home > Blog > 藤原 さと > 本質的な問いとは? 良い問いのたて方とは?

 

藤原さとです。

 

今週新学期が始まった学校も多いでしょうか。私の夏は、担当していた8月上旬の一連の複数の大型研修と、イベントが終わって少しほっとしていました。

 

さて、その時の研修でもそうだったのですが、探究的な学びの(カリキュラムとしての)構築に必要だと考えられている「本質的な問い(Essential Question)」。多くの先生が引っかかるポイントで、たくさんの質問が出ます。「良い問い」を立てられないということで、スタート前から行き詰まってしまう先生も多いため、以前のブログで、カリキュラム作成にあたって、もし「問いだて」が得意でなければ、必ずしもスタートは「問い」でなくても良いのでは?という提案をしました。

 

でも、先生方の「良い(本質的な)問いを設定したい」「子どもたちが良い(本質的な)問いを発することができるように導きたい」という気持ちはとてもとても強く、どうにも消え去るものではないようです。ということで、今回は少し纏めておきたいと思います。

 

本質的な問い、本質的でない問い】

 

さて、では質問から。以下のうちどれが本質的な問いであり、どれが本質的な問いではないでしょうか?

 

1)インカ帝国とマヤ文明によって利用された共通の芸術的シンボルは何か?

2)「正義」の戦争は存在するのか?

3)誰が「本当の友達」なのか?

4)第一次世界大戦を勃発させた鍵となる出来事は?

5)効果的な問題解決をする人は課題に直面した時にどのような行動を起こすか?

6)科学的調査における変数は?

 

例えば、McTighe and Wiggins“Essential Questions”には「本質的な問い」の諸条件として下記の七つが挙げられています。

 

・オープンエンドな問いであること (唯一の正しい回答はない)

・思考を誘発し、知的に興奮させるもの

・より高次の思考を誘発するもの (分析や、評価、推論など)

・重要で転移可能な概念を指し示すもの

・さらなる問いを生み、より深い探究の火をつけるもの

・答えそのものではなく、根拠や裏づけとなる情報を必要とするもの

・生涯にわたってなんども問い直しをされるもの

 

上記に照らし合わせると、上述の問いの中で「本質的な問い」は2)3)5)であり、本質的な問いでないものは1)4)6)となります。どう思いましたか?

 

 

 

【本質的な問いって?】

 

しかし、ここで「本質的な問い」と言っても、そもそも本質とはなんなのでしょう?まずは「本質」の意味について広辞苑より、定義を抜粋してみます。

 

・あるものをそのものとして成り立たせているそれ独自の性質。例えば、動物を動物たらしめている性質。本性。

・変化常ない現象的存在に対し、その背後または内奥に潜む恒常的なもの。この意味での本質は実体として形而上学的な存在と解される場合が多い。↔現象。

・実存に対する語として、なんらかのものが現に存在しているという事実から離れて、そのものが「何」であるかという定義によっていわれるもの。

・フッサールの現象学の用語。事実と対立し、本質直観の方法によって捉えられる事物の形相。

 

「本質」の定義についてここでは議論しませんが、「あれ?」と。おかしくはないですか?「本質的な問い」と言った場合に、「問い」が「本質的」と言うことなのでしょうか? そうなると「問い」とはなんなのでしょうか。

 

ちなみに、McTighe and Wigginsでは、「本質的な問い」がどんな機能を果たすかは書いてありますが、肝心の「問い」の定義について言及していません。さらに、問いの本質を言っている訳ではないようなのに、「的」という言葉がさらにわかりにくい。多分、想像すると「本質に向かう問い」と言いたいところを「本質的な問い」としてしまっているところが、日本語的に言っても混乱の原因なのかもしれません。

 

しかし、ここを仮に「本質に向かう問い」と言い換えると、少し糸口が見えてくるような気がします。

 

上述の“本質的な問い”の条件は、7つも提示されているので忘れてしまいそうですが、「本質」とは何か?ということと関連して考えると、本質というものは、いろいろな捉え方があるのかもしれないが、はじめに思っていたものとは違う“自分なりの”「本質」というものが自分の中で現れてきたり、新しい風景を見るような旅ができるような問いが「優れた問い」という風に私としては受け取っています。(McTighe and Wigginsでは観念の転移を促進するものと言っています)そして、その旅は火がついたり興奮したりとにかくワクワクするものであって欲しい。当然にして、ある程度の時間と苦労が伴うことで新しい何かが見いだせるようでないと面白くありません。授業の一時間が終わったら、もしくはパソコンで検索したらすぐ答が見つかるようなものではいけないのです。

 

つまり、子どもたちの旅をワクワクしたものにするデザインの要となるような問いが「本質的な問い」になるのかもしれません。

 

さらにいうと、本質的な問いの最後の条件は大切で、「正義とは何か?」「芸術は審美か原理か?」というような学校にいる間には答えが出せず、生涯に渡って答えが更新されていくようなものが本当に人生を豊かにする問いになるでしょう。だからこそ、学び方を学ぶという要素が重要になってきます。

 

【学びの内容は本質的な問いと表裏一体】

 

では、次に学校などで問いの前に「学ぶべきもの」が既に設定されていたり、プログラムの中で子どもたちに「伝えたいこと」がある場合も現実には多いと思いますが、それを問いの形で再設定していくことは可能でしょうか? 

 

結論からいうと可能です。それで子どもたちが興味を持ち、探究するカリキュラムの作成も可能です。例えば、三権分立を学びたいのであれば、「どのような時に政府はその権限を逸脱してしまうのだろうか?」「政府による権力濫用はどのように阻止できるのか?」というような問いが可能ですし、「その地域の地形や天候、天然資源はそこに住む人の経済やライフスタイルに影響を与える」ということを理解するための本質的な問いは「あなたがどこに住むかということは、どのように生きるかということに影響するか?」という風に切り替えられるかもしれません※※。こうした「学ぶべきコンテンツ」から問いを作るのは少し慣れが必要ですが、一度慣れると例えば学習指導要領はこうした学びの概念・コンテンツの宝庫ですから、記載されている学びを質問化することで良い問いを基軸とした探究学習、もしくはプロジェクトが作れるようになります。

 

 

【サブ質問―本質的な問いをサポートするもの】

 

また、単元を通して一つの問いのみで通すことはあまり現実的ではないので、サブの質問も準備していきます。例えば「芸術はどのようにして文化を反映し、形づくるのだろうか?」という本質的な問いのサブ質問として「祭事用のお面は、インカ文明のどの側面を表すだろうか?」というようなものが考えられます。

 

また「何がうまくいっていて、何がうまくいっていないのか?どのような調整が必要か?」というような、メタ認知を促すものも必要ですし、国際バカロレアの初等教育プログラムの8つのコンセプトのように深い学びを引き起こすための認識転移や視点の変換をサポートする質問、子どもの興味を喚起するような質問をすることも現場では当然あります。

 

ちなみに、カリキュラムデザインとしての良い「本質的な問い」が自分で考えられない場合は気を楽にして、良い悪い気にせずとにかくたくさん思いつく質問を出してみて、「本質的な問い」になりうるものと、サブ的な問いを分類するような作業を誰かと一緒にやってみると格段に楽になると思います。決して一人でやらないことがポイントです。誰かと試してみてください。

 

【問いは誰が立てるのか?】

 

上述の問いの設定は、まず目的となる学習すべき内容があり、そこにどのような「問い」を設定するのかという話でしたが、実は、先生は問いの設定をせず、子どもたちが自由に問いを作って、それにこたえていくということをやり続ける、という方法もあります。この場合子どもたちが第一目的として学ぶのは、「良い問い」を生むことができるようになること。なので、特定の概念やコンテンツを深く学ぶという従来の考え方はある程度犠牲にしながら進むことになります。

 

例えば、ダン・ロススタインなどの提唱する「質問づくり※」という方法を実践している複数の現場を複数回見学していますが、そこでは子どもたちは、教科書のある単元を渡されて、その中で自分たちで問いを自由に立てて、その問いに答えていくということを年間を通じて何度も繰り返していきます。

 

そうすると、4月の時点では教科書から抜き出しただけの問いであったり、明らかにやる気のない問い(笑)、スコープがはっきりしない、場合によってはふざけているだけに見えてしまうような問い(男子に多いですが!)もありますが、何度も何度も繰り返すことによって、「問いのスコープが広すぎる、狭すぎる」「問いが浅いとすぐプロジェクトが終わってしまう」「面白くない問いからは面白くない答えしか出ない」ということが子どもたちは体感として分かってきて、自ら理解をします。教室内でも学び合いが起きるため、年度が終わる頃には明らかに子どもたちの「問い力」がアップしていることがわかります。

 

学年はじめは本当に遊んでいるようにしか見えなかったりするし、その質問のレベルは当然ながら低い場合が多いので、そこで止めてしまうと何にもなりませんが、一年じっくりやれば確実に成果がでていました。先生のスキルとしては、まだ未熟な子どもたちをじっと見守り、介入しすぎず見守ることであったり、子どもたちの知識や経験の差、バラバラな興味関心レベルをどのように個別にみていくかということでしょうか。当然に先生が「良い問い」とは何かが分かっていて、先生がアドバイスできることも必要です。何れにしても、非常にパワフルで魅力的な方法です。

 

その他、ソクラテスセミナー方式、「本質的な問い」を設定するカリキュラムでも場面場面に応じて子どもたちが自由に問いを設定するようなやり方など色々バリエーションがあるので、試してみるといいかと思います。

 

 

 

【そもそも何のために問いをたてるのか】

 

結局、ゴールとしては「問い続ける」「探究し続ける」その火を絶やさずワクワクしながら一生を過ごすような人を育てることにあるので、そのアプローチは様々です。「問いをたてる」ことが目的では決してありません。「問い続ける」「探究し続ける」子どもたちを育てるために、ワクワクしない「問い」を与えては逆効果で、敢えて「問い」を明示的に持ち出さないという判断すら場合によってはありだと考えています。もちろん「良い問い」に裏打ちされた、広くて深い探究への旅に誘われた子どもたちはその達成感や楽しさから、もっともっと探究したくなるので、オーソドックスですが「良い問い」を基軸とした探究カリキュラムは今でも揺るがないポジションを持っています。

 

私は実は「問い」型人間ではありません。というより、実は「問い」は立っているのでしょうけど、あまり意識上に上ってこなくて、それがある仮説を生んだ時に、私はスパークして、ぐいぐい動き始めます。そのため、プログラムを作る時にも「問い」は立てないタイプです。どちらかというと「問い」は立てるものではなく、自然と生まれてくるものだと思っているので、それを強制されると少し辛い気持ちになったりします。なので、自然に問いが生まれるようなプログラム作りが好みです。

 

でも、逆に言えば、仮説とか言われてもピンとこない子もいるかもしれません。だからこそ、教師が自分の傾向を知り、色々な学び方をする子がいることを理解し、多様な先生が多様な子どもたちを育てる、そんな環境が健全だと思うわけです。

 

では今日はこの辺で。

 

 

※「たった一つを変えるだけークラスも教師も自立する「質問づくり」」ダン・ロススタイン他 新評論

※※ “Essential Questions- Opening Doors to Student Understanding” Jay McTighe, Grant Wiggins 2013 (質問の事例などはこちらから引用させていただいています)

 

<その他の参考文献>

“The Essential Questions Handbook” Scolastic G4-8 

”Understanding by Design” Expanded 2nd Edition Grant Wiggins and Jay McTighe

「理解をもたらすカリキュラム設計」G・ウイギンズ/ J・マクタイ 日本標準

 

<その他参考情報>

「質問づくり」の授業実践としては、井上太智先生(中学理科:実践都内公立中学校、現風越学園設立準備財団)、深谷新先生(中学理科:海老名市立海老名中学校)の実践を参考にさせていただいています(Learning Creator’s Labの1期生、2期生です)。また、本稿のドラフト段階で法人メンバーの桐田敬介君に「本質的な問い」について意見をもらって推敲しています。そして、私自身が過去「問いと仮説」についてどちらでプログラムを作成するかで悩んでいた時に、とにかく参考にしたのがティム・インゴルドの「ラインズ」。痺れるほどの問いと仮説が入り混じり、迫力の探究本です。プログラムづくりの参考にもなります。「メイキング」「ライフ・オブ・ラインズ」もおすすめです。

 

 

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