悠久の時間のなかで、いのちの繋がりとよろこびを知る(その6:伊那小学校の実践)〜私たちの教育のルーツをたどる(25)

Learning Creators’ Lab(LCL)という探究の学び場で例年長野県の伊那小の実践や理念についてお話いただいており、今年は4年目となります。先日、元伊那小学校の研究主任、その後同校教頭、他校の校長を経て、現在信濃教育会に所属されながら、伊那小学校の小学校2年生のクラスの研究指導に携わられている馬淵勝己先生にお話を伺いました。前回に引き続き、後編として「いのちとよろこび」をテーマに、伊那小の実践をたどってみたいと思います。

 

 

 

<いのちを学ぶとは?>

ところで、一般的に学校における学びとして、「いのちを大切にしよう」と考えたときに、現行学習指導要領の「道徳科」、第3/4学年のD 「主として生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること」の第18項目(D-18)「生命の尊さを知り,生命あるものを大切にすること」もしくは、第19項目(D-19)「)自然のすばらしさや不思議さを感じ取り,自然や動植

物を大切にすること」あたりが関わってきそうだと思われます。また、小学校3年生の道徳の標準授業時数は35時間で、ここに例示されているのは、20項目であり、週1時間が目安であるので、教科書通りすすめるのであれば、2-3時間までしか使えないことになります[1]

 

ネットで、宮城県研修センターのD-18に対する道徳指導案「命を大切に(D-18) 生命の尊さ」がありましたので、ざっとまとめておきたいと思います。

 

東京書籍の教科書『新しいどうとく3』「いただいたいのち」に関するものです。この教材の物語の前半は、ある日突然、血液のがんを患ったゆきさんが苦しい治療やその副作用に耐える様子を、ゆきさんの母親の視点から描いています。物語の後半は、元気を取り戻したゆきさんの視点から、看病してくれた母親や周囲の存在に対する感謝や気付きを綴った手紙となっています。指導過程は以下の通りです。

 

指導時間 学習活動 指導上の留意点
導入

5分

「これまで、命が大切だと思ったことはありますか?」(命の大切さについて考える) 命について考えるという課題に対して問題意識をもたせる
展開前段15分 登場人物の心情を自分との関わりで捉える 教材文が長いため、事前に教材を読ませておく。

多面的・多角的に考えさせるために、お母さん・友達・ゆきの気持ちそれぞれの立場から考えさせる

展開後段20分 「お母さんや友達はゆきのためにどのようなことをしましたか?」 周りの人に支えられて生きていることに気付かせる。
週末

5分

自己の生き方について考える

「命の大切さについてどのようなことを思いましたか?」

道徳的価値を自分との関わりで捉えさせるために、振り返りの視点を示す。

 

上記、いくつかの指導案を確認しましたが、他自治体であっても、大きな違いはなく、むしろ45分で終わらせようとしたら、このような感じにならざるを得ないのかとも思います。D-19の指導案も基本的には似たような内容でした。もちろん、実践現場では先生たちは、さまざまな工夫をしていますが、このような急ぎ足の展開で「生命や自然、崇高なもの」との関わりを”深く”学べるのでしょうか。急ぐことで、失われているものはないでしょうか。ここでは「いのち」と考えたときに、伊那小の馬淵先生の授業でのエピソードを紹介していきたいと思います。

 

 

<1年生:実際にケアをすることから学ぶ>

小学校1年生から3年生の3年間で一つの総合単元となる、そのはじまりは、子どもたちが、1年生の5月の遠足の際に、ある黒牛と出会ったことからでした。試しに牛を飼ってみることになり、パレットという フォークリフトで物を運搬する際に使う 木の道具を使い、 話し合いながら、設計図なしで自由に囲いを作っていきます。喧嘩もしながら、なんとか3日かかって囲いらしきものができました。(牛を飼うことになったいきさつは前回ブログを参照) 

 

 

そして、地域の牧場から3日間だけ、子牛をお借りして試しの飼育に挑戦! しかし子どもたちがプールに入っている間になんと、子牛は柵を倒して逃走してしまいます。今度こそ逃げなくて済むような、もっと広くて丈夫な柵に囲まれた 遊び場を作らなければなりません。実際にあれこれ試したり取り入れたりし、 知識も技も身につけながら、今度は20日ほどかかって小屋と遊び場の柵を完成させます。受け入れた子牛に、クラスの名前(正組)にちなんだ「正(せい)ちゃん」という名前をつけて、毎日の暮らしを楽しんでいきました。

 

子どもたちはせいちゃんがどのように感じていて、何を思っているのかを推し量ろうとします。 冷たい風を感じるようになると、冬の寒さから守るために 風よけの板を張りました。餌箱がひっくり返されて、水の中が糞尿で 汚れてしまったので、餌を食べるための場所をつくりました。 水入れや餌入れの容器の大きさに合わせた枠を作り、 せいちゃんの頭の高さに合わせて餌台を設置。自分たちも世話がしやすくなりました。子どもたちは実際の牧場をモデルとして、整備を進めました。

 

 

もうもうランドは子どもたちとせいちゃんの暮らしの舞台なので、必要に応じてどんどん改良されていきます。 せいちゃんの糞から栄養満点の大肥ができるので、できた大肥をリアカー に積み、畑まで運び、野菜や 餌となる牧草を育てる活動へ発展しました。発酵飼料作りは、カビが生えてしまって大失敗に終わってしまうなどの経験もします。

 

 

<2年生:数量の意味ーあのお金はすごく大事なんだよ。高いんだよ!>

伊那小学校では、多くのクラスで総合にかかる費用を捻出するために アルミ缶回収に取り組んでいます。正組では当初、アルミ缶はお家の方に届けていただき、 業者からもらったお金は 馬淵先生が処理していました。 しかし、先生が アルミ缶回収で得たお金を袋から出して 確かめていると、子どもたちが興味津々だったので、先生はアルミ缶が110キロ集まり、その代金が5,775円であったと伝えます。すると「それはちょっと安くないか?」「お家の人がアルミ缶を集めるために、毎日ビールを飲んでくれているのに、安いなんて」と反発する子たちが出てきました。

子どもたちは、1袋1800円の配合飼料が 5,775円で3袋買えることに気がつき、3袋で60キロになる配合飼料が せいちゃんの10日分の餌になることを確かめました。つまり、アルミ缶が110キロあっても、10日分の飼料にしかなりません。すると放課後 1人教室に 残っていたさんが、みんなが帰ったのを見計らって、馬淵先生に近づき、激しい口調で「なんで安いなんていうのかな。あのお金は大事なんだよ。 せいちゃんが10日間も食べられるんだよ。 そんなに食べられるんだよ。 それだけでもありがたいと思うんだよ。 あのお金はすごく大事なんだよ。高いんだよ!

しかし、これまでのアルミ缶回収の記録から 110キロのアルミ缶を集めるために51日間かかっていることがわかりました。 するとYさんが「せいちゃんが41日間、配合資料を食べられなくてかわいそう。」と記します。 次の日ゆうすけさんの算数のノートを子どもたちに紹介すると「せいちゃんかわいそう。 アルム缶を早く集めなきゃ!」と子どもたちは大騒ぎ!これまでお家の人に頼っていたアルミ缶回収を、 自分たちの力でアルミ缶を集めて10日間でコンテナを満タンにすることを、目標としてアルミ缶回収に取り組んでいくことになります。

子どもたちは帰宅後や休日に近所のお宅やお店を訪れてアルミ缶を集め、登校時に教室に持ち寄り、重さを量り、その日に集まった重さの合計を毎日計算。Mさんは、計算が苦手でしたが、「なんかいっしょうけんめいがんばると、とっても楽しくなります」とノートに書きました。伊那小の子どもたちは、こうして自らの求めに従って、数学的概念(足し算・引き算・掛け算)を覚え、「九九を覚えたいな」と思うようになっていきますが、同時に、数字が単なる目の前の数だけではない、深い意味を持つことも学んでいきます。

 

<2-3年生:いのちが繋がっていることに気づく>

2年生になるとせいちゃんが大人に近づきます。9月にせいちゃんの結婚の日が決まると、大きな雄牛がやってくると思った子どもたちは朝から大緊張。しかし、獣医さんがもってきたのは、精子が入っている注射器。しかし「せいちゃんは注射器と結婚した!」と喜ぶ子どもたち。牛の妊娠期間は、約280日。人とほとんど一緒ですね!3年生になると、 せいちゃんの出産に備え、部屋を増設したり、 搾乳のための小屋を新築します。

 

しかし、子どもたちは、同時に大きな現実に向き合わなければならなくなりました。生まれた牛が雄だった場合には、すぐに出荷されて2、3年後には 肉になるということを知ってしまいます。子どもたちはなかなか現実を受け入れられません。

 

「お肉になるのはかわいそうだなあ」

「せっかくがんばってせいちゃんを育ててきたんだから赤ちゃんを殺したくない」

「牧場主さんも赤ちゃんを殺さないと思うよ」

「メスは、お乳が出るけど、牛のオスはお乳が出ないからお肉になってもしょうがない」

「もしオスが生まれたら悲しいから、覚悟を決めるために牛がお肉になる勉強もしたい」

 

そんな中で、弟の自宅出産を見守った経験があるUさんがこんなことを言います。

 

「赤ちゃんは精一杯産まれて精一杯生きようとして ママも精一杯産んで、ママと赤ちゃんと家族のおかげで自宅出産できたから、人間も牛も オスもメスも関係ない」

 

しばらく沈黙が続いた後、Rさんが涙を流しながら話し始めました。

 

「一人でも赤ちゃんが生まれてきてくれてそれだけでいいとお母さんは思ってくれたと思う、だからメスでも オスでも生まれてきてくれたことだけで嬉しいんだ」

 

はたして、子どもたちが3年生の7月10日、生まれてきた子牛は「雄」でした。子どもたちは、 子牛の将来に夢を求めて、 「未来」と 名付けました。しかし、未来は3年生の7月に生まれてきたので、共に暮らしたのは49日間のみ。 夏休みも挟んでいたので、本当にわずかな期間の後、未来との別れの日が来てしまいました。 

 

 

未来との別れから 1ヶ月ほど過ぎた頃、 子どもたちは未来との思い出を歌にしたいと言い出します。死を覚悟した別れとなった未来について、子どもたちはどんな思いを歌に込めたいと思っているのだろうか。 Nさんが 「私はね、未来と別れて命は一番大切なんだなぁって思ったよ」と語りました。他の子どもたちも一様に命の大切さについて語り始めます。

 

「命がなくなると戻らないって思った」

「命は一つしかない大切なものだと思う」

「命は人間だけじゃなくて、動物にとっても人間にとっても一番大切なものだと思う」

「ぼくは今まで、平気で生き物を殺してしまったことがあるんだよなぁ」

 

しかし、未来は屠殺されてしまう運命。子どもたちは「命の繋がり」について語りはじめます。

 

「死んでしまうと体はなくなってしまうけれども、命はなくならないってお母さんから聞いたことがある。命はどこかで生き続けるって言ってたよ。」

「ぼくのおじいちゃんは死んでしまったけど、おじいちゃんの命も続いているって思った。その命を大切にしたいなぁ」

「ぼくには本当はお兄ちゃんがいたけど、生まれてすぐに死んでしまったんだって。そのお兄ちゃんの命も続いていると思う」

 

そんななかで、Uさんから 「亡くなったおじいさんは天国にいるんじゃなくHさんの心の中にいる」という語りが出ます。

 

「おじいちゃんはぼくを見守ってくれている。だから命は生きているっていうことだと思う。」

「命はどんどんつながっている。心の中で命が生きている。自分の命になってくれていると思う。」

 

命は自分を励まし、 時には自分を正しい方向へ導いてくれる存在、そしてその命は自分とつながり 自分と共に成長し 自分自身の命になってくれているー子どもたちの言葉に馬淵先生は、涙が止まらなくなってしまったそうです。そんな言葉たちを集め、子どもたちは詩をつくり、音楽の先生が、メロディをつけてくれました。未来の姿を想像しながら読んでみると、全然違って読める詩です。

 

 

『つながっていく命』

 

命がなくなるともう二度ともどらない

命は一つしかない大切なもの

父と母がくれた新しい命なのに

なくしてしまったらもう二度と戻れない

 

命は動物にとっても大切なもの

平気で生き物を殺してしまったことがある

牛や鳥や豚などの命をいただいてぼくたちは生きている

だからその命をむだにしたくない

 

でもぼくは信じたい

命はいつまでも生き続けると

 

命はいつまでも心に生き続けている

命は家族や友だちにどんどんつたわっていく

牛や取りや豚などの命をいただいてぼくたちは生きている

それがぼくの体の一部になっている

 

だからぼくは信じている

命はいつまでも生き続けると

 


<3年生:ペットと経済動物ーいのちにおける葛藤と決断、そして覚悟>

いのちの繋がりを感じ取りつつも、今度は目の前に生きているせいちゃんに対する葛藤が出てきます。 未来の誕生と同時にせいちゃんの搾乳が始まります。 牧場から本格的な道具を借りて、500キロを超えるせいちゃんを搾乳小屋まで連れて行き、 ミルカーという機械を使い、 牧場と同じやり方で作乳に取り組む毎日。馬淵先生も、 自分の職業が何なのかよくわからなくなってしまっていたそうです。

 

しかし、せいちゃんは、馬淵先生も含め、素人である正組のみんなが育てたことから、 搾乳を嫌がり、じっとしてくれません。しかし、搾乳ができないと、お乳が詰り、乳房炎になってしまいます。すでに、 搾乳の際に痛み足を上げて暴れるようになってしまったせいちゃん。牧場主さんの提案で、せいちゃんに鼻環をつけるかどうかを決めなければならなくなりました。鼻に輪をつけて引っ張ると痛いから、牛が言うことを聞くようになります。かわいそうだけど、言うことを聞かせ、搾乳しなければせいちゃんの命が危険にさらされます。

 

搾乳に取り組み始めた頃、 子どもたちは、牛の飼育に取り組む牧場主さん夫婦を教室に招きましたが、こんなことを言われてしまいます。「 君たちはせいちゃんをペットみたいにして可愛がって飼っている。 だから大変なんだ。 私たちにとって牛は生活を支える経済動物。 だから厳しく育てている。 」牧場主は3年生の子どもたちに現実を厳しく突きつけました。子どもたちは、「優しくしなければよかった、今になって後悔している」と語り始めます。

 

「本当は経済動物っていう生活していくための牛なのに、ペットみたいに毎日生活してきたから、今になってせいちゃんは暴れていいと思ってしまって、本当は鼻かんをつけられたくないのに、せいちゃんは自分のしていることがいいことだと思って、がんがんみんなを蹴ってしまって、今みたいな鼻かんをつけて、痛い生活を何日も続けて、そんな生活をせいちゃんが自分だったらいやだから、せいちゃんには優しくしなければよかったって今になって後悔しました。」

 

子どもたちは、せいちゃんに鼻環をつけることを決意するほかありませんでした。しかも、搾乳の生活は朝晩を問わずずっと続きます。子どもたちもさすがの馬淵先生も疲れを 隠しきれないぐらいの状況になってきました。こうした状況が2ヶ月以上続いた頃、 Kさんは「せいちゃんを返して、普通の生活に戻りたい」と言い出しました。

 

再度、子どもたちで話し合い、「ミルカーを着けないとせいちゃんを飼ってきた意味がない。今、せいちゃんを返すと後悔するから飼い続けたい」などという意見も出ます。最終的にKさんは、せいちゃんの角が大きくなって、角を切らなければならなかった困難を克服したことを思い出し、今回も、前みたいに乗り越えられると考えるようになります。 こんなとき、決断することということは迷い続けること、 覚悟を決めるということは 問い続けることなんだ、と馬淵先生は子どもたちから学んでいきます。

 

 

足を上げて暴れるせいちゃんに 「せいちゃん行くよー!」何度も声をかけて 心を通わせながら搾乳しようとするKさん。 なんとか搾乳を終えたKさんは「みんなの応援のおかげで ちゃんとミルカーをつけられてよかった。お乳搾りの時はちょっとだけ蹴られたけど、ミルカーつける時は蹴られなかったから、せいちゃんは僕に優しくしてくれたと思う」 と満面の笑顔で語りました。 

 

そして、3年生の最後の冬、伊那小で2月の初めに開催される公開学習指導研究会の際に学校代表として、せいちゃんとの生活を学習発表することになりました。子どもたちは、12月に入ってからシナリオ作りを始めました。そのときに、子どもたちが真っ先に語り始めたのがせいちゃんと自分たちとの関係性についての問い直しだったといいます。 

 

正組では、保護者の了解をとって、せいちゃんのお乳を煮沸し、冷蔵庫に入れ、牛乳だけではなく、ミルクかんなどさまざまに料理をして、いのちを頂いていきました。実際に大変な思いをして、牛を育て、大切な命を失って目の前にやっとたどり着いた他者の命。これだけ一生懸命にやると、安価に売られている他の食材に対しても「鯨やさばが缶詰になって出てくるけど、いっぱい入っていて90円とか100円。何で命が100円とか90円なの?」など、さまざまな感情に取り巻かれていきます。

 

「牛は牛乳を出して、それをぼくたちが毎日飲んでいる。牛はヒーロー。牛がいなかったら、いつもの生活ができていなかった。」

「野菜や魚とかいろいろな食材もみんなのために働いているからヒーローだと思う」

 

せいちゃんという、名前のあるたった一頭の牛を見つめれば見つめるほど、 他の命の存在を子どもたちは強く意識せざるを得なくなっていったのだろうと、馬淵先生は考えています。

 


<専心と連続>

信州には、子どもの学びを 支えるのは 「専心」と「連続」であるという考えがあるそうです。「専心」は「かかわるものへの一体的な欲求からなる姿であり、それ故に相手に応ずる自分のあり方が、おのずと問える」というもの」 「相手への理解と自分自身への理解が同時に成立し、 加えてその『連続』が、これらの質的な変容を促すことになる」「 対象となるものが、単なる『もの』を超えて『私にとって意味のあること』となる過程」だと言います。 子どもにとっての学びとは、「『もの』を『こと』とする、おのずからなるかかわりのうちにしか成立しない」ものだと考えています[2]

 

せいちゃんという名のホルスタインとの暮らしづくりに専心し、 その連続の中で互いに呼応合う関係性を築きながら、 ともに変容を遂げてきた一人一人の子どもとせいちゃん。 子どもたちの学びの核となっていたのは ほかでもない「よろこび」であったと馬淵先生は考えています。それは、他の命とつながり合っている私の「いのち」を実感し、共に生きるよろこびであり、生き物の感触、ぬくもり、成長、誕生のよろこびであり、気持ちを推しはかり、違いを受け止め合うよろこびであり、自分たちの手で作り出すよろこびであり、共に悩み、共に考え、共に乗り越えていく喜びだったそうです。

 

馬淵先生は、「様々な要素を持つ喜びが、 せいちゃんだけでなく、 友達、 周りの生き物、 目の前にたどり着いた食材、 人間の役に立っているいろいろな道具にすら 次元を超えてつながり、一人一人の子どものからだに刻み込まれていったように思います」と語ります。 子どもたちは毎日当たり前のように給食に出てくる、たった一杯の牛乳を 自分自身の手で手に入れるためにはこんなにも時間と労力が必要だとは 思いもしませんでした。自分の周りにあるものの中には命を削り、 命を落としたことによって 自分の目の前にたどり着いたものがある、いやむしろ自分の暮らしを支えているものはほとんど全て他者の命なのだということを教師も子どもも一緒になって学びます。

 

専心と連続を支える意欲のサイクルが強く回れば回るほど 対象となるものとの関わりが深まり、自分自身を見つめようとする眼力も強くなります。 それと同時に外の世界にも視野を広げ、これまで見えていなかった自らの視線を向け、ものの存在の意味を見出していく。 そんな力強い学びが伊那小の学びです。

 

伊那小に行くと、時間の流れ方が違うことをいつも感じます。時間がゆったりと流れているのです。この感覚は、子どもの身体のリズムに合った時間のように思います。私たち大人は、すぐ急ぎ、詰め込んでしまいます。子どもたちはある意味柔軟なので、大人の要求に応えられてしまう側面もあります。でも、子どもには子どものペースがあり、そのペースでなければ学べないなにか真正なものがあるのではないか。急ぎすぎることで大事なものを見失ってはいないか、そんなことを伊那小を訪れるたびに思い起こさせられるのです。

 

なお、いままで伊那小については、6本ブログを書いていますので、ぜひ併せてお読みいただけますと幸いです。

 

生活科・総合的な学習 (その1:伊那小学校の源流)〜私たちの教育のルーツをたどる(17)

生活科・総合的な学習 (その2:伊那小学校の実践)〜私たちの教育のルーツをたどる(18)

生活科・総合的な学習 (その3:伊那小・中の学校経営)〜私たちの教育のルーツをたどる(19)

生活科・総合的な学習 (その4:伊那小・中質疑応答)〜私たちの教育のルーツをたどる(20)

「60年間通知表のない」伊那小学校訪問(後半)〜わたしたちの教育のルーツを辿る(5)

「60年以上通知表のない」伊那小学校訪問(前半)〜わたしたちの教育のルーツを辿る(4)

 

[1]D-20まで入れれば、3-4時間は取れますし、他の教科を組み合わせることで、カリキュラムマネジメントはもちろん可能です。余談ですが、C-14「父母,祖父母を敬愛し,家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくること」などをはじめとして、こうした道徳科の内容については、私個人としては受け入れるのが、難しいなと思うものがいくつか入っています。たとえば、C-14については、どの家庭も父母が揃っているとは限らないし、親からの虐待を受けている子はどうするのだろうと思ってしまいます。

[2]『生活科への道』信濃教育会出版部 p204 ⇨ (「信州教育の源流」として再発行されている本)

 

 

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