「遊び」と「探究」を読む夏の5冊

 

藤原さとです。

いよいよ夏休みが始まりましたね!せっかくの夏休み、存分に子どもたちが遊べて成長できるといいなぁ、ということで、5冊くらいご紹介したいと思います。

 

1)「子どもの「遊び」は魔法の授業」キャシー・ハーシュ=パセック/ロバータ・ミシュニック・ゴリンコフ

 

 

この著者の本は、昨年「科学が教える子育て成功への道」も日本語訳が出版されましたが、発達心理学の観点から「遊び」がいかに重要か、「遊び」=「学習」であることを科学的に説明していったものです。2人とも、一線の発達科学の研究者でありながら、母親であり、自身の子育てについては「自分の子どもに早期英才教育をさせたいという誘惑に打ち勝つ(つまり存分に遊ばせる)には、自分の持てる知識を総動員しなければならなかった。」と告白しているあたりが親近感もわく本です。いやはや、頭で分かっていても実行に移すのは本当に難しいものです。

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私たちは子どもたちのためにスケジュールを立て、習い事をさせることで、自分自身でゲームを生み出す楽しみを子どもたちから奪っている。子どもが自分自身の人生を楽しむために必要な「できるという感覚」や独立心も奪っている。喜び、ばかばかしさ、遊びといった概念は置き去りにされている。何もせずに物思いにふけり、自分自身に戻る時間を持つという考えは業績主義の熱狂の中では一種の異端であるらしい

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大人の関わりが子どもの「遊び」と「学び」を深めるという観点もあり、特に乳幼児期から、小学校低学年くらいまでの親に特におすすめの本です。

 

2)「遊びが学びに欠かせないわけ‐自立した学び手を育てる」ピーター・グレイ著

 

 

こちらも心理学の教授による本。ハワード・チューダコフは「組織されない子どもの遊び」、つまり「管理されないで主体的に遊ぶ子どもたち」が、「自身が何をどのようにするかを決定し、また遊ぶ過程で目標やルールを変更する自由を持っている遊び」が子どもを大きく育てると言いました。

この本で面白いのは、「遊び」ということをいろいろな視点から解説してくれることです。まず「遊び」の原型は狩猟採集民の生活にあるとし、かれらが、「子どもは自主的な遊びと探索を通して、自らを教育する」という一般的な考え方を持っていることを紹介します。

狩猟採集民は厳しい自然環境の中で、並外れた自制心と快活さを持ち合わせますが、異年齢のコミュニティーの中での子ども同士の遊びを通して子供たちは自分の欲求や感情をコントロールすることを学びます。その後「農業」が子育ての目標を変えていきます。農民の家族は自分の土地の権利を主張し、守らなければいけなかったことから、「労働」「私有財産」「強欲」「地位」「競争」という概念が現れます。結果として、「仕事」が増え「遊び」が減ります。

それから封建時代から産業革命後にかけては、児童労働の時代が続き、1832年、ニューイングランドの工場の全労働者の3分の2は7歳から17歳の子どもで、典型的な労働時間は夜明けから午後8時まで、週6日だったそうです。その後、プロテスタント主義により「自らの成功あるいは失敗に対する“個人の責任”」が問われるようになり、17世紀末にドイツ帝国での学校教育に発展していきます。

筆者はこうした考えに基づいた学校教育が犯す罪に触れ、「子どもは生まれながらの罪深きものであり、改心されなければならず、教育の主要な目的は領主や雇い主への服従である」という考え方からの脱却が必要、と説いています。アプローチは違えども、日本も封建時代以降、同様の課題を抱えていて、興味深いものです。

後半は筆者の子どもが通ったサドベリースクールの紹介や、アン・スクーリングを含めた個人の親向けの複数の事例になってしまい、狩猟採集民の話と、プロテスタンティズムの話はどこにいっちゃったの??という感じですが、情報は豊富。読みながら「遊び」について自分の考えを照らし合わせていくと、自分なりの考えがはっきりしてくるかもしれません。

 

3)「暇と退屈の倫理学」國分巧一郎著

 

プロテスタント主義から発生した学校教育の在り方には罪深いものがあるというのは分かった、しかし現代を生きる私たちにとって「なぜ学ぶのか?」「なぜ遊びが大切なのか」という問いについては、もう少し考えてみたいところです。

國分氏は「資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが暇を得た人々はその暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。」という状況が現代社会だといいます。

近代哲学の祖ともいわれるカントは「人間は世界を受け取るだけではなく、それらを自分なりの型にあてはめて主体的にまとめ上げることが出来る」と言いましたが、実は私たちは主体性は産業社会に(無意識のうちに)奪われ、「生きているという感覚の欠如、生きていることへの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感」の中にいる、そういう感覚は、共有する人は多いのではないでしょうか。

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食と住を確保できるだけの収入と日常の身体活動ができるほどの健康を持ち合わせている人たちを襲っている日常的な不幸(ラッセル)

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この本ではパスカル、ニーチェ、ラッセル、ハイデッガー、スヴェンセンの「暇」と「退屈」についての考え方、1万年前に人類がスタートした「定住生活」、ヴエブレンの指摘する「有閑階級」が持つ「暇を生きる術」、ヘンリー・フォードによってもたらされた「余暇」の概念の誕生、と続きます。

筆者は、現代社会の「退屈」は「消費社会」と深く結びついており、「疎外」というキーワードをもって切り込んでいきます。「疎外」とはここで「人間が本来の姿を喪失した非人間的状態」のことだとし、かつてはマルクスが言うように「労働者の疎外」が問題だったが、現代人は「終わりなき消費のゲームを続けることで、自分で自分のことを疎外している」なんてくだりは、ウンウン、とうなずいてしまう人も多いのではないでしょうか。

その後、「人間の本来の姿」「疎外」について、ルソー、ヘーゲル、マルクスの論、終盤は、ハイデッガーの「退屈」と「自由」の考察に入っていきますが、「退屈」の処方箋としての本の結論の一つ、「(止むことのない概念の)消費をやめ、受け取る感覚、多分に楽しむ能力を開発すること」あたりは、まさに「なぜ遊びが必要なのか?」に対する見通しのようなものと思考の種を与えてくれているように感じます。この辺実は仏教を含めた東洋思想も得意分野かもしれませんね。自分の思考を沢山の哲学者に重ね合わせ、対話するように読み進められる楽しい本だと思います。

 

4)「自由を子どもに」松田道雄著

 

ハイデッガーの「自由」の話が出てきたところに、ご紹介したいのが、この本。小児科医だった松田氏が、1973年に出した本ですが、今の課題とほとんど変わらないことに驚きます。松田氏の「いまの都市の子供たちには自由に遊べる空間がない(中略)こうした自由空間の喪失が子どもたちの生活を貧しくし、個性の発達を抑える」などというあたりは、②のピーター・グレイ氏とも全く同じ見解です。私自身、乳幼児期は親の関わりも重要だと思って関わってきましたし、今でも子どもに関わってはいるのですが、小学校に入ると、もはや大人の私より、友達のほうがよい仕事をすると、身をもって感じています。

7章の「こどもだけの世界」にも書かれているように親の目が届かず、少し悪いことも隠れてやってしまうような子ども“だけ”の世界で子どもは、無限に遊びを創り出し、人間としての歓びを創造させ、子供たちが自立し大きく成長します。今、地域によっては、そういう相手がいなくなったり、異年齢で引き継がれる「こども“だけ”の遊び」の場がどんどん失われているのは悲劇としか言いようがなく、こうした差が実は将来の差になるのではないかと考えさせられる本です。

 

5)「少年動物誌」河合雅雄著

 

最後は私が究極の「探究」と「遊び」のベスト本だと思うものをご紹介します!本の作者は、河合雅雄氏。日本の霊長類学者、京都大学名誉教授、モンキー博士として知られるサル学の世界的権威で、児童文学を含め膨大な著作を残し、(私の中での)探究界のスーパースターです。そして、もう一人の私のスーパースター、日本にユング心理学、分析心理学を導入し、日本の神話や昔話、仏教などから鮮やかに私たち日本人の心の世界を描ききる故河合隼雄氏の兄にあたります。日本の知性の代表者がどのように生まれ、育ったのか。

この本は、子ども向けに河合雅雄氏が自分の子供時代のことを書いた本ですが、その子ども時代の遊び方がぶっ飛びすぎです。たとえば、縁日で買ったモルモット2匹を兄弟で飼いはじめ、小屋を自分たちで立てて、餌は自分たちで調達して育てます。3年目にモルモットは70匹に。このモルモットを売って商売しようともくろみますが、小屋は悪臭を放ち、餌は刈りたててしまったため、とうとう自転車で、毎日3キロも4キロも草刈りのためにさまようことにうんざりしている様子が描かれています。また、せっかく飼ったジュウシマツを飲み込んでしまった蛇をみつけた雅雄は、ペンチで首を挟み、腹を10センチほど切り、半分溶けてしまったジュウシマツを取り出し、その後ヘビ退治にやっきになります。挙句のはてに、敵となる地域の子どもたちを追い払おうと、ミイデラゴミムシという悪臭を放つ虫を50匹育て、屁こき軍団をつくり、そこを城と呼びます。

もう一つ、弟でもある河合隼雄氏の遺作にもなった「泣き虫ハァちゃん」という本がありますが、父親は「こどもは遊ぶべき」として、本も週1日以上は読んではならない、としていて、本好きの隼雄がもっと読みたいといったのを母親が擁護するエピソードもあり両親の子どもへの関わりが見えてきます。河合雅雄氏は、子供のころ小児結核でしたが「私の成長をとことん支えてくれたのは、少年期の深い自然とのつきあいにあったと思います。学校へ行かなくても、私はすこしも苦痛ではなかったし、またほとんど勉強しなかったことをいまでも後悔しません。」とあとがきで書いています。

さて、本もほとんど読まず、遊び惚けていた河合家の子供たち。河合雅雄は7人の男兄弟の三男なのですが、将来どうなったでしょうか。なんと長男・仁は外科医、次男・公は内科医、四男・迪雄は歯科医、五男・隼雄は臨床心理学者(上述:京都大学教育学部名誉教授)、六男・逸雄は脳神経学者(京都大学医学部元助教授)です。

昨今「〇〇大学に受かる子育て」というような本もあり、そういった本を参考にするのもなくはないのですが、大学に入ったというのはゴールでもなんでもなく、いかに人生を充実して生きることが出来たかが重要という風に考えると、河合家の子育てからは学ぶことがとても多いように思います。

ということで、夏はめいいっぱい遊びましょう!

今日はこの辺で。

 

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