ピアジェに学ぶ“優しい”子どもの「見方・考え方」

昨年FOXプロジェクトという特別支援のプログラムを始めました。ひょんなことから、重度の障がいを持つお子さんをお持ちのお父さんとお話しするようになったことがきっかけです。このプロジェクトについては、どこかできちんと纏めますが、「インクルーシブ」ということを考えたり、日常の「学び」を捉えたりするにあたって、発達心理学の考え方から学ぶことがあまりにも多い。特に昨年の哲学登山「発達と学習」で、シーグラー、ピアジェ、ヴィゴツキー、ブルーナーを読んで新しい視点を得たので、自分でもいくつか本を追加で読みつつ、考えたことをここで書き留めておきたいと思います。今回は前半としてシーグラーとピアジェについてです。

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明治のキリスト教と教育(その4)―女子教育とキリスト教ー私たちの教育のルーツをたどる(15)

いままで明治期にどのようにキリスト教が広まっていったのか、またその過程でどのように私たちの教育も影響を受けていったのかについて見ていきました。今回は明治期に60校新設されたプロテスタント系の女子校を中心に、明治期の女子教育全般にも触れていきたいと思います。明治期のキリスト教教育のまとめとしては今回が最後となります。

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明治のキリスト教と教育(その3)―新渡戸稲造と札幌バンドー私たちの教育のルーツをたどる(14)

その1で幕末に宣教師として来日し、初の和英辞典を編集したほか、聖書の翻訳、明治学院大学創立などさまざまな貢献をしたヘボン、そしてその2で同志社を設立した新島襄について触れました。ヘボンたち外国人宣教師たちが拠点にして活動を開始したのは横浜だったので、そこに集まった信徒たちは「横浜バンド」と呼ばれます。また、新島襄の設立した同志社は京都ですが、熊本洋学校出身の若者たち「熊本バンド」が同志社創立期に活躍しました。明治初期のプロテスタントの源流というと、「横浜バンド」「熊本バンド」「札幌バンド」の3つがあると言われますが、今回は、札幌農学校(現北海道大学)教授、第一高等学校(現東京大学教養学部)校長を歴任したほか、キリスト教系の女子高等教育としては最初期にあたる東京女子大学の創設や、貧しい人たちの夜間学校の創設など、さまざまな学校を立ち上げた新渡戸稲造を中心に「札幌バンド」についてまとめておきます。(次回は明治期に多く設立されたミッション系の学校、特に女子教育について書きたいと思います。)

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明治時代のキリスト教と教育(その2)新島襄と同志社創立―私たちの教育のルーツをたどる(13)

前回(その1)は、幕末から横浜で宣教を開始したヘボン、ブラウン、バラたちからはじまって、どのように明治時代におけるキリスト教学校が発祥したのかについてまとめました。彼らが住む横浜居留地で開かれた私塾に学び、そこで感化されてクリスチャンになった日本人たちは、日本初のプロテスタント教会「日本基督公会」を設立し、学校を作っていきました。今回は、またもう一つの流れとして、海外で宣教師となって日本に戻ってきて同志社を設立した新島襄とその活動に合流した熊本洋学校出身のキリスト教信徒の学生たちについてまとめておきたいと思います。

 

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明治時代のキリスト教と教育(その1)横浜にやってきた宣教師たちと学校―私たちの教育のルーツをたどる(12)

福沢諭吉の回でも少し触れましたが、私の卒業した中学・高校の創立者は福沢諭吉と同じ中津藩出身の武士で福沢諭吉を江戸に呼び、蘭学塾を開き、慶應義塾の原点をつくった人物の甥でした。東京高輪にある頌栄女子学院という学校なのですが、この学校はプロテスタント・キリスト教の学校で明治17年に開校しています。二代目校長は島崎藤村に洗礼を施し、明治女学校を設立した木村熊二です。私の場合、特別に宗教教育を受けたいと思ってこの学校に入ったわけではないのですが(制服が可愛いと思った)、さすがに6年も毎朝礼拝をするような生活をしていると、なんらかの影響は受けるものだと最近になって思うようになりました。私だけではなく、私のように何気なくキリスト教の学校に入学し、なんとなく聖書を読んでいたという人は結構いるのではないかと思います。

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「蝶々」「蛍の光」を作ったのは?〜日本近代音楽教育の黎明−私たちの教育のルーツをたどる(11)

前回日本初の文部大臣、森有礼についてみていきました。ただ、森が文部大臣になる明治17年に先立ち、明治政府は明治5年に「学制」を交付しており、小学校から大学までの教育制度は走り出していました。明治維新直後の混沌とした時代にどのように日本の近代教育は形づくられていったのか。師範学校の一番はじめのカリキュラムを作成し、文部官僚として、教科書検定制度を導入、唱歌など音楽教育の基礎部分をつくった実務の人、伊沢修二についてまとめておきたいと思います。

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森有礼-日本の近代教育制度の骨格をつくった初代文部大臣(後半)―わたしたちの教育のルーツを辿る(10)

今回は森有礼についての後半です。前半部分をざっとサマリーすると、薩摩に生まれた森は、19歳のときに薩摩藩から派遣された留学生としてイギリスに向かい、ロシアやアメリカでも様々な経験をします。その後日本初の外交官としてアメリカに渡り、米国の政治家、文化人、知識人と積極的に交流。条約改正の仕事などに奔走します。1873年、帰国して欧米式学会の設立をしたいと、福沢諭吉らも社員となる日本発の啓蒙結社「明六社」を立ち上げますが、自由民権運動が加熱するさなかでの言論弾圧で、解散を余儀なくされます。まだこのころ森は20代後半。前半はここまでです。

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森有礼ー日本の近代教育制度の骨格をつくった初代文部大臣(前半)―わたしたちの教育のルーツを辿る(9)

以前吉田松陰福澤諭吉について書きました。その後、明治の教育はどうなっていったのでしょうか。「日本の教育のルーツを辿る」と思った時、特に探究学習となると、多くの人が考えるように私も大正自由教育にそのヒントがあると当初思いました。しかし、大正自由教育を調べている間に、その萌芽となるものはすべて明治時代にあることに気がつきました。もちろん江戸時代以前の教育のあり方が、明治時代のベースにあるわけですが、日本の近代教育の骨格ができたのはまぎれもなく明治時代です。明治時代が理解できると、大正自由教育がもっとよくわかるし、昭和の戦前戦後に何が起きて、今につながったのかが分かってきます。私たちの今の知識観・学習者観・学びがどのように形成されてきたかということが分かれば、その課題もわかるし、批判的に自分たちを捉えつつ、未来を考えることができます。これからしばらく明治時代についてまとめていこうと考えています。

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釈迦に説法!?教師のプロフェッショナリズムとアマチュアリズムを考える〜市川力・倉成英俊対談

教育者たちが集って年間でプロジェクトを立ち上げながら学んでいくLearning Creator’s Lab(LCL)。5期生も3月からスタートしていよいよ11月末の最終発表に向けて後半戦にはいってきました。7月末に4−5名のチームが8つ立ち上がっています。LCLでは、いわゆる講師として学校の先生だけにきてもらうのではなく、クリエイティブパートナーという創造性に関わっている人たちとも交流してもらっています。そのなかの一つの企画として、8月にクリエイティブ・プロジェクト・ベースの倉成さん、それから講師としておなじみの「みつかる+わかる」の市川力さんにお話してもらいました。

 

この二人には3年前にも対談してもらっています。なので、今回「好き勝手、なんとなく、とりあえず 〜あれから3年」というテーマで話してもらいました。その中で見えてきたのが、教師の中のプロフェッショナリズムとアマチュアリズム。プロだからこそできること、アマチュアだからこそ見えるものがある。しかも、何かの創造者になるのであれば、誰も歩いたことのない道を歩く、という意味で「素人」の要素は大事なのだから、狭い意味での「玄人」に拘泥しないことが大切、という話です。今、教師に求められていることはあまりに多い。本当にあれもこれもやって、全てのことに対して「プロ」の顔をする必要なんてあるのでしょうか。「教師」の仕事の「プロ」と「アマ」について一緒に考えられたらと思います。

 

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オルタナティブスクールのさきがけ、文化学院を創立した与謝野晶子がスペイン風邪で語ったこと〜私たちの教育のルーツを辿る(8)

新型コロナウイルスもデルタ株となって、一層感染力が強くなりました。10代以下の子どもたちにも感染が広まっており、私たちが住んでいる東京は連日5000人以上の新規感染者数を記録しています。二学期ももうすぐ始まる中、本当にこのまま新学期を迎えていいものだろうかと不安な毎日を過ごしています。

そんな中、与謝野晶子がちょうど100年ほど前に大流行したスペイン風邪の時に、政府の対策を批判して書いたものがある、と知人が教えてくれました。デジタル版があったので、早速読んでみたのですが、政府の感染症対策、不平等な社会への批判を痛烈に行なっていることに驚きました。与謝野晶子といえば、『みだれ髪』にみられるような情熱の歌人のイメージがありますが、大正時代に「文化学院」という非常に先進的で個性的な学校の創立メンバーの一人として、人生の後半生は夫の与謝野鉄幹と共に教育に多大な時間を割きました。今日は歌人としてよりは「評論家」「思想家」「教育者」としての与謝野晶子について少し書いておきたいと思います。

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