あけましておめでとうございます。
昨年は、スタートしたインクルーシブ教育のFOXプロジェクトの模索の年だったように思います。2021年2月に日本でも数例しかない遺伝性疾患を持ち、重度の肢体不自由と重度の知的障害とが重複した、重症心身障害児(重心児)未來君のお父さんから連絡をいただき、重い障害がある子の保護者の方たちとお話をするようになったことがプロジェクトのきっかけでした。その後、寝たきりで医療的ケアが必要な双子のゆうすけくんとまさきくんのお母さん、広汎性発達障害(自閉的傾向)でこだわりが強く、言葉では細かな感情などのコミュニケーションを取るのが難しいRay君のお母さんたちも一緒に、プロジェクトを進めています。
対話(というかほとんど雑談)を重ねる中で「(究極的に)欲しいものはなんですか?」と問うと、「ともだち」という答えが返ってきました。特に重い障害がある場合、特別支援学校に一旦入ってしまうと、地域の学校(通常学級)との交流がほとんどなく、高校が終わって特別支援学校がなくなってしまうと選択肢が極端に少なくなってしまいます。そうしたときに、本来なら地域で一緒に助け合いながら共に生きていくべきであるのに、どこか見えない場所でひっそりと生きていく、というようなことも現実問題として出てきてしまいます。親は先に年老いていきます。もし自分の子が自分で歩いたり喋ったりできない場合、高齢になったときに子どもの世話をどれだけできるかと不安になったり、子どもを置いて先立つ可能性を想像することがどれだけ辛いかは、想像に難くないでしょう。障害のあるなしにかかわらず、コミュニティにいるさまざまな世代が共に生きる中で支え合うのがあるべき人間社会だし、そのためには同年代と交流する学校という場はとても大切な場所のはずです。
もう一つの問題は、通常級にいる子どもたちが、重い障害のある子どもと直接に触れ合ったり、コミュニケーションをとることなく大人になってしまうことの問題です。そのように育ってしまうと、当然にして障害についてのイメージもつきにくくなるし、思いやりや共感の心も育まれるタイミングを失ってしまいます。障害のことを知らない子どもが大人になって有権者となると「知らない」ことを前提に投票行動をとるため、歪んだ形で法律や政策が決まっていってしまいます。
【日本政府は国連から何を勧告されたのか】
昨年8月「障害者権利条約」について、国連・障害者権利委員会による日本政府への審査が実施されました。そこで日本政府が特に教育の分野で「分離された特別支援」に対するさまざまな問題を指摘されたというニュースを見た方も多いかもしれません。私はインクルーシブ分野、特別支援に関しては新参者なので、よく状況が飲み込めていなかったのですが、ずっとこの領域で活動していた方たちからしてみると、昨年は「インクルーシブ教育」という言葉がぐっとフィーチャーされ、多くの人に知られた年だったようです。
国連の障害者権利委員会から指摘されたことは、教育の分野で障害のある子たちが、とくにその程度が重い場合に特別支援学校への入学を実質的に要請され、地域の学校にはなかなか受け入れてもらえない状況や、障害のある児童生徒に対する合理的配慮が不十分であること、すべての子どもを包摂するインクルーシブ教育における教員のスキル不足などです。受け入れの体制が整っていないことを理由に、障害のある児童が地域の学校から受け入れを拒否されるということは、実際によくあることではないかと思いますが、こうした状況は「特別支援教育が通常学級と分離されている(segregated special education)」と表現されました。
世界におけるインクルーシブ教育は1994年のサラマンカ宣言と、2006年の障害者権利条約の2つの国際的な枠組みが大きな柱になっていますが、障害者権利条約のモデルとなった「障害者の公民権法」ともいえるADA法(Americans with Disability Act)の成立に大きな役割を果たしたジュディス・ヒューマンさんという人がいます。ジュディスさんのライフストーリーを辿った”BEING HEUMANN” という本の翻訳『わたしが人間であるために』が2021年の夏に出たのですが、私は全然知らずに昨年末に読みました。そうしたら、そのドラマチックなこと。「これが公民権運動なのだ」ともう震えるように読みました。この本を読むことで、日本の「分離された特別支援」の何が問題かが明白にわかると思いましたので、ご紹介したいと思います。
【アメリカの公民権運動の興隆とジュディス・ヒューマンさんの生い立ち】
ジュディス・ヒューマンさんは1947年生まれ。第二次世界大戦終結の2年後です。お父さんとお母さんはユダヤ系ドイツ人でナチスドイツを逃れ、十代でアメリカに渡り、ジュディスが生まれます。しかし、ジュディスは1949年に大流行したポリオで四肢マヒとなります。ちなみに、ナチスドイツがアウシュビッツなどでの虐殺前に障害者の抹殺をしていたことは有名ですが、ジュディスももし10年早く生まれていたら、間違いなく殺されていただろうと回想しています。
でも、ジュディスが生まれたのはアメリカのニューヨーク市ブルックリン。車椅子をなんとか動かし、近所の子たちと遊んで過ごします。子どもたちは障害なんて気にしません。ローラースケートをするなら、スケート靴を車椅子に乗ったまま履かせてくれ、大縄をするなら、椅子に座ったまま縄を回して遊んでいました。
しかし、9月になると近所の友達の一人は近くの私立の小学校、もう一人は公立の学校に通い始めます。ジュディスの両親は地域のイエシーバーというユダヤ教の学校に入れようとしますが「ヘブライ語の能力があれば入学できますよ」とやんわり断られます。ジュディスは立派にヘブライ語を学びますが、やはり体よく断られてしまいました。その後、ニューヨーク市の教育委員会からは家庭教育の対象児童であるとされ、週2回合計2時間半のみの訪問教育を受けます。しかし親は大変教育熱心で、平日は習い事、日曜日はヘブライ学校、バレエ、オペラなどにジュディスを連れていきます。
その後3年間、母親は障害児親の会に参加するなど、ジュディスを学校に行かせるために必死で道を探し、やっと学区内の学校で提供されていた障害児向けのプログラム「ヘルスコンサベーション21」の待機リストに載り、小学校4年生の途中から入学します。しかしそのクラスは地下にあり、通常級の上の階の子たちとは「ずっと分離されたまま全く異なる日常」を過ごすことになります。特殊学級の子たちは勉強は期待されず、期待されていたのは21歳(アメリカの成人年齢)までそこにいること、あとは作業所に入ることでした。支援員がつき、理学療法、作業療法、言語療法を受けましたが、クラス全員が昼寝を強要され、地下の見えないところに置かれていました。ジュディスは当初ただただ、家にいなくて済むことが嬉しくて仕方がなかったのですが、そのうち、自分達が教育不可能で社会の本流とは関係のない子どもとして扱われ、排除されていることを自覚し始めます。
しかし、夏には障害児のためのサマーキャンプに親が行かせてくれて、そこではじめて人生初めての「自由」を感じます。食べたいものを食べ、着たいものを着て、気兼ねなくトイレに行け、ボーイフレンドもできました。14歳になったジュディは高校に通うことになりますが、お母さんが障害児の母親のグループと学区に働きかけて、車椅子でアクセスでき、支援員を受け入れる学校をいくつもつくらせていたというから驚きます。ジュディスはここで、いわゆる障害のない子たちの世界に放り込まれ、さまざまな苦労を味わいますが、結果的に成績優秀で卒業、ロングアイランド大学に進みます。その頃から教師を目指し、障害学生のコミュニティに参加し、政治活動にのめり込んでいきます。
当時、アメリカの公民権運動は高揚していました。ジュディスが8歳のときに、ローザ・パークスが白人専用座席を譲ることを拒否、大学に入学した1964年に公民権法が成立。ベトナム戦争では毎年4万人が徴兵され、負傷し帰国する兵士の数は多く、学生運動が活発な時期でした。そんな中、大学4年のときに教員採用試験を受けますが、筆記試験合格後の医師の診療で「どうやってトイレに行くか見せてちょうだい」「どういうふうに歩くのか、もう一度教えてちょうだい」と言われ、試験に落ちてしまいます。1964年の公民権法では障害は対象外で、アメリカ自由人権協会からもサポートが得られませんでした。そこで「教育委員会に対して訴訟を起こす」というアイディアを携え、ニューヨークタイムスの取材を受けることにします。
そうしたところ、ニューヨークポスト、ニューヨークデイリーニュースをはじめとして、次から次へと取材があり、全米で次々と記事が掲載されます。「トゥデイ」という番組で米国特別教育区の役人との討論番組に出演し、ニューヨーク市長もジュディスの主張を支持する旨の手紙を試験委員会に送り、雑誌「ニューヨーカー」の表紙になります。弁護士にも判事にも恵まれ、連邦地裁で「健診のやり直し」に教育委員会が承諾し、教員免許を手に入れます。その後、母校で教師を続けながら、仲間たちと権利擁護団体であるDIA(Disabled in Action)を設立し、週末は教師業から離れ、障害関係の政策に没頭。そんな時にリハビリテーション法案504条項に出会います。
アメリカ合衆国において、第七条(6)で定められた障害のあるいかなる個人も、単に障害のみを理由として、連邦政府からの財政援助を受けている施策や事業に参加することから排除され、恩恵を享受することを拒否され、差別されてはならない。
この法案に出会うことで、ジュディスは気がつきます。いままでのさまざまな「なぜ」の答えが「差別」だったことに。そんなものは存在しないとか、そんなつもりではなかったとか、理解していなかったとか、どうすればいいかわからなかったとか言われてきたことの理由が、ほかならない「差別」だったということに。
(ジュディス・ヒューマンさんTEDトークのビデオ)
【民主主義とは何かーADA法成立の立役者となるまで】
ジュディスはDIAの理事たちに電話をし、議論した上で、法案の審議状況を追いかけ始めます。すると、504条項は下院を通過したもののニクソン大統領が拒否権を発動し、未署名のまま、大統領の机の上に放置されていることがわかります。そこで、拒否権の問題に関心をあつめるために、マンハッタンにある連邦政府ビルに50名程度で押しかけることから抗議活動を始めます。このとき平日はまだ学校で教壇にたっていたというから驚きです。
そうした活動のさなか、二十代中盤のとき、ジュディスは西海岸バークレーの自立生活センター(CIL)から声がかかります。CILはDIAと似た活動ですが、政策的な運動だけではなくサービス提供もしていました。UCLAバークレーで修士号をとりながら、CILの理事になり、障害運動家のコミュニティにどっぷり浸かっていきます。またこの時期に障害施策に熱心に取り組むハリソン・ウイリアムス議員の法務アシスタントとして、1年半ワシントンDCで働きます。504条項はやっと署名されたものの、ニクソン大統領はウォーターゲート事件で辞任し、504条項を一連の連邦政府機関に伝える施行規則がない状態でした。そこで、次の政権が施行規則をつくることになり、保健教育福祉省(HEW)に降りてきたため、ジュディスは意見を求められることになります。また、ここでのちの「障害のある個人教育法(IDEA)」となる「全障害児のための教育法」の起草にも関わります。
これ、さらっと書いていますが、1970年代、約50年前のことです。このとき、ドイツからのユダヤ系移民の子女であり、車椅子に乗っている若い女性のジュディスが上院議員のスタッフとして、省庁の施行規則や新しい法律の起草に関わるって、すごくありませんか?日本で今なにが起きているかを考え、パラレルで考えてみたほうがいいと思います。
その後、ジュディスはバークレーに戻り、CILの副所長になります。504条項はフォード政権のもとでHEWが施行規則を起草して、パブリックコメントも付されていました。しかし、建物、事業、教室などを障害者のために変更調整することは大変なコストがかかります。関係機関が504条項を骨抜きにしようとロビイストを使って圧力をかけるなか、HEW長官は署名を渋ります。そこで、ジュディスたちは全米各地にある10のHEWの建物で、座り込み運動をします。
ジュディスがリードしたのは、サンフランシスコ連邦政府ビル。みんなでスローガンを考え、スピーカーを呼び、HEWとの交渉を続けながら、メディア対応、政治家の巻き込みをしていきます。この部分がもう、息をのむような展開で、ハリウッド映画になりそうですが、ネタバレになりますので、ぜひ本を読んでください。そこには、州の議員が座り込みの意図を理解し、公聴会を開いてくれたり、ホワイトハウスに連絡して、カーター大統領の側近とやりとりしたりなども含まれます。専門性と高度なスキルを伴った本当のデモの威力を知ることができます。
あなたが学校で私たちに出会わなかったなら、それは私たちには入学が認められていなかったからだ。職場で私たちと出会わなかったなら、それは私たちが物理的に職場にアクセスできないか、雇ってもらえないからだ。いつも使っている公共交通機関で私たちに出会わないなら、バスや電車がアクセシブルではないからだ(p154)
この活動のすごいところの一つは、車椅子ユーザーだけではなく、目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、呼吸器をつけていたり、さまざまな障害のある人たちが一致団結して、ケアが不十分な建物のなかで支え合いながら24日間も立て篭もりを続けたこと。また、座り込みのハイライトは、11日目にDCから派遣されたHEWの役人が議員たちに追求され、曖昧な答弁を続けた挙句、しどろもどろになりながら「分離すれども平等」というフレーズを口にしたときです。以下のビデオで公聴会の様子が見れます。7分30秒くらいから見てください。
そのとき、その言葉を伝えられた外の800人の群衆は部屋に聞こえるくらいまでの怒りの声をあげます。しかしその担当者は「分離すれども平等」がなぜそこまで当事者を怒らせるのが分かりません。HEWの担当者は、ジュディスが「分離すれども平等」に対して真剣に怒っているのに、彼女に共感するかのように頷いていました。ジュディスはその「顔つきが耐えられない」と思います。上のビデオでは12分あたりから該当部分の実際の状況が見れます。
その後も努力を重ね、さまざまな困難を切り抜け、1973年の4月28日、リハビリテーション法案504条項の施行規則は晴れて署名されました。ただ、その後もジュディスたちは決して手を緩めることはありませんでした。アメリカ公共交通機関連合がバスのシステムをアクセシブルにするには費用がかかりすぎると声明を出した時には、世間がノーと言えないような回答ができるように、エンジニアや財政アナリストとも議論ができるように勉強をしていきます。差別禁止法は本人からの申し立てがあってはじめて効力を持つため、CILは障害法律リソースセンターを立ち上げ、基金も作っていきます。その活動は、海外にも着目され、BBCや日本、カナダでも放映されます。1980年には、グローバルなシンクタンクとして、世界中の障害を取り巻く問題を研究し、他国の状況を調査し、政策・プログラム策定に影響を与える世界障害機構(WID)を共同設立します。
その後、504条項の対象が公的領域に限られることから、本格的にADA法の成立に向けて運動をはじめます。ロナルド・レーガン大統領は車椅子の起業家、共和党のジャスティン・ダート氏を全米障害者評議会(NCD)副議長に任命、ダート氏は全米の障害活動家を一つに取りまとめ、国家障害政策の初稿を書きます。ジュディスはWIDの立場でこれらの活動を支えます。当然ながら、ADAの反対運動はあらゆる方向からやってきますが、紆余曲折の末、成立から2年以内に全てのものをアクセシブルにすることを義務付ける画期的な法案は1989年に上院をようやく通過します。
しかし、下院の委員会質疑で法案が止まり、半年が経過。1990年3月に1000人がDCに集結。国会議事堂の正面玄関にたどりつくまでの83の階段を一人ひとり背中でずり上がったり、腹ばいになって身体を引きずったりしながら登っていきます。4ヶ月後、悲願のADA法がついに成立します。写真で大統領の向かって右手に車椅子に座るのがジャスティン・ダート。歴史的な一幕です。

26 July 1990
Photo credit: George Bush Presidential Library and Museum
https://obamawhitehouse.archives.gov/blog/2012/07/26/archives-landmark-moment-americans-disabilities
その後、ジュディスはビル・クリントン政権下で、教育省特殊教育リハビリテーションサービス局(OSERS)で、400人の部下を抱え、100億ドルの予算を動かすポジションとなります。ジュディスはIDEA改正の真っ最中、情緒障害のある子どもを学校からの排除に反対するなど、さまざまな活躍をしたのち、世界銀行の「障害と開発アドバイザー」を歴任します。世界銀行時代国連障害者権利条約(CRPD)の起草のための会議に出席しますが、そこではADAのような法律が条約のモデルになっていたと言います。
ところで、アメリカは、オバマ大統領が国連障害者権利条約(CRPD)に署名し、上院が条約の承認に賛同すれば条約を批准することになっていました。しかし、結果的にCRPDは委員会を通過したものの、取り下げられてしまいました。なので、実はアメリカは国連障害者権利条約を批准していません。2015年、施行規則を弱体化させるべく、ADA教育改革法が提案されましたが、オバマは守り抜きます。しかし、その後トランプが2017年に大統領になると、教育省長官には共和党への長年の献金者で、ミシガン州随一の富豪のデヴォス家の一員であるベッツィ・デヴォスが任命されてしまいます。ホワイトハウスのウエブサイトにあったADAのページは閉鎖され、障害のある児童・生徒の権利を解釈説明したIDEAの72本の政策ガイドラインは、政府のウエブサイトから姿を消しました。IDEA(障害のある個人教育法)を攻撃し続けたジェフ・セッションズが司法長官となり、トランプ政権下の2年半で100名以上の地方裁判官が任命されたといいます。
ジュディスはこう言います。「裁判所と裁判官は重要だ。司法制度は大切なのだ。公民権法が威力を発揮するのは、人びとが法律の中身を理解し、自分自身または他者のために声をあげ、かつ、効率的に法律を監視し試行するため司法制度に頼れるときだ。p299」さらに公平な社会をつくるため、私たち全員を支える共有の組織をつくるために必要なものは民主主義であり、もし私たちの社会のなかで、ある一部の集団がまるまる他の集団から分離されるようなことがあれば、民主主義が揺らぐのだと言います。そして、最後に「私たち一人ひとりがこの国の未来を形づくることに喜んで関わろうとしたときに、政府はいい働きをする」という言葉で本は締めくくられます。
【同じ空気を吸うことの大切さ】
こうしてジュディスのストーリーを追っていくと、「分離すれども平等」「分離された特別支援」がどれだけ問題を孕んでいるか、まざまざと感じられないでしょうか。
私は、2017年にアメリカのテキサス州のコミュニティカレッジで、教職課程の特別支援の授業をとっていました。”Introduction to Special Populations”というもので、通常の授業受講のほかに、16時間の現地の公立学校でのフィールドワークが必須で、学習障害、発達障害、ギフテッド、人種、ジェンダー、国籍、文化や宗教の違いにかかわらずどのように公正なクラスを作り上げていくかというものでした。そこでは、まさにジュディスが深く関わったIDEA「障害のある個人教育法(Individuals with Disabilities Education Act)」を中心に学んでいきました。その時、ちょうどトランプ政権に代わり、ベッツイ・デヴォスが教育長長官に任命されました。教授はアフリカ系アメリカ人のとても素敵な女性でしたが、授業中振り絞るような声で「デヴォスは教育が何かを知らない」と言ったことは印象的でよく覚えています。
大きな大学ではなく、地元のコミュニティカレッジで学ぶことの良さは、教育区にある公教育機関(公立の小中高)でフィールドワークができることです。その時に感じたことは、ブログにしてありますので、別途興味のある方は読んでいただければと思いますが、いずれにしても自分が経験した日本の教育とは大きく違うものでした。また、私は現地の公立高校の代理教員をする関係で教育区の研修も受けていましたが、その研修の内容のほとんどは、教授法や学習理論などではなく、人権に関わるもので、教師が法を逸脱したら罰せられるという厳しい内容のものでした。日本には差別解消法しかありませんが、アメリカには差別禁止法があります。アコモデーションプラン(合理的配慮をプランとして提出するもの)に齟齬のある実践をしたときに、教師は訴えられても仕方がないと徹底的に叩き込まれます。
「インクルーシブ教育」というと、とりあえず通常級にみんな一緒にいればいいのでしょう?と一瞬思ってしまいがちですが、そんなはずはないでしょう。2021年に公表された中教審の答申「令和の日本型学校教育の構築を目指して」では「個別最適な学び」が重要概念として提示されていますが、障害がある子たちにもそうした、固有の事情に即した最適な学びがあるということです。アメリカにも特別支援学校にあたるものも、特別支援学級にあたるものも通級にあたるものも存在します。昨年の夏に行ったデンマークでも、特別支援教育の教師のスキルはきちんと尊重されるべきものだと複数の先生から指摘されました。国連の勧告は「現実に分離されている実態が存在していませんか?」という指摘ではないでしょうか。日本における議論が混乱しているように見えるのは私だけなのでしょうか。
国連の勧告とそれに対する政府の回答や、特別支援に関わるさまざまな制度設計に関わる議論を聞いていて思うのは、「特別支援の中止」などという言葉を踊らせて、お互いを責め合っている場合ではないのではないかということです。そして、それ以上に、障害のある子どもたちがどんな状況に実質的に置かれ、保護者も含めた当事者がどのような気持ちで毎日過ごしているかという日常を心の底から理解しようとしなければ、適切な制度設計などできるはずもないだろう、ということです。今回のやりとりを見ていて、まさにそういったズレが残されたままやりとりがなされているのではないかと、率直に言って危機感を感じました。
年末に東京大学バリアフリー教育開発研究センターのインクルーシブ教育定例研究会に参加させていただきましたが、佐々木さんという当事者のお母様がおっしゃっていたことが心に残りました。「先生にお願いしたのは、国語の空気、算数の空気を吸わせてくださいということでした」本当にそうでしょう。私たちは、同じ空気を吸うなかで、個性を尊重され、一緒に学んでいくというのがあるべき民主主義社会下の公教育というものではないでしょうか。
ただ、わたしたちは、通常級の先生たちが多く参加する研修を実施する団体でもあり、日々の仕事に追われ、一人二人と職員が足りない中で、サポートしあいながら、激務のなか子どもたちに向き合っている先生たちの話を聞く機会がとても多くあります。GIGA、新学習指導要領、増え続ける不登校、特別な支援の必要な子たちの中で、先生たちはアップアップです。休日もあまり休めていませんし、寝る時間も充分に取れているように見えません。それこそ自分の子どもにきちんと向き合う時間すらとれているのだろうか、と心配になります。そのような中で、先生たちの事情を理解せず、さまざまな要求を現場に下ろしたところで、持続可能な状況になるとは到底思えません。
昨年こちらの記事を書かせていただいたのですが、私が通常級の先生たちと話をしていると、特別な支援を要する子に対して、何もしないことがいいと思っているわけではない、と感じます。むしろ、障害のある子どもたちをどう包摂していいのか、具体的なイメージがつかめていないように見えます。ただ一緒に教室にいるだけでは、よい出会いとはならずにむしろ差別意識を深めてしまうのではないかと心配しています。逆に言えば、「よい出会い」を設計する方法やスキルがあるなら、それを知りたいと思っているのではないでしょうか。
年のしょっぱなから、長いブログになってしまいました。。そんな中で今年は「探究学習」「プロジェクト型学習」の側面から、特別支援、インクルーシブ教育について考える一年としたいと考えています。そして、実は試行的な取り組みはもういくつかスタートしていまして、昨年秋よりそのうちの一つとして、江東区のかえつ有明高等学校で、まさにFOXプロジェクトとして「社会総合」「生物基礎」も含め、50時間以上をつかった半年の単元をつくってくださりました。今、在日やLGBTQなど人権に関わるさまざまなテーマのプロジェクトが立ち上がっていますが、実はこの本も高校1年生のプロジェクトチームが『わたしが人間であるために』の翻訳をされた曽田夏記さん、そして盛上真実さんに直接声をかけ、学校に招待し、講演と対話会を開催したものに私が参加させていただいたことがきっかけでした。つまり、高校生たちから私はこの本の存在を教えてもらったのです。
そんなこともあって、特別支援、インクルーシブ領域におけるプロジェクトや探究学習の意味とパワーを噛み締める年末年始となりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
※アイキャッチの画像は、BBCニュースのこちらの記事から使わせていただきました。ジュディスは、車椅子に座っている白いTシャツの女性です。
https://www.bbc.com/news/stories-54794408
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