釈迦に説法!?教師のプロフェッショナリズムとアマチュアリズムを考える〜市川力・倉成英俊対談

教育者たちが集って年間でプロジェクトを立ち上げながら学んでいくLearning Creator’s Lab(LCL)。5期生も3月からスタートしていよいよ11月末の最終発表に向けて後半戦にはいってきました。7月末に4−5名のチームが8つ立ち上がっています。LCLでは、いわゆる講師として学校の先生だけにきてもらうのではなく、クリエイティブパートナーという創造性に関わっている人たちとも交流してもらっています。そのなかの一つの企画として、8月にクリエイティブ・プロジェクト・ベースの倉成さん、それから講師としておなじみの「みつかる+わかる」の市川力さんにお話してもらいました。

 

この二人には3年前にも対談してもらっています。なので、今回「好き勝手、なんとなく、とりあえず 〜あれから3年」というテーマで話してもらいました。その中で見えてきたのが、教師の中のプロフェッショナリズムとアマチュアリズム。プロだからこそできること、アマチュアだからこそ見えるものがある。しかも、何かの創造者になるのであれば、誰も歩いたことのない道を歩く、という意味で「素人」の要素は大事なのだから、狭い意味での「玄人」に拘泥しないことが大切、という話です。今、教師に求められていることはあまりに多い。本当にあれもこれもやって、全てのことに対して「プロ」の顔をする必要なんてあるのでしょうか。「教師」の仕事の「プロ」と「アマ」について一緒に考えられたらと思います。

 

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カリキュラムデザインを探究する6ヶ月の講座「カリキュラム工作室」をスタートしました

カリキュラム・マネジメントと聞くと、それだけで「やらなければならないことだらけ」「負担が増える」というイメージはないでしょうか? 今、世界的に教師が努力すればするほど学習内容が増えてしまうという問題が起きており、カリキュラムオーバーロードと言われています。さまざまなコンピテンシーを身につけさせてあげたいと思うがあまり、逆に「詰めこみ」になってしまうのです。しかし、こうした負荷の大きいカリキュラムは教師にとって負担なばかりではなく、生徒にとっても学びが薄く、効果の低いものになってしまう可能性があります。

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【2021年10月〜2022年3月】シンプルに深く学ぶカリキュラムデザインを探究する「カリキュラム工作室」

カリキュラム・マネジメントと聞くと、それだけで「やらなければならないことだらけ」「負担が増える」というイメージはないでしょうか? 今、世界的に教師が努力すればするほど学習内容が増えてしまうという問題が世界中で起きており、カリキュラムオーバーロードと言われています。さまざまなコンピテンシーを身につけさせてあげたいと思うがあまり、逆に「詰めこみ」になってしまうのです。しかし、こうした負荷の大きいカリキュラムは教師にとって負担なばかりではなく、生徒にとっても学びが薄く、効果の低いものになってしまう可能性があります。

「カリキュラム工作室」(オンライン講座)では、概念や学習材に基づく探究とカリキュラム研究の基礎的・応用的な仕組みを学び、学習内容を構造化するスキルを身につけます。そして「学び」の意味を問い続けることで、児童・生徒・教員の負担を減らしながらも真に意味のある探究カリキュラムを作っていきます

具体的にはたった一つの「概念」を主軸に置くことで、授業をスリム化していきます。そうすることで、一人ひとりの児童生徒、教員が持っている異なるコンピテンシーがある概念を中心に互いに紐づいていく学びのプロセスを生み出すことができます。人は一人ひとり違う個性的な人間です。そうした個性と多様性を認め、できることもできないこともあっていい学び・評価を容易にします。

また、一条校としてカリキュラムデザインを行う場合、学校教育施行規則などのカリキュラムの前提を尊重しつつ、学習指導要領を柔軟に引き算的に使うことは必須です。「教科書」を基準に考えるとデザインは難しく感じますが、学習指導要領を有効に使うことが実は負担のないカリキュラムと明確な評価の近道となります。
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オルタナティブスクールのさきがけ、文化学院を創立した与謝野晶子がスペイン風邪で語ったこと〜私たちの教育のルーツを辿る(8)

新型コロナウイルスもデルタ株となって、一層感染力が強くなりました。10代以下の子どもたちにも感染が広まっており、私たちが住んでいる東京は連日5000人以上の新規感染者数を記録しています。二学期ももうすぐ始まる中、本当にこのまま新学期を迎えていいものだろうかと不安な毎日を過ごしています。

そんな中、与謝野晶子がちょうど100年ほど前に大流行したスペイン風邪の時に、政府の対策を批判して書いたものがある、と知人が教えてくれました。デジタル版があったので、早速読んでみたのですが、政府の感染症対策、不平等な社会への批判を痛烈に行なっていることに驚きました。与謝野晶子といえば、『みだれ髪』にみられるような情熱の歌人のイメージがありますが、大正時代に「文化学院」という非常に先進的で個性的な学校の創立メンバーの一人として、人生の後半生は夫の与謝野鉄幹と共に教育に多大な時間を割きました。今日は歌人としてよりは「評論家」「思想家」「教育者」としての与謝野晶子について少し書いておきたいと思います。

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公正・正義を教育のめがねで探究するその5:デューイ『民主主義と教育』そして総括

 

さて、「正義」のブログも5つ目、いよいよ最後になります。今回の「哲学登山」テーマは「正義」だったのですが、プログラムとしての目標は「民主的な教育を人々と正当に実践するための考え方を理解する」ことに置きました。つまり「民主的」ということを考えるためには、“自分なりの正義”の理解と感度を持つことが前提条件になる、ということです。でも、「正義」を今の現実社会の中でどのように実践していけばいいのか、ということを考えた場合にはどうしても、「民主主義」ということを考えなければならないし、さらには、「教育」に携わる私たちは、それを「教育」「学校」という文脈で考え続ける必要があります。そして、それを生涯にわたって考え続けたのが、ジョン・デューイです。

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公正・正義を教育のめがねで探究するその4:サンデルの共通善とアリストテレス

前回、サンデルの本について書きました。ただ、なぜサンデルが共和制に美徳を感じているのか、またアリストテレスを思想の基礎に置いていることは多少わかっても、なぜあれだけリベラル批判をしているのかはわかりません。今回サンデルについてはいくつか読みましたが、圧倒的に面白かったのが、『民主政の不満』でした。この本は、アメリカの建国以来の憲法の判例や政治家の発言をたどりながら、建国当初に大事であった共和主義がいかに衰退し、次第に(彼の批判する)リベラリズムに陥ったのかということについて記述されています。ここから、コミュニタリアンがどのように「善」を考え、「リベラル」を批判しているのかの思想の一端を見ることができるような気がします。また、コミュニタリアニズムの理解のためには、ある程度アリストテレスの理解が必要となってくるため、倫理学としての主著にあたる『ニコマコス倫理学』についてもまとめておきたいと思います。

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公正・正義を教育のめがねで探究するその3:サンデルのメリトクラシー批判

 

さて、本テーマのブログその1の冒頭に紹介したマイケル・サンデルですが、前回に紹介したロールズの批判者として有名です。1980年代から1990年代にかけて、いわゆる「リベラルーコミュニタリアン論争」がありました。コミュニタリアンは、ロールズの「リベラリズム」では、人びとの「善い生」を可能にする正義は構想できないと批判しました。そしてコミュニタリアンの代表的論客の一人がマイケル・サンデル、ということになります。サンデルといえば、NHKの「ハーバード白熱教室」でご存知の方も多いでしょう。『これからの「正義」の話をしようーいまを生き延びるための哲学』もベストセラーになりました。

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公正・正義を教育のめがねで探究するその2:ロールズ「コーポラティブベンチャー」を教育に応用する

 

前回は「正義」についてプラトンを中心に考えました。今回は、二十世紀最大の政治哲学者と言っても過言ではないジョン・ロールズの思想について「学校」のメタファーを使って考えていきたいと思います。プラトンは「正義」が何かについて非常に明快な示唆を与えました。でも、「どうやったら正義を実現できるのか?」については、複雑な現代に生きる私たちが具体的にすぐ行動を起こせるような、誰にでもわかるような方法(How)を指し示すことはありませんでした。

 

だって、さまざまな欲求を持ち、さまざまな個性・技能・卓越を持つわたしたちが全て幸福になれる世界なんてどうやったら実現するのでしょう?私たちは「家族」内や「職場」内ですら、お互いの価値を認め、いつもハッピーに暮らせるとは限りません。どんなに近しい人であっても、全く同じ主義主張を持つことはありえません。さまざまな考え方を持つ私たちが調和し、一緒に生きていくために、どうしていかなければならないのでしょう。ロールズは、そんなことを『正義論』で考えました。[i]

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