home > Blog > 藤原 さと > ほんとうの「人間」になるための教育〜パウロフレイレ「被抑圧者の教育学」を読む

 

藤原さとです。

緊急事態宣言も解除されましたが、いまひとつすっきりしない日々が続いています。私のほうでは、仕事にも関連し、High Tech Highというサンディエゴのチャータースクールの教員であるジョン・サントスとやりとりすることが増えていて、休校に伴うアメリカの様子などいろいろ聞いていました。


今、アメリカでは黒人のジョージ・フロイドさんが警官に窒息死させられた事件から全米的な大規模デモに発展していますが、これは今にはじまったことではありません。米国史上最悪の暴動といわれるロス暴動は、1991年3月に黒人男性を殴打したとして暴行罪に問われた白人警官ら4人の裁判で翌92年4月、ほぼ全面無罪の評決が出されたことに黒人らが猛反発したことから巻き起り、ロサンゼルス市は非常事態を宣言、州兵のほか連邦軍なども出動。50人以上が死亡、2千人以上が負傷しました。2015年には、警察に逮捕されたフレディー・グレイさん(当時25)が拘束中に首を負傷し、1週間後に死亡した事件で、ボルチモアでは講義運動や暴動が発生しました。2018年のフロリダの銃撃事件は覚えている人も多いでしょう。昨年10月にカリフォルニアアーバインで行われた学会に出席した時も、こうしたデモ活動に若い世代がどのように関わっていくのか、いうテーマが初日の一番大事な講演で扱われ、若手の活動リーダーがスピーチをしていました。アメリカではくり返し、くり返し起きる大問題です。


そんな中でジョンからパウロ・フレイレの名前が出てきて、そういえば、と思って「被抑圧者の教育学」を今回読み直しました。実は以前読んだ時は、彼の批判する「銀行型教育※※」も、「課題解決型の教育※※※」も特に新しい概念でもないと思って読み飛ばしてしまっていたのですが、今回この状況の中で改めて読んでみると、あまりに示唆に富んでいて、大きく反省しました。社会の中で抑圧される人たちに対する深い眼差しとともに、教育を通じて人々の解放と人間性の回復に生涯取り組んできたパウロ・フレイレ。こうした暴動は、いつか形を変えていくことができるのか、抑圧されている人たちが立ち上がるために何が必要なのか。そんなことを考えつつ、少しまとめておきたいと思います。


パウロ・フレイレはブラジルの教育思想家で、開発教育の文脈で知っている方も多いかと思います。学校教育や成人教育のみならず農村開発や医療、演劇など、もっと広い領域で世界的に影響を与えました。1921年にブラジルの北東部に生まれ、1960年代にペルナンブコ州で「民衆文化活動」に関わり識字教育をスタートしましたが、当時のブラジル北東部の成人識字率は50%で、政府が躍起になって識字キャンペーンをやってもほとんど成果があがらないのに、フレイレの識字サークルに参加したひとたちは、わずか45日間のコースで文字の読み書きを見事にマスターしてしまうので、政府系の教育機関はその成果に驚いてしまったとのこと。ブラジル政府は、フレイレの方法に基づく識字キャンペーンを繰り広げるのですが、1964年の軍のクーデターによってフレイレも逮捕され、その後16年間、ボリビア、チリ、ジュネーブなどで長い亡命生活を送ります。チリに亡命中にフレイレの主著「被抑圧者の教育学」が書かれますが、ブラジルの公用語であるポルトガルでの出版は叶わず、現地では水面下で読まれていました。1970年、先に英語版での出版となり、ハーバードなども含め欧米のさまざまな大学で講義を行います。1982年にブラジルに帰国し、1889〜1991年はサン・パウロ市の教育長として公教育改革に取り組みますが、1997年に急逝します※。


【人間になるための教育―非人間化と人間化】


パウロフレイレは、自ら「被抑圧社の教育学」の中心テーマはヒューマニゼーション、すなわち「人間化」であると言いますが、(P72,C)パウロ・フレイレの洞察の中でとても優れていて、私もとても好きなところは、「抑圧者」つまり、抑圧する側の人間も「非人間化」が進んでいると考え、その双方が対話によって両者とも「人間化」していくことを目指すところにあります。


開発教育、そして普通の教育の現場でよく見られることですが、「知らない人たち」に対して、「何かを教えてあげよう」、もしくは「あなたの文化概念は古いのだから、新しい価値観を知ってもらおう」という啓蒙的態度は、「偽りの寛容」にほかならないとフレイレは言います。そのような時、実は「抑圧者」側も人間性が失われていて、自分が何をしているのか明確にわかっておらず、無意識に「非抑圧者」側を無力化する「人道的」な「施し」をしてしまっているケースは多々あります。「抑圧者」側も大きな意味での「抑圧の構造」の参加者であり、古いシステムに巻き込まれている囚われの身であるということがわかっていないと、おかしなことになります。


こうした、偽りの「人道的教育」の現場でなにがおきているかというと、「銀行型」教育※※なのですが、どういう教育かというと、教師は生徒を「容れ物」にしてしまって、教師がその「容れ物」をいっぱいにすることに躍起になってしまうような教育です。生徒と気持ちを通じさせる、コミュニケーションをとるというかわりに、生徒にものを容れつづけるわけで、生徒の側はそれを忍耐をもって受け入れ、覚え、繰り返す、というものです。(P132,C)フレイレはこうした「銀行型教育」を「知識」を持っているものから持たないものへと与えることによって、抑圧のイデオロギーを広く知らせるための基盤を作る、と言っていますが(P133,C)、「抑圧者」側もそのイデオロギーに飲み込まれてしまっており、目が開かれていないということも同時に起きています。


このことについて、私自身は大学一年生の時にパキスタンを旅行した時に関連する経験をしたことがあります。大学に入学した時には考古学に興味を持っていて、それで考古学の先生と一緒に行ったのですが、個人旅行だったこともあって現地の人たちの紹介で遺跡以外のさまざまなところに行く機会がありました。カラチの貧困街や、北部のアフガニスタン難民キャンプの近くの村、遺跡の近くにある小さな村に訪れたのですが、途中で奇妙なことに気がつきました。どんなに貧困でも自分たちでなんとかして生活している人たちは、「人間らしさ」を失っておらず、遠い国から来たわたしたちに精一杯のもてなしをしてくれ、私たちと対等にコミュニケーションを取ろうとするのですが、開発援助の入っている地域の人たちは一様に暗い顔をして、私たちに「薬がない」「食べ物がない」と訴えかけます。そこにはあきらかに対等ではない関係があり、非常に居心地の悪い気持ちがしたものでした。彼らに自分たちで立ち上がる力が育まれていないことは明らかでした。その旅行から私が学んだことは、「中途半端な施しほど恐ろしいものはない」ということでした。


(30年前、カラチの貧しい地域で撮った写真。海外からの来客ということで精一杯のおめかしをしてくれています。)

でも、この人間化と非人間化、そして銀行型教育の話は今の日本でも同じことが起きていないでしょうか? 教師は良かれと思って「知識」を与えます。でもそうすればするほどに、見えないイデオロギーを叩き込み、子どもたちが無力化されていく、しかもそれは無意識のうちに蔓延していく、という構造は非常に恐ろしいのですが、割と日常の風景であるようにも思えます。私たちの国で、「非人間化」は進んでいないでしょうか?


フレイレは、私たちがこの世界がすることを「預金」のごとくずっと受け取り続けるのではなく、自分と世界を同時に省察できるようになると、いままで見えていなかったものに意識的な眼差しを向けることができ、それが問題化され、挑戦されるべきものとして立ち上がってくると言います。その問題化のプロセスについては、次に説明したいと思います。


【おのずから生み出された言葉によって探究する–生成テーマの重要性】


では、どうやったら「施し」にならない、本当の意味で「人が人間らしく」なるための学びが実現するのでしょうか。

フレイレは、それは、人間は自らを意識し、世界を意識している「意識しているからだ」なので、まず「世界」に飲み込まれず、その「世界」というものを眺めて省察することにある、と言います。


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世界から自らを分離し、世界を対象化し、自らの活動から自らを切り離し、自らの活動を決定するポイントを自らの内に、また自らと世界、自らと他者との関係の内にもつことを通じて、人間は「限界状況」を超えていく。(P196, C)
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フレイレは、意識と世界がどのように相互に規定しあっているかを弁証法的に理解すれば、非抑圧者の内部に落とされた抑圧者の影、非抑圧者の抑圧者に対する癒着と同調、抑圧者を自分の外部に置くことが非抑圧者にとっていかに困難なことであるか、といった現象も理解が可能になるであろう(P147, H)と言っています。少し難しい書き方ですが、最近でいうと、「学習する組織」「学習する学校」などを書いたピーター・M・センゲあたりがシステム思考のアプローチでとっているのと似たイメージかもしれません。つまり、自分を取り巻く出来事をシステムとして捉え、外から眺める必要があるということです。メタ認知とも言いますが、それをフレイレは、「世界を読む、言葉を読む」と言いました。


しかし、その方法論としては、フレイレはピーター・M・センゲの「システム思考」というようなシステムの形から思考するものではなく※※※※、もっと地べたに近い、泥臭い方法をとりました。フレイレの識字サークルの風景としてよく紹介されるのは、一枚の写真や絵を取り囲んで人々がそれについて論じ合っている場面です。絵や写真は参加者たちの状況を映し出したもので、自分がその中で生きている情景が目の前に提示されることによって、人びとはそれとあらためて対面するのです。(P22, R)


たとえば、「スラム」のシーンの写真で三人の若い男がおしゃべりしているのを見て、調査サークルの参加者は、「ほら、この中でちゃんと働いて国のためになっているのはこの酔っ払いだけだ。仕事に行って帰る途中なんだ。大した金も稼げず、家族のことで参っている。給料が少なくて、家族を食わせられない。あいつだけが働いているやつだ。俺たちみたいにね。おれたちも似たような酔っ払いだしな。」というような言葉が引き出されていきます。(ちなみに、この「写真」は「コード化」、こうして議論していくことを「脱コード化」と言って、そのプロセスでは教育学者や社会学者などが参画し、議論を録音し学際チームで分析します。その時には、人々の会話の仕方、居ずまい、宗教的な儀式での振る舞い方、労働の場での振る舞い方、人々の表情、言葉づかいなど一見重要でないものも全て記録していきます。そして最終的には、相互の関連性を認識した上で、トータルな次元に戻るべく、脱コード化された「具体」は全体性を持った「抽象」に戻っていきます。詳しくは参考図書を読んでいただければと思います。)


なお、プログラムの準備段階としては、当該団体の語彙の調査を行うため、コーディネーターが地域に入り込み、地域住民との会話をし、時には生活と労働をともにしながら、人々の日常の生活で使われている語彙を採取します。そしてさまざまな語彙の文脈や相互関係を確認しながら、話者たちにとってもっとも重要な意味を持つ語彙「生成語(Generative Words)」を選び出していきます。生成語は、議論を誘発しやすく、音節構成において語が生成的であるという二重の意味で「生成的」であることを求められるそうです。その後、上記の「スラム」の写真のように、文化サークルで解読(脱コード化)されるための教材を作成していきます。(P170-184, R)


文化サークルでは、一般的に約30人の非識字者が集まり、一回1時間の学習が行われ、最初の6−8週間は人間が文化を創る主体であることを「意識化」するために「世界」と人間との関係における、自然・文化・労働という概念を扱う10個の「コード表示」を使った対話が行われ、その上で学習者の生活現実から選ばれた17個の「生成語」の学習が始まります。上の例でいくと「コード表示」は「スラムのワンシーンの写真」で、そこから生成語が生まれてくることになります。生成語では、スラム、雨、食べ物、井戸、労働、賃金、れんが、、などの言葉が出てくるそうです。それぞれの「生成語」には3-6個の課題が付されており、代表的なものを挙げると6つのまとまりに分かれます。「住宅、食べ物、衣服、健康、教育」の導入にはじまり、「自然と人間との基本的関係(環境、労働、経済)」「社会的問題(飢餓、文化的疎外、水供給、輸送)」「労働の経済・社会・政治的側面」「ローカルからグローバルへ(援助、農地改革、都市改革)」最後に、「富める者と貧しい者の対立とその解決」で終わります(P53-54, S)。なお、こうした識字教育が学際性をもったカリキュラムとなっていくと、「生成テーマ」を基軸とした調査、知識獲得、知識運用といったもっと長期のものになっていきますが、フレイレは、「生成テーマ」は解放のための活動がそれ自体歴史的なものであるので、時代と呼応するものでなければならない、と言っています。

こちらのビデオは英語ですが、実際の文化サークルの様子の録画が見れます。興味のある方は是非。


【なんのための教育か−解放の教育学】


こうしたフレイレの教育は、「解放の教育」とも言われますが、人々の目を覚ましてしまうと言われ、政府から危険視され、国を追われてしまったほどのものなので、よほど効力があったのではないかと思います。


翻って身近なところに目を向けると、相変わらず「銀行型教育」が行われていて、学校はたくさんの「知識」を詰め込み、テストされる場所に相変わらずなっているようです。そして、先生は違和感を感じながらも「知識」と決別することができずにいます。今回の新型コロナウイルスの感染拡大に伴う休校の現場で何がおきたのか、深く振り返らないと、同じことを繰り返してしまうのではないかと暗澹たる気持ちでいます。


一方で、ジョージ・フロイドさんの件におけるデモ行進でも白人の人たちが多く参加して、自分ごととして捉えている人も10年前より格段に増えています。今回の休校における自治体や学校の方針決定においても、もし違うと思ったら先生方でも声をあげたり、横で繋がるような動きも見えてきました。


フレイレの言葉でいいなぁ、と思ったところを抜粋します。

「世界と対峙することを恐れないこと、世界で起こっていることに耳を澄ますことを恐れないこと、世界で表面的に生起していることのばけの皮を剥ぐことを恐れないこと。人々と出会うことを恐れないこと。対話することを恐れないこと。対話によって双方がより成長することができること。自分が歴史を動かしていると考えたり、人間を支配できると考えたり、あるいは逆の意味で自分こそが抑圧されている人たちの解放者になれる、と考えたりしないこと。歴史のうちにあることを感じ、コミットメントを持ち、人々と共に闘う。そういうことだけだと思う。(P68,C)」


そして、High Tech Highからは今回の大規模デモに関しての学校としての見解に関するメールが届き、最後にこんなことが書いてありました。

“ We can do better. We must do better. We will do better. And we start now. −In solidarity,“


フレイレは、「教育者は政治的であるからこそ、中立たりえないからこそ、倫理性を要求されるのだ」「教育はほんらい、指示的で政治的な行為であらざるをえず、ぼくは自分の夢や希望を生徒たちのまえに包み隠さずに示すべきであり、だからこそかえって、生徒たちの考えや立場を尊重することが、ぼくに強く求められるのだ。」(P108・109,H)とも言います。真剣で誠実な人柄がうかがわれます。(ちなみに、ここでいう”中立”は教育基本法で言われる「政治的中立」を損なうものではありません。「教育の政治的的中立」を誤って捉え、政治的なものは一切教育に持ち込まない、となったら非常におかしなことになると危惧しています。)こんな時だからこそ、目の前のことに囚われるのではなく、自分のしていることの意味はなんなのかということを改めて考え直し、少し勇気をださなければならないのかもしれません。


では今日はこの辺で。



※パウロフレイレの生涯については、里見実「パウロ・フレイレ 被抑圧者の教育学を読む」を参考にさせていただきました。

※※「被抑圧者の教育学―新版」では「銀行型教育」、里見実先生のほうでは「預金型教育」と訳されています。

※※※「被抑圧者の教育学―新版」では「問題解決型教育」、里見実先生のほうでは「問題化」と訳されています。「問題解決型」だと、Problem Based Learningと混同されそうですし、英語訳では、Problem Posing Education(問題提起型教育)と訳されているのですが、里見先生も書かれている通り、少し違和感のある言葉なので、本ブログではあまりこの言葉を使わないで書きました。

※※※※ちなみに私個人としては、ピーター・M・センゲのシステムアーキタイプの考え方よりも、フレイレの写真や絵をみながら豊かに対話していく方式のほうが、向いているようで、好みでもあります。ただ、ピーター・M・センゲも対話に時間を割くことを推奨しており、自分に向いた方法を選択するので良いのだと思います。


【備忘録】

パウロ・フレイレは、エーリッヒ・フロムとも会っており、その時に彼の実践を話したそうですが、その時に「そういう教育実践というのは、一種の精神分析ですね。歴史的、社会的、文化的、そして政治的精神分析。」と言われて「まさに図星と思った」とフレイレは回想しています。(P75-77,H)また、1974年、世界教会評議会教育局が主催した座談会で、イヴァン・イリイチと対談する機会をもち、イリイチはそこで「脱学校化」という概念を、フレイレは自分の「意識化」という概念を再度とりあげて討論したそうですが、この対談の前に、小さな文章を書いたとしています。「(サマリー)意識化は現実の暴露の段階にとどまっているわけにはいかない。現実のヴェールを剥ぐ実践が、現実を変革する実践とダイナミックに、弁証法的に結合したときに、意識化はその名に値するものとなるのである」(P144,H)ここに、フロムを信奉する一方で、イリイチとのずれが見られるのですが、私もまさにイリイチに足りないところはここだと思っていたので、胸がすっきりしました(笑)。「モダニティ」を誇示するネオリベラリズムの言説も、社会階級の存在を帳消しにするだけの力はない(P130,H)」あたりの表現も胸がすくものです。以下は2017年にペルーとボリビアに旅行した時にペルーのクスコで展開されていた教員と保護者による教育に関する大規模デモに遭遇した時の写真ですが、南米の教育格差、貧富の差はまだまだ大きいもので、フレイレの手法が魔法のように問題を解決する、というわけでもありません。でも、AIだのなんだの言う前にそもそも私たちは「人間」であったのか、ということをきちんと振り返っておきたいと思っています。

あとこちらもおまけです。ジェーン・エリオットによる人種差別を実感させるための授業


<参考図書・文献>
※本文でページの横に付してあるイニシャルは下記の本の右に記載しました。

「非抑圧者の教育学 50年記念版」パウロ・フレイレ 三砂ちずる訳 亜紀書房 (C)

「希望の教育学」パウロ・フレイレ 里見実訳 太郎次郎社 (H)

「パウロ・フレイレ“非抑圧者の教育学”を読む」里見実 太郎次郎エディタス (R)

「解放の神学」G.グティエレス 関望 山田経三訳 岩波現代選書

「哲学入門」ヤスパース 草薙 正夫訳 新潮文庫

「P.フレイレの「解放」の教育思想と「課題提起教育」の今日的意義 日本教育方法学会紀要「教育方法学研究」第41巻 (S)

 

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