home > Blog > 藤原 さと > 学校であり学校を超える造形の学校―バウハウス



藤原さとです。


ちょうどこの夏、開校100年を記念して、東京ステーションギャラリーで「きたれ、バウハウスー造形教育の基礎」という展示や、バウハウス100年映画祭をやっていましたので、見てきました。1919年に第一次対戦で敗戦し、経済的にも疲弊していたドイツにできた「バウハウス」。「バウ」はドイツ語で「建築」を指します。この学校は全学年150名ほどの小さな学校で、ヒトラー政権が成立した1933年まで、14年間しか存続しませんでしたが、建築・デザインの世界では知らない人はいないというほどの影響力を今でも持ちます。まだどちらも8月末から9月頭にかけて上映や展示があります。ものすごく面白い学校で、且つこれだけまとまってバウハウスのことを知ることができる機会はそうそうないような気がしますので、ご紹介がてら備忘録を。



【バウハウスってなに? 活動?学校?革命?それともスタイル?】

 

バウハウス、訳せば「建築の館」ですが、とても不思議な学校です。“造形の学校”といわれるのになぜ建築? 実は、「きたれ、バウハウスー造形教育の基礎」の展示を見に行った時には、とにかく「???」だらけ。勿論、バウハウスのデザインの椅子や食器などはとても身近で懐かしかったし、パウル・クレーやカンディンスキーなどの講義メモや、さまざまなデッサンや絵を見ることはとても刺激的だったのですが、「学校・・・これ学校だよね?」と思いつつ、なんともいえないエネルギー。明らかに私たちの一般的な「学校」の枠を飛び越えてしまっているように見えました。

 

あまりに謎だったので、帰りに書籍も少し買ってみたのですが、「学校である」「革命である」「モダンデザインの基礎」「壮大な試行」などその定義は様々。勿論、学校は学校なのでしょうが、14年という短い期間の中でも、キャンパス、校長、カリキュラムすべてが変化し続けます。キャンパスは第一次大戦後に誕生したヴァイマール共和国の首都となった緑あふれる美しい街、ヴァイマールに始まりましたが、約6年後そこから追い出されるような形で移転した工業と産業の街デッサウで約7年、最後はナチスが台頭する中、私学としてベルリンに移転し、最終的には閉鎖します。学長も初代グロピウス、マイヤー、ミースと移っていき、コンセプトやカリキュラムも変容し続けます。

 

特に、創立当初手作りの手の込んだ一品生産の工房から、1922年には量産のデザインをグロピウスが打ち出し、去っていく教授陣も少なからずあったようです。そんな、しっちゃかめっちゃかにも見える混沌とした学校だったのに、100年経ってみれば、この学校で生まれたシンプルかつ機能的なデザインが20世紀の芸術や建築思想に与えた影響ははかり知れない、と言われるのだから、本当に不思議です。

 

 

【バウハウス宣言、そしてカリキュラム】

 

まず、私が、理解のとっかかりとしたのは、「バウハウス」の「バウ」が「建築」であること、そして初代のグロピウス校長が出した、「バウハウス宣言」でした。「バウハウス宣言」は、「すべての造形活動の最終目標は建築である!」という言葉から始まります。その後、「今日、芸術は自己満足的な独自性の上に立っており」それはすべての工作者たちが共同作業することで解放され、サロン芸術で失われた建築家的な精神が蘇る、としています。また、グロピウスは「建築家、彫刻家、画家よ。我々はみな手工作に戻らなければならない!なぜなら「芸術という職業」は存在しないからだ」と言います。芸術家は高められた手工芸家なのだから、手工芸家と芸術家の間に高慢に立ちはだかる壁を築く傲慢な階級意識を廃して、新たな手工芸のギルド、そして建築、彫刻、そして絵画のすべてが一つの形態になるような新しい未来の建築を望み、考え、創り出そう、と終わっています。

 

そして、カリキュラム図は以下のとおり。


この図の真ん中にあるのがBAU(建築)であり、外側から内側に向かってカリキュラムが進んでいきます。バウハウスに入った学生はどの専攻に進むとなっても、まずは予備課程(Vorlehre)という共通の造形基礎教育を受けます。半年後に作品展で進級が認められてからはじめて正式入学となり、工房に進みます。工房教育課程では、木(Horz)、石(Stein)、金属(Metall)、土(Ton)、ガラス(Glas)、織物(Farbe)、といった素材の中からひとつ選んで、その工房に入り、職人資格の取得を目標に3年の修行を積むことになりました。そこでやっと建築にはいるのですが、1927年までは正規の建築の授業は行われなかったそうです。(ちなみに、女性入学者も開校当初こそ積極的に受け入れたものの、途中からその方針は変わり、多くの女性は織物工房に押し込められ、工房でもさまざまな意地悪をされたりしていたようです。実は東京ステーションギャラリーで一番惹かれたのは織物。この辺は「バウハウスの女性たち」という映画に詳しいですが、グロピウスもカンディンスキーもクレーも女性についてはとても冷たかったようで、ちょっと残念です。)

(バウハウスアーカイブより、デッサウの織物工房)

 

【教授陣】

 

バウハウスの魅力のひとつが、グロピウスが声をかけた様々な分野の教授陣であり、特に「すべての造形活動の最終目標は建築」という中で、パウル・クレーやカンディンスキーのような20世紀を代表する画家が招聘され、真剣な講義がくりかえされたこと。東京ステーションギャラリーでの展示はこの予備課程における講義に使った資料や、モデル、作品などが数多く紹介されていますが、こんなに数学的、理論的に整理するんだと、驚くほどでした。クレーの授業は「造形思考」という本にもまとまっていますが、造形を非概念のカオスから動的に生成する運動と捉るなど、実際授業は詩のようで難解だったようです。

 

そのほか、小学校の教師があり、ウイーンでも技術教育に関わっていたイッテンは、バウハウスのカリキュラムの基礎をつくり、バウハウスの予備課程の導入を提案をしましたが、東洋思想を信仰し、ルソーやペスタロッチー、フレーベルなどの自然教育思想からも大きな影響を受けて、呼吸法や精神集中の授業なんかもあったようです。

 

また、そもそもですが、初代校長のグロピウス、三代目校長のミースは、フランク・ロイド・ライト、そしてコルビジェと一緒に現代建築の四大巨匠と言われています。(三大巨匠と言った場合はミース、ライト、コルビジェ) 二代目校長のマイヤーも建築家でした。

(ミースのワーズワース邸)


それにしても、グロピウスという人の求心力と「すべての造形活動の最終目標は建築である!」という理念にこれだけの人たちが賛同した、というのは驚くべきことであるとともに、少しわかるような気もします。グロピウスは第一次大戦の前に「ファグス靴型工場」で、“労働者のための宮殿”をつくりたいという工事場主の依頼を受けて、明るく衛生的で快適な新時代の工場を作りました。この工場は世界遺産にも登録されているとのことですが、そのルーツは19世紀末にイギリスで起こったウイリアム・モリスらのアーツアンドクラフト運動までたどることができます。この時代、産業革命によって人口の都市への集中化が進み、大量生産によってそれまでには考えられなかったほどの商品が供給されると共に、多くの粗悪品が市場に出まわりました。日に日に街が薄汚くなっていく中で、質の高い工芸品に回帰しよう、もしくは芸術を一部の裕福な人たちに独占させるのではなく、広く一般の人たちに日常として使ってもらいたい、美しい日常を取り戻したい、という気持ちは、特に芸術家たちの間では今では考えられないほどに強かったのではないでしょうか。

 

また、「なぜ建築?」「なぜ建築家が声をかけて、これだけの動きとなるんだろう?」というのも私の謎でした。でも、ふと思ったのですが、もしかしたら産業革命以前はもっと生活の中での美は生活と共存して、調和がとれていたのかもしれません。たとえば、亡くなった私の祖母はお茶の先生(表千家)をしていましたが、建物、庭、着物、花、掛け軸、茶碗、茶道具、などすべてが美しくて、その境界線は曖昧でした。祖母は花入れがとても上手だったのですが、誰もいない茶室に活けてある花は本当に見とれるほどだったし、正月の初釜でたくさんの着物を着た女の人たちを綺麗だな、と思ってキッチンから眺めていました。また祖母は謡を学んでいたため、上京するたびに(今は移転しましたが)松濤にあった能楽堂に連れて行ってくれていて、私はそれをいつも楽しみにしていました。演劇や着るもの、口にするもの、耳にするもの、目にするものは全て生活として繋がっているわけです。むしろその方が当たり前であり、正常なのかもしれません。

 

そうやって考えてみると、そもそも「バウハウスの意味がわからない」という時点で、私たちは日々色々なことに鈍感になりすぎているのかもしれないなぁ、と反省します。この時代のバウハウスの人たちに、「分かりにくい」などと言おうものなら、「分かりにくいと言うあなたのことが分からない」くらいのことは言い返されそうです。

 

(マルセル・ブロイヤーのワシリーチェア(復刻))

 

【変化のある時代】

 

そして、今回バウハウスの展示を見たり、映画を見たりしながら、ぼんやりと思い出していたのは、雑誌「赤い鳥」のことでした。「赤い鳥」も実は創刊が1918年とバウハウスの創立と一年しかずれておらず、バウハウスの閉校が1933年なのに対し、「赤い鳥」の廃刊が1936年とほぼ同時期になります。「赤い鳥」は、政府が主導する唱歌や説話を批判し、子供の純性を育むための話・歌を創作し世に広める一大運動を鈴木三重吉が宣言し、発刊されましたが、創刊号には芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、北原白秋、高浜虚子、徳田秋声らが賛同の意を表明しています。

 

「赤い鳥」と「バウハウス」は切り口は違うのですが、鈴木三重吉も創刊の趣意書みたいなものを書いていて、その内容がなんというか、アバンギャルドで、エキセントリックとすら思えるもので、グロピウスの宣言のほうが上品に見えるくらいでした。(この趣意書みたいなもの、昨年国際子ども図書館で100周年をやっていたので、そこで展示を見たのですが、ネットではすぐに見つけられず、、です。) バウハウスが芸術と造形の垣根を払い、産業や技術にもどんどん出て行ったように、「赤い鳥」も海外児童文学の膨大な量の翻訳、童謡、詩、挿絵と越境していきます。そしてその根底にあるのはどちらも失われていく美しさに対する「怒り」、もしくは「悲しみ」のように見えます。

 

そして、この時代は本当におもしろくて、1919年にははじめてのシュタイナー学校ができていますが、1900年から1930年の間に世界的に新教育運動があり、モンテッソーリ、ドルトンプラン、イエナプラン、フレネ教育など同時多発的に新しいものが生まれています。アメリカでジョン・デューイらが進歩主義教育協会を起こしたのもの1919年です。そして、この時期のものは、分野は違えども、最近特に見直されてきているように思います。この時代にワープして行ってみたい気になりますね。

 

 

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さて、最後に、もう一つ思い出したのが、私がまだ20代の頃にアメリカ留学中に住んでいたアパートです。 それがグロピウスの建築にとても似ていたのです。窓がとにかく気に入って入居したのですが、下記写真で左が住んでいたアパートの外観、右がグロピウスの「ファグス靴型工場」、下に入れたのが私の部屋です。似ていないでしょうか? そして、当時私はカンディンスキーの絵(もちろん安物のコピー)を部屋に飾っていたのでした。

 

さて、そんな思い出話はさておき、教育に携わる人、芸術や造形の好きな人、建築の好きな人、歴史の好きな人、どんな視点から見ても、今見ておくとよいのではないかな?と思いました。おすすめです。あと2−3週間はやっていますので、機会があれば、ぜひ訪れてみてください。

 

 

<参考>

「開校100年きたれ、バウハウスー造形教育の基礎」

「もっと知りたいバウハウス」 杣田 佳穂著 東京美術

映画「バウハウス 原型と神話」

映画「バウハウスの女性たち」

映画「ミース・オン・シーン」

映画「ファグスーグロピウスと現代建築の胎動」

映画「バウハウス・スピリット」

「造形思考 上下」パウル・クレー 土方定一ほか訳 ちくま学芸文庫



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