インドを訪れて ーIB校訪問とインドの歴史を辿る旅


2月10-16日、はじめてインドを訪れました。メインはPathways World Schoolの見学だったのですが、その後アグラとデリーを訪問し、いくつかの文化遺産に触れ、歴史が気になり、調べてみたらとても面白かったので、備忘録を残しておきます。


【インド随一の国際バカロレア校 Pathways World School】

今回は、国際バカロレアのTOK(Theory of Knowledge) の考え方を教えていただき、LCLでもずっとお世話になっているシャミ・ダッタ先生にアレンジしていただき、グルガーオンという、デリーの中心から1時間余り車で向かったところにあるPathways World Schoolを丸二日見学させていただきました。この学校は、2003年に設立され、全校生徒数800名(内寮生約400名の国際バカロレア校で、プレキンダー、小学校、中学校、高校まである学校で、その全てにIBのプログラム(PYP, MYP, DP) が導入されています。


Education World India School Rankings(EWISR)のデイスクール兼寄宿学校ランキングでは北インド1位、全インド2位にランクされています。この学校では、教師も学習者であり、生徒が「学び方を学び」、「生涯学習者」になるための環境をつくることを大切にしています。



丸二日見学した中での印象は「良く学び、良く遊べ」という言葉がぴったりくるような学校でした。アート、音楽、スポーツに力が入れられており、校内にはあらゆるところに生徒のアート作品が飾られていました。世界中のトップクラスの芸術大学や音楽大学に進む生徒も一定数いるとのこと。実際に小学校(PYP)では、アカデミックは55%で、アート、音楽、演劇、スポーツなどに45%というバランスだそうです。小学校のヨガのクラスにも参加させてもらいました。先生が「日本の人が見学に来ていますが、なにか質問したい人いますか?」と言ったら、我こそはと手が挙がり、もう半ば興奮状態(インドでは普通かもしれません)。静かにする時間のはずだったのに申し訳ないと思ったのでした。

 

(小学校に飾られていた生徒作品)

 

小学校(G2)のアートの授業に参加させていただいたときには、ムンクの「叫び」を題材に、まず何を見て(Observation)、考えて(Interpretation)、想像したか(Curiocity, Inquiry) を書いてシェアしたのちに、実際に水彩で「叫び」をテーマとした絵を描いていました。見学者の私たちも中に入れていただき描いたのですが、水彩なんて久しぶりです。高校になると、美学も学び、使う材料も格段に増え、コンセプトを持って深い表現をしていくという、大学でやっているようなレベルの取り組みでした。

 

(IB DPのVisual Artのクラスのプロセスポートフォリオ)


点数のことを先に言うのはあまり良くないかもしれませんが、今年もDPのスコアで満点の45点をとった学生がいて、40点以上も10名と学力も非常に高いレベルを維持しています。DPの知の理論(TOK:ダッタ・シャミ先生の記事)については、TOKの先生たちとのミーティングがセットされました。TOKの先生は一人だけではなく、数学や自然科学、語学、歴史、倫理の先生などが5名以上いて、「TOKを授業ではどのように説明していますか?」という質問をした日本のTOKの先生に対し、本当に真摯に答えてくれました。そのあと授業も即席でしていただいて、テンポ良く批判的精神を培うような問いがどんどん投げられ、生徒たちとの活発なやりとりが展開していきました。

 

ある先生は「生徒にチャレンジされたときに怒るようだったら、もう教師ではあれない」と言いました。真剣にやればやるほど生徒が教師を超えることは出てくるだろうし、その時に知らないことを知らないと言えるか、またその上で生徒の意見を正当に評価し、新しい知識を共につくっていくことができるか。まさに胆力が必要な仕事。また、教師同士のディスカッションは、日本人の感覚からいくと、対話というより喧嘩・・に見えるくらいの勢いで、ヒートアップすると、生徒のように挙手して順番を待ちます。先生が挙手しているのを初めて見ました(笑)。

 

今回全学校校長のSonya Ghandy Mehta先生、小学校校長のMonica Bhimwal先生、中学校校長のMonika Bajaj 先生、高校校長のUma Ravitharan先生ほか、多くの先生たちにお話を聞く機会をいただき、本当に貴重な機会をいただきました。

 

【タージマハルの美しさの背景にあるもの】

 

ここからは、遺跡の訪問と共に学んだインドの歴史があまりにワクワクするものでしたので、ご紹介したいと思います。Pathways World School見学後、まずは誰もが知るタージマハルに向かいました。ムガル帝国の5代皇帝シャー・ジャハーン(1592-1666)が1631年に死去した妻のために建設した総大理石の墓です。シャー・ジャハーンは、22年の歳月をかけて、世界各地から貴石・宝石を集め、歴史に残る建造物を残しました。


上の写真は、実は良くある南側からの撮影ではなく、ヤムナー河を渡った対岸にある庭園(北)から撮ったものです。マターブ・バーグと言われ、王は死後、河のこちら側に黒いタージを建設し、タージマハルと橋で結ぶことを計画していたそう。日没の時間が美しいとのことで、こちらも訪れましたが、日が沈むにつれて表情を変えていくタージマハルの姿、遠くから聞こえてくる街の喧騒や音楽は素晴らしいものでした。夜は事前予約をすれば、先着順で月の光に照らされるタージマハルを見ることができたようです。(ちょうど満月の時期だったのに、見れなくて残念!)変なライトアップもなく、周りの環境も昔の面影がそのままに残り、2015年秋から約4年間にわたり、大規模な修復とクリーニングが施されたとのことで、本当に美しかったです。

 

シャー・ジャハーンの時代はまさにムガル帝国の最盛期。下の写真の花の模様はすべてラピスや翡翠、トルコ石などがはめ込められており、色褪せることがありません。編み目のようになっている窓は職人が一枚の大理石を切削して作っています。この時代、ヒンドゥ文化にイスラーム文化が融合したインド・イスラーム文化が花開き、シャー・ジャハーン即位時に作成した孔雀の玉座は、ダイヤモンド、ルビー、サファイア、エメラルドなどの宝石が惜しみなく使われたといいます。(この玉座は18世紀半ばにイランに持ちさられ、現在は行方不明とのこと)

 

 

ちなみに、王妃はペルシア系の大貴族の娘で、14人の子女をもうけましたが、成年まで育ったのは男子4人と女子3人。第14子の出産後、1631年に38歳で産褥死しました。王はその後も執政を続け、タージマハルは22年の建設期間を経て、1653年に完成します。1657年に重い病に伏せったのですが、回復の見込みがないと思った4人の息子たちの間で起きたのが後継者争い。かなり激しいもので(ちょっと長いので気になる方は調べてみてください)、結果として三男のアウラングゼーブが皇位継承争いに勝ち、第6代ムガル皇帝となります。そして、3人の兄弟を直接的、間接的に殺し、父親のシャー・ジャハーンをアグラ城に幽閉します。アウラングゼーブは、49年間皇位に就きましたが、この時代にムガル帝国の領土は拡大したものの、宗教的に不寛容で、地方の反乱や帝室の混乱を招き、晩年は悲惨なものになりました。

ちなみに、もともとシャー・ジャハーンが皇位を譲ろうとしていたのは、長男のダーラー・シコー。有能な学者で、スーフィズムに傾倒し、ヒンドゥ教とイスラーム教の共通点をみつけ、イエズス会士とも面会するなど宗教的に寛容でした。ウパニシャッドをペルシア語に翻訳し、ムガル絵画やヒンドゥスターン音楽の保護者でした。しかし、軍を指揮する能力はからっきしなかったそう。アウラングゼーブは、イスラム教背信の罪でダーラー・シコーを処刑、遺体をデリー市中で引き回し、その首をシャー・ジャハーンに送りつけたといいます。


【アクバルの宗教的寛容の象徴、ファテープル・スィークリー】

 

ちなみに、シャー・ジャハーンのおじいさんにあたるのが、世界史でもよくでてくるアクバル大帝。アクバルの城跡は、ファテープル・スィークリーといって、アゴラ郊外にあります。こちらにも行ってみました。ここから先はガイドさんの話ですが、アクバルには3人の妻がいて、一人がキリスト教徒、一人がイスラム教徒、一人がヒンドゥ教徒だったそうです。しかし世継ぎに恵まれなかったアクバルは、ここに住むスーフィの聖者の予言によって男児(のちの第4代皇帝ジャハンギール)を得ます。そのため、この聖者の地に遷都。しかし水不足で、14年後にはこの地を立ち去りました(1571〜1585)。

ファテープル・スィークリーには、3人の妻の家があるのですが、明らかにこの男児を産んだラージプート王女の住居が一番高い場所にあり、広大。次に、少し下の場所にルキヤ・スルターン・ベーグムの住居がありました。ルキヤ・スルターン・ベーグムは、アクバルの従兄妹でしたが、ポルトガルの宣教師との接点があり、アクバルと結婚する前にはキリスト教に改宗していました。子はいませんでしたが、タージマハルを建設した孫のシャー・ジャハーンを養育しました。最後に、サリーマ・スルターン・ベーグム。一番下の一番小さな住居でしたが、ペルシア文学に精通する才媛だったとのことで、住居のイスラーム風の装飾は一番繊細でとても美しいものでした。


ファテープル・スィークリーには宗教的寛容を表す象徴的な柱があります(上の写真)。上部のギザギザ模様が、イスラム教、その下の家(教会?)のような紋様がキリスト教を示したもの、またその下がヒンドゥ教、さらに下が仏教を表しているとのこと(ガイドさんの話でしたが、紋様に詳しくなく、もし間違っていたら教えてください)。この建物では、異なる宗教の学者や指導者たちが集まり、アクバルも含めて討論がされていたそう。また敷地内にも民衆が入ることができ、直接アクバルとやりとりができたのだそうです。学校もあり、まさにアクバルの理想を体現した都市となっていました。



【権力の中枢から転落へーアグラフォート・レッドフォート】

 

次に訪れたのは、ムガル帝国前のデリー・スルタン朝時代の16世紀に軍事要塞として築かれ、アクバルが1565年に大規模な改築を行い、軍事と行政の拠点としたアグラ・フォート。シャー・ジャハーンの時代には、白い大理石で増築され、宮殿が内部に建設されたこともあって、アグラ城とも呼ばれます。シャー・ジャハーンは晩年は、三男で次期皇帝のアウラングゼーブに幽閉され、敷地内の「囚われの塔」から妻の眠るタージマハルを眺めて過ごしました。

 

(アグラ城から眺めるタージマハル。奥にうっすら見えます)

 

そして、アグラから車で4時間ほど北上すると、デリーに戻れますが、ここにはシャー・ジャハーンがアグラからデリーに遷都して、1639年から約9年かけて建設されたレッドフォート(ヒンドゥ語でラール・キラー)があります。アグラ城よりかなり大きく、ムガル建築の最高峰と言われています。広大な敷地内には、芝生が整えられ、噴水や水路が張り巡らされており、その時代にはどれだけ美しかっただろうとため息がでます。

 

(レッドフォートの奥にある王のプライベートスペースKhas Mahal。ライオンや象を戦わせ鑑賞したり、中には孔雀が歩いていたそう)

 

そしてレッド・フォートの中には、ミュージアムがあり、ムガル帝国が衰退し、イギリスの植民地になっていく様子が描かれていました。イギリスが東インド会社を設立したのは、1600年。当時の皇帝は、4代目皇帝のジャハーンギール、シャー・ジャハーンの父親です。このころのインドはムガル帝国の黄金期で世界有数の裕福な国であり、イギリスも有効的に接し、インドは貿易によって香辛料や織物を輸出し、対価として金や銀を受け取っていました。

 

しかし、兄弟を殺し、父親を幽閉した第6代皇帝のアウラングゼーブの時代になるとイギリスとムガル帝国の関係が悪化し、18世紀になって、ムガル帝国の力が落ちていくと、軍事力でイギリスはインドを支配するようになります。1757年のプラッシーの戦いで、イギリス東インド会社が当時とても裕福な地域だったベンガル地方を傘下に入れました。この戦いは、イギリス東インド会社がインド支配の第一歩を踏み出したものであり、ムガル帝国の弱体化とイギリスの植民地支配の始まりを象徴するものだと言われています。19世紀には、イギリスはインド全土の約3分の2を直接支配してしまいます。

プラッシーの戦いからちょうど100年後、1857年、東インド会社の支配に対するインド兵(セポイ)が大反乱を起こしますが、鎮圧され、イギリスの正式な植民地となります。このレッド・フォートは、ムガル帝国最後の皇帝バハードゥル・シャー2世が拠点としましたが、最終的にイギリス軍に占領され、ムガル帝国の終焉を迎える場となります。ミュージアムではその様子が絵で示されているのですが、セポイたちがレッドフォート内に入り、皇帝を守ろうとしますが、陥落してしまいました。皇帝はミャンマーに流刑され、1962年に死亡。イギリス軍はレッド・フォートの一部を破壊し、宮殿を軍の駐屯地として使用、ムガル宮殿の財宝や文化財が略奪される様子も描かれていました。

 

(レッドフォート入り口)

 

その後、90年の長きに渡って植民地となり、インド国民は伝統産業を破壊させられ、重税と経済的搾取に苦しみます。そうした中、1930年のガンジーによる塩の行進が行われます。そして、第二次大戦中、イギリスはインドの許可なく戦争に巻き込んだため、反英感情が激化、1942年にはさらにガンジー、ネルーらが「クイット・インディア運動(イギリスはインドから出て行け)」を展開します。イギリスは第二次大戦の戦勝国ではありましたが、経済的な疲弊がひどく、1947年、インドを「ヒンドゥーのインド」と「イスラムのパキスタン」に分離独立させました。

 

【近代のありがたみが分かる】

 

今回、インドに行ってみてやはり気になったのは経済格差の大きさでした。最富裕層の子女たちが通う国際バカロレア校の学校敷地を一歩外に出ると、土埃が舞う中、まだまだ昼間なのに子どもたちは学校に行かずに店で野菜や果物を売っていたり、赤ん坊を抱き抱えて道端に座っていたりします。少し車を走らせるとスラムがたくさん見えます。まだ木などの柱で屋根が支えられているのであればいいのですが、ビニールのテントの下に全く吹きっさらしの中生活している人たちをたくさん見ました。日も暮れて、野良犬が寝そべるなか、その辺でとってきた木を燃やして火を起こしていたのは小さな少女でした。そこらじゅうにゴミが散らかりそのままでした。

 

大理石に覆われ、ルビーやサファイア、ダイヤモンドすら使われていたという宮殿の近くも同じです。1947年にインドは独立は果したといっても、極めて低い識字率で、インフラも整わないまま、1991年まで社会主義的経済政策がとられました。政府主導の計画経済はうまく行かず、経済が停滞し、地方と都市部の格差も大きく、カーストも憲法では廃止されたものの、社会経済的には継続しました。1991年の経済自由化以降、IT産業をはじめとして、急速に発展した事業セクターがあっても、むしろ貧富の差は拡大したといいます。

(マーケットの様子。ちなみにスラムにはカメラを向けられませんでした)

 

今年の1月にトランプ政権になってから、近代の制度疲労ばかりが目についていたのですが、そもそも近代になってから、人々の人権が不十分ながらも守られるようになってきて、福祉が充実しました。さまざまな差別問題も100年前と比べたら大きな前進を見せています。でも、たしかに延々と続くゴミの山を見ていると、これら全てにゴミ処理を施し、清潔にし、福祉を充実させたら膨大なお金がかかります。出生率が高まり、教育が必要になったらなおさらでしょう。「王様」モードであれば、たしかにこれらをほうっておく、もしくは反乱が起こらないほどに、ほどほどに対応しておくのが最適解に思えそうです。だいたい、中途半端に民衆に教育を施し、自律的・理性的に考えられるようになり、自分達の置かれている立場を意識化できるようになったら、面倒臭くて仕方がないだけではなく、自身の地位を脅かされるようにすら思うでしょう。近代がどれだけの人の努力によって、良識によって、地道に前進を続けてきたのか、日本がいかに努力なく、戦後に民主主義を与えられたのかを痛烈に感じる経験となりました。

 

そうやって見ていくと、トランプがガザ地区を米国が所有し「中東のリビエラ」として再開発するなどという馬鹿げた提案も、そのからくりが見えてきます。現実に合わせ、強者・弱者関係なく、それぞれに「個別最適」したら、当然に強い者の個別最適が優先されます。トランプにとって国内で貧困に喘ぐ人たちや、その他のマイノリティの人たちは、彼自身の「個別最適」のストーリーからは外れてしまうのです。ガザの人たちも自分のために都合よく動く駒でしかありません。そもそも、ガザの人たちを自分と同じ人間だとはこれっぽっちも思っていません。なんなら、公共投資によって職を与えられるくらいに思っているのでしょう。そこには、全ての人間には生きる尊厳があり、感情があり、繋がるべきコミュニティがあるという理解が根本的にありません。トランプは何か新しいことを提案しているようで、前近代に戻ろうとしている。このことが体感としてはっきり分かったのが、今回の旅行でもありました。

 

それにしても強いエネルギーを感じる国です。またいつか訪れたいと思います。

 

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