home > Blog > 藤原 さと > 子供に将来「生きたいように生きて」欲しくはないですか?

こんにちは。藤原さとです。

サンクスギビングを使って、少し日本に戻りました。

飛行機の中では、ずっと読みたいと思いつつ、アメリカにくるバタバタで読めていなかった教育哲学者、苫野一徳さんの「教育の力」と共に、ふと思い立って、ずーっと本棚でホコリをかぶっていた、往年のベストセラー!?ロバートキヨサキの「金持ち父さん、貧乏父さん」を読み直しました。

そしたら面白いことに、どちらの本も、「教育は、自由を獲得するためのものである」と言っているのです。

そして、自由とは、「生きたいように生きたい」という人間から切っても切り離せない本質的な欲望のことだと。

確かに、翻ってみると、私も自分の子供にどうなって欲しいか・・と考えてみると、「社会のお役に立つ子になって欲しい」と、大上段には構えていますが、やっぱり親心として、子供には「生きたいように生きてほしい」と思うのです。そして、自分自身も「自由」でありたいと。そっか!教育というか勉強って、「自由」のためだったんだ!

さて、「金持ち父さん・・」の本は「自由」になるためには「お金の扱い方」を知るべきだという内容で、その中身に興味がある方はそのまま本を読んでいただくのがいいのかな、、と思いつつ、苫野一徳さんの書かれている「教育」というものについては、色々感じたことがありましたので、少し私の頭の整理がてら、読書メモを書いておきたいと思います。

<読書メモ>

・教育とは何か、そしてそれは、どうあれば「よい」と言いうるのか。

・公教育が登場したのは、長い人類歴史上において、まだわずか200年ほど前のことであり、そしてそれはその長い歴史を経て私たちがついに作り上げた、人類最大の発明であった。

・人類がそれまでの首領採集生活から定住・農耕・蓄財の生活へと徐々に移行していくようになったのは、約一万年前のことと言われる。

・蓄財の始まりは、その奪い合いの始まりでもあったのです。

・人間社会は、こうしてきわめて長い期間にわたって「普遍闘争状態」と「覇権の原理」を繰り返し続けてきたのです。この繰り返される命の奪い合いをどうすれば原理的に終結させることができるのだろうか。

・二百数十年前、その原理的な答えがついに近代ヨーロッパにおいて見出されることになります。

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なぜ、人間は戦争をやめることができないのか?それは私たち人間が<自由>になりたいという欲望をもっているからだ!

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・ここでいう<自由>とは、ありていにいうと、「生きたいように生きたい」という欲望のことです。

・歴史上、人間は多くの場合、負けて奴隷にされて<自由>を奪われるくらいなら、死を賭してでも戦うことを選んできました。

・どうしたらこの欲望のせめぎ合いを軽減し、戦いを終わらせ、そして一人ひとりが十全にそれぞれの<自由>を達成することができるようになるのでしょうか。

・この問題を徹底的に考え抜いたのは、ホッブズ、ロック、ルソーといった哲学者たちです。そして、わたしの考えでは、19世紀ドイツの哲学者 G・W・Fヘーゲルによってその集大成が示されることになりました。

・ヘーゲルがたどり着いた結論はこうです。私たちが<自由>になりたいのであれば、「自分は自由だ自由だ、自由だ!」などと、ただナィーヴに自分の<自由>を主張するのではなく(中略)まずは一旦、お互いがお互いに相手が<自由>な存在であることを認め合うほかはない!

・これを<自由の相互承認>の原理といいます。

・つまり、公教育は、すべての子供が<自由>な存在たりうるよう、そのために必要な”力”を育むことで、各人の<自由>を実質的に保障するものなのです。

・<自由>に生きるためには、他者の<自由>もまた認めることができなければいけません。したがって、公教育は、子供たちの裡に、この<自由の総合承認>の”感度”もまた重要な<教養=力能>として育んでいく必要があるのです。

・とすれば、次に私たちが考えるべきは、この現代という「状況」において、(<自由の総合承認>の”感度”を育むことを<自由>になるための<教養=力能>を育むということは)どのような教育のあり方が最も妥当かつ有効かという問いになるはずです。

 

・・・・さて、、これ以上メモし続けると、長くなってしまうので、今日はここまでにしようと思います。

私たち親がよかれと思って、子供たちに施している「教育」は、「子供たちが将来生きたいように生きる」ことに繋がっているのだろうか。学校で施されている「授業」は子どもたちの「自由」につながっているのだろうか。この軸で考えると、自分のやっていることがブレないような気がします。

この先、この本では、現代社会は”生涯を通して「学び続ける」こと”を余儀なくしており、「学び続ける力」がなければ、個人が市場において低い価値しか与えられない社会と書いています。そして、現代社会は、私たちに「学び続ける」ことを強要する社会であり、そこから「降りる」ことを許容しない、ある意味ではきわめて息苦しい社会であるとも・・・。

「こたえのない学校」はまさに、「学びつづける力」=「探究する学び」として、プログラム実践を行っていますが、良くも悪くも、ある意味こうした息苦しい「現代」の中で、この「息苦しさ」に正面から向き合いながらも私たちのプログラムが「子供たちが将来生きたいように生きる」という観点からお役にたてるものであるべきだし、そうしていきたいと思っています。

また後半部分についても書いていくつもりです。よろしくおねがいします。

 

 

jiyuu

 

藤原 さと