芸術と教育、そして民主主義

 

藤原さとです。

 

新型コロナで家に籠りはじめてから約2ヶ月が経ちました。実は先月の中旬に背中におできのすごいのができてしまって、炎症性粉瘤というらしいのですが、軽く麻酔をかけて切開をする羽目になりました。

 

一週間は身体が熱を持ってしまうほど痛くてロキソニンとお友達で、二週間くらいは背中を後ろにして寝ることができず。ここ数日でだいぶよくなりましたが、まだ背もたれに寄りかかることができません。もしかして免疫力が下がっていたのかなと思いつつ、世の中にはもっともっと大変な人たちがたくさんいるのだから、このくらいの痛みは甘んじて受けねばと思いながら過ごしたこの1ヶ月でした。

 

さて、昨年の今頃埼玉大学の小澤基弘先生(教育学部芸術講座 美術分野教授)の研究室にお伺いし、「ラクガキの本を書く」と伺っていましたが、その本『ラクガキのススメ』が先月出版され、私もエッセイを一本書かせていただきました。そんなこともあって「美術教育」「民主主義と教育」をテーマに、いくつか続けて読んだので、読書メモを書いておきたいと思います。

 

 

【ラクガキのススメ】

 

『ラクガキのススメ』は、「ラクガキこそ美術表現ひいてはあらゆる表現の根幹である」と考える教育系大学の美術教員の先生方が「ラクガキを考える会」というものをつくって、多様な「ラクガキ観」をとりまとめたものです。

 

子どもの頃はだれしも絵を描きますが、私も含め大人になるとあまり描かなくなってしまったり、描いたとしてもそこに目的がついたり、コンセプトがついたり、態度が変わってしまったりします。

 

今は、「論理」至上主義の社会。みんなが「論理」のことばかり話し、論理だった人が偉い、という風になってますが、「論理」ってそんなに大事なのでしたっけ?「論理」で説明できる世界ってどれだけの大きな世界なんでしたっけ?というのがラクガキの世界。子どもは、そんな世界に生きておらずとても自由です。また、日本における「悪戯がき」は、平安時代に広まったのち、江戸時代に流行した政治などを批判・風刺・告発する匿名文書である「落書(らくしょ)」にルーツがあるそうですし(有原穂波氏)、ラクガキ/グラフィティとは一般的には、不良が行う公共物汚染や軽犯罪行為で、芸術の輪郭をかき乱すことによって評価されることになり、アールブリュットの芸術家に波及し、芸術はギャラリーや美術館からストリートに出ていったという経緯もあるそう(クリスチーヌ・プレ氏)。少し不良のイメージもあります。

 

また、発達心理学の観点から見ると、子供の描画(ドローイング)の発達は大まかにいって、なぐり書き期(1-2歳ごろ)図式画期(3-7歳ごろ)写実画期(7歳以降)に分かれ、子どもは想像力(見えないものを思い浮かべる能力)を(直線的ではないが)次第に発達させていくとのことです。(清水由紀先生)

 

(娘が一歳半の時に描いたなぐり描き。懐かしいです)

 

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「およそ絵本からは遠いところの、ただのラクガキに手は喜ぶ。頭は絵本を考えている。手はラクガキに遊ぶ。 –荒井良二氏」

「イタズラ描きが生まれる時の内面はとても自由で、ある種自分の意思との離脱感を感じている –皆川明氏」

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このようにこの本にはさまざまな「ラクガキ」の定義が出てきますが、監修者の小澤基弘先生は、「ラクガキ」とはとても幅広い描画表現を指すもので、そこに共通するのは、他者に見せるため、あるいは作品としての完成を意識して描いたものではないこと、心の赴くまま徒然なるままに即興的に描いた描画の全体だとおっしゃっています。

 

ピカソが晩年になって「この年になって、やっと”子どもらしい”絵が描けるようになった。」と言った通り、「芸術はラクガキにはじまり、ラクガキに終わる」とも言えそうですが、デッサンやクロッキーなどの技術の下層に存在する「創造の源」であり、少し意識から離れたところに立ち戻るというラクガキ行為は、芸術家、そしてもしかしたら芸術を生業にしない私たち一人ひとりにも必須の営みなのかもしれません。

 

では、そこになぜ教育が絡んでくるのかということなのですが、「ラクガキ」に触発される形で読んだ、上野正道著「学校の公共性と民主主義―デューイの美的経験論へ」と、美学・政治学を含めた様々な領域において活発に発言を続けるジャック・ランシエールの「民主主義の憎悪」から、「美術」「芸術」はその教科領域にとどまるのではなく、もしかしたら次の世代の教育の主軸となってもおかしくないのではないのかな、と本気で思いはじめたので、ここでメモとして残しておきたいと思います。

 

 

【ジョン・デューイが晩年に取り組んだ美術教育】

教育の世界で知らない人はあまりいないだろう、というジョン・デューイ。『学校と社会』『経験と教育』『民主主義と教育』などが多く読まれていますが、晩年は美術教育に傾倒し、さまざまな取り組みをしていたことは私も含め、意外と知らなかった方が多いのではないでしょうか。こうしたあまり知られていない取り組みについて、上野正道著『学校の公共性と民主主義―デューイの美的経験論へ』にてとても丁寧に記述されているので、ご紹介したいと思います。

 

デューイは1920年あたりから美術研究者だったアルバート・バーンズと連携し、芸術教育を民主主義によって前進させることに情熱を傾けるようになります。特に、フィラデルフィアの公立学校改革や、コロンビア大学・フィラデルフィア大学での芸術教育に関わっていきます。何かと好戦的でいろいろな場面で衝突してしまうバーンズでしたが、1930年代には「芸術と教育の友」という組織を一緒に結成し、その信頼関係は、バーンズが亡くなる1951年まで続いたそうです。

 

デューイは、晩年に近づくにつれて「生活世界の経験から生じる多元的な価値の存在を包括し、それらを創出し、解決を測る社会的な実践としての倫理学」を志向するようになり(p47,U(注))、具体的に学校、公道、図書館など多様な人たちが集い、議論をたたかわせるコミュニティの実現を求め、善き市民を発達させ、育成させるための装置として公教育にその可能性を見出していきました。

 

さらに、レッセフェールの機運も高まる中、公共性は自然に出来上がるものではなく、「公共の行為と活動」によって組織された公共を積極的に「組織化」していかなければ、民主主義の理想は成し得ないと考え、学校教育で、「公共的行為のエージェンシー」という機能を担い、民主主義と公共性に立脚した学校システムの創発に精力を注ぎました。つまり、子ども中心主義の進歩主義教育から、社会改造の原理へとだんだんとシフトしていったのです(p177,U)

 

その文脈の中で、デューイは芸術を社会、文化、生活の実践的な領域との繋がりから解釈し、芸術の経験がコミュニティとアソシエーションを生成し、公共性の基層を形成するという側面に視線を向け、公衆の蘇生が公教育の課題であると考えました。(p220,U)

 

芸術は政治や社会の外側にあるのではなく、人と人とのコミュニケーションの中にあるし、そうだとすれば、芸術が人と人との間にある「障壁」を超えて経験の交流と共有を促すことによって、「公共世界の共有された性質を生成させる」と信じるようになっていったようです。(p223,U)

 

実際に、多くの人たちが本当の意味で深くつながり、よりよき社会をつくるには、「言語」だけのコミュニケーションではもはや太刀打ちできないということに、デューイ自身がだんだんに気がついていったのではないかと思うのです。

 

そして、このことは、新型ウイルスという現在の危機の中ではこの問題はとても明らかになっているように見えます。ウイルスという危機の性格もあって、世界では協調どころか国家独自の対応という分断と逆戻りを余儀なくされています。SNSを見れば有象無象の意見が飛び交い、無責任にシェアされる情報の真偽のほどは定かではありません。明日の生活も見通せない非常に苦しい人たちがいても、その人たちが「存在する」ということについては、どんなに言葉を尽くしても、データを見せられても、私たちはその苦しみを自分ごととしてうまく受け取ることができません。政治家の言葉もニュースの言葉も様々なデータも、身体化されずに左耳から右耳に抜けてしまうのです。

 

デューイはだからこそ、コミュニケーションとしての「美的経験」「芸術」に目を向けたのではないだろうか。そんなことを考えながら本棚を眺めていた時に目に留まったのが、ジャック・ランシエールの『民主主義の憎悪』でした。

 


【民主主義の限界はどこに?】

 

ランシエールは、そもそも「デモクラシー」の語源は、公共的存在となる条件を満たしていない人が公共の事柄に口出しをすること非難する古代ギリシャ時代の侮蔑的呼称であり、デモス出身者とは、「計算外の人、話す存在だと計算されていないのに話す人」のことであり、古代ギリシャにとってのデモクラシーは最下層民における統治のことだと説明します。

 

そして、「公共的存在となる条件」を満たす人と、「デモス」では言語の交換がそもそもできておらず、彼らの間に「感性的なものの分有」がなされない限り、デモスの声は、獣の声と一緒で、そもそも理解すべき言葉として了解されないとランシエールは言います。

 

アリストテレスが「人間という動物の政治的本性の根拠を言語に求める」と言った一方で(p134,R)、みんな日本語を一見喋っているようでも、「分け前なき人々」の語りは「人間の声」として受け止められなければ、それは「存在しないもの」も同然となってしまいます。これは新型コロナウイルスに翻弄される私たちの今でも全くもってそうではないでしょうか。一見なにかやりとりしているように見えて、実際は何も受け取っていないのです。

 

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政治的対話は、原理上不合意的であり、不合意的である限りにおいて包括的です。政治的対話によって、見られていなかったものが見えるようになり、騒々しい動物としてしか聞かれていなかった人々が話す主体として聞かれるようになり、みるべきものも討議すべきものもないと宣言された人々さえ対話の相手として計算されるようになります。それによって政治的対話は計算されてこなかった人々の包摂を行うのです。(p156,R)

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それなのに、「言語は客観化する機能を持ち、共同体の根拠には言語がある」という幻想に頼りすぎてしまうと、国家は、専門家の知を一般に普及させ、国家の提示する解決だけが、現実のデータに基づいているという「コンセンサス国家」になってしまうとランシエールは言うのです。

 

とはいえ、「感性的なものの分有」に至るように「まず自分たちが言葉を話すということを理解させ」、「自分たちが言葉を話すということを了解させるために別の感性的世界を形づくる」仕事はは恐ろしく難しいことであり、近年でいえば、ガンジーや、マーティン・ルーサー・キングのような人たちがかろうじて実現できたことではないでしょうか。

 

ただ、彼らのやってきたことを振り返ってみると、そこに共通するのは、「美しさ」。もちろん「言葉」もあるのですが、それよりも下の層でなにか心が震えるようなものを強く持っているのだと思います。

 

そもそも民主主義は、極めて不完全で穴だらけです。それなのに、なぜか皆信じていて、これだけ多くの人が悩みつつ、諦めたいと思いつつも目の離せないものになっているのでしょうか。それは時折上述のような「美しさ」を民主主義の中に認めるからなのではないかと思うのです。

 

でも、そこに「論理」と「言葉」だけでは限界を晒してしまう。そうだとしたら、「言語化」に過度に頼らない、「美術」や「芸術」にだんだんと入っていくのは非常に自然な流れのように感じます。最後に「ラクガキ」に戻ってきますが、デューイが晩年に到達したように、そして、ランシエールが言及するように、また、日本でいえば岡潔が「最後には情緒を育てなければならない」と指摘するように、究極には、「言語」で解決できない部分に皆自然と入り込んでいくようです。

 

 

美術までいかずとも、私たちの日常の会話や会議でも同じようなことは起きていないでしょうか? 私自身、多くの人と一緒にプログラムやプロジェクトをつくることが多いのですが、そこで交わされる会話は、「これいいとおもうんだよね」「うんうん、そうだよね」とか、「なんか違うなあ」「うん違うね」――というような、「なにがいいのか」「なにが違うのか」がよくわからないケースが圧倒的に多かったりするものです。

 

そこに存在するのは、「美しい」とか「美しくない」というような共有感覚や、まさにラクガキのような、頭や意識から少し離れた部分で行われる創作の営みのようなものです。

 

日々日々テレビやパソコンの画面から溢れかえって流れてくる「一見もっともらしい論理」や「データ」を眺めながら、こうした論理だけの世界はもう限界なんだろうなぁ、、という思いが日に日に強まっています。だって、「新型コロナ」が何であり、どのような対策がベストかなんて、少なくともその時その時に意味のある形ではだれもわからないわけですから。

 

そういった時に、私たちが頼るものはなんなのだろう、と改めてみなさんと一緒に考えていけると嬉しいです。

 

では今日はこの辺で。

 

<おまけ>

「学校の公共性と民主主義―デューイの美的経験論へ」で、非常に興味を惹かれたのが、1929年に世界大恐慌が発生した時にアメリカが当時のローズヴェルト政権でニューディール政策の一環として開始された連邦美術計画でした。フェデラルワンと呼ばれたこのプロジェクトは世界恐慌下で喘ぐ芸術家を政府が五千から一万人規模で雇用し、積極的な経済支援を行うとともに政策された壁画や絵画、彫刻、ポスターなどの作品を学校、役所、図書館、病院といった公共空間に装飾することによって、一般市民が社会生活の中で芸術に触れ合う機会を増大させることを意図していました。(p354,U)

バーンズとデューイはフェデラルワンを制作と鑑賞を分離するものだと批判しましたが、今回の新型コロナ感染に関連し、ドイツのメルケル首相がいちはやく芸術家支援を表明したように、今のような危機に直面する中では一定の評価をしてもいいのではないかと個人的には思っています。開かれた公共を現実のものとするための参加型の芸術という高い理想を掲げたバーンズとデューイの気持ちも汲んで、あらためて考えてみたいと思っています。

 

(注)「学校の公共性と民主主義―デューイの美術経験論へ」からの引用は(ページ数,U)、「民主主義への憎悪」からの引用は(ページ数,R)で表示しています。

 

 

<参考図書>

「ラクガキのススメ」小澤基弘監修・ラクガキを考える会編 あいり出版

「学校の公共性と民主主義―デューイの美術経験論へ」上野正道 東京大学出版会

「民主主義への憎悪」ジャック・ランシエール 松葉祥一訳 インスクリプト

「民主主義と教育(上下)」デューイ著 松野安男訳 岩波文庫

「春宵十話」岡潔 光文社文庫

 

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