home > Blog > 藤原 さと > 「自由」とは?今回の危機に関連して哲学が教えてくれること

 

藤原さとです。

 

WHOがパンデミック宣言を出しました。これから経済も含めて大きな影響が世界的に広がってきそうです。サービス業を中心に非常に厳しい状況に立たされる人たちが今後多く出てくるのではないかと思うとなんとも言えない気持ちになります。

 

というのも、私のキャリアのスタートは日本政策金融公庫。中小・零細企業に対し、民間金融が担えない領域における政策金融を担う機関です。法人の目的にも「内外の金融秩序の混乱又は大規模な災害、テロリズム若しくは感染症等による被害に対処するために必要な金融を行う」とあるように、新型コロナウイルスの対策として、政府からもこの機関から無利子・無担保の融資を行うと発表があったばかりです。

 

私は、ここで新人1年目、債権管理や融資関連契約などの業務を経験し、2年目から審査担当として、中小企業の経営者と面談をし、決算書を読み、実際の融資判断を行うという仕事をしていました。アメリカに留学するまでの3年間をこの会社で過ごしたわけですが、後半の2年間は、毎日平均3社の融資判断を担当しました。2年間でざっと1500人くらいの経営者の方たちとお会いし、会社や工場を訪問したでしょうか。1990年代の中盤で、バブル崩壊の影響も強く、担当していた会社で潰れてしまったところも当然ありますし、目の前で辛そうにされている経営者を前にどうしても融資判断ができずに泣きたくなることもたくさんあった時期です。

 

同時期に私の実家もまさに中小企業を経営していたのですが、経営が傾きはじめました。海外事業への過剰投資で負債が膨らみ、国内事業は黒字でしたが、金融機関が一斉に手を引き始めたことで、資金繰りがつかなくなり、最終的には民事再生となりました。車を手放し、家はだんだんに小さくなっていきました。このことをきっかけに父も母も自己破産し、父はこの時の過労が直接的な原因となって、民事再生直後にクモ膜下で倒れて亡くなっています。家族に迷惑がかかることもあり、いままで特別な理由がない限り、親しい人であってもほとんど話をしてきませんでしたが、二十年近く経っているし、今回あまりのことが起きているので、もう解禁しても良いのではないかと思いました。今、私が教育という分野で活動しながらも公教育から目が離せないのは、もし父の会社の倒産が十年早ければ、私の人生は今とは大きく違っていた、と断言できるからです。

 

今、もしかしたらあの時以上のことが起こるかもしれない、と思いつつ、何ができるのだろう、と考え続けているのですが、先に結論めいたことを述べてしまうと、まず経済に於いては、上述のような資金繰り支援などで対症的であっても可能な限りの止血をすること、そして医療や、福祉、そして教育など他の分野でも迅速且つ的確な政治・政策の判断を政府がしていくことはもちろんのこと、この災難で傷ついた人たちが、少し長い目で見て、万が一のことが起きたとしても、物質的にも精神的にも再生できるような社会になっていることが非常に重要だと思っています。そしてその空気感作りに私たち一人ひとりができることは決して小さくないのではないかと思っています。

 

【哲学から学んだことーその1:ヘーゲル】

 

そして、このような時に哲学が重要な示唆を沢山くれているような気がするので、ここでご紹介しておきたいと思います。

 

わたしたちは、昨年から「桐田哲学堂」と一緒に哲学のプログラム「教育を探究する哲学登山」をしているのですが、前回のテーマは「自由」で、ヘーゲル、ジョン・スチュワート・ミル、アーレントと読んでいきました。「自由」は教育に於いても筆頭の重要概念ですが、このような危機の時にどうするべきかも教えてくれます。

 

まずは、ヘーゲルの「精神現象学」。言わずと知れた大著です。哲学登山では、より原文に忠実と言われている熊野訳を読みましたが、私は著者の感情も受け取りながら読みたいため、意訳が多いと言われている長谷川訳でもともと個人的に読んでいました。今回引用もそちらからになること、下記はあくまで私の読み方になる旨ご承知おきください。

 

さて、「精神現象学」では、私たちの意識の形態を「意識」「自己意識」「理性」「精神」と大きく4つに分け、どのようにしたら私たちは未熟な段階から健全に成長し、自由な精神を獲得できるのか、ということについて書かれています。(ちなみに、「精神」は、「理性がおのれ自身を世界として、世界をおのれ自身として意識するに至った時」と書かれており、「理性」の項で書かれていることと非常に被っているので、一旦ここでは「意識」「自己意識」「理性」の三つ※で整理したいと思います。)

 

ヘーゲルは、この三つの段階を人が前進していく時には、未熟な精神が否定的なものを直視し、その精神の分裂の真っ只中に身を置くことで(p21)、人は「意識」から「自己意識」、そして「理性」へと移行できるし※※、こうした知の生成過程こそが精神の現象だとしました (p17)。

 

具体的には、人は感覚的確信が真理だと思う「意識」からスタートします。これは一番原始的で、子どもも含め、普通の人が日常見ている非常に素朴で単純な「意識」ですが、それから人は大きくなると、だんだんと「自己意識」に進んでいきます。これも、特別なことではなくて、十歳くらいになると自我が目覚めてきて、思春期になると誰しも自分のことを考えるようになります。ただ、この自己意識はいわゆる「自我」と「欲望」に基づく、“私” になります。

 

しかし、残念ながらこの自己意識は「承認」を求め、「自由といっても頭の中の自由だけで、生きた自由がそこにある(p131)」わけではありません。これをヘーゲルは「不幸な意識」と呼びましたが、今まさに、私たちの多くがはまっているトラップがまさにこの「不幸な意識」ではないでしょうか。

 

つまり、良い大学を出たり、良い就職をしたりすれば、それは一見選択肢が広がり「自由」を獲得したように見えますが、結局のところその「自由」への欲望には終わりがなく、常に「承認」を求め、ゼロサムゲームであるが故に意識としては永遠に不幸だというものです。

 

しかし、「自分の独立と自由にしか関心がない(p161)」不幸な自己意識から一段上がって「理性」に到達すると、世界が一変し、「自由」の景色が一挙にひらけてきます。

 

ただ、「自己意識」から「理性」への止揚のステップは自我を引き離していくものなので、多くの人にとって非常にきつく、大きなジャンプとなります。ヘーゲルにとってもこのステップはそんなに楽なものではなかったようで、七転八倒の苦しみが描かれていますし、私もご多分にもれずで、非常に辛かった時のことを思い出しながら読んでいました。

 

このプロセスでは、「個の存在が完全な発展を遂げ、現実の意識たる個が自分自らを否定し、自分の外に出ると(略)意識と対象世界全体との統一が意識にも自覚されることになり、個が克服されて共同性へと至る(p160)」のですが、今の言葉でいうと、ミーイズムとも言われる自己中心主義から、主語が「私たち(We)」変わる大転換となります。

 

ヘーゲルも「理性」の世界に足を一歩踏み込んだ時のことを「世界は今はじめて出現したかのように思える(p161)」と書いていますが、この領域に到達すると視界が一気に開けます。ヘーゲルはその様子を以下のように書いていますが、私もそれは実感として持つものですし、感動的な表現にもなっています。

 

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精神を共同体精神として浮かび上がらせる時、理性の概念は共同体精神の王国として花開く(p237)

万人が私を含む他人の力によって生かされているのがわかる。万人が私であり、私が万人なのだ(p239)

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つまるところ、「自分のことだけ考えていても、人は決して幸せにも自由にもなれない、自由になる本当の鍵は自我を手放し、他人のことを考え、そのために行動する中にしかない」というとてもシンプルな真実をヘーゲルは伝えたいのだと私は理解しています。

 

同時にヘーゲルはこうした個人の精神が時代の精神を形作っていくといいました。個人の精神は時代の精神と不可分だということですが、今まさに「自己中心主義」を突き進んでも、幸せになれないということを、世界が私たちに突きつけてきています。もう最後通牒くらいまでいっているのではないでしょうか。こうした危機の時に、自分のことだけを考えない、もっと大変な思いをしている人たちのために動くことこそが自分の自由につながる、だからいまこそ、主語を「I」から「We」に変えよ、とヘーゲルに強く言われているように思います。

 

 

【哲学から学んだことーその2:アーレントとミル】

 

次はアーレント。ドイツ出身のユダヤ人。ナチスが台頭するドイツからアメリカに亡命し、政治哲学の分野で活躍しました。「全体主義の起源」「人間の条件」などが有名ですが、今回プログラムとして読んだのは「革命について」。 私もこの機会にはじめて読みました。「自由とは何か?」ではなくて、「自由をわたしたちはどうやったら創れるのか?」という命題に向けて書かれた本です。(ちなみに、アーレントはまさに、「過去と未来の間」という本で「自由」という章を書いており、以前私のほうでもこちらで少し触れています)

 

ナチスドイツを経験したアーレントはもはや個人の自由だけでは本当の自由を得ることはできないとし、市民がいかにして自由を獲得できるのかということを考えていました。ナチスが席巻するような社会で、一人ひとりのできることは極めて限られている時にも、「自由の隙間」はどうやったら開けられるのだろう、極限ともいえる絶望環境の中で、私たちにできることは?ということを考え続けていたのではないでしょうか。アーレントにとって革命とは「自由を創ること」にほかならず、自由が姿をあらわすことのできる空間を保証できる政治体の創設そのものでした。

 

本論は根本的な自由を創設できなかったフランス革命に対し、アメリカ独立革命が自由の創設において一定の成果をもたらしたのは何故なのか、という流れで書かれているのですが、この本ですごく面白く、且つ魅力的なのが、アーレントが「権力(Power)」を私たちを押しつぶす既存の権力としてネガティブに捉えるのではなく、自分たちこそが権力(Power)をつくりあげていけるのだと、逆転の発想で非常にポジティブに捉え直しているところではないかと思います。たとえ、一人ひとりの力は決して大きくなくとも、「活動」のために結びつくと、それは大きな力となって新しい世界をつくっていくことができるのではないか、という世界観です。

 

アーレントは、フランスでは旧支配からの解放(Liberation)にとどまってしまったが、アメリカではすでに「公的幸福」という言葉が存在し、すでに市民活動の萌芽がそこにあったことが決定的な違いだったと指摘します。

 

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アメリカ人は公的自由は公務(public business)に参加することにあり、この公務と結びついている活動はけっして重荷になるのではなく、それを公的な場で遂行する人びとにほかでは味わえない幸福感を与えることを知っていた(p183)

人びとが町の集会にでかけていくのは、義務のためではなく、ましてや自分自身の利害に奉仕するためでもなく、もっぱら審議や決議を楽しむためであった(p183)

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私は、2014年から2017年までアメリカに住んでいましたが、ちょうど、四年前の大統領選の時真っ只中、アメリカにいました。そこでは公立小学校であっても模擬選挙が学校内で行われ、子ども同士で(たとえ親の意見の受け売りであったとしても)自分の意見をはっきりと言わされていました。候補者が夫婦で違っている場合に喧嘩になることもしばしば。「この国は自分たちでつくるのだ」という感覚は日本と比べても圧倒的に強いことに強く刺激を受けました。

 

アーレントは、アメリカ独立革命に果たしたモンテスキューの役割はフランス革命に与えたルソーの影響力にほとんど匹敵する(p234)といっていますが、モンテスキューは「権力と自由は同じものに属しており」「政治的自由は、I willにあるのではなくI canにあり、したがって、政治的領域は権力と自由が結合しているものと解され、構成されなければならない(p234)」と主張しています。

 

アーレントは、まさにこうした「力(権力)」を合わせて何かことを起こそうとする「活動」にこそ「自由の隙間」があり、人はだからこそ私たちは「活動」し、動き続けなければならない、それこそが「自由」への道だと言っているように思います。

 

学校教育に引きつけて考えると、だからこそ「学校」で自由になるための「活動」となるプロジェクトをいかに真性な形で実践し、民主的な空気感の中で子どもたちが「自分たちもできる(I can)」という感度を育み、まさに「自由の感度」を育めるようになることが今後の教育の鍵になってくるように感じています。

 

そして、もう一つ読んだミルの「自由論」。これも非常に示唆に富んでいて、アーレントと同じく「自由な社会」のために私たちがどうあるべきか、が書かれていますが、言論の自由こそが、反論と反対意見による人の思考を成長させ、社会を前進させる、としています。今、SNSなどで悲寛容な発言が飛び交っている一方で、「空気を読み」、そこから無難に多くの人から評価される発言をしよう、というような行動も見られます。そんな時に「凡庸さが人類にとって支配的となるとき、不寛容と停滞を生む」というミル。アーレントやヘーゲルの本と比べると格段に読みやすいので、よかったら覗いてみてください。

 

【最後に】

 

かくいう私も、だれかのために飛び回っているわけでもなく、歯がゆい思いもするし、日々無力感も感じます。ただ、ヘーゲルもアーレントもミルも言っていることは一緒。私たち一人ひとりの小さな精神が時代精神を作っていくし、パワーを生むし、非寛容な社会を寛容さの中で前進させられるのかもしれない。

 

もちろん大きな影響力を持つ活動ができればそれに越したことはありませんが、そんなことはできずとも、毎日いくばくかの時間を他者につかっていければいいのだろうし、わたしもそういう風にしながら、ずっと考え続けたいと思っています。

 

そして、これから一層きびしくなるかもしれない社会に於いては、傷ついた人たちの再起を支援し、その再起に寄り添えること、そしてそれを支援するような誠実で良心的な発信をするという、当たり前ともいえることを、本気でやることが今求められているのだと感じています。

 

 

<参考書籍>

ヘーゲル「精神現象学」長谷川宏訳 作品社

ハンナ・アレント「革命について」志水速雄訳 ちくま学芸文庫

ミル「自由論」斉藤悦則訳 光文社

 

※章立てとしても、Cの中に(AA)理性(BB)精神(CC)宗教(DD)絶対知と並列に記載されています。ちなみに最終段階と言われる「絶対知」についてですが、「(絶対知は精神の最後の形態として)、完全にして真なる内容に、自己という形式を与え、もって概念を実現するとともに、現実の中で概念を堅持する精神(p541)」と書かれています。ただ、私は理性というものを、自分の行為や考えが、世界と調和していること、矛盾がないことだと私は考えている一方で、その感じ方は無限に広がりをもち、且つ非常に個別性をもったものだと感じています。ヘーゲルは「概念」を「自己の内部の行為がありとあらゆる存在を包摂するのを知ることであり、この主体が実体であり、実体が行為の知であることを知ること(p540)」としています。ロジックとして分からなくはないのですが、一般論として「概念」という言葉が、「共に掴む」という語源の通り、ある程度皆が一緒にそれをそれと共通に認識できるような意味内容であるとしたら少し誤解を招きがち、且つそんな「概念」はあり得ないと思うのと、本文の「理性」で言っていることとここでの「絶対知」の内容は結局のところそれほど違いはないこと、ヘーゲル自身が理性について無限の広がりを感じていたかというと、本書を読んでいる限りにおいて、「絶対知」に割かれている文面の薄さなどからも残念ながらそんな風にも受け取れないことから、本文では「絶対知」には触れません。ただ、この本を読んでみると、ヘーゲルって肖像画のいかついイメージとは違って、内側は情熱的且つ、素朴で優しい人だったのではないかと勝手に想像しています。本の書き方がすごく丁寧なので、授業も面白かったのではないかと。受けてみたかったなぁ、と思います。

 

※※この過程を「止揚(アウフヘーベン)」といっています。「内容がおのれの内面へと還っていくありさまをみとどけ、内容へと沈着して、そこに内在する自己を捉えるとともに、同時に自分に還るという形で自分の外で自己との一体化を成し遂げる」(p35)という風に本文では書かれています。

 

 

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