home > Blog > 藤原 さと > 子どもたちが「自由」に生きるためにはどうしたら良いのか?


藤原さとです。

最近ある学校における「自由」について考えることがあり、このテーマで人と話すこともあるので、少し読書をしていました。

本は手元にあるものでなんとなく選んだのですが、エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」、ハンナ・アーレント「過去と未来の間(第4章自由とは何か)」です。この二つを読んでしまうと、フランクルの「夜と霧」も読みたくなってしまうので、さらっと再読。気がついてみると全員同時代のユダヤ人。その中でフロムとアーレントはナチスを逃れて第二次大戦時にアメリカに渡り、フランクルはアウシュビッツに送られた後、収容所を生き抜きます。究極の「自由の阻害」を経験した彼らは「自由」をどう捉えたのか。

さて、教育は子どもの自由のためにある、と思っている人は多く、私もその一人ですが、よーく考えてみると「自由」ってなんともとらえどころがない。先生も「自由」という言葉をよく使いますが、そもそも自分が自由なのかどうかも分からない、子どもたちが自由を認識しているかどうかも分からない、そんなところではないかと思います。


【私たちは自由なのか?】

教育現場における「自由」という言葉は、多くの場合「○○からの自由」という文脈で捉えられることが多いように思いますが、そもそもこの言葉が乱発されすぎている感もあり、みんながよく分からないまま使っているという不思議な現象が起きているようです。確かに、今の学校は意味が分からないルールも多いですし、いじめられたり、勉強やスポーツが得意でなければ、「ああ、私は不自由だ」と子どもが思うこともあると思います。

でも、先日のディスカッションで面白かったのが、例えばクラス内で「お互いの自由を尊重しようね」といったところで、そもそも相手が不自由に感じていなかったらどうするんでしょうね?という話でした。そうなんです。自由って、空気みたいなもので、ある程度不自由な要素があっても、閾値まで不自由になってこないと、つまり空気が薄くなって息苦しくなってこないと「自分は不自由だ」と認識しないものだと感じます。例えば、私も割と自由に生きているように側からは見えるようですが、実際はいろいろな制約の中で生きているわけで、つまるところ「私自身が自由だと思えば自由だし、不自由だと思えば不自由だ」というそれ以上でもそれ以下でもないように思います。

また、本人は気がついていなくても、深刻に不自由なケースもあります。例えば、幼稚園で朝から晩まで勉強づけになっている子がいるとします(あえて極端な例にしています)。その場合、母親は、そこでドリルを沢山させて勉強を先取りした方が、将来の職業選択が増えてその子が自由になるだろうと思って良かれと思って、勉強漬けにしています。でも、実はそうすることで、その年齢に本当にすべき「遊び」や「体験」が失われ、将来的な自由に繋がらないどころか大切な資質が損なわれているのかもしれないのです。さらには、子どももお母さんが大好きですから、多くの場合、本人はドリルまみれになっても不自由に感じていません。こうして、誰も不自由だなんて思っていないのに、悲劇が起きることもあります。



【人は実は服従を求める本能的な欲求を持つ】

上述のように、私たちは自分たちが「自由」かどうかすら分からないわけですが、本当にやりたいことを全て出来れば、それで私たちが自由でいられるのか?また、自由に感じることはイコール「幸福」なのか?と言われるとそうでもないようです。

エーリッヒ・フロムによると、歴史的に中世は個人的自由はなかったが、人は社会的秩序の中で自分の役割というものを持ち、階級を移動することもなく、地理的移動もほとんどなかったので、人生の意味を疑うこともなかったし、教会による絶対的な神の愛の保証によって、安定した生活を営んでいたと言います。(これ、日本でも江戸時代、そしてもしかしたら今でも似たところがあるかと思います)

一方で、ルネッサンスを経て、市場経済が確立されてくると、教会や権威、階級などそれまで縛ってきたものがなくなって、自由になり「個」というものが問われるようになってきて、頑張ればお金、そして自由が手に入るようになりました。でも、一方で中世のような帰属感や安心感はなくなってしまって、人は不安になったと言います。競争と仕事が至上の価値を持つようになり、同時に「負け組」といわれる人たちも出てきました。

実はここで面白いのが、「自由」から解放されたようで、実は私たちは「資本主義」の奴隷になってしまっているとフロムが指摘している点です。私たちは自分の意思で何かを選択しているようで、広告に踊らされているだけかもしれません。例えば、上述の例だと、「小学校に入る前からひらがな・漢字を覚え、足し算引き算ができていないと、小学校に上がってから苦労し、その後のその子の自尊心を毀損し、将来まで大きく影響する」という人がいたとします。そうした恐怖感を煽るような広告は、「人生が変わる石鹸」と同じように、私たちの生活にひっそりと入り込んできており、私たちの判断力を著しく麻痺させていっています。 

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人間は自由の古い敵から自らを解放したが、異なった性質を持った新しい敵が台頭してきたことに全く気がついていない。その新しい敵というのは本質的には外的な束縛ではなくて、パースナリティの自由を十分に実現することを妨げる内面的な要素である(P122自由からの逃走)

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フロムの比喩はかなり皮肉で、言論の自由はあっても、近代人は「自分」が考えている内容の大部分は、ほかの誰もが考え話しているような状態にあることを忘れている、匿名の権威に同調し、自分のものでない自己を取り入れる、つまり自分で考える力を失っている、と言います。こうして、人は自由になったところで、何か拠り所を探すように、自由から逃避するメカニズムを内在的に持っており、それがナチスドイツを招いたという分析をしていますので、詳しくは本を読んでいただければと思いますが、今の社会の問題にもそのまま当てはまる部分が多いように感じます。


【ハンナ・アーレントにとっての自由】

一方で、ハンナ・アーレントにとっての自由は「個人の自由」ではなく「政治の自由」でした。心理学者であるフランクルやフロムが「内的自由」を探求したのに対し、アーレントは、個人での自由が克服されたところで、ナチスドイツのような想像を絶する暴政が起きてしまったという現実に対しては決定的な処方箋にはならない、と考えていたようです。「政治の存在理由は自由であり、自由が経験される場は行為に他ならない」という彼女の文章からは「政治は何ができるのか」「行為無くして、私たちは(ナチスのような)脅威を阻止できるはずもないだろう」という強い憤りにも似た想いというものが伝わってきて、切なくなります。

一方で、「政治における自由」は難問です。そもそもカントが「自由は我々が世界を認識し、理解する感覚によっては確証できず、同じく内感によっても内的経験のうちでも確証し得ない」と言ったように、クラスのお友達が何を自由と感じているのか感じていないのかは、他人がわかるという以前に本人も感じてすらいない場合が多いでしょう。よって「では、どうアクションすればいいのか?」と言われてもどうしたら良いのかわかりません。だって、課題が見えていないのですから。教室で「お友達の自由を尊重しましょう」と言ったところで、いじめられた子が泣いている、など顕在化した不自由の解決に少し役に立つくらいが関の山で、みんながみていない、感じていない不自由について出来ることは非常に限られているように思います。

こうして、アーレントが取り組んだ「政治における自由」は、彼女に言わせると、ギリシャ哲学以降、キリスト教も、ルソーも解決し得なかったようなそんなとても難しいことのようですが、自分に降りかかってきた宿命を内的な解決だけでなく、社会的(政治的)にどう乗り越えるのか、というのは、本来であれば、例えば教室のような限られた空間でみんなで一生懸命に考えても良いことなのかもしれません。


【処方箋】

さて、フロムもアーレントも「ではどうしたらいいか?」と書いているのですが、これが意外と似ている、、と思ったのは私だけでしょうか。

フロムのキーワードは「自発性」です。我々が、近代的自由の獲得と差し替えに受け取った無力感と孤独感を切り開くには、愛情と仕事において能力を純粋に表現し、自発的に世界と自分を結びつけることが必要だと言います。こうした「積極的な自由」は全的統一的なパースナリティの自発的な行為の上に存在するし、もっと言えば、「愛」がこうした「自発性」を構成するもっとも大切なものだ、と言っています。しかもその愛は自我を相手のうちに解消するものではなく、相手を自発的に肯定し、個人的自我の確保の上に立って、個人と他者を結びつけるような愛であると言います※。

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もし個人的が自発的な活動によって、自我を実現し、自分自身を外界に関連づけるならば、彼は孤立した原子ではなくなる。すなわち、彼と外界とは構成された全体の部分となる。彼は正当な地位を獲得し、それによって自分自身や人生の意味についての疑いが消滅する(中略)彼は自分自身を活動的創造的な個人と感じ、人生の意味がただ一つあること、それは生きる行為そのものであることを認める。(P289 自由からの逃走)

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一方、アーレントも、「行為」の語源には「始める」という意味を含むが、「始める」という純然たる能力は、自由そのものであり、偉大で美しい全ての事柄を生み出す隠れた源泉であると言います。そうして、「行為」がそれ自身の世界性を持つ空間、自由がいわば隠れ家の外に出て、自らを表すことのできる空間を作り出したときに、初めてこの力が十分に展開される、それは「奇蹟」である一方、頻繁に起こることであり、行為する存在者としての人間による始まりによって創造されると言います。そして、そうした奇蹟を実現するのは「自由及び行為という二つの天分を受け取っているがゆえに自ら自身のリアリティを樹立できる人々」としています。フロムと似てはいませんか?

私たちがこれからの子どものことを考えるとき、やはり「自由に生きて欲しい」という想いに変わりはありません。今、私たちの行動全てがデータで取得され、解析され、合理的判断という意味では、自分が意識下で行うよりもよほど性能の良い回答をコンピューターやAIが出してくれる時代になってきました。そうした時に、子どもたちはどうやったら「自由」に生きられるのか。中世の時代よりチャレンジングな時代であることは間違いなさそうで、私たちの住んでいる資本の世界ともまた違ったチャレンジがありそうです。

そうしたことを考える時に、フロム、アーレント、フランクルのような人たち、そして「自由」について色々考えてきてくれた先人たちの知恵を尊重しながら、私たちも真摯に考え続けなければいけないのだろうな、そんなことを思うのです。

では今日はこの辺で。

※フロムは「自由からの逃走」を1941年に刊行したのち、15年後に「愛するということ」という本を出します。この本が出るよりだいぶ前に、こうしたことが書かれていることが感慨深いですが、「自由からの逃走」の中でも、「愛は分離を克服しようとする欲求から生まれ、合一を導き、しかも個性は排除されないのである(P 287)」「人間の社会史は、自然と一つに融合していた状態から抜け出し、周囲の自然や人間たちから分離した存在として自己を自覚するときに始まる(P34)」あたり非常に大乗仏教的な表現が多くて、少し調べてみたら、やっぱり、、鈴木大拙に繋がってました。。。

<参考図書>

「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム 東京創元社

「過去と未来の間」H.アーレント みすず書房


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