home > Blog > 藤原 さと > 創造する学び-クリエイティブラーニングとは何か?

藤原さとです。

先日「クリエイティブ・ラーニングー創造社会の学びと教育」が出版されました。

ジェネレーターズベースキャンプでご一緒させて頂いている井庭先生、Learning Creator’s Labを含め、日ごろから大変お世話になっている市川先生、岩瀬先生、ABLEで沢山学んだ今井先生が関わっている、、ということであれば面白くないわけがないと思って読みましたが想像を大きく超える内容でした。特に序章は教育をする人なら名前だけでも知っているだろうピアジェ、ヴィゴツキー、デューイ、パパート、レズニック、コルブらの考え方を「創造性creativity」のレンズから紐解き、「創造する学び‐クリエイティブラーニング」の概観をまさに構築していきます。そしてその世界は、「ものづくり」という範疇を飛び越え、一級のアーティストが実現するような世界まで飛びこんでいきます。本当にこんなことが可能なのか、でも、そんなことに驚いている間に現実のほうが先に進んでしまうのかもしれない、そんな気持ちで読みました。どこまで伝えられるかわかりませんが、私自身の備忘録も含め共有したいと思います。


【創造社会の到来】

井庭先生は、ここ100年の世界を各時代を象徴する3つのCで捉えており、時代はモノやサービスを消費することに人々の中心的な関心が置かれ、消費が人生の豊かさを示したConsumption(消費)の社会から、インターネットの普及によって広がったCommunication(情報)社会、そしてこれからは、Creative(創造)を基軸とした社会、つまり「創造」「つくる」が人々の関心や生活における中心的な関心となる時代になるとしています。

そして、その「創造社会」ですが、それは狭い意味での「自己表現」などというものを完全に超えたものであり、日本画家の千住博氏が「私の考えをはるかに超えたところで作品は作品になったりならなかったり、流れ続けるのです」と言い(P22)、宮崎駿氏が「映画は映画になろうとする。作り手は実は映画の奴隷になるだけで、作っているのではなく、映画につくらされている関係になるのだ(P142)」と言うようなものになります。そして、そうした「創造」は今後、一部の天才に閉じられたものではなく、創造社会に於いては、一人ひとりがもつ自然な創造性を発揮する社会、誰もが創造的に「つくる」社会が来るというのが本書の主張です。

でも、そうだとしたら、「学校」「教育」は急速に「創造」にシフトしてかなければならない。ではどうやって実現していけばよいのでしょう。


【創造社会のベースとなる構成主義の考え方と系譜】

創造性、クリエイティビティはどのように創発されるのか?ですが、やはりいくつかの基本的な理論を踏まえ、先人の知恵を拝借しないと、実際の運用までなかなか落とせません。本書では「認識や知識の獲得とは、自らの認識や知識を生み出すことだ(P31)」という構成主義(Constructivism)の考えをクリエイティブの視点から辿っていますが、構成主義のアプローチ自体は新しいものではなく、実装が進んでいます。実際に世界153か国に約5000校ある国際バカロレア校(2019年3月時点)の土台ともなっており、本書で紹介されているシーモアパパートが前身を創設したMITメディアラボではミッチェルレズニックがスクラッチというプログラミングソフトを開発し、世界で3000万のユーザーがいます(2018年)。多くの国で実践が広がっているプロジェクト型学習、探究型学習、でも構成主義は基軸の考え方になっています。

さて、こうした構成主義の考え方は、それまでの認識・知識とは何であるかというものを考察する認識論の世界からその認識の発生過程に目を向けたジャン・ピアジェによって、大きく前進しました。それまで認識・知識は(教師などから)与えられるものだという、本質主義的な考え方から完全に逆転し、人の認識や知識はだれか(客体)に教えられるものではなく、自らの中(主体)の中で構成されるというものだという大きな転換がなされました。加えて、ピアジェは人は何等かの認識の構造を持ち、それを環境に適応させながら生きていると言います。新しい状況下で何が起きているかを理解しようとしたときに人は構造への「同化(assimilation)」と「調節(accommodation)」を行うとし、認識・知識は主体と環境の相互作用の中で構成されるものだとしました。

ピアジェはいいます。「私たちは科学を世界の中にあるものを発見するためのものとして捉えがちですが、これは正確ではありません。科学とは人間の精神を通して世界を構成することです。私たちが探求しているのは、きれいで、単純で、調和の取れた構成です。」(本書P38, ピアジェ晩年に語るP104)

こうしたピアジェの考え方は後継者である上述のMITメディアラボのパパート、レズニックにも受け継がれていきます。パパートは自身の立場をコンストラクショニズム(構築主義)と呼び、「つくることによる学び」に着目しました。パパートの後継者のレズニックは、遊び心に溢れ、想像力を掻き立てるアクティビティに従事するクリエイティブラーニングスパイラルを提唱しました。

そして、上述のピアジェと同じ年に生まれたヴィゴツキーも重要な示唆を提供しています。ピアジェが発達の過程を生物学と心理学の観点から研究したのに対し、彼は他者の中で育つ子どもという社会的な側面に目を向けました。「発達の最近接領域 Zone of Proximal Development」の考え方は教育学の文脈で認知度の高いものですが、「人間は独りで世界に向き合う存在ではなく、他者を介して世界に関わり、また他者との相互作用の中で獲得した記号・言語を用いて世界に関わる(P67)」という点を重視しました。ピアジェの構成主義に「社会」をつけて社会構成主義ともいわれるこの学びは、現在も協同の学び合いや、教師による「足場かけ」等で広く現場に応用されています。

同時にヴィゴツキーの最後の著作となった「思考と言語」では、子どもがより高次の知能へ至る際には、社会の中で構成された体系的概念「科学的概念」を生活の中で自然につかむ「生活的概念」結びつけることで概念認識が発達することや(P77)、言語が発達にとって非常に重要な役割を果たし、他者へのことばである「外言」から自分の中でのことばである「内言」に取り込むことで、意味の発達が可能になる(P72)ということが見出されました。

さらにピアジェ、ヴィゴツキーたちよりは半世紀ほど前、教育は「経験の再構成」「経験の再組織化」であるとしたジョン・デューイも創造性教育には切っても切り離せません。デューイも「経験と教育」の中で「継続して起こる経験の中で実り豊かに創造的に生きるような種類の現在の経験」が探究的サイクルの中で創造性を発揮するにあたって重要だと指摘しています。


【創造的な学びとは?】

では、どうしたら創造的な学びができるのか? まず何を「創造」と定義するかですが、これは冒頭にもあったように、なんでもよいので作るということではありません。また、自己の個性を突出させた狭義の自己表現でもありません。自己の論理認識では超えた“大いなるもの”の力を借りた創造の世界を指し示していると理解しています。

そして、それがはじめに書かれた映画や小説の事例のように、創造は実際には、自己の意思を超えて(大いなるものによって示唆された)「あるべきかたち」になっていくための次の一手を「発見」していくことの連続なのであれば、創造はその発見の生成・連鎖であり、それは動的で自己革新していくオートポイエティックな「創造システム」だと本書は主張します。

一方で、「創り手」側もピアジェ以降の系譜を辿ってきたように、それぞれの「心的システム」を持っています。こうした心的システム(認識を構成するシステム)は意識を要素とするシステムであり、意識が生成・連鎖することで思考がなされますが、このシステムも創造システムと同様動的で自己革新していくオートポイエティックなものであり、先行する意識から次の意識を生成してそれを連鎖させていることで思考を実現します。どのような意識が構成されるかは、ピアジェも指摘するように、そのときにそのシステムが持っている「構造」に依存しますが、創造システムは、心的システムの思い通りにはいかないのだから、創造システムの内的な論理に従って「あるべきかたち」を受け入れることになります。

こうして個人に閉じた「心的システム」の中で「創造」が行われていたのが、今までの個人をベースとした芸術の世界でした。


【チームでの創造】

しかし本書では、それがチームに開ける世界が来ると言っています。ニクラス・ルーマンの社会システム理論を応用することで、こうした個人に閉じた「心的システム」が交流をすることにより「コミュニケーション」という「出来事」が起き、その生成・連鎖がオートポイエティックに連続するコミュニケーションシステムにより、チームとしての創造がなされていくことを可能とするものです。

創造システムと心的システムの間を取り持つのが「言語」であり、ヴィゴツキーの心的システムにおける個人的意味(センス)を扱う内言が、コミュニケーションシステムで語義(ミーニング)を扱う外言として構成される。その逆も然りであるが、そうした行き来によって、個人に閉じない創造が可能となると言います。

こうしたチームでの創造のイメージを川喜田二郎はこう描いています。

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自分がやりたいからやるんだという底の浅いものではなく、全体状況が自分にこういうことをやれと迫ってくるから、やむなくやっているという絶対感があるもので、それは絶対的受け身ということでもある。―――全体状況が自分にやれと迫るから、やらざるをえないというほうが、実は真に主体的だと私は思うのである。」(P155, 創造と伝統P74)

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結構ハードルの高そうな世界ではありますが、いずれにしてもそうして仲間と創造するために一緒に挑戦し一緒に創る人材は必要そうです。そして、その人材は「あるべきかたち」になっていくための次の一手を「発見」する援助をするものであり、ヴィゴツキーが言及したようにその資質としては「実生活において創造的気質を身につけたものだけが教育学における創造性を追求する事ができる(P158、教育心理学講義P285)」となります。

本書ではそういう人たちを教師でもなく、ファシリテーターでもなく、ジェネレーターと呼んでいます。こうした“大いなるもの”の力を借りた創造を多くの人がチームを組んで、コミュニケーションをとりながら実現していく社会とはとてもチャレンジングで魅力的です。

すぐにはリアルに想像しにくいのですが、確かに昨今の社会の発達のペースは尋常ではありません。組織・社会の発達が個人の発達と不可分であるというのはピアジェも含め、古典的にも指摘されているものであり、実際にリアリティを持っている部分があります。当然にして、目の前に見えるものだけで論理でがんじがらめになって生きているよりも、自分だけの能力だけでは及ばない”大いなるもの“の力を借りたほうが、明らかに豊かで幸せに生きられます。

こうした“大いなるもの”までスコープに入れて発達理論を展開している研究者には、インテグラル理論提唱したケン・ウイルバーや、ハーバード大学のロバート・キーガンらがいますが、“大いなるもの”の力を借りられる高次の発達を実現している人の割合(autonomousより高次)は、一般的な成人(米国)では10%を切ってしまう(S.R.Cook-Greuter, 2005)という主張もあります。

ジェネレーター予備軍もその位の割合になるのかもしれず、決して簡単なことではないかもしれない。でも、そんなことを言っている間に現実は進んでしまうかもしれないし、悠長なことは言っていられないのかもしれません。ジェネレーターと言われる人たちと一緒に行動することで感化されて、感染するかのように、新しい力に身をゆだねるような人達が増えてきたら、それはやっぱり魅力的な世界。また、こういう時代が来ているのに、「目に見える世界」だけで生きるっていうのもやっぱりないだろうな、と思います。

10年後くらいにはどんな世界になっているのでしょうか。意外と変化は速いのかもしれません。

では今日はこの辺で。

<引用>

「クリエイティブ・ラーニング 創造社会の学びと教育」井庭崇(編著)・鈴木寛・岩瀬直樹・今井むつみ・市川力 慶応義塾大学出版会

“Ego Development: NINE LEVELS OF INCREASING EMBRACE” Suzannne R. Cook-Greuter, Ed. D. 2005

※ 「クリエイティブ・ラーニング 創造社会の学びと教育」 より「教育の未来」ジャン・ピアジェ、「マインドスト―ム」シーモア・パパート、「思考と言語」ヴィゴツキー、「ヴィゴツキー教育心理学講義」、「経験と教育」J.デューイ等の言葉が掲載されていますが、本書の該当ページを付していますので、そちらから参考文献を辿ってください。


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