ブログ藤原 さと

オルタナティブスクールのさきがけ、文化学院を創立した与謝野晶子がスペイン風邪で語ったこと〜私たちの教育のルーツを辿る(8)

新型コロナウイルスもデルタ株となって、一層感染力が強くなりました。10代以下の子どもたちにも感染が広まっており、私たちが住んでいる東京は連日5000人以上の新規感染者数を記録しています。二学期ももうすぐ始まる中、本当にこのまま新学期を迎えていいものだろうかと不安な毎日を過ごしています。


そんな中、与謝野晶子がちょうど100年ほど前に大流行したスペイン風邪の時に、政府の対策を批判して書いたものがある、と知人が教えてくれました。デジタル版があったので、早速読んでみたのですが、政府の感染症対策、不平等な社会への批判を痛烈に行なっていることに驚きました。与謝野晶子といえば、『みだれ髪』にみられるような情熱の歌人のイメージがありますが、大正時代に「文化学院」という非常に先進的で個性的な学校の創立メンバーの一人として、人生の後半生は夫の与謝野鉄幹と共に教育に多大な時間を割きました。今日は歌人としてよりは「評論家」「思想家」「教育者」としての与謝野晶子について少し書いておきたいと思います。


【与謝野晶子がスペイン風邪で批判したこと】


1918 年から1920 年に流行したスペインかぜは、全世界で患者数約 6 億人。2000万から 4000万人が死亡したとされます。[i]東京都健康安全研究センターの集計によると、この足掛け3年の間に、日本でこの感冒に感染した人の総数は約2400万人、死者は40万人近くですので、昨日まで(2021年8月20日)の新型コロナウイルスの累計国内感染者数125万7615人、死者1万5580人と比べると、桁違いの状況だったことがわかります。当時、時代は第一次大戦(1914-1918)直後。明治政府がモデルとした強い中央集権国家だったドイツ(当時プロイセン)は大敗、ロシアでは革命が1917年に起き、日本では明治時代末期につくられた地主層の社会統制、特権意識が小作争議などの反発でぐらついていました。大戦景気と戦後恐慌が循環する中、1923年には関東大震災が起きます。


こうしてスペイン風邪が猛威を振るう中、与謝野晶子は『感冒の床から』『死の恐怖』という二つの論考を書きました。


『感冒の床から』が書かれたのは、1918年の11月、大きな感染の波が来てぐっと死者数が増えた頃です。こんな風に始まります。


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今度の風邪は世界全体に流行って居るのだと云います。風邪までが交通機関の発達に伴(つ)れて世界的になりました。この風邪の伝染性の急劇なのは実に驚かれます。

(略)

東京でも大阪でもこの風邪から急性肺炎を起こして死ぬ人の多いのは、新聞に死亡広告が植(ふ)えたのでも想像することができます。

(略)

盗人を見てから縄を綯うと云うような日本人の便宜主義がこう云う場合にも目に附きます。どの幼稚園も、どの小学や女学校も、生徒が七八分通り風邪に罹って仕舞って後に漸く相談会などを開いて幾日かの休校を決しました

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あまりに今の状態と似てはいないでしょうか。この時、どんな感じだったのか気になったので、少しグラフを並べてみました(暇人)。


今現在の新型コロナウイルスの感染者数推移データが一番上、次が1918年から1920年までの日本国内における死亡者数推移のデータ(黒線が死亡者総数)です。[ii] 一番下はアメリカCDCに掲載されていた、米国におけるスペイン風邪の死亡者推移のグラフです[iii]。X軸を目分量ですが一年の長さを大体同じくらいに調整(期間はずれています)、真ん中のグラフで与謝野晶子が『感冒の床から』と『死の恐怖』を書いた時期をマークしてみました。当時の状況のイメージがつくでしょうか。(ちなみにここでは、どのような時期にこれが書かれたのかということを感覚的に掴みたいというだけであって、科学的な分析でもなく、予測的なことを言っているわけでもないので、ご留意ください)


与謝野晶子は、この論考でその夏の米騒動で、苦しい民衆が暴動を起こした時には都市で5人以上集まって歩くことを禁じたのに、国民の命が晒されているスペイン風邪の真っ只中にあって、「多くの人間の密集する場所の一時休業を命じなかった」政府の身勝手さを鋭く批判します。


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米騒動の時には重立った都市で五人以上集まって歩くことを禁じました。伝染性の急劇な風邪の害は米騒動の一時的局部的の害とは異い、直ちに大多数の人間の健康と労働力とを奪うものです。政府はなぜ逸早くこの危険を防止する為に、呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか。そのくせ警視庁の衛生係は新聞を介して、成るべく此際多人数の集まる場所へ行かぬがよいと警告し、学校医もまた同様の事を子供達に注意して居るのです。

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さらに、町医者が市井の人たちには高額な薬を処方せず、下層階級は売薬で間に合わせている状況を、「貧民であると云う物質的の理由だけで最も有効な第一位の解熱剤を服すことが出来ず他の人よりも余計に苦しみ、余計に危険を感じると云う事は、今日の新しい倫理意識に考えて確に不合理」と論じ、「平等はルッソォ(ルソー)に始まったとは限らず、孔子も『貧しきを憂いず、均からずを憂う』」と言ったと嘆きます。


1920年1月の『死の恐怖』になると、身に迫る危険に死について考えながらも、自分の子どもたちのことを想い、子どもたちのためには心穏やかに死ぬことはできないと、内容が深刻になります。


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悪性の感冒が近頃のように劇しく流行して、健康であった人が発病後五日や七日で亡くなるのを見ると、平生唯だ『如何に生くべきか』と云う意識を先にして日を送って居る私達も、仏教信者のように無常を感じて、俄に死の恐怖を意識しないで居られません。

(略)

生にして楽しくば、死も楽しく、死にして悲しくば生も悲しく、否寧ろ苦楽悲喜の交錯が絶対の存在其物であると思われます。

(略)

私の死に由って起る子供の不幸を予想することの為めに、出来る限り生きて居たいと云う欲望の前で死を拒んで居るのです。

(略)

今は死が私たちを包囲して居ます。東京と横浜だけでも日毎に四百人の死者を出して居ます。明日は私達がその不幸な番に当たるかも知れませんが、私たちは飽迄も『生』の旗を押立てながら、この不自然な死に対して自己を衛ることに聡明でありたいと思います。

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晶子には11人の子供がいました[iv]。友人の医師に頼んで、(当時認可されていたものではないと思いますが)予防接種を受けたり、子供の学校を休ませたりと、最大限の努力をした様子が書かれています。

 

【与謝野晶子ら文化人と文化学院】


晶子はスペイン風邪を切り抜けることができました。少し落ち着いた頃、1920年4月に友人である建築家の西村伊作が東京神田駿河台の土地を購入し、小学校6年生の娘のアヤを入れたい学校がないということから、学校をつくることを考えます。当時の女学校は「堅苦しく、昔風」で「束縛され、自由を制限される」ものでした。西村は子どもたちにもっとのびのびとしたあかるい芸術教育をほどこしたいと考え、この構想を敬愛する晶子と、画家の石井柏亭に相談します。[v]この時のことを、与謝野晶子は「文化学院の設立について」で書いています。


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西村氏からこの事の相談を最初に受けたのは石井柏亭氏と私とでした。画家である石井氏、詩人である私、この二人に対して、西村氏はその学校の実際の責任者となることを求められたのでした。私たちがそういう教育の重任に就くということは、言うまでもなく、社会の常識から見て突飛であるでしょう。西村氏はそれほど思い切った教育上の改革意見を齎らして私たちを驚かされたのでした。この事は私たちにも突然でしたが、石井氏にも私にも久しい間の親友である西村氏から相談を受けて見ると、三人が、一般の教育について、朧気ながら持っている平生の意見が期せずして一致し、話せば話すほど、実行方法の細部にわたる点までが同感であるのを発見しました。それで石井氏も快く進んでこの重任を引受けられ、私も喜んで石井、西村両氏の驥尾に付くことを承諾するに致りました。

「太陽」1921年1月

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そして1921年、文化学院は設立されます。当時の学校令に縛られない自由でより創造的な学校とするため、各種学校として43名の女子生徒とともにスタートし、一流の芸術家、文化人による授業が行われました。今でいうオルタナティブスクールのはしりになります。


制服はなく、自由な校風。みんな思い思いのおしゃれをして通ったようです。建物の設計はもちろん西村伊作自身によるもので、学校設立当初の校舎を模したものは今、軽井沢のルヴァン美術館にいくと見ることができます。

(ルヴァン美術館ホームページ https://www.levent.or.jp/


晶子は、教育の目標を「個人個人の創造能力を、本人の長所と希望とに従って、個別的に、みずから自由に発揮」し、「完全な個人」を作ることにおきました。


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私たちの学校の教育目的は、画一的に他から強要されることなしに、個人個人の創造能力を、本人の長所と希望とに従って、個別的に、みずから自由に発揮せしめる所にあります。これまでの教育は功利生活に偏していましたが、私たちは、功利生活以上の標準に由って教育したいと思います。即ち貨幣や職業の奴隷とならずに、自己が自己の主人となり、自己に適した活動に由って、少しでも新しい文化生活を人類の間に創造し寄与することの忍苦と享楽とに生きる人間を作りたいと思います。言い換れば、完全な個人を作ることが唯一目的です。「完全な個人」とは平凡に平均した人間という意味でもなければ、万能に秀でたという伝説的な天才の意味でもありません。人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえいれば宜しい。それで十分に意義ある人間の生活を建てることが出来ます。

「文化学院の設立について」

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文化学院のカリキュラムは「修養部」と「創作部」に分かれていました。

「修養部」―精神講座、数学、自然科学、人文科学、日本文学、外国語、外国文学等

「創作部」―文学、絵画、西洋音楽、西洋舞踊、図案、手芸など

これらの過程はいずれも生徒が一通り聴講しなければならないのですが、試験は自分の興味のある学科を2つの部の中から4種だけ任意に選択して、その科目について受ければ良いということになっていたそうです。[vi]

特に驚きなのが、精神講座を中心とした教師陣。与謝野鉄幹、晶子夫妻だけではなく、川端康成、菊池寛、佐藤春夫、有島武郎、北原白秋、芥川龍之介、萩原朔太郎なども講義を行いました。横光利一、小林秀雄が文芸評論を担当し、世界恐慌を経て世の中が戦争に向かう中、自由主義を掲げた同校は思想家にとても魅力のある場所であったようです。三木清、田中美知太郎、美濃部達吉、吉野作造といった学者、寺田寅彦、和辻哲郎も講壇に立ちました。文化学院は、芸術・文芸・芸能などさまざまな分野で人材を輩出しましたが、1943年、反政府思想による天皇批判、自由思想によって西村伊作は不敬罪で監禁され、文化学院も閉鎖命令を受けます。与謝野晶子は1940年に脳溢血で倒れ、その2年後に65歳でなくなります。戦後、西村はそのまま釈放され校舎も返還されて、文化学院はさまざまに形を変えて存続しますが、2018年に閉校します。[vii]

晶子は、文化学院設立の2年前、1919年5月の『中央公論』に「教育の民主主義化を要求す」という論考を出しています[viii]。ここでは国語科における口語の使用や、読本や唱歌における詩歌の質などについての提言[ix]と共に、公選制教育委員会の創設について提案していることに驚かされます。


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現在の教育は文部大臣と、それに属する官僚的教育者とに由って支配されている教育です。臨時教育会議というような文部大臣諮殉機関が出来て、官民の間から委員が選ばれることもあるようですが、その実際は真の国民の代表者は参加しておらず、国民の中の特権階級である少数の財閥者がそれもほんの申訳だけに一、二の人たちが加っているに過ぎません。私は司法部の改造を唱える人たちが陪審制度を要望し、それに依って司法部の民主主義化を計ろうとするように、府、県、市、町、村に民選の教育委員を設けて、我国の教育制度を各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任し、これまでの官僚的画一制度を破ると共に、普通高等一切の教育を国民自治の中に発達させて行きたいと思います。

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つまり、明治政府が当時教育制度を国家主導でつくったことは時代背景として致し方がないけれども、もはや教育が国民から孤立していることは適切でない、文部大臣と従属する官僚的教育者によって支配されている教育を変えねばならない、と言っています。具体的な提言としては、今私たちの教育委員会にあるように、都道府県、市区町村に民選の教育委員を配置するように求めています。これは歴史的にも画期的なものだったとのことです[x]。文芸だけではなく、政治や社会に対しても卓越した見識を持ち、それを提言する気概も持ち合わせていたことが伺えます。これで11人の子どもを育て、残した歌は五万首とも言われるから、どれだけバイタリティーのあった人なのだろう、と感嘆するほかありません。


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つい3日前の夜(8月18日)、東京パラリンピックの会場で子どもたちが試合を見ることについて開かれた都の教育委員会の臨時会で、出席した4人の委員全員が感染の急拡大や医療体制の危機的な状況などを理由に反対しました。これに対して都の教育庁が、今回は議決を要しない報告事項であり、「現場から強い希望がある」などとして実施を前提に準備を進める考えを示した、ということが報道されました。これを与謝野晶子がみていたら、どう思うのでしょうか。


私も、昨今さまざまなことが民主的とは思えないプロセスで決まっていることに、懸念以上に恐怖を感じています。おかしなことは、おかしい、と声を上げる勇気を持ちたいと思っています。


今日はこの辺で。



※日本の教育のルーツについて書いたものはこちらからまとめて見れます。
https://kotaenonai.org/tag/roots/

[i] 「日本におけるスペインかぜの精密分析」東京健安研セ年報 Ann. Rep. Tokyo Metr. Inst. P. H., 56, 369-374, 2005

[ii] 「日本におけるスペインかぜの精密分析」東京健安研セ年報 Ann. Rep. Tokyo Metr. Inst. P. H., 56, 369-374, 2005

[iii] 米国CDC(Centers for Disease Control and Prevention)公式ページ
https://www.cdc.gov/flu/pandemic-resources/1918-commemoration/three-waves.htm

[iv] もう一人、生後二日で亡くなった子がいます。

[v] 『学校改革の史的原像―大正自由教育の系譜をたどって』中野光 黎明書房P136

[vi] 同上 P140

[vii] https://ryotokuji.ac.jp/bunka/about/history.html

[viii] https://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/3640_6556.html

[ix] 前年の1918年、鈴木三重吉が『赤い鳥』を創刊。創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子らが賛同の意を表明しています。この辺の活動についてはまた別途まとめます。

[x] 『学校改革の史的原像―大正自由教育の系譜をたどって』中野光 黎明書房P140

 


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