トットちゃんの学校「トモエ学園」の教育思想が今に伝えること〜私たちの教育のルーツを辿る(2)

立春が過ぎ、春らしい陽の光を感じるようになりました。私は、一日が長くなり、春の訪れを感じる二月がとても好きです。緊急事態宣言が再度発令され、思うままに色々なところに行くことは叶いませんが、家の周りを散歩してみたり、少し暖かくなった空気を吸ったりして過ごしたいと思います。

さて、前回のブログ「私たちの教育のルーツを辿る(1)大正自由教育のはじまり」を読んでくれた岡 佑夏さんから、以下のようなメッセージをもらいました。

****

小林宗作先生が私の1番尊敬する教育者で、今でも先生の本を読むと涙が溢れてきます。

そんな私がハイテックハイに巡りあった幸運に感謝せずにはいられません。

いつの時代も、時代を動かしたのは情熱と愛であったのだろうと思います。大正明治の時代にこんなに熱く、日本の教育を変えようとした先輩方がいたことを思うと、負けていられないといつも勇気をもらいます。

****


岡 佑夏さんは、ハイ・テック・ハイに留学し、今も教育活動に携わっています。昨年書いた本、『探究する学びをつくる』でもインタビューさせていただきました。わたしより何歳も下(何十歳も!)なのに、非常に感性が豊かで、勘が鋭いというか、私も彼女と話すといつも新しい発見があります。

そして、小林宗作といえば、黒柳徹子さんの『窓際のトットちゃん』で紹介された、あの電車の教室のある「トモエ学園」の校長先生。私も小学生か中学生くらいの頃でしょうか、この本を読みました。でも、黒柳徹子さんが「実際に東京にあった小学校」のことだと書いているにも関わらず、この世に存在する学校とはどうしても思えませんでした。自分の通っている学校とはあまりに違っていましたから。そして、この本をファンタジーのように捉えたまま、大人になってしまったような気がします。

一方で、私は生まれたのは香川県ですが、小学校三年生の時に目黒区に引っ越し、「トモエ学園」のあった自由が丘の自転車圏でずっと育ってきました。もちろん、そこに「学校跡地」があることも知っていました。(つい最近も跡地にあるスーパーで買い物したばかりです)「トモエ学園」のことを検索したこともあったし、校長先生がリトミックを日本に広めたということも知識としては知っていました。しかし、「トモエ学園」の像はモヤモヤと霧につつまれたような感じで、ほんとうにあった学校として捉えていなかったように思います。

そんな時に、もらった岡さんからのメッセージ。そこで小林宗作先生について読んでみたいなぁ、と調べてみましたが、買えるような本は見当たりません。そもそも何から読んだらいいのだろう、、。そう思って聞いてみたら『トットちゃんの先生−小林宗作抄伝』佐野和彦を勧められました。でも絶版になっていて、古本屋さんのサイトに行っても買えない(涙)。がっかりしていたら、なんと本を貸してくれたのです。

早速読んでみました。私の中では霧の中に包まれた「トモエ学園」。それは、まぎれもなく実在する学校でした。著者の佐野和彦さんは、小林宗作先生の書かれた本や寄稿、エッセイ、関連の論文をできる限り集め、息子さんの金子巴さんをはじめとして、様々な方にインタビューをしてその姿を必死で洗い出そうとします。佐野さんご自身、東京藝術大学の楽理科を出られていますが、小学校時代は唱歌ばかり。戦争中は音感教育と称して、ドミソの和音は爆撃機、ドファラの和音は艦載機等と、和音を聞いて、的の飛行機の種類を当てさせられたそうです。悲惨な音楽教育を繰り返したくないその一心で調査をしていた時に、小林宗作先生のことを知ったそうです。そうした佐野さんの熱い目線から浮き上がる小林宗作先生の姿は、日本の教育の歴史を辿る上でも本当に貴重な資料のように思いましたので、ご紹介しておきたいと思います。


小林宗作先生(小林宗作抄伝より)


【燃えてしまった学校】

昭和二十年四月十五日、午後十時三分。東京大空襲の日。

B29の飛行機から焼夷弾はいくつもいくつも、トモエの電車の校舎の上に落ちた。校長先生の夢だった学校は、いま炎に包まれていた。校長先生は通りに立って、トモエの焼けるのを、じーっと見ていた。いつものように、少しヨレヨレの、でも黒の三揃いだった。校長先生は火を見ながら、そばに立っている息子の、大学生の巴さんにいった。『おい、今度はどんな学校、作ろうか?』(『窓ぎわのトットちゃん』さよなら、さよなら、より)

****
束になったまま落ちてきた焼夷弾が落ちたところで拡がったわけです。ホールはがらんどうのような所ですから、あっという間に燃え拡がりました。両側にあった校舎にもたちまちのうちに火がついて、木造の建物ですから、すぐ燃えちゃいました。間もなく校庭にあった電車の教室にも飛び火しました。(略)ホールの向こうはじにステージがあって、その上にグランドピアノが置いてありました。屋根から何まで、まわりが全部焼けても、ステージは土台が太い骨組みなので、ピアノは落ちないままで、ステージの上できれいに焼けて行くんです。まるで夢をみているようでした。ちょうど童話の中の絵に出てくるようなシーンで、ちっちゃな火がチョロチョロと、ピアノ全体をつつんで、くっきりとピアノの形を残したままで焼けてしまいました。そんな時に、親父が、そばにいた僕に『おい、今度、どんなの建てようか』と言ったんです。(p29)


トモエ学園ホール(小林宗抄伝より)


小林宗作先生はどんな人?】

明治二十六年、小林宗作先生は群馬県吾妻郡元岩島村で生まれました。南東に榛名富士を仰ぎ、北に吾嬬山を背負った美しい山村で育ったそうです。宗作少年は、下仁田小学校で代用教員として小学校教員生活の第一歩を踏み出したが、音楽好きの宗作先生は音楽の教師になるために教員免許を取得。

大正の初め頃に、下仁田小学校で、のちに国立音楽学校を創始した中舘耕蔵さんが音楽会を開いたことがきっかけで、小林先生は東京に出て、東京音楽学校(現東京藝術大学音楽部)に入学します。二十三歳の時のことでした。昔の音楽学校は非常に厳しく少人数の英才教育を行なっていて、乙種師範科は、十四名入学で二名しか卒業しなかったそう。

卒業後、公立の小学校を経て、大正九年に成蹊学園小学部へ移ります。成蹊小学校は、大正四年に創立された私立学校ですが、授業はたいてい午前中で終り、午後は近郊へ遠足にでかけ植物採集や昆虫採集、写生を行い、遊戯をしたり歌をうたったり教師の話を聞いたりの毎日でした。この学校では音楽が重視され、音楽教室という特別の教室があり、グランドピアノがあったそうです。「リトミックを導入した草創期の成城幼稚園―小林宗作の幼児教育を中心に」小林恵子(国立音楽大学研究紀要第十三集)

この時代、大正七年六月には鈴木三重吉が作家、詩人、作曲家の協力を得て子どものための文芸雑誌『赤い鳥』を創刊。画家の山本鼎(やまもとかなえ)が自由画運動を始めています。こうした大正自由教育運動の真っ只中にいた小林先生ですが、上記のように非常に恵まれた環境であったにも関わらず、教師としての自分の限界に悩み、三十歳の時に成蹊を辞める決心をします。

****

子どもたちがのびのび育つ中で、このいくらでものびる子供を充分に指導するに足る器であるか、、と悩んだ。その頃名のある音楽の先生たちの片っぱしから参観して廻った・・・僕だけが特にまずいのだとも思えなかった・・・しかしこれでよいのか音楽教育は・・・遂に私は私を是認することができなくなった。

わたしは全くゆううつになった。
なぜ音楽だけがいつまでも

ポッポッポー・・・ハイッ

ドレミファー・・・ハイ をやっているのか。 (p50)

****

当時お嬢さんが三歳※。「ご機嫌のよい時は何やらわけの分からぬ事を面白いふしまわしで唱うのか話すのか分からない様なことをひねもすさえずっている」様子を見て、先生はここに音楽教育のヒントがあるのではないかと直観します。「出なおせ、出なおせというささやきが聞こえた」先生は、先進国欧州を見ることを決心します。とはいえ、決心したところで簡単に欧州に行けるはずもありません。そのような中で、当時成蹊学園の理事に三菱財閥の岩崎小弥太男爵がいて、小林先生の作ったオペレッタを見て、渡欧の費用を全部だしたというのですから、小林先生の異才ぶりが伺えます。

はじめに行ったジュネーブで、当時国際連盟事務次長だった新渡戸博士に会ったところ、スイスの音楽家、ダルクローズのリトミックを学ぶことを勧められたようです。(大正十二年)その内容に共振した小林先生は、パリに出て、リトミックの学校に入学。そこで一年過ごしたところで、日本での実践に向けて帰国しました。

ちょうどその頃、京都大学哲学科で西田幾多郎や波多野精一から大きな影響を受け、成城学園を創立した沢柳政太郎に請われて同小学校の主事となっていた小原國芳(後に玉川学園創立)が理想的な幼稚園教育をつくりたいと適任者を探している真最中でした。小林先生の噂を聞きつけ、他の学校に先生を取られてはたまらないと、帰国船が到着する神戸に迎えに行こうとしていた記録が残されています。そうして出会った二人は幼稚園論で意気投合します。小原先生の小林先生への手紙が掲載されていますが、もう絶賛です。

「君がダルクローズの直弟子で、ホントに日本としてはカケガエのない大事なリトミックの先生(であることに感謝する)」

「子供を自然の中で育ててくれることが何より感謝だ。大きく子供らしく育ててくれることが感謝だ。自然の中の自然児にしてくれることが感謝だ。あの生活ぶりとリトミックを見るともう一度生まれ変わりたい」

「子供と接触の君の態度がありがたい。あのムズガリ屋の僕の四つになる女の子が、幼稚園へ行くと全く、別人のようになるのに感謝する。」

帰国後、成城学園で教鞭をとりながら、数々の論文を書き、実績を積み重ねた小林先生は三十七歳の時(昭和六年)に再度ヨーロッパに出発します。その11ヶ月間の旅では、ダルクローズに実際に会って、日本リトミック協会の設立を求めてもらい、ルソー研究所付属幼稚園やワルドルフ学校(シュタイナー学校)、ボーデ体操学校などさまざまな新しい教育を実践している学校を視察、リトミックについて更にパリで学んでいます。本には、ジャック・ダルクローズ研究所の教授たちが小林先生に向けて書いた手紙が掲載されていますが、語学のハンディキャップがあるにも関わらず短い期間にメソッド・理論・実践を深く習得していく様子を一様に讃えています。

帰国後小林先生は成城学園幼稚園・小学校・女学校で研究成果を現場で活用し始めます。音楽だけではなく、リズム教育を通じて人間の基礎を形成するその実践の日々は充実したものだったようです。しかし、昭和二年に小原先生が玉川学園を設立し、二校の学校経営をしはじめたことから、世に言う「成城事件」が起こり、昭和八年には小原排斥運動がおきます。小原先生が成城学園を去ったあとも、小林先生は勤務を続けますが、だんだんと仕事もやりにくくなってきたころに自由が丘学園の小学校が経営難で売りに出たことで、小林先生は思い切ってその土地と校舎を購入。理想の学校をつくりたいと、「トモエ学園」を創立したのです。


【トモエ学園はどんな学校だったのか?】

さて、こうしてできた「トモエ学園」。復元平面図はこんな感じです。電車だけだと思い込んでいたのですが、立派なホールも教室もあります。


トモエ学園想像復元平面図(小林宗作抄伝より)

ここで、小林先生は、理想の教育を始めました。開校した年の小学生は一年生から六年生までで約三十名。複合教育といって、今で言えば1−2年、3−4年、5−6年に別れる異年齢学級を採用していました。

当時ももちろん文科省の教育指導要領はありましたが、指導する先生の力があれば、国語の教科に出てくることが、歴史にも繋がるし、作文にもなるし、算数にも地理にも展開していくことができるとして、東大の文学部の代用教員などを採用していました。

****

「親父は先生たちの自由に任せていました」歴史の勉強なら教室よりも九品仏のお寺の境内のほうがずっと良いわけですし、行く途中の畠の中では植物のこともわかるし、一反の田圃からお米がどれ位穫れるか、ということから日本の地理のこと、算数の事、パーセンテージの事、植木算のこと、等いくらでも話して聞かせたり、自分たちでやらせたりすることはあったようでした。授業はかなりきちんと教えていましたね。

「遊びの出来る先生が欲しいんだ」って言うんです。「先生は何でも出来なければいけない」「本当の遊びとは何でも出来るようになって初めて出来るものなんだ」そういう意味で心の遊びを持てる先生でないと、一人一人の子供に柔軟性をもって対応ができないんですね。だから遊びの出来る先生を随分と探していました。

一見子供達は勝手気ままにしているように見えながらも、決して野放しにしていたのではなくて、大きな力で包み込みながら、子供の芽を育てて行こうとしたのですね。その芽ののばし方や一人一人の子供との接し方は各先生達のアイディアと指導力にたよっていたわけです。(金子巴さん)

****

すでに、今で最先端と捉えられているような、異年齢学級や、教科横断の学び、外部人材の登用、教師への権限委譲などが自然に行われていたことになります。トモエ学園は中学校はありませんでしたが、みなそれぞれの力に応じて都立の中学(旧制)や私立の名門校に進学していったそうです。

『窓際のトットちゃん』で黒柳徹子さんが興奮した電車の教室、そして、ホールでのお泊まり会の写真も残っています。


左が電車の教室、右がホールでのお泊まり会(小林宗作抄伝より)

私が、『窓際のトットちゃん』で好きなのは「もどしとけよ」というエピソード。トットちゃんは、ある日旧式の便所(水洗ではない昔ながらの汲み取り式の便所)に大事な財布を落としてしまい、柄杓で汚物をトイレの外に掻き出し、必死で財布を探します。そこに、通りかかった小林先生は「なにしてんだい?」とトットちゃんに聞きます。「おさいふおとしちゃったの」「そうかい」というやりとりのあと、先生はいつもの散歩の様子でどっかに行ってしまいます。またしばらく時が経ち、山はどんどん大きくなったころ、校長先生がまた通りかかりました。「あったかい?」「ない」「終わったら、みんな、もどしとけよ」そしてまたどっかにあるいて行きました。結局トイレの池はほとんど空になってもお財布は出てきませんでしたが、トットちゃんは、校長先生との約束どおり、山をくずして、完全にトイレの池にもどしました、というお話です。

書きたいことはいっぱいありますが、きりがないので、印象に残った小林先生の言葉をいくつか残しておきたいと思います。

****

子供は先生の計画にはめてはいけない。自然の中へ放りだしておけ。先生の計画より子供の夢のほうがよっぽど大きいよ (p103)

世に恐るべきものは「目あれども美を知らず、耳あれども楽を聴かず、心あれども真を解さず、感激せざれば燃えもせず」の類である (p62)

幼児が出たらめのメロディを唄うことは幼児に接する者は必ず経験させられることでしょうが、このメロディは案外出たらめでないものです。作曲学的に見ても中々整ったものです。 (p73)

****

この本は著者の佐野和彦さんが音楽の専門家の目線で、リトミックや教育が何かということを伝えられているところも魅力なのですが、リトミックは、「調和のとれた人間教育のひとつとしての音楽教育」であり、そのシンボルマークは心身両面の調和を指し示す二つ巴の紋章となっています。そしてそれはそのままトモエ学園の校舎にもつけられていたそうです。(窓際のトットちゃんにも描かれています)

佐野さんの言葉を借りて言うと、「過ぎ去って行く時の流れを、正確に分割する」ことが出来る人間は、繰り返される打刻の中に、音の高低の流れを加えることによって、快感を知るようになったと言います。あらゆる物質の存在は「回転」し「繰り返」し、そのサイクルが波を生みます。この波が、人間の感覚から体内に入り、心に感動を生じさせた時、人はそこに「美」を認識します。この認識によって人間の感性を育て、人間の生命を成立させている「リズム」を骨格として心を育て、人間を形成するリトミック。そうした根本思想の上にたちあがったトモエ学園。冒頭に述べたように、戦争で焼けてしまい、幼稚園は復活したものの、戦後の混乱の中で小学校が再開されることはありませんでした。小林先生は昭和二五年に国立音楽大学付属幼稚園を創立し、トモエ幼稚園も亡くなる直前まで経営します。しかし、ある日脳溢血で突然に倒れ、昭和三八年二月八日に亡くなります。享年六十九歳。

****

トットちゃんが初めて小林先生に会った時、先生はトットちゃんの話を四時間聴き続けました。

「そのとき、トットちゃんは、なんだか生まれて初めて、本当に好きな人に逢ったような気がした。だって、生まれてから今日まで、こんな長い時間、自分の話を聞いてくれた人は、いなかったんだもの。そして、その長い時間のあいだ、一度だって、あくびをしたり、退屈そうにしないで、トットちゃんが話しているのと同じように、身をのり出して、一生懸命、聞いてくれたんだもの」

音楽もそうですが、きっと子どもの美しさに取り憑かれた一生だったのではないかと思います。

今日は小林先生の命日。こんな素敵な先生に本を通じて出会える幸せを強く感じます。

では、このへんで。

 

※小林先生には四人のお子さんがいます。妻、豊子さんは信州の寺の娘で、なんと伊那小のある、長野県伊那市にある峰山寺の長女だったそうです。


<参考図書>

『トットちゃんの先生 小林宗作抄伝』佐野和彦 話の特集

『窓ぎわのトットちゃん』黒柳徹子 講談社文庫

『全人教育論』小原國芳 玉川大学出版部

『赤い鳥事典』赤い鳥事典編集委員会 柏書房

<私たちについて>

こたえのない学校HP

https://kotaenonai.org/

こたえのない学校ブログ

https://kotaenonai.org/blog/

Learning Creator’s Lab – こたえのない学校の教育者向けプログラム

こちらをクリック→Learning Creators Lab

Facebook ページ →https://www.facebook.com/kotaenonai.org