁまぁ、落ち着いて。」と私を諭しました。私だけが窓口の職員と同じ制服を着、朝は全員の机を拭くところから仕事が始まりましたが、それも誰も疑問に思っていませんでした。「ああ、差別というものは、されている側だけが認識し、している側は何も感じないものなのだ。差別とは透明なものなのだ」ということを思い知った経験です。
職場では「女」も仕事ができるし、感情的ではなく論理的に話せるということを「パフォーム」していなければなりませんでした。実際それは企業で生き延びるための死活問題でした。「4番バッター」発言に腹を立てつつも、実際には「男性」と同じパフォーマンスでは認めてもらえないのが現実でした。途中から理解のある上司に恵まれ[5]今の私がありますが、もし私が「男らしい」と見えるのであれば、そんな過去も影響しているのかもしれません。そして、こうした私の「男らしさ」は「主体的に」獲得したというよりは、周りの環境に合わせて作り上げられてきたものかもしれません。
【生物学的性とジェンダーと性的指向が一致しない!?】
そんな自分自身を振り返ったとき、生物学的性に揺らぎが出た時期もありましたが、結局私は、妊娠・出産を経ています。一方で、性的指向については、異性愛者であるという自覚があります。ただ、ジェンダー・アイデンティティについては、良くわからないという感覚をずっと持っています。未だにうまく説明ができません。たとえば、私が仕事で使っている「さと」という名前は実はニックネームで、本名ははっきりと女性だと分かる名前です。このニックネームにしたときには、ずっと使い続けるイメージもなく、特段なにかを意識したということもないつもりでしたが、この中性的な名をなかなか気に入っています。女性的な名前よりほっとします。この名前にしたのは今思えば、偶然ではないでしょう。また「女らしいね」と言われるのは、私の場合褒め言葉ではありません。she/herという表記を自分につけることには強い抵抗感を感じます。
つまり、私自身「シスジェンダー[6]です」とすんなり言えないようなガチャガチャ感をどこかで抱えているのです。ただ、私が敢えて自身を「シスジェンダー」だと表明するときは、少なくとも、私が男性の身体を欲していないという感情面に目を向けています。私は過去自分の中性的な身体を悲しんでいました。もっと女性的な身体だったらこんなに苦しまなかったのにと思っていた過去から「”女性”という自認寄り」というさしあたりの判断をしています。しかしこれも「社会に承認されるような」身体のあり方でないことそのものを悲しんでいたのかも知れず、考えれば考えるほどわからなくなります。
今年の7月に出版された藤高和輝さんの『バトラー入門』がとても刺激的だったのですが、自然なジェンダーとはセックスやジェンダー、セクシュアリティ、人種、エスニシティ、障害といったさまざまな要素が安定的に統一されるときに形成される「束の間のファンタジー」である[7]、とありました。本当に「自然」とは一体なんなのでしょうか。そして以下、同書に記述された「失敗」はまさに私の「失敗」の歴史そのものでした。(年収の部分だけは違いますが・・)
さまざまな規範的命令を受ける私たちの複雑な現実においてはなおさら「失敗」は不可避のことだ。現在「女性活躍推進」(とやら)の下、女性の「活躍」が求められているが、たとえば、ナチュラルメイクで女性らしくふるまい、夫のためにワンオペで家事をし、「良き母」として育児に精を出しながら一生懸命職場で働いていたら、年収が夫のそれを超え、なにやら夫婦関係のなかでトラブルが・・この架空の女性は今の社会で強いられる「命令/期待」に精一杯応えながら、それにもかかわらず、結果的に、それらの命令の実現に「失敗」し、かえって現代社会の矛盾を鮮明に映し出すアイロニカルな存在になるかもしれないーまるでドラァグ[8]のように[9]。
そんなときにつらつらとネットを見ていて、目に留まったのが、雑誌クーリエ・ジャポンで掲載されていたジュディス・バトラーのインタビュー記事でした[10]。
たとえば、「女であること」が意味するものは時代によって変わります。「女性」というジェンダー・カテゴリは変化し得るものであり、実際に変化している。そして、我々は「女性」というカテゴリの変化を継続させるべきなのです。
政治的に言えば、女性のより大きな権利を保障するために、我々は「女性」というカテゴリを、新たな可能性を内包するものとして再考する必要があるわけです。ジェンダーの規範が改めて設定され、再び否定され、再構築されるなかで、ジェンダーの歴史的意味は変わることができるのです。
なので、「女性」というカテゴリがトランス女性[11]を含むようになるとしても驚くべきことではないし、それに反対すべきでもありません。(略)
もう30年以上も前になりますが、『ジェンダー・トラブル』で私が指摘したのは、人が自身の内面における真実を表現するとき、あるいは、まったく新しい自分を自ら作り上げているのだと宣言しているときでさえ、その人は、意識的にであれ無意識にであれ、すでに存在しているジェンダー規範を引用することになるということです。
文化的規範から完全に逃れることは、誰にとっても不可能なのだと私には思われたのです。また同時に、どんな人も、文化的規範だけで完全に規定されるわけではありません。であるならば、ジェンダーとはある種の交渉や闘争であり、歴史的に定められてきた制約を相手取りながら、新たな現実を生み出していく術となるのです。
バトラーは、ジェンダーは一度割り当てられたらそれで終わりというものではなく、それは繰り返し創られ、更新され続けていい、社会からジェンダーを規定する力を受け継ぎ、それによって己のジェンダーを法的にも医学的にも自ら割り当て直して良いと言います。また、アイデンティティを政治の基盤にするのではなく、(ジェンダーの問題に限らず、貧困や、人種差別や、階級など)お互いの差異を超えて繋がり、資本主義とそれが引き起こす破壊に抵抗すべく協力することが大事だと言ってくれています。
私自身「女たちよ、連帯せよ」というようなスローガンに今ひとつ乗り切れなかったり、むしろ反発を感じてしまうことの繰り返しでした。「女たち」と言われるだけで排除されているような気持ちになってしまうのです[12]。一方で、抑圧に抵抗するにあたって、バトラーはある「アイデンティティ」を打ち出していくことの意味にも触れています。複雑に絡み合った社会的抑圧に対して、差異のある被抑圧者同士がどのように連立するのかを明確にすることは、より敏感に反応していくことを可能にすると言っています。これは、障害当事者家族の人たちを含め、現在さまざまなしんどさを抱えている人たちと共に活動をし、日常的に対話している立場からしても、分かるような気がします。結局のところ、私たちのアイデンティティは言説的に構築されたものではあるけれども、さまざまな差異の交差点の中でもがきつつ、なんとか連帯の道を探しながら、抵抗していくことしかできないのかもしれません。
デンマークのジェンダーミュージアムのトートバックからとった写真(筆者撮影)
【主体とエージェンシー】
だとしたら、「わたし」はなんなのでしょうか?活動の「主体」って一体なんなのでしょう? フーコーは(バトラーの記述によると)「権力の法システムが主体を生産し、のちにそれを表象し、人の政治的な生き方を規定し、主体は、構造に隷属することによって、構造が要求する事柄に見合うように形成され、定義され、再生産されていく」と考えましたが[13]、実際に主体(Subject)という言葉は従属するという意味もあります。(日本語の「主体」と”Subject”の語感が違うので、英語で考えた方がいいのかもしれません)私が金融機関に勤めていた頃の私のあり方もたしかにそうで、何か意志を持っているようで実は、構造に隷属し、構造の要求に応えていました。しかも、その隷属の意識すらほとんど持てていませんでした[14]。
そんな中、バトラーが提案したのは、行為し続ける「エージェント」の考え方でした。私が「女たちよ」という呼びかけに混乱してきたように、フェミニストの「わたしたち」はつねに幻の構築物にすぎない[15]ように見えます。でも、バトラーはこうした「わたしたち」の位置がどんなに希薄で幻影的だったとしても、絶望しなくていいと言います。「行為する」私たちの背後に安定した何かがなくとも、私たち「行為する人(エージェント)」は行為の中で、行為を通じてさまざまに構築されるし、他者の中で他者を通じて、自己を構築していくことができる[16]と考えます。「あなたは自己を行為の中で立ち上げていくことが可能だ」と言ってくれるのです。
肌の色やセクシュアリティや民族や階級や身体能力についての述部をつくりあげようとするフェミニズムのアイデンティティ理論は、そのリストの最後を、いつも困ったように「等々(エトセトラ)」という語で締めくくる。(略)しかしこの失敗は示唆的である[17]。
これこれのジェンダーであれという命令は、さまざまな言説の道筋をとおって発せられるものである。良き母になれ、異性愛の望ましい対象となれ、適切な労働者となれ[‥](略)多様な言説の命令の共存と集中は、複合的な再配置や再配備の可能性を生みだす。多様な言説の集中のなかで行動をおこすことができる者は、超越的な主体ではない。(略)そこにあるのは、道具をそれが存在している場所で拾い上げる行為だけであり、この「拾い上げ」は、そこに道具が存在しているからこそ可能になるのである。[18]
ジェンダーのパロディ的な反復はまた、不可侵の深部や内的実体とされているジェンダー・アイデンティティも、実は錯覚でしかないことをあばいていくものである[19]
私たちは言説の外側に出ることは決してできないし、言説を使うことを止めることもできません。でも「言葉」を使って語り直すことはできるとバトラーは言ってくれます。このことは、ジェンダーの問題に限らず、世界中で起きている戦争や人権侵害に対しても言えます。バトラーは『非暴力の力』で「特定の自己は守る価値があると見なされ、他の人はそうでない、と私たちが考えるなら、そこには、自己防衛のための暴力を正当化することから帰結する不平等の問題が存在するのではないだろうか。私たちは、価値ある生とそうでない生をグロテスクに区別する人種的図式を考慮することなく、世界各地の諸集団に哀悼可能性の尺度を与えるこの形式の不平等を説明することはできないのである。」[20]といいます。ガザ侵攻の悲劇を目にして、「哀悼可能なものとはみなされない生「非存在の領域」で既に暮らしている生」のことを思わざるをえません。
私がバトラーに魅了されるのは、「主体」というものを批判的に捉える論理部分だけではなく、そこで諦めずに私たちにもできることがあると、具体的な方策を示して、必死で訴えかけてきてくれるところです。「何が理解可能な生を構成し、しないのか。そして、規範的やジェンダーやセクシュアリティについての前提がいかにして「人間」や「生存可能な」ものを資格づけるものを前もって決めるのか[21]」というバトラーの問いはやがて「戦争や収容所、経済的不安定性、コロナ渦…のなかで「人間なるもの」にカウントされず「見捨てられた生(藤高2024)」にも及んでいく[22]。そこには、バトラーの人格、人間性、そして愛があります。
藤高和輝さんの本からの孫引きで恐縮ですが、『ジェンダー・トラブル』に付された1999年の序文からは、苦しい感情を抱え続け、必死で生きてきた人たちの声でこの本が書かれていることがわかります。
本書がアカデミズムからだけではなく、私もその一部として関わっていた多様な人が集まった社会運動から生まれたものであり、本書を執筆する前に14年間住んだ合衆国東海岸におけるゲイ・レズビアンのコミュニティの文脈のなかから生まれたものだ、ということである。本書で行っていることは、主体を脱臼させることであるにもかかわらず、ここには人格を備えたひとがいる。
(略)『ジェンダー・トラブル』は学術書であるが、しかし、この本は横断することではじまったのである。ー(略)私の生の異なった諸側面を繋ぎ合わせることができるのかどうかと思案しながら。私が自伝的な形で書くことができるということは、私であるところのこの主体を再配置したりはしないと私は思うのだが、しかし、おそらく、このことは読者に対して、ここには誰かがいるという安堵の感覚を与えるだろう[23]。
今年の8月に日本のウーマン・リブ運動を牽引した田中美津さんが亡くなりました。先日、「この星はわたしの星じゃない」という田中美津さんを追った映画を見ました。上映後に吉峯美和監督のトークがあったのですが、そこで田中美津さんが監督に「もし柔らかな感性で作品をつくり続けたいなら、自分の中にいる”膝を抱えて泣いている少女”の存在を忘れてはいけない」と語ったというエピソードを聞きました。監督は自分自身の「泣いている少女」と田中さんの「泣いている少女」を響き合わせるように作品をつくっていったそうです。実はバトラーの本を読むときに私にも同じことが起きていることに気がつきました。
私は田中美津さんのように性的虐待を受けたわけでもなく、バトラーのように性的な課題が大きかったわけでもありません。でも、小さな頃から自分を否定されるような言葉をたくさん投げかけられ、思春期に自分の身体に動揺し、だれにも相談できなかった、そんな私自身の「膝を抱えて泣いている少女」とバトラーのテクストが響きあい、反射的に泣いてしまうようです。実は哲学書というジャンルのものを読んで嗚咽するように泣いてしまったのはバトラーの著作が初めてです。今でも、バトラーの書くものに触れたり、バトラーが話している映像を見るだけで涙ぐんでしまうことが多いです。
初めて『ジェンダー・トラブル』を読んだのは、一年前の夏。哲学登山のプログラムがきっかけでした。序文を読んだときに「この本は私について書いてある」と直感しました。そして、この本が多くの人に読まれたと聞いて「そうだろう」と思いました。最初に読んだとき、私は「主体」や「言説」が何かなどとは良く分かっていませんでした。クィアなどの言葉にも慣れておらず、言葉も難しく、正直論理的にはほとんど読めていなかったと思います。今回ブログを書くために再読しましたが、やはりとても難しく、全然読めている気がしません。でも、バトラーの言葉には、忘れかけていた私の心の傷にそっと触れ、優しく癒してくれるような感覚があるのです。分からなくても読める、不思議な、そして稀有な本のように思います。
私自身、社会的に承認されたさまざまなカテゴリー、しかも称賛されるようなカテゴリーの仲間入りをしようと四苦八苦した末に、失敗し続け、結局その先にはなにもなかったという事実に打ちのめされていました。考えてみれば当たり前です。カテゴリーは言説の産物なのだから、それは常に変化するし、つかみどころがありません。でも、バトラーはその先があると言います。「あなたを苦しめてきたカテゴリーの負の側面を繰り返すのではない、カテゴリーを揺らしていくことはあなたはできるし、そこに人生の意味がある、あなたにも戦える」と言ってくれているように思うのです。「わたし」は探究の過程にあり、それは常に揺れ動き、生成の過程にあるし、それできっと大丈夫。私をある種の絶望から救ってくれたのがこの本でした。
『バトラー入門』で藤高和輝さんは、『ジェンダー・トラブル』には読むものの<トラブル>に交感し、共鳴をもたらし、語りを引き出すようなそんな力がある、そしてそのトラブルは他の誰かのトラブルと共鳴しながらこの社会的世界を動かす力を持ち、読む人をエンパワーすると書かれています[24]。私も大いに癒され、元気づけられました。是非みなさんも読んでみてください。
*****
なお、4年間続けてきたこたえのない学校とのコラボ型の哲学登山ですが、シェルパが大学の常勤教員となったこともあり、残念ながら、この回を持って終了します。(シェルパの運営するよはくでの哲学登山や哲学紀行は継続されます)私も「初心登山人」としてたくさんのことを学びました。振り返りから読み取っていただけると嬉しいのですが、シェルパの選書や解説の深さには驚かされることばかりでした。
また延べ130名の教育者の人たちと一緒に読んできましたので、学校現場のこと、自分の子どもや家族のこと、自分の子ども時代の経験や今の自分と哲学者の言葉を響あわせるような対話の時間によっても、たくさんのことを学ぶことができました。ありがとうございました。
<関連ブログ>
「わたし」ってなんだろう?(1)〜E.H.エリクソンから学ぶアイデンティティ
「わたし」ってなんだろう(2)〜デリダから学ぶ「声」
「わたし」ってなんだろう?(3)〜フーコーから学ぶ「言説」
「わたし」ってなんだろう(4)〜ジュディス・バトラーから学ぶジェンダー(本ブログ)
哲学に関するブログはこちらから
<参考図書・おすすめ図書>
『ジェンダー・トラブルーフェミニズムとアイデンティティの攪乱』ジュディス・バトラー 竹村和子訳 青土社
『バトラー入門』藤高和輝 ちくま新書
『非暴力の力』ジュディス・バトラー 佐藤嘉幸・ 清水知子訳 青土社
『アッセンブリ』ジュディス・バトラー 佐藤嘉幸・ 清水知子訳 青土社
「現代思想 ジュディス・バトラー 『ジェンダー・トラブル』から『アッセンブリ』へ」2019年3月臨時増刊号
『<トラブル>としてのフェミニズム 「とり乱させない」抑圧に抗して』藤高和輝 青土社
『女らしさの神話』ベティ・フリーダン 荻野美穂訳 岩波文庫
『マチズモの人類史ー家父長制から「新しい男性性」へ』イヴァン・ジャブロンカ 村上良太訳 明石書店
『歴史家と少女殺人事件ーレティシアの物語』イヴァン・ジャブロンカ 真野倫平訳 名古屋大学出版会
『フェミニズムはみんなのものー情熱の政治学』ベル・フックス 堀田碧訳 etc.books
『学ぶことは、とびこえること』ベル・フックス 里見実監訳 ちくま学芸文庫
『トランスジェンダー入門』周司あきら・高井ゆと里 集英社新書
『増補 女性解放という思想』江原由美子 ちくま学芸文庫
『児童の世紀』エレン・ケイ 小野寺信・小野寺百合子訳 冨山房百科文庫
『もうひとつの声でー心理学の理論とケアの倫理』キャロル・ギリガン 川本隆史・山辺恵理子・米典子訳 風行社
『学校におけるケアの挑戦ーもう一つの教育を求めて』ネル・ノディングス 佐藤学監訳 ゆみる出版
『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』長島有里枝 大福書林
『国際セクシュアリティ教育ガイダンスー科学的根拠に基づいたアプローチ』ユネスコ編 明石書店
『子どもへの性暴力は防げる!ー加害者治療から見えた真実』福井裕輝 時事通信社
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[1] 1960年代から1980年代にかけて展開された第二波フェミニズムは「個人的なものは政治的である」というスローガンを掲げた。第一波フェミニズムが19世紀末から20世紀初頭にかけての女性の参政権や法的平等を目指す運動であったのに対して、法的な平等の達成後も残る社会的、文化的な不平等の問題を扱った。ラディカル・フェミニズムは、第二波フェミニズムのなかでも急進的な立場をとり、積極的な意識向上グループ(Consciousness-Raising Groups)の活動を通じて、社会の抑圧構造理解に基づく、社会改革に焦点を充てた。レッド・ストッキングス運動はラディカル・フェミニズムの中心的な考え方を踏襲していた。
[2] バトラーの『ジェンダー・トラブル』では、ジェンダー・エクスプレッシブモデル:「表出(Expression)とパフォーマティヴ(performativeness)との区別は決定的に重要であるとしている。ーー「表出」とは性別を決定する「生来の本質」が人間には備わっており、その「本質」がたとえば「女らしい行為」とか「男らしい行為」として「外に」表出し、現れたのがジェンダーだ、という理解のことであり(略)「ジェンダー・パフォーマティヴ・モデル」の見方に拠れば、「内側」にあるとされる「本質」は実際には「本質」などではなく、そのようなものとしてみなされ、構築され、錯覚され、自然化されていく、ということになる。『バトラー入門』藤高和輝 ちくま新書 p73-75
[3] 複数の生成AIを参照(2024年9月)。「女らしさ」について考えるには、ちょうど岩波文庫から2024年9月にベティ・フリーダン『女らしさの神話』の全訳(荻野美穂訳)が出ています。「男らしさ」については『マチズモの人類史ー家父長制から「新しい男性性」へ』イヴァン・ジャブロンカ 村上良太訳 明石書店が面白いです。
[4] 私自身は、父親が中小企業を経営していたり、途上国における貧困層への小規模金融(マイクロファイナンス)に興味をもっていたことから、中小・零細企業への融資をしてみたいと思っていました。もし私が10年前に生まれていたら、こうした職を選ぶことはできませんでした。また、数年遅れても今度は就職氷河期に突入していました。
[5] 2年目に異動した融資課のS課長が総合職の女性を育てることを面白がっており、本当に助けられました。お酒が好きで、朝から酒臭いときもあるくらいでしたが、どんどん難しい案件を任せてくれ、男性だけの飲み会にも分け隔てなく誘ってくれました。お酒の席が好きだったわけではないのですが、嬉しく思っていました。S課長は私にとってのフェミニストです。
[6] 「出生時に診断された身体的性別と自分の性自認が一致」と辞書などでは良く説明されますが、私の場合、自分の身体的(生物学的)性に自信がもてなかった時期があるので、そんなに簡単に回答できる概念ではありませんでした。正直なぜ、皆が自分を「女性」だと素朴に思えるのかが疑問でした。
[7] 『バトラー入門』藤高和輝 ちくま新書 p128
[8] ドラァグ・異性愛・トランスジェンダーについては、Youtube「ちあきホイみ&エスムラルダ「そうよ、私もブスよ!」」が参考になります。ちなみに、ちあきホイみは、私の前職の同じチームの大変優秀な同僚で、いくつものプロジェクトを一緒にしました。当時から会社でオープンだったので、私自身15年近く前からゲイカルチャーやさまざまな活動について聞く機会がありました。歌唱力に優れ、ソロアルバム『かんのん』も出していますので、ぜひ聞いてみてください。https://www.youtube.com/watch?v=WOMcH45j7_M
[9] 『バトラー入門』藤高和輝 ちくま新書 p161-2
[10] クーリエ・ジャポン 名著『ジェンダー・トラブル』を振り返る(英誌GuardianのJules Gleeson氏のインタビューの和訳)ジュディス・バトラー「我々は“女性”や“男性”というジェンダー・カテゴリを変化させ続けるべきである」/2021.10.24 https://courrier.jp/news/archives/264717/
ジュディス・バトラー「我々は“女性”や“男性”というジェンダー・カテゴリを変化させ続けるべきである」https://courrier.jp/cj/264717/?gallery
[11] トランスジェンダーについては『トランスジェンダー入門』周司あきら・高井ゆと里 集英社新書がおすすめです。
[12] この感情には、私が中学高校と女子校で、ほかのクラスメートたちを「仲間」とは思えなかった個人的な経験も少なからず影響していると思います。
[13] 『ジェンダー・トラブルーフェミニズムとアイデンティティの攪乱』ジュディス・バトラー 竹村和子訳 青土社 p20
[14] 『ジェンダー・トラブルーフェミニズムとアイデンティティの攪乱』ジュディス・バトラー 竹村和子訳 青土社 p10 (系譜学的な批評の目的は)「多様で拡散した複数の起源を持つ制度や実践や言説の結果」でしかないアイデンティティのカテゴリーを、唯一の起源とか原因と名づける政治上の利害を探っていくことである。
[15] 『ジェンダー・トラブルーフェミニズムとアイデンティティの攪乱』ジュディス・バトラー 竹村和子訳 青土社 p250
[16] 『ジェンダー・トラブルーフェミニズムとアイデンティティの攪乱』ジュディス・バトラー 竹村和子訳 青土社 p250-251 「これは行為をつうじて自己が構築されるという、実存的な理論に回帰するものではない。なぜなら、実存的な理論では、自己と行為の両方を存在させようとして、前ー言説的な構造を温存してしまうからである。
[17] 『ジェンダー・トラブルーフェミニズムとアイデンティティの攪乱』ジュディス・バトラー 竹村和子訳 青土社 p252
[18] 『ジェンダー・トラブルーフェミニズムとアイデンティティの攪乱』ジュディス・バトラー 竹村和子訳 青土社 p255
[19] 『ジェンダー・トラブルーフェミニズムとアイデンティティの攪乱』ジュディス・バトラー 竹村和子訳 青土社 p257
[20]『非暴力の力』ジュディス・バトラー 佐藤嘉幸・ 清水知子訳 青土社 P20-21
[21] 『バトラー入門』藤高和輝 ちくま新書 p266 1999年『ジェンダー・トラブル』序文からの孫ひき
[22] 『バトラー入門』藤高和輝 ちくま新書 p266-7
[23] 『バトラー入門』藤高和輝 ちくま新書 p260-261
[24] 『バトラー入門』藤高和輝 ちくま新書 p274
※ブログは教育をテーマに私が考えたこと、感じたことや経験したことの足跡を残すために書いています。(一覧は以下)
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