「学ぶ」とは何か 〜寺田寅彦から教えてもらったこと

 

藤原さとです。

 

最近読んだ本「科学と科学者のはなし―寺田寅彦エッセイ集」について。以前もパラパラとめくってはいたのですが、先日ふと手にとって改めて読んでみたら、とにかく面白い。アマゾンでは、「日本人の自然観」「神話と地球物理学」「西鶴と科学」「化け物の進化」などなど大量のエッセイがKindleで無料で読めるため、続けて次から次へと読んでしまいました。

 

寺田寅彦は地球物理学、気象学など多方面を研究した物理学者であり、夏目漱石の門下生として俳句の手ほどきを受けましたが※、 優れた随筆を沢山残しています。今回、寺田寅彦のエッセイから「学ぶ」とは何か?ということについて色々考えさせられたので、少し書き記しておこうと思います。

 

 

【茶碗の湯】

 

例えば、「茶碗の湯」というエッセイは、下記のような文章からはじまります。

 

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ここに茶碗がひとつあります。中には熱い湯が一ぱい入っております。ただそれだけでは何のおもしろみもなく不思議もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細なことが目につき、さまざまの疑問がおこってくるはずです。ただ一ぱいのこの湯でも、自然の現象を観察し研究することの好きな人には、なかなかおもしろい見物です。

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茶碗の湯は、例えば縁側のひなたに持ち出して日光を湯気に当てると、湯気の粒が見えます。日に透かして見ると虹のような色が見え、湯気は早く回りながら上に登ります。さらに、春先に湿った土から上がる湯気を見ると、冷たい風が吹き込むたびにたなびいて立ち上がり、大きな渦ができて竜巻のようなものになって高い柱になり回転するそうです。こうした観察から大気の対流や海流などの科学の話につながっていきます。

 

ほかにも、花火を見る目や電車での人の動きなど寺田寅彦のエッセイには、多彩な「観る目」の話が出てきます。でも、多くの人は、湯気の出ているお茶碗を見ても何も思わないで、その背後にあるものを見過ごしてしまっているのではないでしょうか。一ぱいの茶碗からこれだけのものが見えてくるのに、好奇心を失った多くの大人たちは、「湯気の出ている茶碗」からその記号しか受け取っていないかもしれません。

 

でも、もしかしたら子どもたちは「茶碗の湯気」からもっと多くのメッセージを受け取れていたかもしれません。だとしたら、そのメッセージの種を摘まずに、育てていくことができたら、どれだけ良いだろう、と思ったわけです。

 

子どもたちの「茶碗の湯気」に対する感じ方は、科学的なものとは限りません。もし、文学の眼で見たらそれは「お母さんの思い出」かもしれないし、小さな画家や音楽家であれば、絵や楽曲に思えるかもしれません。

 

 

【学ぶとは何か?】

 

そうやって見てみると、「学ぶ」とは、茶碗の湯気をそれだけで見逃さず、「ある事柄(事物)をどれだけ深く、多様に感じ取ることができるか」ということに他ならないのではないか、という気がするのです。

 

「茶碗の湯」に対する視点や関わり方は、いろいろです。でも、その視点の深みであったり、多様性があった方が、人生は豊かになるのではないか。よく考えてみたら、クリエイティビティなどとも言いますが、人と同じようにしかモノが見えていなければ、そこに価値というものは生まれないわけで、卑近な例を取れば、ビジネスだってどれだけの見方ができるかにかかっているように思います。言わずもがな、芸術や研究の領域でも同じことが言えます。

 

小林秀雄の「私の人生観」に「観の目」という言葉が出てきますが、まさにその「観の目を鍛える」ということが「学ぶ」ということであり、観点の多様性だけではなく、対象(事柄)に対する関わり方を深め、極めることを手助けすることそのものが、「教育」なのではないか、そんなことを思うのです。

 

 

【教科学習と教科横断の学び】

 

今、国語・算数・理科・社会・図工・音楽・体育のような従来型の教科学習があまりに縦割りであることの反省から、教科横断の学びが重要と指摘されるようになってきています。そのこと自体は良いと思いますが、そうした議論の中では、反省が行き過ぎてしまい、「教科横断の学びの方が教科学習より優れている」というような話になっている場面にも時々出くわします。

 

でも、もし「学ぶ」ということが、上述のようなことだったら、人の特定の事柄に対する関わり方は、癖のようなものがあって、それが「教科」として成り立っているのかもしれません。そうだとしたら、そうあっさりと切り捨ててしまうほどのものでもないのかもしれません。

 

例えば、理系・文系というような括りだと、そういう括りが妥当かどうかは別として、私は明らかに文系人間で、「茶碗の湯」を見たとしても、寺田寅彦のように次から次へと科学的なものの見方は目に浮かびません。可能性があるとしたら、何らかの物語が思い浮かぶでしょうか。(実は、久しぶりに寺田寅彦のエッセイを読んだ、ということには伏線があり、私はこういう科学的なものの見方があまり得意でないため、以前読んだ時には「すごいなぁ」と思う一方で、辛くなってしまって、途中で読むのをやめてしまったのです。)

 

でも、子どもは目の前のものを見たときにどのように関わるかはわからないし、どこに気を取られるかもわかりません。そういった時に、できるだけ多様なものの見方をする人が周りにいて、その見方をもっと深めてみたり、広げてみたり、新しい情報に繋げてくれたりという水先案内人のような人がいるとそれが「教える」ということではないでしょうか。そして、その水先案内人こそが、親かもしれないし、学校の先生かもしれないし、そのどちらでもない町や社会の誰かかもしれないし、本かもしれないのです。

 

さらにいうと、その水先案内人は、その「見方(観方)」が本当に好きで愛情を持っている人が良いでしょう。例えば、私は小さな頃に寺田寅彦とその辺をぶらぶらしてみたらどうだったろう、と妄想します。私自身は科学的な見方はそんなに得意でないかもしれませんが、何かを本当に楽しそうにいささか興奮しながらも見ている人に近づくだけで、刺激を受けるはずです。

 

むしろ、今までの教科学習の弊害は、「茶碗の湯」の見方をあまりに狭いものに限定的にしてしまって、しかも子どもたちが「自分で観る」前に、「こういうものの見方が正しい」「こう見なさい」と押し付け、教え込んでしまったことにあるのではないでしょうか。教科そのものが悪いのではありません。私たちは、学校で教えられた「ものの観方」を強要され続け、自由に見てしまった時にはテストでバツをつけ続けられているうちに、「自分なりのモノの見方(観方)」を失ってしまったのかもしれないし、そうした後悔から現在、必要以上に「教科」というものに反目してしまっているのかもしれません。

 

でも、こういうふうに捉え直してみると、特に公教育という観点で「学習領域」とか「教科」という考え方が出てきても自然で、どんな子にとっても学びのある場を実現するために、そこに包括性、バランスの良さや時代性が求められるのも当然だと思います。また総合学習に於いても教科的な「観る目」を鍛えるという要素が入ってくることで、もっと力強く意味のあるカリキュラムデザインができるということも出てきます。(ベクトルの持ち方によっては教科要素が強く出なくても良い場合もあります)

 

 

【過刺激にならない】

 

一方で、「学ぶ」ということを「観る力を養う」というふうに考えると、気になるのが、受験教育や、行きすぎた「習い事」「ワークショップ」の受けすぎによる「過刺激」の問題です。

 

子どもは遊びに熱中したりぼんやりしたりする時間が必要だと言われますが、どうしても親は(私も含め)次から次へと何かをしてやりたくなるものです。「今、この経験をしないと」「今これを学ばないと」というような焦りから、次から次へと刺激を与えてしまう。

 

学校や授業でも派手なものはやはり目をひくため、ついつい刺激の高いものになっていってしまうことがあります。

 

でも、そこで失われるのは、子どもたちが「自分なりの観方」を獲得する緩やかな時間。強い刺激は行き過ぎると、子どもは「経験を購入し、消費する」ことになりどんどん強い刺激を求め、小さなものに目が行かなくなります。子どもはゲームも含め、刺激の強いものに対し、「楽しかったー!」「またやりたい!」というかもしれません。しかし、本当は道端の石ころにも目を留め、何かを感じることが一番大切なのに、強い刺激で、見えるものも見えなくなってしまう。感度が落ちていってしまうのです。残念ながら口を開けて、「次に何くれるの?」という顔をしている子、次から次へと「やること」が降ってきて、うんざりしている子はいるものです。

 

水先案内人が全くおらず、ほうっておかれるのも問題ですが、一方で、刺激を与えられすぎて、自分が何かを見て感じる経験を奪いさられるのも同じかそれ以上に深刻で、だからこそ、どこかで自制するということや、バランスをとるということが大切だと思うわけです。

 

 

【最後に】

 

先週、ある国立の小学校の総合の時間を拝見させていただき、講評させていただく機会がありました。

 

その時に早稲田大学 教育・総合化学学術院教授の小林宏己先生とご一緒させていただいたのですが、教員としても二十年のキャリアがある小林先生の子どもの「観る目」に鳥肌が立ちました。

 

四月からスタートしたその授業ではフリースペースで子どもたちは思い思いのひみつ基地を作っていましたが、先生はある一人の子をずっと追っていらっしゃりました。その子は、グループのどこにも深く入り込まず、あちらに行ったりこちらに行ったり。スペースに植わっている茄子を採ったりしていました。当然生産的な活動には寄与していません。それなのにその子は授業後の振り返りで、茄子のことは書かず、いかにもプロジェクトにしっかり参画していたかのように、プロジェクトに必要なビニールシートについて書いていたのです。先生の目を欺くかのようですが、私自身もそんなこと、あったように思います笑。

 

一方で、次の単元になっても採った茄子は机に置いてあるし、その子の夏休みの自由研究の裏テーマは「茄子」につながっている(ように見える)ものでした。

 

授業観察では、つい目立つ動きをしている子、リーダーシップをとっている子、ユニークな動きをしている子に目がいきがちです。そして、子どもの姿をしっかり見ずに書いたもので評価をしてしまうことも。

 

でも子どもたちはそれぞれの時間を過ごしていて、それぞれの思いを抱えています。たった1時間の授業を観るだけでも、観る力を熟達させることによって、子どもの性格や興味のあるもの、こころの動きなどがより正確に見え、何らかの仮説が立ってきます。さらにいうと、そこからより立体的で正確な授業の姿も見えてきます。そしてその見(観)る目の深さから、より多くのことを私たちは受け取れる。それこそが、まさに「学ぶ」ということではないかと思うのです。

 

では今日はこの辺で。

 

 

※夏目漱石の「我輩は猫である」では寺田寅彦は水島寒月君として登場します。そして、寺田は「西鶴と科学」で「西鶴が物事を見る眼にはどこか科学者の自然を見る眼と共通な点があるらしい」と書いていますが、西鶴は「淡島寒月」という名前で明治時代、作品を発表していました。

 

 

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