アートと教育(3)デューイ・民主主義とクラフトマンシップ

シラーカントと読んできた「アートと教育」ですが、デューイで一旦区切りをつけたいと思います。結論から言って、、デューイ、やっぱり面白い!!です。デューイの感覚って民主主義に対する考え方もそうなのですが、芸術(Art)に関しても、教育の観点が根底にあります。そのことによって、アート(芸術)が誰しもに開かれたものになっていきます。カントもシラーももちろん、私たち一人ひとりが「心に自由を持っていい」と言ってくれたわけですが、まだまだ「芸術作品」は一部の才能ある人たちが生み出すものだと考えられていた時代でした。カントは「天才」に関する考察を行い、普遍的で次世代の模範となるような作品を生み出す人たちについて考えました。シラーも自身がドイツではゲーテと並ぶ大詩人と評価されており、子どもの制作する拙い遊び道具までが芸術作品だとは言わなかったかもしれません。

 

一方で、デューイは『経験としての芸術』において、いったん芸術作品が古典としての地位を獲得すると、どういうわけだかその作品は、それを生み出した人間生活の諸条件から孤立し(略)博物館や美術館に追放されている、と批判します。たいていのヨーロッパの美術館は(略)国家主義と帝国主義興隆の記念物である[i]とまで言っています。

 

デューイは、芸術作品を理解するためには、芸術作品から一旦目をはなして、普通には美的とはみなされない経験のごく日常的な働きや状態に理解の手掛かりを求めなければならない、芸術作品(the work of art) とは芸術の働き(work)なのであり、芸術のほんとうの働きはその作品が経験において、そしてまた経験にかかわって何をなすかということであることだ、と考えました。[ii]また、洗練された芸術作品と日常的な出来事・行為・苦しみとの間に連続性を回復することを求めます。[iii]デューイは、野球選手の優美なプレー、そして草花の手入れに夢中になっている主婦の喜びに芸術の源泉を読み取りました。よい仕事をすることに熱心で、自分の手になる作品に満足を見いだし、まじり気のない愛情をもって材料と道具を大切にして仕事をする知的な職人(クラフトマン)こそが、仕事に芸術的に携わっている、というのです。[iv]

 

今回の一連のブログの冒頭にもお伝えした通り、アートや美学について考えるきっかけとなったのは、ロン・バーガーの本『子どもの誇りに灯をともす』でした。原題 “An Ethic of Excellence” の副題は、”Building a Culture of Craftsmanship in Schools”。それこそ彼は、子どもたちに職人たることを求め、学校にクラフトマンシップの文化をつくるように求めます。なぜ、ロンは子どもたちにクラフトマンであることを求めるのか、デューイとともに考えていきたいと思います。

 

【仕事と遊び】

 

芸術とクラフトマンの関わりについて考えるとき、まず、仕事と遊びについて、デューイがどのように考えていたのかを『民主主義と教育』(第15章[v])からまずみていきたいと思います。

 

デューイは、「活動的作業」には「遊び」と「仕事」の両方が含まれているし、その両者は私たちが思うほど遠くはない、と考えます。五十歩百歩という表現は正確ではないかもしれませんが、質的に同じで、「遊び」はその手段と目的が時間的にも近しいけれども、「仕事」はその目的がだんだん遠くなり、時間的にも持続性があって、手段も多様、そして複雑化していったものだと考えています。そういう意味でデューイにとって「遊び」は「仕事」と地続きなのです。

 

ここで、シラーの時に私が自分の経験として振り返った模様替えの様子をちょっと思い出していただけると嬉しいです。子どもの頃の私は、自分の部屋を自分の好みのものにしたいと考え、枕カバーや布団カバーを作ったり、本棚を白く塗り替えたりしていました。私にとってはそれは全くの「遊び」の感覚であり、「仕事」だと思っていませんでした。でも、どんな布を布団カバーに使い、どれだけの長さのジッパーを縫えば、布団の出し入れがしやすいのかを考えなければなりません。また布地の肌触りがよくなければならないし、洗濯に耐えうるものにしなければなりません。当然、家にある布団のサイズにぴったり収まるように大きさを調整します。また、魚を飼っていたのも単に楽しいからしていただけで、本人は遊びだと思っていましたが、水温を整えたり、魚が病気になれば、薬の分量(だいたい何リットルに対して何gというふうに表示されます)を正確に測らなければなりませんでした。

 

ここでは「目的」は与えられたものではなく、極めて自発的なものであり、また自由に素材や薬を選ぶ(もちろんお小遣いの制限はありましたが)のなかで、さまざまな空想(想像力)を巡らせることが可能でした。デューイは遊びの概念の特徴は娯楽性でも無目的性でもなく、目標がある中で、その活動が複雑になるにつれてさらに多くの意味が付け加えられ、徐々に「仕事」に転化していくと考えました。(経済的情況に歪められない限り)遊びも仕事もともに等しく自由だと言ったのです。

 

だとしたら、私が「模様替え」において「仕事」ではないと思っているとしたら、デューイ的には考え直さなければならなくなります。確かにシラーの回で書いたように、あのときの「模様替え」と私の今の仕事の仕方はほとんど同じなのです(参考:慶應SFCの学生さんに授業をしたときのブログ)。さらにデューイは「遊びの態度がたっぷりふくまれたままでいる仕事はーありきたりの意味ではないにしても、質においてー芸術なのである[vi]」と「仕事と遊び」の項を締めくくっています。

 

え!!!!、あの模様替えの遊びは「芸術(Art)だったのですか!???

 

 

【本当の学びの意味を実感するための鑑賞(Appreciation)と民主主義】

 

私の「模様替え」の経験は学校外でおきました。でも、もしそれを芸術という言葉を媒介に教育的価値として接続させるとしたら、どのように考えていけばいいのでしょうか。

 

デューイは、私たちの経験の多くが「間接的」なものとなり、記号化されていること、そしてそうした記号が意味のあるものとして子どもたちに伝わっていかない学校教育を嘆きました。たとえば、昨年10月からイスラエルによるガザ侵攻が始まりました。しかし、ガザで起きていることをテレビやSNSで読むことと、実際にその場にいて、砲撃の爆音を聞き、目の前で大切な人たちや子どもたちが殺されたり、大怪我をしたり、どんなにお腹がすいても、喉が渇いても、清潔な水を一口飲むことすらままならないという具体的な経験をすることには大きな隔たりがあります。

 

単なる文字の羅列を追ったり、記憶するだけではなく、その意味を実感(realizing sense) することが大切だと言ったのです。その直接的経験(爆音や空腹)の緊迫さや暖かさや親密さを心から実感(mental realization)できるようになるにはどうしたらいいのでしょうか。そのときにデューイが心配したのは、子どもたちの多くは、系統的な学習による記号的な間接的経験を自分のものとするには直接的情況実感の基礎が圧倒的に足りない[vii]、ということでした。だったらそれは育てなければなりません。そしてそのためにデューイは間接的な記号から直接的な経験の意味を深く感じるための方法として「鑑賞(appreciation)を提案したのです。ガザの経験は単なる記号として、私たちや子どもたちの前を通り過ぎてはいないでしょうか。教材を手渡して、間接的経験をさせたらそれでOKという態度をデューイは強く戒めました。間接的経験は直接的な経験に繋げられ、心で実感し、心で味わうように育てていかなければならないのです。

 

では「鑑賞(appreciation)」はどのようになされなければならないのでしょうか。私たちは、「美」や「正義」や「忍耐」などの価値基準を学校で「教えられて」きましたが、デューイは、そういった教え方こそが、直接的経験と間接的経験の乖離を生むと考えています。そうではなく、本当の「価値基準」とは「自分自身で具体的情況において、非常に有意義であると、ひとつひとつじっくりと鑑賞してきたものによって決まる[viii]」と言います。それはもちろん自分の好きな音楽のジャンルで鑑賞の経験を重ねてもいいのですが(それすら学校ではなかなか許されません)、道徳的価値や知的価値の判断においても、鑑賞の意味は大きいと言います。

 

たとえば、「他人に対する親切」の意味を何度も繰り返して経験して、その経験を自分のなかに本当に取り込めたら、他者に惜しみなく振る舞うという価値尺度を持てるようになるはずです。でも、こうした「生きた鑑賞」がなければ、押し付けられた価値基準は、象徴の問題に止まり、無意識的な偽善すら生むリスクがあります。同じ理由で、デューイは鑑賞を文学や絵画や音楽のようなものだけに限ることは、大きな間違いだと言います。

 

デューイは「鑑賞」について『民主主義と教育』の第18章[ix]ではカントの言葉を使いながら、鑑賞的実感が記号的でないものにしなければならない一方で、知性・悟性の働きからも区別されてはならないと言います。想像力はあらゆる分野での鑑賞の媒介手段であるとともに、「想像力」を子どもの成長の一時期における夢想的で「非現実的」な面を不健全に誇張させず、私たちの日常経験と分離させないようにと忠告します。

 

ここでいう想像力は「模様替え」で起きることとも関連しています。模様替えのプロセスでは「この作業は今日ここまでにしよう」とか「あまりに好き勝手にやりすぎるとお母さんに怒られちゃうかな」などとさまざまな想像を巡らせていくのですが、そうした過去といま、そして未来を繋ぐ時間的な物事の把握や、買い物なども含めた空間の把握などの実感は、「模様替え」の活動と想像のなかで培われていきます。もちろんユニコーンを空中に飛ばすような想像(ファンタジー)ももちろんあり、それはそれで価値があるのですが、こうした具体と繋がった(目立たず、あまり一般にはイマジネーションと認識されない)想像も同等に大事だとデューイは言ってくれるのです。

 

もちろん私のつくった布団カバーは、「芸術作品という観点からみれば当然に不完全[x]」です。でも、この営みは「真の鑑賞」を含めば、しばしば萌芽的魅力をもち、「経験」としては活動の質は技術的であるばかりではなく「美的」であるとデューイは指摘します。さらに「模様替え」の社会的に有用な価値が強調されると、実用的・産業的価値になるし、人々の好みに訴える直接的性質がより一層鑑賞される方向になるとそれらが美術に成長すると言います。その意味で、「鑑賞(appreciation)」は拡大され、強化された評価となります。

 

鑑賞(appreciation)の反対の言葉は軽視(depreciation)です。たとえば、私の拙い布団カバーにあちこちケチをつけて、depreciateすることは容易です。でも、教育的な意味でいえば、こうした何の変哲もない経験に意味を与え、魅力あるものにしていく鑑賞(appreciation)にもっと注意を払ってもいいはずです。こうした温かい鑑賞を受けることによって、子どもたちは自己の標準を下回る状態に対する不満を感じ、自己の水準に合う環境を求める欲求を生み出していくと言います。つまり、子どもたちは鑑賞のプロセスによって、自らの価値基準に意識的になり、モチベートされ、成長することを背中から押されるような経験をする、ということだと思います。鑑賞の経験によって、「平凡で取るに足りないものとなりかねない経験」の意味と深さが拡張され、子どもたちは「ものを見る眼」を獲得していくのです。[xi]

 

【ロン・バーガーの批評と民主主義】

 

では、上述のデューイの考え方[xii]を発展させ、ロン・バーガーが鑑賞をどのように実践で扱っているかを見ていきたいと思います。ロン・バーガーの教育実践の特徴は、教科書を手本にするのではなく、教師自身がこれは「美しい」と感じるものを、自分の価値観や感覚を信頼して選び取り、それを模範(Model)として活用することにあります。ロンは今さまざまな新しい価値観が押し寄せてきている現代において、政府や行政のプロセスを経て、国によっては検閲を受けた「教科書」を学びのモデルとはせず、コミュニティ、日常生活、身の回りの自然、時事(ちいさな、もしくは大きな)を学習材として扱います。

 

『子どもの誇りに灯をともす 原題:An Ethic of Excellence』の実践の一例で、ジェニーという6年生の女の子が登場します。ジェニーは学習障害があり、読み書きや計算を容易にこなすことができず、時には涙を流すような子です。しかし、彼女は最終的に素晴らしい住宅設計図をつくります。はじめの草案はコンセプトや空間表現も混乱しており、何が描かれているのかもわからないものでした。しかし、友達のニコルの個人批評を経て、断面に対する理解の向上と、計画的に描かれたものになります。第3案はクラスの批評を受けましたが、後退する内容になり、4案は明確で機能的なレイアウトになり、岩の陰影が丁寧に描かれ、部屋の名前もきちんと書かれていました。その後、彼女はカリグラフィーを学びたいと相談します。そして最終の第5案では、素晴らしい図面になっただけではなく、整然とした綺麗な文字で書かれていて、とても美しい作品(beautiful work) になっていました。[xiii]

 

このプロセスにおいて、ロンは鑑賞(appreciation)から一歩進んで批評(critique)のプロセスを取り入れます。ロンは、教育現場において、子どもたちも簡単に日常的に実践できる非常にシンプルでパワフルな批評のルールを提案しています。[xiv]

・優しく(kind)

・具体的で(specific)

・助けになる (helpful)

この批評が「鑑賞的」であることは一見して明らかです。一般的に批評というと、ある対象の諸々の意味を論じ、それは必ずしも温かいものばかりではないかもしれません。でも、ジェニーのカリグラフィーをやりたいと先生に相談するときの真剣な眼差しや、自信がなくてクラスの批評を受けることを恥ずかしがっている彼女を見つめるロンの眼差しは限りなく優しいのです。クラスメイトが3つのルールに乗っ取った批評をすることによって、ジェニーは安全に作品の質を上げるプロセスを辿っていきました。ジェニーは普通のテストではなかなか成果を出すことはできません。でも、自らの標準を確認し、「自己の水準に合う環境を求める欲求」を表明し、人間として成長していきます。

 

Austin’s Butterfly (Ron Bergerの批評実践のショートビデオ)

 

ここで、デューイが、私たちの経験の多くが「間接的」なものとなり、記号化されていること、そしてそうした記号が意味のあるものとして伝わっていかないことが、民主主義の大きな欠陥になると指摘した部分に戻っていきたいと思います。デューイは世界のさまざまな出来事を自分のこととして意味を実感(realizing sense)できないと、真の意味での民主主義は成立しないと考えていました。デューイにとっての民主主義は多数決ではなく「コミュニケーション」でした。

 

私たちの共同体は、ただただ人から「目的」を与えられ、機械的に働いているだけの工場ではありません。そうではなく、私たち一人ひとりがそれぞれが「目的」の更新に興味を持ち、自分たちの活動を主体的に調整してはじめて「ほんとうの意味での共同体」となるとデューイは考えます。その活動を支えるのがほかでもないコミュニケーションですし、そのことによってわたしたちは、拡大された経験を受け取り、態度や行動を変容させていくことができるようになりました。もちろん本やネットによって時空を超えた人たちとも繋がれますが、とても大切なのが意味の実感(realizing sense)をもって「ともに生活する」過程そのものこそが「教育」なのです

 

民主的な社会が成立するためには所属するコミュニティの関心ごとがコミュニケーションによって共有されていなければならないし、必ずしも同じ文化や信条を共有しない別のコミュニティとも健全に出会い、相互作用していかなければならないでしょう。でも、そうしたコミュニケーションを可能にするためには、「コミュニケーションしなさい!」といったところでどうにもなるものではありません。たとえば、能登半島の地震についても、寒い中寝れずに過ごしている人たちや、孤立している人たちの不安を単なる記号として捉えるのではなく、意味をもって深く感じるための「鑑賞(appreciation)」を提案したのです。ロンの批評のプロセスは、民主主義の実現にむけてのプロセスでもあるのです。

 

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アートと教育(1)の冒頭で、今回まとめてこのトピックで書こうと思った理由として、ロン・バーガーを日本に招聘し、研修を実施する[xv]ことをお伝えしましたが、先日ロンと研修の内容を話し合うためにオンラインで打ち合わせをしました。そのときに、茶道において私たちがどのようなプロセスで学んでいるのかについて話したのですが、その学びにおける鑑賞(appreciation)、そしてその鑑賞をどれだけ微細に行えるかが大きな差を生むこと、そしてそれが健全なモチベーションにつながることをロンは指摘しました。また、彼は茶道のお点前について”Performance”という言葉をつかったのですが、たぶんそこでイメージされているのは、観客との相互作用のことでしょう。芸術家が観客と対話し、観客が作品に参加したり反応することによって、作品はより高みに変容していきます。

 

デューイの『経験としての芸術』に戻ると、デューイも芸術哲学は芸術以外の経験の諸形態(日常生活)にかわって、どのように機能するか、また日常的な事物の生産がどのようにして真に芸術的な生産に成長するのかということについて真剣に考えなければならない、と言いました。[xvi]また、黒人彫刻家が作ったフェティッシュな作品を例にあげ、「ただひとえに無名の作家がその制作過程において、きわめて充実して生き、かつ経験した」ことそのものがその作品を芸術たらしめていると評価します。さらに、産業の発展はそうした生産活動における「いま」の軽視と、他人の労働の果実を食べる享楽としての消費を生んでしまったと嘆きます。[xvii]こうした考え方は、アーツ・アンド・クラフツ運動や日本の民藝運動に響き合っているように感じます。(バウハウスについての過去ブログ

 

デューイは晩年、1920年あたりから美術研究者であったアルバート・バーンズと連携し、芸術教育を民主主義によって前進させることに情熱を傾けるようになりました。フィラデルフィアの公立学校改革や、コロンビア大学、フィラデルフィア大学での芸術教育に関わり、晩年なるにしたがって、よりよい社会をつくりあげるための教育、そしてそのコミュニティの手段としての「芸術」に傾倒していきました。[xviii]関連ブログ)1970年代に「社会彫刻」という概念を提唱したヨーゼフ・ボイスというアーティストがいます。アートを社会的な変革やコミュニケーションの手段として考えるボイスと、あくまで経験として芸術を捉えていくデューイでは違うところもあるのですが、[xix]社会と相互作用しながら、良い方向性に向かっていき、その媒体として芸術(Art)を捉えていたという意味においては、とても近しいところがあるのではないでしょうか。

 

今、生成AIがさまざまな感情を反映し、人を驚かせるような作品をつくることさえできます。過去、私生活は無茶苦茶でも、新しい模範を提案できた人は「天才」と崇められました。しかし、今のような時代に見直されてくるのは、私たち一人ひとりが自分自身の人生に立ち戻って、静かに「美的生活」ひいては「美的人生」を紡いでいく、その営みそのものだったりするのかもしれません。

 

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ロン・バーガーの各研修については、こちらをご確認ください。
https://deeperlearningjapan.studio.site/

『子供の誇りに灯をともす』(英治出版)に寄せた解説が全文公開されました。

https://eijionline.com/n/n7837c15f35f2

 

※ブログは教育をテーマに私が考えたこと、感じたことや経験したことの足跡を残すために書いています。(一覧は以下)
https://kotaenonai.org/category/blog/satolog/

 

その中でも哲学に関わるものをまとめたものはこちら
https://kotaenonai.org/tag/philosophy/

 

<参考図書・文献>

『民主主義と教育(上・下)』デューイ、松野安男訳 岩波文庫

『経験としての芸術』デューイ、栗田修訳 晃洋書房

『経験としての自然』デューイ、栗田修訳 晃洋書房

『人類共通の信仰』デューイ、栗田修訳 晃洋書房

『学校の公共性と民主主義ーデューイの美的経験論へ』上野正道 東京大学出版会

『デューイと「生活者としての芸術」』西郷南海子 京都大学出版会

『子どもの誇りに灯をともす』ロン・バーガー、塚越悦子訳 英治出版

『探究する学びをつくる』藤原さと 平凡社

「後期デューイ存在論における個性概念の考察」古谷恵太 教育哲学研究82号(2000)

 

[i] 『経験としての芸術』デューイ、栗田修訳 晃洋書房 p7

[ii] 『経験としての芸術』デューイ、栗田修訳 晃洋書房 p1

[iii] 『経験としての芸術』デューイ、栗田修訳 晃洋書房 p2

[iv] 『経験としての芸術』デューイ、栗田修訳 晃洋書房 p3-4

[v] 『民主主義と教育(下)』デューイ、松野安男訳 岩波文庫 p7-25

[vi] 『民主主義と教育(下)』デューイ、松野安男訳 岩波文庫 p25

[vii] 『民主主義と教育(下)』デューイ、松野安男訳 岩波文庫 p63

[viii] 『民主主義と教育(下)』デューイ、松野安男訳 岩波文庫 p65

[ix] 『民主主義と教育(下)』デューイ、松野安男訳 岩波文庫 p61-89

[x] 『民主主義と教育(下)』デューイ、松野安男訳 岩波文庫 p70

[xi] 『民主主義と教育(下)』デューイ、松野安男訳 岩波文庫 p71

[xii] デューイは『民主主義と教育』18章(p72-) 評価に触れています。評価には「本質的価値」と「道具的価値」があるとし、特有の仕方で生活を豊かにする限り、その価値は本質的であり、他者と比較できないとします。究極的価値として掲げることのできる唯一のものは生活の価値であり、「道具的価値」のようになにかのために善なのではなく、善は「ただ善であるだけのもの」であると論を展開しています。

[xiii] 『子どもの誇りに灯をともす』ロン・バーガー 英治出版 p40

[xiv] 『探究する学びをつくる』藤原さと 平凡社 p123

[xv] 8月4-6日あたり、東京で研修予定です。詳細がきまりましたらご連絡します。連絡をご希望の方はこちらでメルマガにご登録ください。

[xvi] 『経験としての芸術』デューイ、栗田修訳 晃洋書房 p11

[xvii] 『経験としての芸術』デューイ、栗田修訳 晃洋書房 p28-9

[xviii] 『学校の公共性と民主主義』上野正道 東京大学出版会 p248-

[xix] デューイの『経験と芸術』から、デューイの芸術論に関わる記述を掲載しておきます。「美を経験に位置付けようとする理論は、自然のままの経験から説きおこさなければならない(p12)」「生命は環境のなかで進行する(p13)」「我々の日常経験の多くはーむしろ現実の小石の動き(上から色々なものにぶつかりながら転がり、最終的に停止する一つの経験)に近いのである(p45)」「芸術はー出ていくエネルギーと入ってくるエネルギーを一つに統合することである(p54)」「ある活動を表現活動に転換するのは、まさにこの衝動性と過去の素材の両者における質的変化である(p68)」「美術作品は色々なエネルギーをー糾合する。そしてこの寄せ集めたエネルギーを、浄化・強化・集中することによってリズム化するのである(p207)」ーーーー翻訳者の栗田修氏は「デューイは『経験と自然』において自分の哲学的立場を「経験論的自然主義(empirical naturalism)と呼び、人間の経験は自然を理解し、その謎を究明するための方法」だとしていると書かれています(p162) なお、デューイの存在論については、デューイは『経験と自然』や『人類共通の信仰』などにおいて、一貫して科学的な見方から離れません。「普遍的なものは個別的なものを理解する基準ではあるが、最終的で終極的なものではなく個別的なものとの接触を通して再構成される仮説的な基準」とおき、人間は「自然」であり、またほかの「自然」と相互作用する存在でありつつ、「反省的思考(reflective thinking) 」を媒介として危険の回避と確実性を求める独自な存在(古屋2000)と考えます。参考までですが、ノディングスは、『人生の意味を問う教室』において、ガードナーが「デューイにはヌミノースなものに関する感覚が完全に欠如しているとみている(p210)」と紹介しています。正直なところ(デューイ全部を読んだわけではありませんが、”A Common Faith””Experience and Nature”を読む限りにおいて)私もガードナーと似た感想を得てしまっているのですが(カントのバベルの塔の比喩や、ジェイムズの『宗教的経験の諸相』のほうに親近感を覚えます)現代においても世界中の教育者にこれだけの示唆を与え続けてくれるデューイには感謝しかありません。『経験としての芸術』ではアニミズムについても触れられており、晩年の鶴見和子さんも、デューイの「common faith」を非常にポジティブに受け止められています。ヌミノースなど感じ取れずとも、良き人生を全うできるのであれば、それは非常に教育的な話でもあります。今後理解を深めてみたいと思っています。

 

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