home > Blog > 藤原 さと > なぜ絵を描きますか?〜クリエイションと自己発見について

藤原さとです。

先日、埼玉大学の小澤基弘先生(教育学部芸術講座 美術分野教授)の研究室にお伺いし、授業を見せていただく機会がありました。先生の「絵画の制作―自己発見の旅」という本を読んだことがきっかけだったのですが、そこにまさに私が「描く」ならぬ「書く」理由があり、どんな授業をされているのかぜひ見てみたかったのです。

人は小さな頃、なぜかわかりませんが絵を描き、文字が書けるようになると物語を書き始めます。子どもたちの姿を見ていると、「何のために書いて(描いて)いるんだろう?」と不思議に思うことも。でも、子どもたちは、そんな質問をするのが野暮なほどに、何かに突き動かされるように描く、というのはみなさんもよく見るシーンだと思います。

「いや、子どもたちは書くのが嫌いですよ。」という人たちもいるかもしれませんが、私たちが実施する子ども向けのライティングワークショップで、「何でもいいから好きなもの・ことを書いてごらん」というと、スタートこそ何をしていいのかわからなくて、じっとしていたり、歩き回っている子もいますが、ほぼほぼ全ての子が1時間くらい、遅くとも数時間経つと、熱中して書き始め、プログラムが終わっても止められなくなり、終了後も残って書き続ける子が続出します。(女の子の方が早く書き始める傾向にありますが、男の子の方が、一旦始まると止まりません。成績が良いも悪いも関係ありません。)

人は根源的に何か表現する欲求を持っているのだな、と確信する瞬間です。



【なぜ絵を描きますか?】


小澤先生は、大学教育に関わりつつ、絵画制作もされています。「絵画の制作―自己発見の旅」では、上述にあるような子どもたちの極めて原初的な衝動的な表現、真の制作欲求が大人になるにつれて消えてしまうこと、また、学校で「デッサン」を教え込まれることが、元々のこうした制作欲求に蓋をしてしまい、結果として素人絵画愛好家であったとしても、その表現が同じようなモチーフ、色使い、対象把握になってしまうし、職業画家であったとしても、自分を見失ってしまう原因になっていると言っています。

こうした閉塞的な状況から抜け出すために、重要なのは答えのある「デッサン」ではなく、子どもの時のように好きなように、気持ちよく描く「ドローイング」がキーとなるとし、「ドローイング」を基軸とした授業を実践し続けていらっしゃります。そしてなぜドローイングが良いかというと、評価から離れ、根源的な欲求に従って描くことによって、自分が見えてくるからだと言います。

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絵画はそれが表現された時点での制作者の内部の声のいわば鏡であると私は考えます。それは自己の内部の終始一貫した不動の「核」を前提とし、その周辺は日々の生活の状態や体の状態、そして他者との関係性の有り様などで微妙に変化していると私は考えています。こうした周辺部の混沌とした層を分けくぐって、初めて自身の「核」に行き当たるのです。(絵画の制作)

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ドローイングをコツコツと続け、その変化を外観すれば、そこには、枠から出れずにいる自分や、無意識に枠を出てしまった自分、執拗に出てくるモチーフ、形や色彩の癖などが現れてきます。

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制作を進める過程の中で、ふっと自分を無くす時があります。描いている自分に気がつかない時、それはほんの一瞬かもしれませんし、あるいはかなり長い時かもしれません。何れにせよ、こうした時の到来が極めて重要なのです。(中略)そうした黄金の時が結果的に作品を変容させ、自分にはこんなことができるのか、こんな色彩や形態が自分の中に存在したのかという、新たな自己発見を、その変容した画面は私に示してくれるのです。この経験こそが、私にとっての絵画制作の醍醐味です。(絵画の制作)

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一般的な「自己発見」「自己探究」プログラムは、文章で過去を振り返ったり、対話をしますが、それでは意識の表層までしか扱えません。ドローイングを通じて、自分でも気がつかない自分に出会う、それこそが絵を描く理由だというのが、先生の確信です。



【ドローイングを通じた対話】


こうした小澤先生の授業では、「ドローイング」を毎週行い持ち寄ることで、「自分はなぜ描くか」「自分は何を描くか」「自分って一体何だろう?」など学生独自の自分自身の気づきを対話を通じて顕在化させ、自己理解を獲得することを目指していきます。

私が拝見したのは教育学部の授業でしたので、多くは美術系の教師になりたい学生さんとの対話でした。(その他、東京芸術大学、東京大学(非美術系学生)、高校、小学校、美術館などでの実践例は「越境する表現」に収められています)

みんな、持ってきたものは様々。漫画、一見脈絡がないほどに様々なモチーフの絵、人の目をたくさん描いたり、抽象画だったり。美術系の高校を出ていたり、芸術系大学と迷ってこちらに進学している学生さんもいました。


「空間形成が上手だね」

「じっとみて、変えたかったら変えてもいいけど。。腑に落ちたらOK」

「これ、もっと大きく描いてみたくはないの?」

「写真から写して描きたいなら、それでいいんじゃない?」

「動物に飽きたんなら、いいじゃない。自己規定しなくていいよ。」

「身の回り、、身の回りってなに?」

最後はある学生さんが読んでいる本から、日航機墜落事故を追う青山透子さんの話になったり、楽しい雑談で終わりました。

4月に授業は始まったばかりで学生さんたちもまだまだ出してくるのが恥ずかしそうだったり、こんなモチーフでいいんだろうか、、というような当惑も見られました。でも、先生のコメントは一貫してポジティブ。学生さんたち、愛されているなぁ。1年でだいぶ変わるんでしょうね。これからがとても楽しみです!



【市井の人だからこそ描けるもの】


研究室では、先生と「表現」ということにおいて、本質的には何を伝えていくべきか、教師はどうあるべきか、などということについていろいろお話しさせていただきました。

そこでそうだなぁ、と思ったのは、「手法」「知識」への過度の偏りの是正の必要性でした。美術のデッサンに限らず、「描く」「書く」「創る」というような行為の元にある根源的な欲求とか喜びが脇に追いやられてしまい、「正しい描き方、書き方、創り方」にどうしても寄っていってしまう。

もちろん「評価」というものもあるし、誰にでも同じような質の教育をと考えた時にフォーマット化は避けられません。でも、そこでできるのは「なんだかそれっぽい」ものでしかない。

でも、「学校」ってそういう場なんでしたっけ?「教育の目的」ってそんなことなんでしたっけ? そう思うのです。

職業画家としての道を歩き始めると、世俗的な芸術集団の序列への意識や、コンクール等への意欲など、別の目的意識が働き始めなかなかいつしか自由に描けなくなる人は多い。そして、そのうち「描くことが楽しくない」となってしまう人も。でも、先生に言わせると、自分のために純粋に描いている市井の人の方がよほど本質的に描くことも多いそう。

実は、私自身あることがきっかけでプライベートに詩を書くようになりました。初めはなかなか言葉も出ず、居心地の悪さのようなものも感じたのですが、続けると、まさに冒頭の「描く理由」と同じで、自分が見えてくるのです。誰にも見せないからこそ、評価から自由に、下手とか上手とか気にせず、自分のためだけに書くことができます。そしてその誰にも邪魔されない自分だけのスペースを持つことで気持ち的にもとても落ち着くことができる(逆もありますが!)ようになりました。

もちろん、芸術を職業とする人はいて、それは尊いし、その時には「デッサン」のような技術力も必要です。せっかく作ったのであれば、人と共有したくなることもあるでしょう。でも、みんながそれぞれ小さなプライベートスペースを持って、創作活動を続ける、そんなのも素敵だなぁ、と思うのです。

そして、「教育」がそういう創作活動を後押しできるようなものになればいいのに、そんなことをしたいなぁと思った訪問となりました。

小澤先生、ありがとうございました!



<参考図書>

「絵画の制作」小澤基弘 花伝社

「探る表現」小澤基弘 岡田猛 編著 あいり出版

「越境する表現」小澤基弘 編著 あいり出版

「Art and You」日本文教出版


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