人と話していて、自分で「あ、そうだ」と思ったことです。
ずーっと私は、「グローバル教育」とか「グローバル人材育成」と言われても、ピンとこなくて、違和感があって。でもそれをうまく言語化できていませんでした。
確かに、インターネットが発達したことによって、ボーダレスに仕事ができるようになったりました。
私自身も、2012年から2年ミャンマーと仕事した中で、出張以外の離れている間もメールのみならず、LINEやFBで保健省の人や現地のドクターたちとリアルタイムでコミュニケーションをとりながら、プロジェクトを円滑に進められ、海外との仕事はここ数年で格段にしやすくなったことを実感したものです。
でも、それがグローバルなのかというと、ピンとこない感じで。地球規模で物事を考えて仕事をしていたかっていうと、そんなこともなかったりで・・・。
みなさん、「グローバル」の定義って何かを考えたことはありますか?
まず、辞書をひいてみると・・、地球の、地球規模の、大域的な、大局的な、全体的な、包括的な・・とかでしょうか。
そうだとすると、「グローバル人材」というのは、「物事を地球規模で考える人」ということでしょうか。
「物事を地球規模で考える人」ということだったら、「ゴミをできるだけ作らないように意識して生活する人」や、「自分さえよければ、いいという考え方ではない人」「遠くの問題を自分の問題として考えられる人」とかがグローバルな人・・になるのでしょうか?
もし「グローバル人材」が「物事を地球規模で考える人」だとしたら、英語を操って、投資銀行や外資系コンサルティング会社でバリバリと働き、高給をとる人であっても意外と、「グローバル人材」でない人もいるのかもしれないですね。(いや、本当は心優しい人が多いはず・・偏見です。ごめんなさい)
私の受け取り方が間違っているのかもしれませんが、ニュースや企業のマネジメントの発言の中にある「グローバル人材」という言葉の響きの中には、なんとなく暗黙知として、「英語がペラペラで、どこの国に行っても稼げる、能力の高い人材」というイメージがありそうです。でも、そうだとしたら、みんながみんなそんなものを目指す必要があるのでしょうか。
それは、終わりなき競争の世界です。英語はアイツよりオレのほうが上手だけど、あの人にはかなわない、もしくは、○○君のほうが有名な○○コンサルティングのニューヨーク本社で働いているが、オレは2流の○○社の○○支店だ・・、とか。しかも、みんながもつ「グローバル人材像」がはっきりすればするほど、そこは過当競争の世界です。
でもそれって・・・、一昔前の「良い大学を出て、一流上場企業に就職する」が、「グローバル人材」に剃り替わっただけではありませんか?
もしそうだとしたら、いまから英語を勉強して、「グローバル人材」なるものを目指したって、20年後には陳腐化している可能性大です。英語だって、そのころには、翻訳機が充分に性能をあげ、リアルタイムで英語に関わらず色々な国の人としゃべれるようになって、英語がしゃべれることが大きな差別化にならないかもしれません。いま、一流大学出で、一流企業に勤めていても、幸せ感を感じられない人は多いと聞きます。
たぶん、巷で言う「グローバル人材」の「型」を目指しても、ほとんどの人は幸せになれないのではないか、というのが私の見立てです。
英語については、私はアメリカの大学院に行ったので、「多少は英語ができてよかった・・」と胸をなでおろすことは確かにあります。一方で、帰国子女ではなく、ふつうに中学から英語を始めたので、英語がきちんと聞き取れず、ストレスに感じることもあります。英語はたしかに便利です。でも、英語で仕事をしていて常に突きつけられるのは、「英語が喋れることよりも“語るべきものがある”ことのほうが100倍重要だ」という厳然たる事実です。
良い大学に入り、皆が目指す道に突入するのも勿論アリだけど、競争にきりはないし、勝ったところで幸せかどうかはわかりません。結局、私の周りを見回しても、一時的には日が当たらなくても、どこかのタイミングで人のやらないことにチャレンジしたり、自分の好きなことを突き詰めている人のほうが結果として良い仕事をし、幸せな人生を送っていると実感しています。
グローバル化は間違いなく進展します。いろいろな国の人を尊重し、且つ自信を持ってコミュニケーションをとれる能力を持つことは必須です。英語もツールとしてはまだまだ有効です。でも、そのベースとなるのは、「自分がこの世の中で出来ること」を把握することではないでしょうか。結局グローバル社会に対応するということは、「自分は何者?」という問いに真摯に向き合うことにつきるのではないかと思ったりします。
皆さんはいかが思われますか?
さと