明治時代のキリスト教と教育(その2)新島襄と同志社創立―私たちの教育のルーツをたどる(13)

前回(その1)は、幕末から横浜で宣教を開始したヘボン、ブラウン、バラたちからはじまって、どのように明治時代におけるキリスト教学校が発祥したのかについてまとめました。彼らが住む横浜居留地で開かれた私塾に学び、そこで感化されてクリスチャンになった日本人たちは、日本初のプロテスタント教会「日本基督公会」を設立し、学校を作っていきました。今回は、またもう一つの流れとして、海外で宣教師となって日本に戻ってきて同志社を設立した新島襄とその活動に合流した熊本洋学校出身のキリスト教信徒の学生たちについてまとめておきたいと思います。

 

【同志社を設立した新島襄と熊本バンド】

 

同志社創立者の新島襄は以前ご紹介した初代文部大臣の森有礼とほぼ同時期に幕末にアメリカに渡り、学校を設立し、どちらも教育に携わりましたが、国外に出た経緯、受容した宗教、教育への携わり方などは非常に対照的です。森有礼は幕府から認められていなかったとはいえ、薩摩藩から選抜されて英米で学び、帰国してからは政府の役人として働き、教育の中央集権化、および公教育の立ち上げに携わりました。一方で新島襄は身一つで何の後ろ盾もないまま、国外を飛び出し、実質的に亡命者としてアメリカに渡ります。しかし、そこで受けた教育は、当時のアメリカ最高のもので、日本で初の米国大学卒業者[i]となります。しかし在米中から日本の政府とは一貫して慎重に距離を置き、帝国大学をはじめとした国のための教育ではなく、「自治自立の人民を養成するための私学」であり、「キリスト教主義をもって徳育の基本」とする教育機関の設立のために身を捧げました[ii]

新島襄

 

新島襄は幕末、1843年に江戸神田で上州安中藩の江戸詰下級武士であった、新島民治の長男として生まれます。父親や祖父は大変に信心深く、特別な日には必ずお参りに行き、家中に神仏が祀られているような家だったそうです。そして、新島が[iii]10歳の時にペリーの艦隊が浦賀にやってきます。

 

1858年、幕府は五カ国と不平等条約を結びますが、新島はまだ15歳だったにもかかわらず、安中藩の家老尾崎直紀にあてて、日本の将来を憂い、学問の拡充を提案する願いを出しています。一方で、武士としての行動様式を逸脱するようなタイプだったらしく、右筆職補助の職務を何度も放棄、勝手に蘭学塾に通い、藩主にみつけられて激しく叱られるような若者だったようです。1860年、17歳の時には、江戸湾岸を散歩している時に沖合に大きなオランダ軍艦が停泊しているのを見て、先進国との格差を心の底から実感します。(I74)

 

その頃にはもう海外に行くことを見据えて当時ジョン万次郎(中浜万次郎)が測量、算術、航海術を教え、小野友五郎が数学を教える築地の軍艦教授所で週3回学び始めます。この頃、勝海舟が艦長になった咸臨丸で98人の日本人がサンフランシスコに行き、少し遅れてアメリカ軍艦ポータハン号で幕府の使節77人がワシントンに行っています。一方で、国内は大荒れ。反幕運動が激化し桜田門外の変によって井伊直弼が暗殺され、生麦事件など攘夷派による外国人殺傷事件が相次ぎます。また農民一揆が全国に頻発していました。(I75)

 

1863年ごろから新島はアメリカン・ボードの宣教師ブリッジマンが中国語で出版した『連邦志略』を読み、英語を学ぶことを決心します。この本はアメリカの歴史、地理、政治、経済、文化などを詳細に記すもので、新島は「繰り返し読み、脳髄が頭からとろけ出る程驚いた」といいます[iv]。その本には主権在民の民主主義が説かれ、独立宣言の要約が掲載されていたほか、無月謝学校、貧民救護所などについても詳しく書かれていました。幕藩体制とあまりに違い、国家の最高責任者が国民によって直接選ばれるなど、驚き以外のなにものでもなかったことは想像するに難くありません。

 

それから新島が読んだのは、未知なる世界に漕ぎ出していく『ロビンソン・クルーソー』の和訳、そして聖書でした。『ロビンソン・クルーソー』でクルーソーはさまざまな困難に挑戦し、孤独と戦い、神に話しかけ、座礁船にあった聖書を読み心の安らぎを得ていきます。聖書は、当時国内で厳禁ではあったものの中国語のものが中国経由で入ってきており、多くの人々に密かに読まれていました[v]。中国へのプロテスタントキリスト教の宣教が開始された1807年から1867年までの間に中国語で出版されたキリスト教の著訳書で、日本に輸入されたのはなんと800種。当時の武士は漢籍を読むことが容易だったので、攘夷のためにも、開国のためにも、欧米先進国の実情を知る必要から、外国紹介書に強い関心を示していたといいます[vi]

 

こうして、聖書によってまさに目が開くような経験をした新島は、海外に出ることを真剣に考え始めます。自叙伝「My Younger Days」では以下のように振り返っています。

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神を父として認められるようになってから、私はもはや私の両親と離れ難く結び合わされているとは感じなくなりました。私は(略)孔子の教えが狭すぎ、誤りであることを初めて悟りました。(略)この新しい考えが藩主を捨てて、家や国家を一時離れる決心をする勇気を私に与えてくれたのです (I80)

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1864年、新島は洋学を学ぶため、身分に関係なく当時最高の学問を学べると評判だった箱館(現在の函館)の諸術調所[vii]に向かいます。しかし、諸術調所の唯一の教授者であった武田斐三郎が入れ違いで江戸の開成所(元幕府直轄の洋学教育機関の蕃書調所、後に東京大学・東京外国語大学につながる)の教授に就任するために、箱館を発ってしまった後でした。新島は仕方なく、ハリストス正教会に居住しながらロシア領事館付司祭のニコライに日本語や日本文化を教えながら、密航までの40日を過します。新島はニコライに密航の援助を求めますが断られます。でもどうしても諦められず、何人かの援助を受け、1864年6月14日夜半に小舟でアメリカ商船ベルリン号に乗り込むことに成功します。脱藩し、国禁を犯して脱国します。(I83)

 

【新島襄のアメリカ留学時代】

 

新島は当時の留学生が藩や幕府の命令で先進国に派遣される中、自力で、裸一貫、アメリカ商船に乗り込みましたが、このことが、その後の藩や幕府の留学生と新島の留学生活に大きな相違を生み出すことになります。官費留学生は研究課題をもち、キリスト教に改宗しないことや、国体を辱めないことを誓約させられ、帰国後は復命書の提出を求められ、藩や幕府、あるいは明治政府に出仕する義務を負っていました。それに対して、新島は全く自由でした。(I83)

 

新島は2本持っていた刀の一本を運賃の代わりに船長に渡し、残りの小刀を香港で漢訳聖書に変えます。船は7月に上海でワイルド・ローヴァー号に移乗、11月に香港を発って、米の買い付けのためにサイゴンに。1865年の1月に香港に戻り、40日間滞留したのち、4月にマニラで麻を積み、ボストンへ。アフリカの希望岬を通過し、出国から一年以上も経った7月にボストンに帰港します。この船旅で新島は列強支配に喘ぐアジア支配の現実を目の当たりにします。(I88-9)

 

そして、ここが本当にすごいのですが、ワイルド・ローヴァー号の船主ハーディが新島の密航理由の手記を読み、1865年10月に彼の母校フィリップス・アカデミーに編入学させるのです。船長から新島のことを聞いたハーディ夫妻は、一度話してみようと波止場で会いますが、英語が全然通じなかったため、新島を海員会館に宿泊させ経歴や密出国の理由、これからどうしたいのかを書かせるために執筆に必要な一定の期間を与えました。その手記を読んだハーディ夫妻は感銘を受け、その月の間に新島に靴や背広を与え、学校への入学手続きをします。(W91)

 

フィリップス・アカデミーは知っている人は知っていると思いますが、アメリカの紛れもないトップのボーディングスクールです。ボーディングスクールには最難関と言われているTen Schoolsがあるのですが、そのなかでも最高峰と言われるのがこのフィリップス・アカデミーとフィリップス・エクセター・アカデミー。比喩として書くのも不正確なのは重々承知の上ですが、日本で言えば、開発途上国から船でやってきた、パスポートもないボロを纏った若者が持っていた手記ひとつに感動し、住む場所を与え、当時の最高の学校(日本でいえば、灘高みたいな感じでしょうか)に通わせ、学費もなにもかも面倒を見るようなものです。この凄さ、分かっていただけるでしょうか。

現在のPhilips Academy (同校HPより)

 

そして新島は、寮に入らずにピューリタンの家庭であるヒドゥン家にホームステイすることになります[viii]。ヒドゥン家に同じく下宿していたフリントは、リベラルアーツ大学の名門ウィリアムズ大学を卒業後、神学を学ぶべくフィリップス・アカデミーと同じキャンパスにあるアンドーヴァー神学校に通っていました。フリントは新島の家庭教師役となり、キリスト教の導き手となります。(I90)新島は間違いなく、当時のアメリカの中でも最も知的レベルが高い人たちと接していたことになります[ix]

 

1866年12月、新島は、ボストン到着後9ヶ月目にして、アンドーヴァー神学校附属の教会で洗礼を受け、正式にピューリタンの仲間入りを、翌年1867年にアマースト大学に入学します。アマースト大学も少人数の全人教育を行う高等教育機関であるリベラルアーツ大学で、ハーバードなどのアイビーリーグ校と同列の紛れもないトップ中のトップの学校です[x]。 (I97)

 

アマースト大学は、日本にはとても縁の強い学校で、1876年に札幌農学校にやってきて、たった8ヶ月で強烈な教育的感化を与えたクラーク博士はアマースト大学の卒業生で教授でした。そして、新島が一番大学で影響を受けたのは、哲学を教えていたシーリー教授。シーリー夫妻は、新島をホストファミリーとして迎え入れ、病気の時は彼を寮から自宅に引き取り手厚く看護します。シーリーは、エマーソンやソローに近い思想ももっており、1876年からアマースト大学の総長に就任しました。(I 99)

 

シーリーも日本のキリスト教教育の黎明期のキーマンです。新島からの紹介で1885年から87年までアマースト大学で学んだ内村鑑三がシーリーから受けた人格的、学問的影響はとても大きなものでした。「総長先生彼自身にまさって余を感化し、変化させたものはなかった。彼がチャペルで起立し、讃美歌を指示し、聖書を朗読し、そして祈ることで十分であった[xi]。」と内村が振り返っているように、本当に素敵な人だったようです。シーリーは森有礼の“Education in Japan”での森の質問状にも回答していますが、とても理性的でありながら超越的でもあり、且つ非常に暖かい文章を書いています。新島は、1867年から彼がなくなる1890年まで帰国後の15年間もシーリーとの深い交わりを続けていました。(I101)

シーリー教授

 

4年制の大学で3年間学んだ新島は、クラークやシーリーといった強烈な個性と人格を持った教授からキリスト教人格主義教育を通して、人格を築きあげていきます。新島はアメリカの教育の経験から近代国家の建設は結局のところ人をつくることにある、と結論づけました。同時に、その経験のなかから、人間の生き方はもとより教育、文化、政治経済、法律、などあらゆるものを規定するキリスト教、とりわけピューリタニズムとデモクラシーが、全人教育と一体となって、近代国家としてのアメリカを創りあげてきたのだと確信します。(I103)

 

新島は、1870年、アマースト大学を卒業し、アンドーヴァー神学校で学びます。1871年にはボストンで森有礼に会い、森は留学免許状やパスポートの手配などさまざまな手を差しのべます。森はハーディ夫妻が負担した学費などの補填すら提案しますが、新島は明治政府に拘束されることを警戒し、それは受け取りませんでした。先に述べた通り、薩摩藩からの留学生として英米で学び、一生官僚として生きた森と比較して、新島は非常に似た時期に海外で過ごしたにもかかわらず、留学の経緯のみならず、受容したキリスト教の内容(森はトーマス・ハリスのコロニーでスウェーデンボルグ派をベースとした新興のキリスト教を受容しました)も、その後の生涯も対照的なものでした。

 

【帰国、そして同志社設立】

 

新島は帰国に先立ち、1874年に外国伝道を支援するアメリカン・ボードに属し、宣教師補として、帰国することを決意します。帰国後にキリスト教主義の学校設立を訴え、5000ドルの寄付の約束を得ました。同年10年ぶりに帰国した森は早速に宣教を開始、1875年(明治8年)には東京のユニオン・チャーチで説教し、宣教師たちに積極的に会い、日本人伝道者養成学校の設立の必要について意見交換を始めます。同年、京都に「官許同志社英学校」創設。これは、伝道者養成学校ではなく、全人教育に重点をおいた中等教育機関でしたが、新島としてはキリスト教主義大学設立の布石でした。

 

しかし、京都という昔ながらの町で開校し、まだまだキリスト教の禁教が終わったと言っても、寺院などの反発はすさまじく、大変な苦労を味わいます。そのような中、九州の熊本洋学校で事件が起こります。同校の教師L.L.ジェーンズは元軍人で宣教師ではありませんでしたが、米オランダ改革派教会からきていたフルベッキに斡旋されて妻とともに1871年に来日し、英語・数学・地理・歴史・化学・天文学・生物など全教科を教えていました。はじめのうちはキリスト教については触れませんでしたが、三年目になって土曜日に自宅で聖書研究会をしたことから、生徒たちが一斉にキリスト教に改宗したのです。

 

具体的には1876年1月、洋学校の生徒[xii]が、熊本城外の花岡山で賛美歌を歌い黙祷と聖書朗読を捧げた後、「奉教趣意書」に誓約したのです。彼らはこの誓約のあとに自主的にプロテスタントに改宗しました[xiii]。親からは棄教をせまられ、座敷牢に閉じ込められ、聖書が焼き捨てられ、困り果てたジェーンズは同志社にいた宣教師のデイビスに手紙を書き、学生の引き取りを依頼します。こうして着の身着のままでやってきた学生たちを同志社の宣教師たちは熊本バンドと呼びました。彼らは学問的水準の高さと気の強さ、信仰の苛烈さではそれまでいた生徒たちとは、別格のレベルでした。彼らは当時の同志社の程度の低さと設備のみずぼらしさに失望し、反発。総退学を決意したりもしますが、ちょうどその時にジェーンズがたまたま京都に来たため、ジェーンズは熊本バンドの学生たちに自ら同志社の創立者をもって人任じ、科目や寄宿舎運営などの草案を作成して、校長に建議せよとアドバイスします。新島は生徒を信頼し、生徒にまかせるという方針をとります。結果として、同志社は活気づき、学問的水準も上がっていきます。(W198)

 

この「熊本バンド」には、本郷教会などいくつかの教会を創立し、熊本英学校、熊本女学校を創立、のちに同志社総長ともなる海老名弾正[xiv]や「国民新聞」を創刊し、ジャーナリストとして活躍する徳富蘇峰らがいます。(ただ、蘇峰はのちに回顧録で、新島襄を信奉していたのであり、キリスト教を信奉する熊本バンドではなかったと言っています)新島は同志社設立時に宣教を政府から禁じられていたため、彼らに「余科」として神学教育をこっそりと開始します。当時は京都府や仏教勢力は、学校内で宣教師がキリスト教を教えていないかについて監視しており、新島は校長として何度も京都府知事に始末書を提出することになります。1877年、恩師クラークは札幌農学校での職務を終えて帰国途中に京都にたちより、新島を励ましました。(I116) 1879年の同志社英学校の第一回卒業式の15名の卒業生は全員熊本バンドでした。

熊本バンドの主要メンバー(同志社英学校第一回卒業式)

 

新島は、次の目標として大学設立を目指し、1882年から具体的な運動をはじめます。「同志社大学設立之主意之骨案」にあるとおり、新島は自らが経験したリベラルアーツ教育を通じた全人教育を基盤とし、専門学部を構築する総合大学を考えていました。それは、森有礼たちが主導したようなドイツの大学をモデルとした当時の帝国大学が目指す、国家に役立つ学術研究機関、高級官僚、専門家の育成機関ではありませんでした。新島は必死の大学設立運動と資金集めに奔走します。勝海舟や、大隈重信らにも助けられ、渋沢栄一や井上馨らから多額の寄付を得たほか多くの人に賛同してもらって同志社大学の設立は目前でした。しかし、心臓を悪くしていた新島は過労がたたり、亡くなります。1890年、享年47歳でした。

 

ところで、この週末に京都を訪れる機会があり、新島襄の旧邸に立ち寄り、お世話になっている同志社中学の先生たちに少しお会いしてきました。以前学校にお伺いしたのは二年半ほど前なのですが、先生たちが穏やかで和気藹々としていたことを思い出します。まさに「同志」社ですね。学校をつくることで、こうやって何百年も沢山の生徒たちがそこで長い時間を過ごし、成長して巣立っていく。月並みな表現かもしれませんが、教育っていいなぁ、とつくづく思うのでした。


先日新島旧邸に行ったときに撮った新島襄の書斎

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次回は特に札幌農学校教授、第一高等学校校長などを歴任し、東京女子大学創立など、さまざまな教育活動に携わった新渡戸稲造を中心に、札幌農学校にはじまる札幌バンドと教育の関係について見ていければと思っています。

 

では今日はこの辺で。

 

※「わたしたちの教育のルーツをたどる」ブログはこちらにまとまっています。

 

【参考図書・文献】

『国家と教育〜森有礼と新島襄の比較研究』井上勝也 晃洋書房 (文中I)

『新島襄』 和田洋一 岩波現代文庫 (文中W)

『新島襄教育宗教論集』 同志社編 岩波文庫

『新島襄自伝』 同志社編 岩波文庫

『新島襄の手紙』 同志社編 岩波文庫

『海老名弾正研究の諸問題』 關岡一成 神戸外大論叢 43巻 1992

 

[i] アマースト大学卒業。しかし、語学のハンディからラテン語などは及第レベルにならず、最後の数ヶ月は病欠したため、外国人として下駄をはかせてもらった上での卒業でした。そのため通常与えられるBA(Bachelor of Arts)ではなくBS(Bachelor of Science)でした。これは内村鑑三も一緒(BS)です。 (W114)

[ii] 「同志社大学設立の旨意」

https://www.doshisha.ac.jp/information/history/policy.html

[iii] 新島襄は、密航した時に乗った船の船主であるハーディに生涯世話になり、亡くなる数年前の1885年にハーディ夫妻に捧げるとして自叙伝を送っています。「My Younger Days-私の青少年時代」として、同志社校友会が編集したものがウェブでも見れますので、どうぞ。

http://youryuboku.web.fc2.com/BookReaderJS/MyYoungerDays.html

[iv] 1866年に福沢諭吉が『西洋事情』を出版する少し前のことだったと思われます。

[v] 新島の手記によると新島の読んだ聖書は外国の言語だったとのことで、中国語ではないかもしれません。

[vi] 小澤三郎『幕末明治耶蘇教史研究』亜細亜書房 1944 P86-89

[vii] 幕府が設置した北海道初の学問所で、蝦夷開拓に必要な知識や、技術を教えていました。身分の区別なく、成績で入学させたため、当時、国内有数の学問所であり、前島密(郵便の創設者)、井上勝(日本鉄道の創設者)、吉原重俊(日本銀行総裁)など優秀な人材を輩出しています。
函館市公式観光情報
https://www.hakobura.jp/firststory/2011/07/post-4.html

[viii] 新島はアメリカ亡命中にもかかわらず、実はブラウン、バラが橋渡しをし、祖国の両親たちと連絡がとれていました。 1869年、アメリカに一時帰国していたブラウンは新島に会うためにアーモストにやってきており、ブラウンはその年の夏に新島の故郷の安中あたりを旅行し、新島の祖父、父、弟に会っています。ブラウンは日本語を話すことができ、ブラウンは新島の父民治が泣いていたことを日記に書いています。(W111)

[ix] 新島は、密航というとやんちゃなイメージがありますが、武家の家でしっかり躾けられ、質素、礼、誠実などの態度を日常的に示したことで、ピューリタンに信頼され、受け入れられていったようです。

[x] リベラルアーツ大学の最近のランキングでもウィリアムズ大学は1位、アマースト大学は2位)
https://www.usnews.com/best-colleges/rankings/national-liberal-arts-colleges

[xi] 『余は如何にして基督信徒となりし乎』内村鑑三 から

[xii] 35名だったり、山にいたのは40名だったとか、署名を抹消されていたものを差し引くと21名だったり、さまざまな説があるようです。同志社に移った30名も、『国家と教育』井上勝也からの引用ですが、20名というふうにも言われています。

[xiii] このころの士族は、幕藩体制が崩壊し、忠誠の対象を失い、目標を見失っていました。

[xiv] 海老名弾正は同志社英学校で学んだのち、新島にゆかりのある群馬県安中(あんなか)に新島と一緒に教会を開き、そこで牧師となり、前橋教会、本郷教会などを作っていきます。大正9年(1920年)には同志社大学の総長となります。社会的発言も多く、日露戦争を支持したりしたため、国粋主義とキリスト教が共存できるという「日本的キリスト教」を唱えたなどという批判もされます。徳富蘇峰も戦争に賛同したため、熊本バンドは「国家主義的」という批判を受けることがあります。ただ、民本主義を唱えた吉野作造は海老名の門下生であり、この辺の評価はまちまちです。