home > Blog > 藤原 さと > 「本質的な問い」に迷う方へ

           
2020.09.06



藤原さとです。

 

先月末にハワイの伝統校Mid Pacific Institute(昨年訪問したときのレポートはこちらから)でプロジェクト型学習を中心に長年の経験を積まれている先生方による研修の企画実施を担当しました。

そこでプロジェクトの設計にあたって、大きな時間が割かれていたのが「本質的な問い」「評価」です。「本質的な問い」「評価」どちらも私も何度か纏めていますが、現場で繰り返される悩みポイントです。今回、改めて「本質的な問い」とは何か、「評価」とは何か、研修で提示された資料も良かったので、自身も振り返りながらアップデートしておきたいと思います。今回は「問い」そして、次回「評価」について纏めたいと思います。

 

【本質的な問いとは?】

 

以前、「本質的な問い」という言い方が混乱のもとではないか、「本質に向かう問い」のほうが表現的にしっくりくるのではないか、ということを書きました。どうも私、「本質的な問い」という言葉にひっかかって仕方がないのです。※

そもそも問いに「本質的な問い」と「本質的ではない問い」があるのでしょうか。もしくは「良い問い」「悪い問い」というものがあるのでしょうか。

たとえば、私たちは潜在的な「問い」を無意識のうちに沢山抱えています。そして、「抱えていたようだ」と気がつくのは、その見えない「問い」が、あるものを見た時に顕在化する時ではないでしょうか。たとえば、「生きるとはどういうことか?」という問いは持っていても、私たちは日常ではそのことを考えてはいません。そのような問いを持っているか?と聞かれたら「持っていない」と答えてしまうでしょう。でも、なにかの現実に出会った時にその問いが生起してくるというようなことはないでしょうか。

最近家のレモンの木にアゲハチョウが卵を産み付け、それが毛虫になり芋虫になり、さなぎから蝶へ成長するということがありました。そうなると、その成長した蝶を眺め、生命の永遠のつながりを想像するときに「生とはなんだろう」と改めて思うわけです。このように何かの刺激を受けて、「問い」が浮きだってくるようなイメージです。

もしくは反対に、「死」のようなものも、きっと「死とはどのようなものだろう?」とどこかで思っていますが、それを毎日毎秒考えているわけではありません。でもなんらかのきっかけでそのことを深く考えるようになる、ということはあるかもしれません。私たちにとっていま見えない問いはいわば時間をかけて生まれてくるもので、哲学者のフッサールも考えていたように、なんらかの経験を通じて浮かび上がった「意味」を意識し始めた瞬間、現れてくるのかもしれません。ただ、「意味」の意識の瞬間に「問い」の形になっているかも、人によって違うかもしれません。

 



【学校の現場で起きていること】

 

そんな風に、無数の「問い」を見えないところで持っている私たち。そこに「良い」も「悪い」もありません。「本質的」も「本質的」でないも本当はないのかもしれません。先ほどは「生きる」「死ぬ」のような少し重めの問いを例に出してしまいましたが、それこそ「今、私はなんでこんなにお腹が空いているんだろう?」という問いも、掘っていけばいくらでも面白い問い、本質に近づく問いに繋がっていくはずです。

でも、そんな私たちが「本質」とか「良い」とか言い始める、というのはなぜでしょう。それはきっとある人にとって「意味のある問い」がある人にとっては、意味が感じられない、といった場合ではないでしょうか。一人で「問い」を持ち、それに意味を感じることはそんなに難しくない。でも、その「問い」をだれかが共有してくれたら? もしくはヴィゴツキーが指摘するように、その「問い」の探究において、似た見方や違った見方に触れて、一人で「問い」を探究するよりも、深く、広く「問い」の旅に出れるのであれば? 「問い」を共有することによって、一人では成し得ないなにかができることもあるのかもしれない。だからこその学校であり、協働の学びの意味が出てくるのではないでしょうか?

「本質的な問い」はいろいろな本、文献、インターネット検索でその定義や条件が無数と言って良いほど出てきます。探究学習、もしくはプロジェクト型学習の「本質的な問い」の設定において、そのそもそもの意味するところをしっかり把握しておかないと、文献を読めば読むほど泥沼にはまり、訳がわからなくなるかもしれません。私なりに少し整理しておきたいと思います。

 

 

【協働する問い】

 

上述を受けて考えていくと、もしかしたら「本質的な問い」よりも「協働する問い」と置き換えて考えてみてもいいかもしれません。「協働する問い」であれば、より良い「問い」の設定はたしかにあるはずです。

では、どんな「協働する問い」にしたらもっといいのでしょうか?そうやって問い直していくと、「本質的な問い」として与えられている条件がもう少しクリアになるかもしれません。

研修で提示されていた条件は「理解をもたらすカリキュラム設計」の著者、グラント・ヴィギンズのものでしたが、よく言われる本質的な問いの条件うちの3つを例にとって考えてみたいと思います。

 

1「本質的な問い」は生涯を通じて繰り返される問いであり、時空を超えるものである。

 

時空を超える問いは、確かに多くの人が問うため、複数の人が共有して、一緒に探究できます。なぜなら、地球上の全然違う場所、たとえばアフリカにいる人も、1000年前の人も、1000年後の人も同じ問いを真剣に考えているようであれば、それは、より、多くの人にとって、「意味ある」問いであるからに他ならないはずです。また、1000年残っている問いは、必ず様々な人が繰り返し「問い」として大事にしてきた「問い」でもあります。

こうなると、「なぜ私は今お腹がすいているのか?」というような問いは、「本質的な問い」ではないとなってしまいますが、本当でしょうか? たしかに「私が」という主語がその問いを限定してしまっています。「お腹がすいている」というある時間における、ある状態でしかありません。時間も空間も飛び越えていません。なので、その場限りで消え去って、お腹が空いていなければ、そもそも興味を持てない問いなのかもしれません。

しかし、「お腹が空いていること」を「欲求」「欲望」などに置き換えれば、一挙に時空を超え始めます。欲望は、どの国の人も持つし、一万年前の人も持つからです。こういう、「欲望」みたいな言葉は、概念(コンセプト)と言われており、語源はcon(共に)cept (捕まえる)。こうやって皆が共に時空を超えて考えられるものは、非常に長い間、多くの人が問い直し、バトンタッチしていきます。つまり、持続性が長い問いと言うことになります。哲学などで扱われるのがまさにこうした「概念」であり、「正義」「自由」「民主主義」みたいなものになります。

 

 

2「本質的な問い」は、さらに深く、さらに水平に広がっていく大きさを持っている。

 

アメリカの教員向けの教科書などでも、「本質的な問い」とは?ということになると、なんとも歯切れの悪い説明になるという印象があります。この二番目の項目も、時空を超えるという条件に重なっており、少しわかりにくいです。ただ、これを教室実践において応用する場合には有効な考え方かもしれません。

つまりここでは広く、深く学べるように「問い」を設計せよ、ということです。逆のことを言うと、すぐに「答え」らしきものが見つかって、それで満足してしまうような持続性のない問いを設定すべきではない、ということです。

一人で「問い」を持つ場合は、浅くても良いし、その場で終わってしまっても構いません。目に止めた花を見て、「この花の名前ってなんだろう?」でも十分に問いです。そして、その問いを「(時空を超えないから)本質的でない」とけなす人は誰もいないでしょう。

しかし、教室にはせっかくお友達が集まっており、ある一定の時間が与えられているのです。そうであれば、その環境に応じてもっと広く・深い世界に行けるようなら行ってみませんか?という提案です。様々な考え方や経験を持った生徒たちが一つの問いに向かう場合、深めやすく、広げやすい問いと共に一緒に旅をし、一人で探究していた時には思いもよらなかったような場所に行けるのであればそれは非常に魅力的なことであるはずです。

 

 

3「本質的な問い」は、自分の過去の経験、そして未来の自分に意味のあるつながりをもち、探究心に火を付ける。

 

この条件の背後にも間違いなく「協働」という言葉が隠れているでしょう。なぜなら、一人で持つ問いは、自ずと自分の過去の経験に立脚しており、自分の未来に意味あるつながりを持つに決まっていますから。そうでなければ、「問い」として立ち上がって来ないはずです。しかし、わざわざこんなことを言うのは、複数の人間が協働で一つの問いに向かうからです。つまり、クラスの多くの生徒が「設定された問い」に自分の過去の経験と照らし合わせることができ、自分にも意味があると感じ、一緒に取り組もうと思えるかどうかが勝負所だと、伝えているわけです。

 

 

【実例から本質的な問いを考える】

 

今回の研修で、もうひとつ提示された資料として、Global Digital Citizen Foundation による「本質的な問いのガイドブック」があります。暴風雨の事例を挙げて、それが「本質的でない問い」から「本質的な問い」へ近づく例を見ていくワークが紹介されています。わかりやすいので、まず簡単にサマリーをします。

 

レベル1の問い:暴風雨は湿気を生むのか?

レベル2の問い:暴風雨はどのようにして雨を生み出すのか?

レベル3の問い:暴風雨の雨は生態系にどのような恩恵をもたらすのか?

レベル4の問い:暴風雨がないと私たちは生きていけないのか?

 

このガイドブックでは、レベル1では、生徒の深い思索や探究を引き出すことは難しく、新しい質問も誘発しにくく、動機付けにも欠ける、としています。もちろんグーグルで検索すれば、すぐ「答えらしきもの」が見つかってしまうこともNGポイントです。レベル2になると、生徒の「調査」のモチベーションを誘発することができるが、限定的で生徒が情熱を持って取り組むには物足りない、としています。

そして、レベル3になると暴風雨と異なるシステム(生態系)との関係性について触れられるようになり、生徒の問いへの関与の動機付けがぐっと深まるとなっています。最後にレベル4になるとさらに、その問題は「わたしたち」に紐づけられ、そのスコープや生態系だけではなく、農業、食糧生産、ビジネス、自然の美しさなど大きな広がりを持ちます。また、課題解決の要素も出てきて、私たちが何を寄与したらよいのか、ということについても考えさせられることになります。

さて、この説明ですが、やはり「本質的」かどうかということよりも、教室内での協働における「問いのデザイン」と捉えたほうがいいように感じました。つまり、レベル1の問いも、十分に問いとして成立しています。もしそれが一人で持った問いであれば、それを深めていけば良いだけです。でも、もし複数の生徒がいて、プロジェクトデザインや探究単元のデザインをおこなうにあたってはスコープが狭すぎて、授業として成立しないかもしれません。

そうなると、そのプロジェクトの大きさによって、「問い」のスコープ(広さも深さも)というのを柔軟に設定していけば良いだけ、と言うふうにも捉えられます。たとえば、6週間の単元であれば、それに応じた「問い」のスコープを定めていけばよいのではないかと思います。1年の単元であれば、もっと深く、広くいけるでしょう。今までの「一斉授業」や「詰め込み型教育」はこうしたスコープの大きい問いに取り組むことができず、多数の小さな答えのある問いを機械的に覚えさせられることに問題がありました。だったら、そこを改善していけばよいのです。

 

【あなたの人生にとって大事な問いをみつけるために】

 

さて、そうなると「最大の問い」は何かというと、きっと人ひとりの人生においては、「あなたの人生を貫く問い」になってくるでしょう。また、さまざまな人たちが人生を通じて取り組み続けた「問い」が脈々と後世のひとたちに引き継がれていけば、それはもっともっと大きな「問い」になります。たとえば、プラトンの「イデア」「実在」みたいな概念は、2000年たっても多くの人が熱中して取り組んでいます。

「本質」というものが何かというのは、これまた多くの定義がありますが、上述のように、時空を超えて永遠に問い直される「問い」はやはり、本質に向かっている問い、と言って良いのではないでしょうか。

また、「問い」と「教育の目的」も実は切っても切り離せないものです。幼稚園の父、幼児教育の祖と言われるフレーベル(フレーベル積み木でご存知の方も多いかもしれません)は、「私たちすべては本質をもっており、その本質を発展させながら、表現する必要がある」そして、「教育の使命は人が自己を明確に認識して、自然と和し、その本質に導くことである」と言っています※※。

フレーベルが言うように、人が自分自身を知り、その自己を表現し発揮させることを支援することが教育の使命なのであれば、その「知る」プロセスとなる「問い」について、学校は練習する場になるのかもしれません。そもそも「自分自身を知る」なんて、教師もできていないでしょうし、私もできていません。皆が死ぬまで必死になって一生涯取り組む営みなのでしょうが、それをサポートできるのが「教育」だったり「学び」だとすると、教師とはなんと素晴らしい職業なのだろう、と思うばかりです。

もちろん、「問い」の協働の対象者は、教員やクラスメイトだけではありません。家族かもしれないし、地域の人かもしれないし、本かもしれませんし、上にあげた例でいえば、蝶なのかもしれません。そんなことも含めて、「問い」も含めた学びのデザインを皆ができるようになっていけばいいな、と思っています。

 

では今日はこの辺で。

 

 

※Mid-Pacific Instituteの研修そのものは、本質的な問いが何であるか、どのように作成するかというものでした。本ブログは「本質的な問い」に関する私の個人的な振り返りになります。Mid-Pacific Instituteの研修のサマリーではないことをご承知おきください。

 

※※「人間の教育(上)」フレーベル著 荒井武訳 岩波文庫 P12,P15の文言を今の日本に即し、宗教的な表現を排除して短く書き換えました。該当部分の本文はこちらになります。ご参考まで。

「すべてのものの使命および職分は、そのものの本質、したがってそのもののなかにある神的なもの、ひいては神的なものそれ自体を発展させながら表現すること、神を、外なるものにおいて、過ぎゆくものを通して、告げ、顕すものである。」P12

「教育は、人間が、自己自身に関して、また自己自身において、自己を明確に認識し、自然と和し、神とひとつになるように、人間を導くべきであり、またそうでなければならない。」P15

 

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